新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

民謡の素養がないと、ロックなんてできない

レナード・コーエンを聴くと、どろっとした澱のような感触がある。たぶんそれはユダヤの旋律なのだ。
ボブ・ディランはコーエンほど濃くはないが、それでも「コーヒーもう一杯」など古風でミステリアスな音を感じる。フィドルユダヤ、ジプシー、東欧などを想起させるからか。
U2とかアイルランドのミュージシャンも民謡ぽさを色濃く残している。
愛蘭に限らず、英国ロックは、実はケルト民謡に黒人音楽を継ぎ接ぎしたものではないか、という疑惑を感じる。ビートルズがそうなのだ。とくにマカートニーの楽曲は民謡の素養が濃厚なような。
米国に行くと、黒人音楽よりもカントリーの濃度を感じる。サザン・ロックは田舎くさい、そのくささというのはカントリー度に比例するのではないかと。
で、カントリーというのは実はアイリッシュ民謡だ。ケルトに新大陸の荒々しい風土が加わったもの。この風合いは西海岸音楽に近づくと薄れる。
ニューヨークに行った人から「ジャズの店は無数にあったが、カントリーの店は一軒もなかった」と聞いたが、NYという街がカントリーを拒むのにも理由があるような気がする。
第三世界が生んだ最大のロック・スターはボブ・マーリーだと思うけど、彼にはアフリカのイントネーションが強烈に残っている。ちなみにマーリーはケニヤなどアフリカは勿論、モルジブの若者にも人気だった。人種・宗教が違っても「俺たちの大先輩」という感じなのかな。
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僕が日本のロックに不満なのは、自分が根ざした民謡の背景、拭いがたい刻印のような、呪われた背後関係がない、キレイに断絶した音楽になってしまってる、ということ。70年代のフォークブームはフォーク(民族)と言いながら米国のフォーク音楽の模倣をしていて、邦楽の民謡とはあまり関係がない。
例外は沖縄のロックで、ここの歌い手は明白に民謡に根ざしている。民謡に育まれ、民謡との相克、民謡への反発があることで、良い音楽への推進力になっている。石垣島からわらわらと音楽家が出てくるのは、石垣で民謡教室が盛んなことと関係ないわけはなかろう。
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僕が最近横笛を練習してるのは、ディランの曲やアイリッシュな曲に使われているフィドルのような、そういうフレーズを僕もやってみたい(でもバイオリンはできないから笛だ)、という理由がある。横笛は縦笛よりもずっとずっとエモーショナルな音が出せるので、そこら辺痺れる。