新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

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西部邁に熱海へ拉致られた件など、二、三の思い出

 西部邁が死んだ、しかも自死だった。なるほど、と思った。
 僕は西部の熱心な読者ではなかったし、彼の思想も好きだけど詳しくは知らない。ちゃんと読んで供養しなければ、と思うので図書館で『大衆への反逆』を予約したとこだ。
 実は、僕は西部と少しだけ縁があった。会社員時代、一冊だけ担当したのだ。
 その時いろいろ面白い体験をしたので、書き残しておこうと思う。なお敬称は略す。西部さん、というほど親しくないし、歴史上の人物に敬称を付けるのは却って失礼だと思うので。
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 当時西部邁は東大を辞して浪人中で、「朝生」ではスター論客だったが、財政的には不安定だったと思われる。だから思想言論に強くない光文社にまで声が懸かったのだろう。1990年の早春、彼の周辺の誰かの紹介でカッパ・ビジネス編集部と縁が出来た。テレビで人気だったので彼の本を出すことに問題はなかった。
 だが西部という人そのものが問題だった。非常に癖の強い人で、編集部からすると癇癖が強いように見えた(今考えると西部が怒るのはもっともなことばかりで、癇癖というより単に真っ直ぐ、おもねるのが嫌いなだけだった)。
 まず、僕の先輩(京谷六二氏・現在は志木電子書籍主宰)が担当したが、何度目かの打合せの酒席で衝突し、飲み代数千円を叩きつけて退席、決裂、という武勇伝を残してしまった。
 どうも西部は、ちょっと面白そうな若者を酒の席でツツくのが好きだったようだ。先輩はそれに見事にノッてあげたようなものだ。
 その証拠に仕事においては決裂せず、二人はその後直接会うことこそなかったが、原稿とゲラのやり取りは至極きちんと、丁寧に行われた。二人の間に入ったのは編集部の明渡真理さんで、すらっとした長身の美人だから西部もさぞご機嫌だったろうと思われる。それは1990年4月にカッパ・ブックス『マスコミ亡国論―日本はなぜ〝卑しい国〟になったのか』として世に出た。素早い仕事だった。かなり売れて、3刷以上になったと思う。
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 西部とカッパ・ビジネスの間にはもう1冊出す約束ができていた。だが1990年4月にビジネス編集部が再編に入ってしまい、編集長交替などがあってしばらくペンディングになった。
 この間に隣のカッパ・サイエンス編集部から西部と栗本慎一郎の共著『立ち腐れる日本―その病毒は、どこから来たのか』が出ている(1991.9)。これも売れたと思う。
 だがビジネス編集部と西部との約束はまだ果たされていない。というのも、西部は、自分と同郷のライター(新野哲也氏)をビジネス編集部に売り込もうとしていたのだ。ビジネス編集部での企画は西部と新野氏の対論ということで進行していた。
 ビジネス編集部は1990春に新編集長(山梨氏)を迎え、多くの新企画に挑んでいたが、その山梨氏が秋口に急死するという不幸があり、企画が全部ストップしてしまった。残ったビジネス編集部を引き受けたのは加藤寛一編集長だった。加藤氏はもともとカッパ・ビジネス生え抜きで、もともと昨年西部からの話を受けたのも彼だ。加藤氏は1990春の人事では会社のアクロバット的な人事で新企画室を任され、ビジネス編集部は「月刊宝石」から転じてきた加藤氏の同期・山梨氏に託されていたため、西部の企画は宙に浮いていた、ということもあった。だから加藤ビジネス編集長〝復帰〟でペンディングしていた企画も再起動した。
