新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「沈黙」を隠退・隠遁評論家的に観てみた

昨日は「沈黙」を朝イチで観てきた。
大変幸せな3時間、こんなに物静か、かつ流暢な、スムースな映画を撮る人だっけスコセッシは?と驚いた。とても気持ちいい緊張が持続する、快感に満ちた映画だった。周りのみんなもしーんとして、映画を観る喜びに満ちて観ていた。暗〜い拷問の映画なのにね。CGが控え目なのも嬉しかった。きらびやかなCG見ると白けるんだよね、歳だから。

〽︎映画を観ながら泣くのも大事なことのひとつ(戸川純

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以下【ネタバレ】含みます。

イッセー尾形の演技が大変評判だが、僕は奉行所与力が気に入った。おのれを殺して奉行に仕える、忠義を尽くす様子が良かったし、拷問に当たっては、やってる側も痛みを感じないわけはないのだが、葛藤を強面で押し隠す様子が伺えた。これが武士なんだよね。

ただ、奉行所の下役・現業の人たちは武士ではなく、歴史的に云うと長吏非人である可能性があるのだが、さすがにそこまでは再現されてはいない。日本人でもそこまで考証することはないからなー。

でも、とにかく時代劇として良かった。最近は「超高速参勤交代」のようなパロディしか作られないから、ちゃんとした時代劇を観られて嬉しい。

前半の山場、トモギ村が良い。塚本晋也は目立ちすぎだなーと思うが、彼含む村人たちのゴツゴツした面構えがリアリティを支えてくれた。村人#1こと吾らがPANTAの存在感に至っては青木繁「海の幸」を連想させた。

この映画、すごい風格があって名画なんだよね。藤田嗣治戦争画とか、あるいはゴヤのような重厚な画面が続く。

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リアム・ニーソンの転び伴天連フェレイラ最高。僕は原作小説を読んだとき、ル・カレのスパイ小説やグレアム・グリーンの心理スリラー小説を強く連想したのだけど、イッセーとニーソンに責めたてられる若い主人公など、まさにル・カレ的と思った。ル・カレは尋問が大好きだしね。

何より、ル・カレのテーマというのはつねに「二重スパイ」なのだが、フェレイラと後のロドリゴはまさにそれになったのだ。設定では通詞の浅野忠信も、イッセーの井上筑後守も、実は元切支丹らしい。彼らも二重スパイなのだ(井上政重の史実はようわからんが)。弾圧する側だが弾圧対象を知悉し、どう責めれば効くかの研究に典礼書まで読み漁る情熱がある、〝カーラ〟や〝スマイリー〟のような人たちなのだ。みんな異端審問官ベルナール・ギーの血を引く人たちだ。

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作中、唸ってしまったのは、「真理(キリスト教)は普遍だから世界中に広めるのだ」とロドリゴが云う、だがフェレイラが「違う」と反駁する、これがまるでグローバリストと反グローバリストの問答のように聞こえてしまった処だ。

映画が撮られたのは2015だが、今は2017、連日トランプ大統領のニュースが取り沙汰される、反動的な、アンチ普遍主義の時代だ。何という先取り。

そうなのだ、現代は「(神という)真理は普遍でも不変でもない」とバレてしまった時代なのだ。世界の辺境あちこちから普遍主義へノーが突き付けられている。六角のネジは宇宙のどこで作っても同じ形になる、それは物理学だからだ。神学はそうか?心理学ですら普遍性というと怪しいレベルだ。社会学だって。人類学に至っては。

井上政重や通詞の云ってることが、実は今でも正しいのでは?という恐ろしい想念に取り憑かれる。原作小説は主に九州地方のカトリック社会では忌まれたらしい。恐ろしい真実を突いているからではないのか。

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原作では改宗した後のロドリゴを直接描写せず、擬古文の「切支丹屋敷役人日記」で読者に匂わすにとどめている。映画はそれをはっきりと映像化しているが、そこも良かった。【ネタバレ】考慮せずいきますよ。

『沈黙』覚書 「切支丹屋敷役人日記」と「査祅余録」」という論文がある。リンクボタンにしていますが、これ押すとpdfのダウンロードが始まるので注意してください。

これ、宮尾俊彦さんという方が1981に長野県短期大学紀要に書かれた論文なんだけど、原作小説末尾の「切支丹屋敷役人日記」と、そのパクリ元である「続々群書類従」第十二所収「査祅余録」を比較して、どこをどう改変して「沈黙」エピローグとしたか、詳細に検証している。すごく面白い。

