新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」を宮古島で見た(その1)

「めんそーれ」は沖縄言葉でいらっしゃい、の意だというが、沖縄へ行って実際にこう声を掛けられた人はあまりいないと思う。僕もそうだ。めんそーれ、は空港などの看板で目にするだけで実際に耳で聞いたことはない。。
 その「めんそーれ」が宮古島へ行くと「んみゃーち」になるという。これもやっぱり実際には聞いたことがないのだが。
 宮古島沖縄県の西側・先島諸島の離島だ。人口は五万人以上なので離島とは言ってもかなり都会だ。なお、もっと西には石垣島西表島八重山諸島がある。人口は宮古の方が何千人か多い。ちなみに「めんそーれ」は八重山では「おーりとーり」になるという。地域の違い、独自性がなんとなく垣間見える。
 沖縄を象徴するものの一つに「エイサー」がある。旧盆に踊られる勇壮な踊りだが、宮古島にはエイサーがない。代わりに「クイチャー」という踊りがある。いやクイチャーはどちらかというと本島の「カチャーシー」に相当する、という意見もあるだろう。僕は門外漢なのでこれ以上掘り下げないが、“宮古島の民俗は沖縄の他地域とはちょっと異なる”という大雑把な理解をしておいてほしい。言葉も、行事も、音楽も、ちょっとずつ違う。エイサーとカチャーシーは、本島にも八重山にもあるが、宮古にはない。ちなみに宮古には有名な沖縄の毒蛇ハブもいない。

 大西功一監督の記録映画「スケッチ・オブ・ミャーク」は、宮古島はじめ先島諸島に伝承されてきた歌を、伝承者が途切れないうちにとフィルムに収めたドキュメンタリーである。この映画の前に同名のCDがある。音楽家・プロデューサの久保田麻琴氏が歌い手を訪ねて録音したものだ。これはシリーズで、新録音や過去の音源を復活させたものだ。久保田プロデューサは映画本編にもしばしば顔を出す。この映画は大西監督と久保田Pの二人三脚の作品である。
 もちろん主人公は宮古諸島の人々、とくにオバアたちだ。労働歌の歌い手として、あるいは神事の担い手であり神の姿を見、声を聞くシャーマンとして、宮古の女性たちは歌を歌い継いできた。映画には男性も出てこないわけじゃないけど、圧倒的に数は少ない。主役は、オバアと将来オバアになる女性たちだ。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」に似た映画だよ、と聞いた。なるほど、あれはキューバに生き続ける老音楽家たちをライ・クーダーらが“発見する”物語だった。そんな感じなのかな、そしてもっと宗教色や民族音楽(エスニック、フォークロア)っぽいのかな、と予想した。
   

 十一月四日、宮古島市中央公民館で、日本国内では初の大規模上映会が開かれた。ロカルノ映画祭での高評価を受けて、凱旋プレミア上映会である。たまたまこの日宮古にいた僕は、同宿の人たちと見に行くことができた。宮古島の隣の伊良部島に滞在していたので、夕方のフェリーで宮古に渡り、みんなで薄暗いパイナガマビーチの前を公民館に向かって歩いた。
 公民館の芝生には上映前にお弁当を食べる人たちがいる。夜七時から九時過ぎまでの上映会だから食事のタイミングが難しい。僕たちもうずまきパンだの天ぷらだのを持参していた。
 当日券はもうない、ソールドアウトだという。宿の主人の伝手で前売り券を取って貰ったので、熱気の籠もる場内に入る。五百人は余裕で入る会場が、八割九割埋まっている。かなり後ろの席に座ったが、七時になると前後左右も空席はなくなった。後方には立ち見の人たちがいる。


(大西監督、久保田Pの舞台挨拶)

