老いることができない世界──人生6掛け時代説、続々
三浦展の「人生6掛け時代説」のさらに続きである。
前回の「万物ラノベ化」はうまく話を転がせられなくて舌足らずになってしまった。反省。
若々しいコンテンツが主流になってしまって、老け込んだ、爺臭いコンテンツにアクセスしにくくなっているのではないか、ということが云いたかったのだが。
逆側から述べてみよう。最近のお年寄りは若々しいなあ、という話である。
2008の英ドキュメンタリー映画「ヤング@ハート」、これかなり衝撃だった。米マサチューセッツの高齢者合唱団が、ライブでクラッシュ、デビッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、スプリングスティーンなどの楽曲を演る、という話だ。中にディランの「Forever Young」もあった。本物の老人が切々と「永遠に若く…」と歌い上げるさまは、泣けるような、皮肉のような、悪夢のような。選曲もしぶい。「I Wanna Be Sedated」(ラモーンズ)は「車椅子に乗せてショウに連れて行け」と歌うし、「Road To Nowhere」(Tヘッズ)は「我々はもう小児ではないし何がほしいか知っている」なんて歌詞だ。「Golden Years」(ボウイ)なんて題名ですでにキテる。
創立三十年以上の楽団なので、単に同時代の楽曲を歌ってきただけなのかもしれないが、七十以上のお迎えが近い老人たちがロックを歌うのは、“激しくロックしてるなァ”と思うが、まさしく年寄りの冷や水、とも思う。年寄りの冷や水とか年相応といった概念に刃向かうのがロックだとしたらそりゃたしかにロックなのだが、同楽団の演奏を聴いていると“もう勘弁して”“お腹いっぱい”という気にもなる。
要するに、やりすぎなのだ。
まあ「ヤング@ハート」は面白い作品だし、面白いバンドだと思う。アートなのだから“やりすぎ”も可だ。
ただ、この老人たちが日常世界に横溢してきたら、どうか?
それが現実化しているのが今日の私たちの社会だ。
三浦展『新人類、親になる』(1997、小学館)を読んでみた。「35歳成人説」つまり「6掛け世代説」がまとまって論じられた初期の著作。著者自身が若くて初々しい、才気溢れる文になっていて、名著だった。
同書は「世代とは時代と年齢の関数である。」という名言で始まる。うむ鋭い。
そしてパルコ(と思しき、著者が働いていた百貨店)の社内報に「35歳成人説」を書いたとき、三浦は「もう少し大人になれ」という主旨だったのが、若年の社員たちは「だからまだ自分は子どもでいいんだ」と読んだ、という。恐るべき先見性である。
ロックは反逆の音楽、権威に挑戦する音楽だ。三浦も指摘しているが、「若者の音楽が若者の音楽たりうるのは、明確な大人文化があり、それを否定することに意味があった時代だけであり」(p36)なのだ。七十、八十の棺桶に半身突っ込んだ老人に歌われては、ロックの立場はない。
先にも書いたけど、演歌、ブルーズ(淡谷のり子的ブルースでもいい)、ジャズ、民謡、交響曲、各地の伝統音楽等々の“大人文化”は衰退の一方だ。大人文化が衰退していることは、その対抗文化であるロックが衰退していることでも証明できる。次々と鮮新な音楽が登場する沖縄では、“大人文化”として民謡教室や琉球舞踊があり、子どもも三線や民謡を習わされる。そうした子どもが後にロックやポップの優れた歌い手になる。元ちとせは三線弾き語りの名手で、僕は島唄のCDで知った。他の皆さんもだいたい同様の背景がある。
演歌、ブルーズ、ジャズ、民謡、クラシック等は確固たる大人文化ではなく、全年齢が選べる“オルタナティブ”になってしまった。強い支持基盤を失ったので今は力もなくなり、若者文化を抑圧する権威にもなれなくなった。
ロックを聴いていたオッサンの、次の行き場がない。延々と二十代の頃聞いたアーティストを聞く。それでもいいのだけど、そうすると音楽全体で見ると衰退の方向に傾く。
いま飛ぶ鳥落とす勢いのラノベやアニメも、対抗文化や権威が失われて単独で屹立させられるようになると、衰えていく危険があると思う。
だから思うのだ。僕のような五十男が、ロックを聴いて、アニメを見、ラノベを読んではいけないのではないか、と。それらに理解を示さず、音頭を聴いて、勝新を見、松本清張を読む。新しいもの、新しい権威は認めない。
………おっと、もしかしてこれは、何でも反逆するのが好きな団塊爺と同じく、元新人類の初老が現代の権威である“ラノベ・アニメ”に牙を剥いてるだけ、なのかな?
←マジ名著。「下流社会」以降の要素がすでに。