ロドリゴのモデルはイタリア人司祭ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)。42歳で棄教し80歳以上まで生きた。キアラに仕えた角内という小物がキチジローに相当する。角内は越前の人で、吉次郎と違って五島から付き従ったのではない。小説や映画では吉次郎の最期は描かれないが、角内は切支丹信仰が露顕して屋敷の庭で殺された、とはっきり書かれている。

論文の著者は、遠藤は周到に原文を書き換えてテーマを明らかにした、と褒めているが、僕は同意できない。原文は報告書(公文書)ナノデ、何が起きたか、処置はどうだったかがきちんと書かれ、対応関係がある。だが小説の「日記」は対応関係がきちんとしてなく、吉次郎の処置など当然触れられるべきことが書かれていない(隠されている?)ので公文書としての体裁が整っていない。辻褄が合わないのだ。

「日記」では、ロドリゴは吉次郎に信仰を持たせ続け、さらに屋敷の役人をも折伏したようなことが伺える。切支丹屋敷、すなわち強制収容所の中でキリスト教が跋扈していたのである。これはなかなかサスペンスである。

また作者は、ロドリゴの死因は自然死ではなく、何か人為的な死を匂わせているのではないか。ハンガーストライキとか。だもんでキアラより若くして死んだのではないか。

文京区小日向の切支丹屋敷跡から、最後の転び伴天連ジョバンニ・シドッチの遺骨が発掘された。シドッチと判明したのは2016。シドッチは屋敷の世話係夫婦を折伏(というか十字架を与えたらしい)したのが露顕して屋敷内の地下牢で牢死した。なんと映画や小説のようなことが実際に起きていたのだ。

そして、なんと火葬ではなく身体を横たえた遺骨なので土葬である。映画のロドリゲスとは違う。なんということか。シドッチはキリスト教徒として葬られたのか?

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映画では、棄教後のロドリゲス(映画だからこう呼ぶ。ロドリゴは姓ではなく名、作者のミスだ)がしっかり描写されている。輸入品の中にキリスト教の意匠が隠されていないかの検閲に従事する。ここで師フェレイラが見落とした(見逃した?)隠し画を見つけたりして、優秀な査察官であることを匂わしている。そして死んだ日本人の妻子を娶り、縁もゆかりもない日本人親子と家族として暮らさせられた。

「日記」によるとロドリゴの享年は64とのこと。年老いた妻が、ロドリゲスの座棺にこっそりと〝ある物〟を忍ばせたとしたら、彼女自身が切支丹であったかどうかはわからないが、棄教者ロドリゲスの後半生には良き理解者・伴侶…共犯者がいた、ということになる。

なんと幸せなことか。

僕は、映画の結末で、この名も明らかにされぬ岡田三右衛門妻の心持ちや覚悟を思って、戦慄したのだった。

棄教後の彼についてはいくらでも書けるが、ここら辺で一旦やめとこう。実は、棄教するまでの彼の人生が、彼にとっての最大のドラマ、栄光の時、花のような光差す時間なのだが、人生の真実は棄教後の地味な後半生にあるのだ。

 

※論文「『沈黙』覚書」のリンクが間違っていたので修正しました。

首相答弁の「でんでん」を笑ってはいけない

総理大臣が国会の答弁で、原稿を読んでて、「云々」のところで「でんでん」と読んでしまったそうだ。

僕は又聞きというかネットで読んだだけなので詳しい事情は知らない。

推測するに、「云々」ににんべんを付けて「伝々」と同じだろ、と読んだのであろう、と。

「雨かんむり」を付ければ正解だったのにね。「雲々」で「うんうん」…「うんぬん」は音便というかリエゾンというか音韻変化しているだけだから「うんうん」でもまったく間違いではないはずだ。

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にんべんを付けたのが惜しかった。「云」は、女へん、木へん、りっしんべんがついても「うん」と読む。

ではなぜ「伝」は「うん」ではなく「でん」なのか。「伝」は正しくは「傳」で、「云」とはもともと関係がないからだ。

これは、漢字を簡略化した時のひどいインチキだ。

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ひどいインチキ例が「芸」だ。これはもともと「うん」と読む。用例は、「芸草(うんそう)」という臭い草の名前くらいしか僕は知らない。