 ビジネス編集部の実働戦力は、先述した先輩と僕の二人きりだった。先輩は西部とは一応決裂している。僕はまだペーペーで、とても西部のような大物の相手はできない。西部の処遇は編集長直轄ということになったが、実際はフリーライターの新野氏が社外スタッフとして西部の担当編集となった。ということになった、と加藤編集長は理解していたのだと思われる。
 だが、西部の認識は違った。カッパ・ビジネスとの仕事は、あくまで西部と〝これから作家になる新野〟との対論で、西部は新野氏も作家として遇しろ、と思っていたのだ。
 こういう、カッパ編集部の粗雑なところが西部にはカチンと来ていたのかも、と今は思う。
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 いつ頃だったか、盛夏や厳冬期ではなかったと思うが、1991年のいつか、西部と新野氏は熱海の温泉ホテルに一泊こもり、喋ってテープを取ろう、ということになったらしい。らしい、というのは僕なんかみそっかすで蚊帳の外だから、詳しい事情なんて知らないのだ。
 僕が言いつかったのは、その日加藤編集長ははずせない別件があるので「すみませんがご一緒できません、熱海では存分に語らってくださいませ」ということを東京駅まで謝りに行け、上等の駅弁など買って差し上げろ、とのことだった。
 僕は一期下の小原美千代さん(現在は扶桑社)と一緒に東京駅の新幹線ホームへ行った。大丸で買った穴子弁当を二人前持って。
 弁当を渡して上記の口上を伝えるだけだと思っていた。だが西部は激怒して、ふざけるな、もう行かない、帰る、と言い出した。え? こうした事態を想定していなかった僕は慌てふためき、ベンチに座り込んで動かない西部のそばに小原さんを残し、公衆電話で会社に連絡を取った。
 加藤編集長は留守なので京谷さんが出た。「あはは。今やってる仕事はいいから、熱海に行ってきな。君が行けばすぐ機嫌は直るよ」なるほど。着の身着のまま、財布にも少額しか入ってないが、カードがあるからなんとかなるはずだ。
 僕も行きます、と言うと京谷さんが言った通り、西部の機嫌はすぐ直った。熱海までは「こだま」だから空いている。弁当が無駄にならないよう、走り出したらすぐ使っていただき、僕は不器用に飲み物などサーブした。
 熱海の宿は大きなホテル型旅館だった。たぶん新野氏が手配したものだろう。3人での予約になっていたから、彼らは加藤編集長が同席するのが当然と思っていたはずだ。今なら僕もそう思う。書き手だけ放り出して合宿させるなんてあり得ない。だが、カッパ・ビジネス編集部というか加藤編集長は良い意味でも悪い意味でも粗雑だったので、そうしたことに思い至らなかったのだ。
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 旅館の部屋に着くと、西部は案内してくれた仲居さんに「これはわずかですが」とポチ袋を渡した。当時は「ふうん、そんなことするんだ」としか思わなかったが、今考えるとこれは偉いと思う。本来は缶詰にする版元がやるべきだろう。だが版元の社員なんて、領収証の出ない出費は死んでもしない。
 仲居さんが淹れてくれたお茶で、さっそく対論のテープ録りが始まった。新野氏がメモを作っており、それに従って二人が掛け合いで話す。なかなかうまいことを言う、わからない名詞がいくつも出てくるけど、それでも面白い、と僕は傍観者的に思った。僕は黙ってお茶を注ぎ足したり、テープをひっくり返すだけだ。
 途中、休憩で感想を求められたので「は、はい。も、蒙が啓かれる思いです」などとマヌケなことを口走った。
 4時間近くテープを回して、夕食となった。部屋出しだったと思う。ビールを何本か追加した。仲居さんは非常にまめにお世話してくれた。さすがポチ袋。というか西部偉い。あとで「こういうのアレだけど、気持ち良く働いてもらって、僕らも気持ち良く過ごせれば、それでいいと思うんですよ」と言っていた。
 夕食を平らげると、西部は「カラオケに行こう」と言い出した。温泉ホテルにカラオケがないわけがないので、僕らは浴衣のまま階下のカラオケ店に行った。新野氏は何を歌ったか、吉田松陰とか正気の歌とかだったか、憶えていない。西部は「神田川」を歌った。これははっきりと憶えている。何しろ、店を出て3人で大浴場へ行ってもずっと口ずさんでいたからだ。