 監督の挨拶、来賓(市長)祝辞、プロデューサ挨拶。監督は普通っぽい人だが、プロデューサは妙に色気のある中年男だ。ちょいワル、と言うよりかなり悪いこと…女性とか何人も泣かせてきたんじゃないかという感じの、癖のある色男だ。音楽家はセクシーな人が多い。
 場内が暗くなり、本編が始まる。導入部はいきなり宮古島ではなく本州の峻険な山地が映る。紀伊熊野神社にギターを手に詣でる久保田P。なんで熊野?とも思うが、なるほど、これはわかりやすい、とも思う。
 画面が宮古島に飛ぶと、古い記録映像と現在の宮古の風景がオーバーラップする。青いさとうきび畑の風景の中に、厳しい紫外線を避ける全身防備の野良着姿のオバアがいる。この島ならどこででも目にする、パリ(畑)仕事。このオバアも古くから宮古島に伝承される歌の歌い手なのだ。映画は、仕事の手を休めたオバアの語りから労働歌へと入っていく。労働歌とは、ブルースである。

 初めて沖縄に旅行した時から、沖縄音楽にはグッと来た。沖縄の音楽というと前からビギンは耳にしていたけど、歌も曲作りも上手すぎてちょっと好きになれなかった。その前の一時期、今のJポップブームの前に国産音楽低迷期があった。そこに山梨のグループが琉球音階のロック曲を大ヒットさせ、ビギンが登場し(正確には再登場し、らしいが)、アクターズスクールがアイドル界を席巻したりと、沖縄が日本の音楽界のカンフル剤のように作用したのだった。それは欧米のロックが煮詰まった時期にボブ・マーリーがやってきてレゲエを奏で、クラプトンやストーンズがノックアウトされ、再びロックが息を吹き返した様子と似ているな、と思って第三者的に見ていた。でもまだ自分で沖縄音楽を聴こうとは思わなかった。自分でCDを買うようになったのは、美ら海水族館へ向かう道中、カーラジオで沖縄民謡を聴いたときだった。
 沖縄のラジオは素晴らしい。民謡番組がいくつもあって、ぐるぐる回せばどこかで民謡が鳴っている。若い人が新しい解釈で歌う民謡があったり、老いた名人が圧倒的な技を聴かせる録音があったり、聴衆もろとも盛り上がるライブがあったりと、何を聴いてもダイナミックだ。沖縄のラジオから流れる民謡と比べると、NHK−FMでは内地の民謡を流す番組があるが、標本箱の中の昆虫のように乾いている気がする。沖縄の民謡は、生きている、歌われ続けている歌なのだ。
 あと、首里城で見た民謡と琉舞の実演も良かった。予備知識なしで見ても、圧倒される迫力があった。その時の旅行で買って帰ったCDで「遊びションガネー」「汗水節」「鳩間節」などが気に入ってよく聴いた。沖縄旅行のたびに吉田安盛・盛和子の「暁でーびる」を聴くのが楽しみだった。うちなーぐちがわからないのでお喋りの半分はわからないけれど(安盛さんの急逝は残念だった。でも今の和子さんと息子さんの掛け合いも良いと思う。首都圏でも聴けないかなあ…)。
 宮古島に行くようになってから、知り合いから下地勇を教えて貰った。下地勇は曲は正統なロックやポップだけど、歌詞がハードな宮古言葉(みゃーくふつ)なのでさっぱりわからない。それが外国語のようにエキゾチックに響いて素敵だったりコミカルだったりする。ドラマチックな歌い手だ。八重山はビギンや夏川りみなど大勢のスターを輩出しているが、宮古島出身のアーティストは数が少なくて、宮古が好きな僕はちょっと悔しかったりしたのだけど、下地勇が段々とメジャーになっていったのは嬉しかった。
 宮古を訪れるたび、下里通りのCD屋さんで宮古民謡を少しずつ買った。宮古の民謡は本島の民謡と違って凝った曲は少ないし、新作民謡もあまり見かけない。しかし繰り返し聴くうちに「なりやまあやぐ」「漲水ぬクイチャー」などの名曲が耳に残るようになった。良い歌は、聴く者が無知だったりセンスが悪くても、結局通じるものなのだ。僕はけっして自分で三線を弾いたりはしないが、宮古民謡にかなり魅せられていた。

(※長くなってしまったので分割してエントリにしました。つづく)