それを「藝」の簡略化として採用した。

「温」の簡略化として「汨」を採用するような暴挙だ。全然違う字なのだ。

だからなのか、「文藝春秋」は頑固に意固地に「藝」の字を使い続けている。「東京藝大」もそうか。「文芸春秋」「東京芸大」と書いたら「ぶんぬんしゅんじゅう」「とうきょううんだい」だもんな。そりゃ、違うわ。

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もし首相答弁が「くさかんむり」を付けて読んでいたら「ゲイゲイ」で、何か吐き戻しているようで気持ち悪い……というのは置いといて。

「芸」を「藝」の意味で使わせ、読ませているという、なんだかとてもインチキくさい国語行政で育ってきたんだから、「云々」の読みくらいで鬼の首取ったように騒ぐのも変だよ。と思うのだ。

日本語は千々に乱れて変化しているので、もうすぐ辞書に「以外と少ない」「貞女の鏡」「冷蔵庫に牛乳があたかも知れない」などが載るはずだ。そのときは「でんでん」も勿論載る。

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で、「でんでん」の出処だが、僕は「伝々」説は取らない。

麻雀の時、「リーチ・一発・ドラ一、でんでん」などと数える、あの場の二翻の「でんでん」が由来なのではないかと勝手に推測している。

一般的には「ばんばん」と言われるが、「でんでん」と指を折る習慣の人・地方があるのだ。もしかすると成蹊周辺はそうだったのではないか。

なんてね。「ばんばん」とか指折ってる人に限って点数計算の仕組み解ってなかったりするのがおかしいですね。

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尤も、この件のキモは、当意即妙?に野党をおちょくったかに見える答弁が実は代筆の賜だった、とバレたことなのかしら。

ようわからん。あ、ここは藝州のイントネーションで読んでつかあさい。

 

この映画の主演が、いま話題の〝でんでん〟。ジャケの人ではありませんが。

トランプ大統領だが、副島隆彦が20年前からその登場を延々と予言していたことについて

トランプ大統領が就任したらしいが、いまだにトランプが当選したことを〝アクシデント〟や〝愚かなこと〟と認識してる人がいるのかね。

目の前で起きていることを、事実そのままに認識するのが辛い、という生理がヒトにはある。ヒトはいろんな性向・傾向(バイアス)を持ち、それに適合しない事実(刺激)は認識したくない(反応)、という心理サイクルが起きることがある。きわめて単純な生理・心理反応にすぎないんだが、それが「民主主義」とか「人道」「倫理」といった政治的なバイアスをまとうと、ことがこじれる。

2011年の震災と原子力発電所の事故以来、どんな素人も政治性にさらされ、旗幟を鮮明にするよう迫られ、ストレスを受け続けている、という気がする。

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それはさておき、トランプだ。トランプが大統領になったのは、アメリカの一般民衆の底流、通奏低音、物言わぬ大衆、積年の憾みからして当然だ、と、なんと20年近く前に断言していた本があった。

副島隆彦の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』である。

元の本は1998年とか2000年に出ている(文庫は上下巻だが、底本は正編と続編、それを文庫化の際再構成しているようだ)。だからおおかた20年前に、と言っても間違いじゃない。

僕も底本が出た時に好きで読んでいたのだが、最近図書館で軽い気分転換のつもりで読んだら、〝トランプ〟という文字こそ出ないが、冒頭からどう考えてもトランプのことばかり書いていると気づいて驚愕したしだい。

 

クリント・イーストウッドは、「リバータリアニズム」Libertarianismというアメリカの民衆型の保守派政治思想を体現する人物である。リバータリアニズムとは、「社会福祉を推進し、貧しい人びとに味方し、人権を守る」と主張しているリベラル派の人間たちの巨大なる偽善と闘うために出現した、庶民的な保守思想である。現代においては、左翼リベラルたちは、キレイごとだけをいう偽善の集団に転落してしまっている。現代の思想弾圧は、人権とヒューマニズムを旗印にしてリベラル派が行うのである。(p.16)

 

トランプがリバータリアンかどうかはよくわからんけど、この引用で重要なのは後段だ。つまり、「リベラルの偽善に対して怒りが積もっている」ということ。

 