 自分が何を歌ったかは憶えてない。沢田研二を歌ったのではないかと今思い出すと冷や汗が出るが、まあ過ぎたことだから仕方ない。
 カラオケは数曲で切り上げ、温泉を使おうということになった。3人で大浴場へ入る。どうも屋上展望風呂だったようで、屋外のテラスにも大きな浴槽があった。西部の中年太りの尻を見ながら外の風呂に浸かった記憶がある。その時も西部はずーっと「二人で行った、横丁の風呂屋」などと口ずさんでいた。
 僕は「朝生」での保守の大物、という印象しかなかったので、彼が四畳半フォークに見せた執着がなかなかわからなかった。
 部屋に戻ると布団が敷いてあり、少しテープを回したが、もういいやということになって、布団のままビールの栓を開けてコップを回した。西部は「これ飲むと調子が良いんだ」と、黒いマコモバクテリアの粉末を取り出して、白湯で溶いて飲んでいた。ビールを飲むと、「いま同志を糾合して、自由に語れる場を作ろうと思っているんですよ」「僕はもう年なので、隠居したい、隠居したも同然でいい」などと語った。
 前者はその後、東日本ハウスをスポンサーに迎えて月刊媒体「発言者」となり、数多くの論客を輩出することになった。後者だが、当時の西部は52、3歳で今の僕と同じ年だ。まだ老け込むには早すぎる。当時の僕は、うちの父(昭和13年生まれ)よりも若いくせに何を言ってるんだ、と思った。
 今思うと、たしかに西部は年を取り過ぎていたのだ。それは、60年安保を闘ったブントの同志たちと比べて、だったのだ。だから「神田川」だったのだ。当時の僕はそんなことも気づかないボンクラだった。
 布団の上での語らいは長く、今思い出すと興味深い。西部は北海道の生まれで、育ったのは都市部(札幌)らしいが、記憶の中に茫漠たる原野があり、その何もなさに恐怖を覚えたこと、などを問わず語りに話してくれた。新野氏も小樽の出身で、二人は北海道の原風景を共有するという紐帯があったのだろう。
 西部というキャラはねちっこい性格のように思われていたかもしれないが、僕には、さっぱりとした、前のことを蒸し返すようなことは少ない人のように思われた。雪国の辛抱強さと北海道の広大さを感じた。
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 翌朝、朝食の後も少しテープを回し、チェックアウト前に東京から西部夫人が合流した。僕はなぜ奥さんが来たのかよくわからなかったが、お世話をする人数が増えたのは少し憂鬱だった。
 記憶にないのだが切符を新たに買ったりした覚えがないので、切符と旅館の手配はすべて新野氏が済ませていて、奥さんは自費で来たのだと思う。新野氏が手配した分は最終的に編集部から経費が出ていたはずだ。
 熱海で新幹線に乗る前に、西部は駅前の寿司屋に誘ってくれた。回転寿司のボックス席だったように思う。
「僕はね、いっぱい御馳走してもらって、ちょっとだけお返しするのが好きなんですよ」と言った通り、ここは西部が払った。これも当時は何も思わなかったが、今考えると大したものだ。ほんとに、何の反応もできずに申し訳ありません、と思う。
 思い出した! 新幹線に乗る前に、我々一行はMOA美術館に行ったのだ。だから奥さんも来たのだ。熱海小旅行なのだ。美術館は面白かった。少しまとまりに欠けるが、一流の文物が揃っているし、西部はあまり語らなかったが、彼の後を付いて美術館を歩くのはとても楽しかった。ここはもしかすると僕が払って経費請求したかも。
 たぶん、その日は土曜だった。僕は会社に戻らず、そのまま家に帰って、月曜まで寝てたのではないか。