私は、そのようなヒューイ・ロングが大好きである。彼に体現される政治行動を「ポピュリズム」populismという。そのまま訳せば「人民主義」である。ポピュラーという言葉のイズム形であるから、一般大衆に大変人気のある庶民的な政治ということである。このポピュリズムが荒れ狂うときに、アメリカの支配階級であるエスタブリッシュメントの人々は、憂鬱になり不安な気持ちに襲われる。なぜなら、ポピュリズムは政治家や官僚や財界人たちに対して激しい不信感を抱いて沸き起こる、民衆の怒りの感情そのものを意味するからである。(p.102)

 

なんだ、トランプ登場ってそういうことだったんじゃん、と明快にわかる一段落。20年近く前にこれを読んでいたのに、今回トランプの当選に当惑してしまった自分がなさけなくなる。

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去年の大統領選で目立ったのは、ヒラリー支持派が「私たちはトランプ支持者よりも頭が良い」と思っていたことが印象的だった。ダダ漏れだったよね、この感じ。つまりあの人たちは、「私はお前のようにバカではない」と思っていたのだ。そんなこと思う人はまぎれもない「バカ」だよね。

現今の「左翼リベラル」の苦境も、ここに原因があると思う。リベラルは理想主義であり、自分らは保守派や民族派よりも合理的で進歩的で頭が良い、と思っている。その鼻持ちなら無さに、政治的でありたくない一般民衆が嫌悪感を抱き始めた。というのが日本の2016だったんじゃないかと思う。

副島は本書でヒューイ・ロングの他にポピュリストとしてロス・ペロー、パット・ブキャナンを挙げている。他にロン・ポールもいた(インターFM陰謀論好きドイツ系米人DJデイヴ・フロムが2012に支持していた)。ポールはリバタリアン党からの大統領候補だ。こういう人達はこれまで第三極から立候補していたので民主党対共和党の争いに割り込めなかったが、トランプは共和党から出たためについに大統領の座を射止めた、ということだろう。

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副島は、こんな風に政治的予測がよく当たる。経済的予測も、金地金の高騰などを見事に当てている。

それだけではない、吉本隆明が死んだ時は「自分以上に吉本を理解している人間は世界にいない」などと堂々公言し、自分の思想遍歴を隠さない男らしさがある。

私は学生時代から二十年間ずっと吉本思想に入れ上げた。しかし、この四、五年前から、彼の思想に興醒めするようになった。果たして、思想が変わらずに一貫しているということは、そんなにも意義深いことであろうか。私自身は、昔も今も、自分は時代に合わせて変わっていく存在でしかないと考えてきた。むしろ、時代の感覚のもっとも研ぎ澄まされた部分で誰よりも潔く変化し、思考転換を図っていこうと思っている。その際に大切なことは、自分の考えや思想的な態度がどのように変化していったかを、克明に正確に記録していくことである。私にとって思想とは、どこかから新しい知識を仕入れてきて、偉そうに人々に上手に売りさばくことではない。思想とは、自分の思考がどのように変わっていったかを、まず自分自身に対して偽らず正直に記録していくことである。思想とは、これ以上のものではない。私は、この結論に四十歳頃に到達した。(p.79-80)

この〝偉そうに人々に上手に売りさばく〟という一文で、浅田彰中沢新一、当時はまだ論壇に居なかった内田樹に至るまで、日本の思想家(輸入業者)をなで切りにしている辺り、すごいよね。 

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僕も副島には、心服したり、反発したり、やっぱり帰依したり、離反したりしてきた。今やっぱり、「この人は面白いし、熱い。この人の本は読むべきだ」と思っている。

拙著でも、二箇所ほど副島について触れている。もしよければ、書店で手に取ってみてください。

 

「文徒」読者の方ヘ

単行本『その後のリストラなう』の版元・株式会社出版人では、会員向けにメールマガジン「文徒」を発行している。限定された会員向けだが、1カ月遅れで一般にも公開されている。なので、こちらを読んでいる方もいらっしゃるだろう。


今朝配信分の「文徒」で、『その後のリストラなう』が書店に搬入になった、と一報があった。今日のエントリは、そのリンクを押してお見えの方に向けて書きました。

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 『その後のリストラなう』の連載元である月刊誌「出版人・広告人」。同誌は、メルマガ「文徒」と同じく限定された会員読者にのみ向けて出されている。「文徒」が1カ月後に一般公開されるのと違って「出版人・広告人」は一般公開されることはない(国立国会図書館に納本されているかもしれないが)。

会員=読者の皆さんは、出版社か広告代理店の管理職ないし経営者の方々だ。「出版人・広告人」が創刊された頃は僕と同世代の経営者の方はあまり見かけなかったと思うが、最近は同世代(僕は1965生まれです)ないしもっと若い世代の方も役員になっておられる。月日は速く流れるね、と感心する。

 つまり、「出版人・広告人」の読者は一般人ではない。玄人、ブロ中のプロだ。

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前にも言ったが、「自分のことしか書くまい」と決めたし、僕には、玄人向けのことは書けない。

だけど、一つだけ僕が玄人の皆さんより先行していることがある。

それは、「僕は皆さんより先に隠退している」ということだ。

「出版人・広告人」の購読者は、100%、現役の働きマンだ。いや僕のように謹呈で読ませてもらっている隠退マンも何人もいるけど、それは例外なので除く。

現役バリバリの働きマンに対して僕が一点だけ優越しているのは、「今バリバリやれてても、辞めたらこうなるからね?」ということを身を以て知っている、ということだ。

だから僕は連載原稿を書く時、いつも「現役の皆さん、辞めたらこんな感じですよ。だから現役である一分一秒を大事にしてください」という気持ちを込めていた。

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現役で働いている人は、多くが〝現役であることの幸せ〟に気づいていない。

自分がバリバリやれているのは自分の力量なんだ、と思っている人が多い。けど実際は〝仕事があるからバリバリやれている〟〝地位があるから潑剌としている〟という、一見トートロジーのような、そんな身も蓋もないことが事実だ。

勿論なかには地位や仕事を失っても裸一貫でバリバリやれる人はいる。それは認めます。でも、現役の間には全員が無根拠にそう思っている。思えてしまう。

仕事があって、毎朝行く場所があって、一緒に働く同僚がいて、一定時間を拘束される。それがいかに幸せなことか。それは辞めるまでは絶対に理解できない。

仕事は、会社は、その個人の実力・魅力・活力を、本当の何倍もの大きさに増幅する装置なのだ。(出版社で働いてる人は意外に気づいていないのだが、書き手は多くが個人事業主=一人で働いてる人、だ。ものすごい非対称性がそこにはある)

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会社を円満に退職すると、退職金が手に入る(まあ大概は)。だけど、退職金運用一つとっても、肝心な情報は誰も言わない。

たとえば運用に際して、「何を買うか」「どう買うか」「どこで買うか」といったことを事細かに指南する本は多い。山ほどある。だけど、「いつ売るか」を教えてくれる本はありますか? そういうこと教えてくれる人、いますか?

僕が大きく躓いたのも「いつ売るか」だった。これ、とても難しい。

「いや、俺ならできる。会社でも成功したんだし、利殖でも成功できる」と思ってる方、いらっしゃるでしょうね。大勢。がんばってください。ロバート・キヨサキとかジム・ロジャーズとかウォーレン・バフェットとか山本一郎を目指して。

    

でも、ほんとのこと老婆心で言うと、そういう〝上〟ばかり見るんじゃなくて、たぬきちのような〝下〟を直視して、「ああはなるまいぞ」と褌の紐を締め直す方がいいと思うんです。

うーむ、ここに並べるとものすごく見劣りというか異物感があるのだが、書いた側の気持ちとしては上の綺羅星のような皆さんと同じです。

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僕は現役時、とても〝成功した出版人〟ではなかった。けれど、成功した(と言っていいと思う)会社の一隅に居ることができて、その空気を呼吸できた。

以前のブログ「リストラなう日記」が面白かったとしたら、それは〝大手出版社凋落の現場〟を赤裸々に書いたこと、よりも、〝大手出版社の空気〟を伝えることができたからだ。それが「リストラなう」のキラーコンテンツだった。

仕事、それも〝出版人・広告人〟という仕事は、魅力的でパワフルだ。今は色々しんどくなったと思うけど、それでも本質は変わっていない。そこで働く人をエンパワメントする魅力に溢れている。神保町歩くとそう思うよ(音羽はもう何年も歩いてないな〜)。