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 西部邁と新野哲也の対論は『正気の保ち方―「繁栄の空虚」からいかに脱するか』としてカッパ・ビジネスの新書判で出た。西部はあるときこの本を「こんどパンフレットのようなものを出して」と言ったのが、僕には少しカチンときた。単行本でなく、小さなソフトカバーだから舐められたのか?と思った。今なら、パンフレットでも歴史を動かした例はいろいろあるし、危険な革命分子のパンフレットなら上等ではないか、と思うから全然オッケーなのだが。
 この本のタイトルは西部が付けた。あとで献本するときにちょっと困った。「正気の保ち方」を贈るということは、相手の正気が怪しいとでも思ってるようではないか。西部に言わせると、いや、世間の狂気を退けて如何に身を処すかだから、これを贈られたということは正気である証拠、と屁理屈言うかも知れないが。
 熱海合宿の後、テープ起こしを原稿にして、スムースに本ができるものと思っていたが、そうはいかなかった。新野氏は「テープ起こしができたら、何もせずに、触らずに送ってください」と何度も言った。そんなに編集部との信頼関係がないのか、と僕は呆れた。どうも、先輩が衝突したのは西部と直接ではなく、この新野氏とだったかもしれない。新野氏は1945年生まれだから当時まだ40代、週に何度か柔道場に通うという肉体派で、左翼の頭でっかちが大嫌い、という人だった。
 新野氏が何度かテキストに手を入れ、それを何度もワープロ屋さんに直してもらい(当時はそういう時代だった。テキストファイルを支給して貰って自分で直すようになったのは96年くらいからだ)、原稿はゆっくりと本の形をとりつつあったが、読んでもあまり面白くなかった。
 東京でも何度か打合せした。
 六本木の全日空ホテルのバーには「朝生」の出番待ちの時間潰しで呼ばれた。ここは華やかな店で、朝生の日下雄一Pが客の間を回って出演者に声を掛けていた。西部のそばにはたいてい、実業之日本社でひとりで「ザ・ビッグマン」を作っていた東谷暁さんが同席していた。
 新宿にもよく呼び出された。末廣亭の近くの「石の花」、二丁目の「風花」。前者はこじんまりとして落ち着いた店だったが、後者は論壇バーだったのでカウンターにはいつも錚々たる面々が並んでいて、ここに呼ばれると僕は憂鬱だった。西部と仲が良さそうだったのは当時千葉大教授だった加藤尚武、忙しいのでめったに会わないが栗本慎一郎スガ秀実、めったに出て来ないが出てくると大いに盛り上がる呉智英など。呉智英は当時池袋近傍に住んでおり、忘年会の後タクシーで送ったことがある。「池袋西口のマンションに住んでいた諸星大二郎東武線の端っこのほうに家を買ったそうだ。日本を代表する天才漫画家があんな田舎にしか家を買えないとは!」と強く憤っていた。
 風花では、一度、夜が更けて各社の西部担当編集ばかりになり、店の中で車座になり、流しのギター弾きを招き入れ、「みんなで一曲ずつ美空ひばりを歌おう」ということになった。僕は困った。僕が知ってるのは「リンゴ追分」だけだ。諸先輩を措いてこんな名曲を若輩が歌うなんてできない。さあ困った。
 僕に順番が来たとき、僕は大いに困ってダダをこねたのだけど、西部は僕をあやすように取りなして、「一緒にお祭りマンボを歌おう」と言ってくれた。そして僕の横でほとんどひとりで一曲歌ってしまった。
「みんなで一曲ずつひばり」とか言い出した時は「なんて面倒くさいおっさんなんだろう」と思ったが、率先垂範というかフォローはしっかりしており、そこはやさしい人だった。
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 新宿だったか池袋だったか、新野氏と三人でいたとき、一度だけ、わざと西部を困らせたことがある。西部の物言いがあんまり自信に溢れ、傲岸不遜なマウンティングに聞こえたので、くやしくて、何とか一矢報いたくて、言ってやったのだ。「そんなこと仰ってても、僕のような被爆者の子が置かれた気持ちなんかわからないでしょう」
 僕の母方の祖父は実際広島で被爆している。ただし8月7日以降の入市被曝であり、母はもう生まれていたので遺伝云々ということもない。その後祖父は体調不良に苦しみ、他人の証人になったので本人は被爆者手帳を交付されず、苦労した挙げ句にがんで死んだ。