だからこそ、そこから離れることは辛い。

あなたたちにも、いつか、その辛い日が訪れます。そのことを想像しながら、毎日バリバリ働いてください。

ブログ休眠していた間、何をしていたか

いちおう、ブログをサボっていた間の不義理を、わざわざ読みに来てくれている読者に詫びておこう。ごめんなさい、でした。

でもこの先もブログを書くかはわからないので、また不義理するかもしれない。あらかじめ謝っときましょう。ごめんなさい。

(これは、ラジオでピーター・バラカンが、誰だったかアーティストの訃報に接して番組で追悼して一曲かけたところ、リスナーから「彼はまだ死んでいない」と報せが入り、「すいませんでした。でもまあ、あらかじめ追悼しておきましょう」と名言?迷言?を言った件の顰みに倣う、というやつである。あの時は聞いててのけぞった)

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ブログも書かずに何をしていたのか、ということを簡単に報告しておこう。

会社を辞めて一年弱は失業給付金を貰えるので、何もせずに暮らせるはずだった。月額だいたい20万円だった。

だが、何もせずにお上から金を恵んでもらって過ごす毎日は、かなり辛かったので、途中でそれはやめた。その辺の事情は本に書いている(1章〈失業給付金──タダでお金を貰える生活は、魂が抜けていきそうになった〉の節)。

 僕は在宅でできる仕事を始めた。電子書籍制作工房のような会社があって、外部スタッフにしてもらったのだ。始めの頃は月の売上が数万円ということもあって「どうなるんだろう?」と不安だったが、やがて「緊デジ」バブルが来たりして、幸いにも忙しく稼がせてもらった。今電子書籍市場は成熟したのか再び売上が激減しているが、まあこの先も別の仕事をしたりして糊口を凌ぐワケだろう。ポール・オースターの「Hand to Mouth」を思い出す。気分だけオースターになって自分を慰める。

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禅、曹洞禅に傾倒したり、歴史研究にのめり込んで史料を読む勉強会に出たり、図書館に籠もって本を読んで資料をまとめたり、といったこともした。うつつをぬかす、というやつですね。でもこうして作った資料のスクラップ的抜き書きのExcelファイルは、なかなか宝物になりつつある。今も、印象的な本を読んだら内容を抜き出してExcelでメモを作っている。

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この間、何度か病気というか体調を崩した。

会社員時代から引きずっていた腰痛が、日々ぼうっと過ごしていた頃再発した。これはヨガをやるようになって出なくなった。

足の裏に小さな膿疱?がたくさんできて、皮が剝けてひりひり痛む、というのに悩まされた。これは一年以上続いたかもしれない。皮膚科では「掌蹠膿疱症」と診断され、ステロイド軟膏とか使った。

胃を悪くして、何カ月も美味しくモノを食べられなかったこともあった。胃を壊すと、絶え間ない節制以外に治す手段はないんだね。辛かった。悪い病気じゃないかと疑って初めて胃カメラを飲んだ。結果、「胃カタル」という平凡な病名が確定した。今はすっかり良い。

かなり大事になったのは、痔瘻だった。旅行先で尻に深そうなおできができて、痛んで歩きにくい、というのが初期症状だった。これは旅行のストレスとかがなくなると消え失せるので、医者に行くまでしばらく間が開いてしまった。切るとかになるのかと恐かったのもある。

結果、新大久保の山の手クリニックという大病院で、その筋では有名な名医の手術を受けた。Facebookで「今度入院する。痔瘻で」と書いただけで同病院の同医師の施術を受けた、という友達が続々現れたのには笑った。ほんとに名医だった。今はすっかり良い。ただ、電気メスは焼き肉の匂いがして複雑な気持ちになった。ヒトの肉って美味いんじゃない?という疑問が残った。

今も身体の一部が悪くて通院している。左膝の半月板が傷付いていて、歩くと大変痛むのだ。これは地味に影響がすごくて困っているのだが、幸い長く付き合えそうな良いお医者さんと巡り会えたので、きっとしばらく通えば良くなるだろう。

他にも、巻き爪が痛んだり、老眼に苦しんだり、歯の補修がうまくいかなかったり、いろいろ困ることはある。人体は専門家によるメンテナンスが必要なのだ。

あと笑ったのが、整形外科で血液検査した結果を今週聞いたのだが、「尿酸値が低すぎる」というのだ。ご存知の通り、尿酸値が高すぎると痛風になる。低い分にはいいだろうと思ったら、やっぱりいけないんだと。なので痛風に悪い食べ物をなるべく摂るように、と医師の指令が出た。八百屋で「痛風に悪い野菜は?」と訊くと、「ブロッコリとか、芽のものはたいがい良くないね……あとはストレスだね」と言われた。「いや尿酸値が低すぎるから高くしないといけないんだ」と言うと「そりゃストレスがないせいだよ」と断言された。なかなか侮れない八百屋であった。

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まあ他にも、退職金を利殖でスッて大いに落ち込み、鬱病再発しそうになったとか色々あるのだが、その辺は本を参照してくだされ。

書籍の刊行に懐疑的な僕と、出版社社長との対話

なかなか筆が進まないのだが、もう腹くくって書いてしまおう。

僕は、自分の書いたものを書籍にして刊行することにかなり懐疑的だった。

商業的に成功するかどうか怪しい、という点もある。それ以上に、これを世に問う意義はあるのか、という点が怪しいのではないか。そう思っていた。

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株式会社出版人も、同社でしか出せない本を出している、エッジの立った一人出版社だ。

出版人ライブラリの第一作は『知られざる出版「裏面」史』だった。

知られざる出版「裏面」史 元木昌彦インタヴューズ (出版人ライブラリ) | 元木 昌彦 |本 | 通販 | Amazon

これは同社のメイン媒体、月刊「出版人・広告人」に連載された、元木昌彦によるオールド出版人たちへのインタビュー集だ。「日刊ゲンダイ」創刊の関係者や、講談社集英社小学館の〝伝説〟のライター・編集者たちが綺羅星のごとく登場する。正史である社史はもちろん、現役社員たちの間ですら曖昧になりつつある〝当時の現場で起きていたこと〟を書き残そうとする、オーラルヒストリーだ。歴史的に意義の深い企画だとおもう。

これは僕も校正で少し手伝わせてもらったが、本当に興味深い企画だった。

こういう、他ではやらないものを出すことが、一人出版社の意義だろう、と強く感じられた。

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 同社では、この後のラインナップも進行中だ。知る人ぞ知る音楽評論家の蔵出し原稿集、同じく知る人ぞ知る社会派ライターのコラム集、はたまた月刊誌「出版人・広告人」連載の書籍化……など、いずれも資料性が高く、時代を振り返るメルクマールになるような、他にない企画だ。

ひるがえって、僕の本は、他にない企画と言えるだろうか?

これ、ものすごく疑問に思えて仕方がなかった。

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僕は会社を辞めて以後、何か書く機会があっても、きわめて個人的なことしか書くまい、と決めていた。

以前のブログ「たぬきちのリストラなう日記」が大勢の人に読まれたのは、僕の書くことに魅力があったのではなく、僕が書いていた対象、つまり出版社の内情というやつが人気だったのだ。人気コンテンツだったのはたぬきちではない、出版社の方だ。

それは重々承知していた。だから勘違いしないように気を付けていたつもりだった。

それでも、持て囃してくれる人がいるうちは、勘違いしがちだ。自分が書くモノには魅力がある、などと過信してしまう。書かねばならない、と勘違いする。せっかく手に入れた人気ブロガーという地位を維持しなければ、などと思った時期もあった。

これは全部間違いだった。出版社の内情、というキラーコンテンツを失った僕は、一山いくらのブロガーに過ぎなかった。

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一山いくらの野良ブロガーから、休眠ブロガーになった。その間Facebookでちょこちょこ書いて衝動を発散していたが、ブログを再開しようとは思わなかった。そして「出版人・広告人」に連載しなよ、と今井氏から誘われたとき、これからは個人的なことしか書くまい、と決めたのだ。

出版社の内情を書いたことで、多くの人に不快な思いをさせ、不義理をした。色々あって僕も傷付いたこともあったが、周りの人が傷付いたことの方が絶対に多いだろう。迷惑を掛けた。申し訳ないと今でも思う。

だからこれからは、頼まれても自分のことしか書かない。徹底的に個人的なことしか書かないと決めた。だから、「出版人・広告人」の連載は、まず退職金の運用云々のズッコケ話から始めて、後は野となれ山となれだがそれでも自分のことばかり書こうと努めた。