 僕はこういう出自に加え、被爆者差別のようなものが存在し、それに苦しんでいる者がいるんだ、というような印象を西部に示唆した。
 実際のところは、被爆者差別なんて僕は知らなかった。〝血筋が汚れる〟といった類の差別的言辞がまったくなかったとも思わないが、少なくとも僕はそんな経験はない。自分が経験してない差別を、さもそれに苦しんだかのように言い募るとは、〝えせ同和〟行為と同じ卑劣なことだ。だから僕はその後とても反省した。
 だがその時は、西部と新野氏が困ったように黙ってしまったのが痛快だった。
 西部も新野氏も北海道の生まれで、部落差別にも原爆にも不慣れだ。突然に〝当事者〟から聖痕を見せつけられ、「足を踏まれた痛みは、踏んだ者にはわからない」と言われたら、そりゃぎょっとするだろう。
 西部は、いかにも自分はそういうことに疎い、知らぬ間に君を傷つけたとしたら済まなかった、謝りたい、と丁寧に言葉を選んで言った。僕は少しだけどあの西部邁をやり込めた、と思うと溜飲が下がった。
 だが、おそらく西部は僕の狭量な意図くらい見抜いていたのではないか。賢しらな、度しがたい、ポリティカル・コレクトネスのはしりのようなことを若僧が言っている、その度しがたさは、西部が本来叛旗を翻した相手と同じ種類の権威だったり、虎の威を借る狐だったりするはずだ。それを百も承知で、目の前の若僧が拗ねているのを、膝を屈してなだめてくれた、のが真相なんじゃないかと思う。
 僕は、自分が今時のポリコレ野郎と同じようなことをしてマウンティングを取ったことを、今は深く恥じる。こんなことをしたのは生涯一度切りだし、二度とする気はない。こういうウソは相手に失礼なだけでなく、本当の被爆者にも失礼だし、原爆という歴史的事象へも失礼だと思う。
 だから逆に、西部が相手だったのは不幸中の幸いというか、西部さんでよかった、と思うのだ。これが他の誰かに対してだったら、僕は今でもこのひと言を恥じ続けて、自分を責め続けなければならなかったろう。
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 1992年5月に本は出たが、あまり売れなかった。初速は良かったが、早々に息切れしたようだった。対談は書き下ろしに比べると不利だし、テーマもわかりにくかったし。
 僕の力不足、に尽きる。申し訳ない。今なら、このテーマのもっと面白く読みやすい切り口を提案できるだろう。本当に申し訳なかった、と思う。
 小平だったか、当時の家に行ったこともある。その頃西部は「月刊宝石」と関係が良く、とくに実力派編集者の神戸(かんべ)さんが西部に食い込んでいた。その彼と一緒だった。ダイニングのテーブルで長々と話しながら酒を飲み、猫用ドアから猫が出入りするのを見ていた。
 この小平の家はあれからすぐに手放し、都内に越したと聞いた。
 結局、あの一冊きりでビジネス編集部と西部との縁は切れた。残念だが、それが分相応だったと思う。
 初めに会った頃、西部はヒゲを剃っていた。だがある時期から顎髭を伸ばし始めた。「薔薇の名前ショーン・コネリーを意識しててネ」などと言っていた。お茶目な人ではあった。
 僕は自殺を責めない。積極的に認めるのには少し抵抗があるが、もはや若くない人が自分の手で自分の命を決することを人は責められないと思う。西部に映画の感想をいろいろ聞きたかった、と思う。例えばイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」とか。

 

【追記】

もう一つ思い出した。

西部の愛唱歌に「舟歌」(八代亜紀)もあるのだが、自分では歌わないのだ。周りの者にリクエストさせ、普通のパートを歌わせる。そして、「ダンチョネ節のとこだけ歌うから」とマイクを奪うのである。歌詞は「沖のカモメに深酒させてよ−」だったり、「俺が死んだらよー三途の川でよー鬼を集めてよ、相撲取る、ダンチョネ」だったりした。わがままなジジイであった。