いったいそんなものを、世に問う意義があるのか? 出版する価値があるのか? これは今でもなかなか疑問なのだ。

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校了前後だったか、ある時、版元の社長今井氏にそれを電話でぶつけたことがある。「そんなに苦労するなら、出さないという選択肢をもう一度検討すべきではないのか」と。あるいは「内容を世に問いたいのなら、電子書籍でばらまくという方法もあるのではないか」とか。

今井氏は、普段の氏にしては珍しく淡々と答えた。

「タダで配ろうなんてことは全然思わない。これを出版しようというのは、出版状況に一石を投じ、出版状況を少しでも豊かなものにする、そのための一冊なのだ。だから出す意義はある」(と、こんな感じだったと思う。曖昧な記憶なので言葉尻を捉えないように)

そうなのか、と僕は半分忸怩たる思いを嚙みながら、半分は納得して聞いた。

なるほど。それだけの覚悟があるなら、こっちも腹を括るべきだな、と思った。

本を出す、ということには今でもためらいがある

僕は会社員時代、本を作る、あるいは本を売る、という仕事をしていた。会社を辞める際にはブログを本にして出してもらう、という幸運にも恵まれた。

だけど、その間ずっと、本を出すということへのためらいがあった。諸手を挙げて大賛成、自らすすんでプロモート、という感じではなかった。

とくに前回(2010年)は、書いたブログが話題になり、早い段階で何人もの方が「本にしませんか」と声を掛けてくれた。彼らの熱意に寄り切られる形で、本のプロジェクトに加担してしまった。

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最終的に新潮社の郡司さんチームにお世話になることにしたのだが、それについては先に声を掛けていただいた方に不義理をしたり、いろいろ多方面に申し訳ないこともした。

ただ、それには僕の計算もあった。

僕の本はリスキーだ。商業的にリスキーという点もあるし、いちおうというか業界大手出版社の内情を暴露する、よろしくない本なのだ。刊行することで僕だけではない、関係者が業界でよろしくない立場に立たされることは十分ある。

本の刊行で迷惑を掛けるなら、なるべく大きい会社に迷惑を掛けよう、と僕は小賢しく計算した。

新潮社のチームは、僕の目論見を超えて、悪評にもびくともしなかったし、献身的にプロモートしてくれた。とくに宣伝とパブリシティに関してはおそるべき力を発揮し、何誌・紙のインタビューに答えたのか記憶がないくらい、いろいろセッティングしてくれた。かつて「フォーカス」で辣腕を振るった方が宣伝でやはり辣腕を振るったのだと聞いた。こういう経験ができたのは本当に嬉しかった。

そして、新潮社は太っ腹にも、「ブログは公開したままでいたいんですが」という我が侭も許してくれた。このせいでだいぶ売れ行きが落ちたはずだし、申し訳なかったと思うが、今でもこの判断は間違っていなかったと僕は思う。

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あの時も僕は、自分の本が刊行される、ということについて強く信じることができない、何か深いところでの懐疑があったのだ。信じるとは、刊行可能か、刊行されるかどうか、ということではない。刊行する意義があるのか、ということだ。

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小さな出版社、一人出版社がいくつも勃興しているという。スマッシュヒットも生まれているという。たとえば出版社「鉄筆」は光文社で一緒だったこともある渡辺弘章氏(書籍販売部で彼は部長、僕は部下だった)が一人で起ち上げた版元で、白石一文の文庫でヒットを飛ばし、辺見庸ラグビー関連のノンフィクションを継続的に出している。いずれも他ではなかなか実現しないだろう企画だし、個人が出版しているポリシーを感じさせる、気骨のある企画だ。こういうのは、たとえ斃れたとしてもこれらを世に問うた意義はある、と言えるのではないか。もちろん斃れない要慎を重ねていることもしっかり窺える。

一人出版社は絶対に楽ではないだろう。だけど、一人でしかできない、このご時世だからこそ一人でやりたい出版というのがあるだろう、それもよく伝わってくる。

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今度の『その後のリストラなう』も、一人出版社からの刊行となる。リソースも、機会も、戦力も限られた、乏しい、ゲリラ戦の出版社だ。大手と違って、切れば血の出る小さなチームだ。余裕はない。

そういう処の貴重な資源を費やして、敢行していい作戦なのか。僕は終始この懐疑が離れなかった。もちろん、原稿に関しては一所懸命、可能な限り誠実に手を入れたのだけど。(まだつづく)