新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「沈黙」を隠退・隠遁評論家的に観てみた

昨日は「沈黙」を朝イチで観てきた。
大変幸せな3時間、こんなに物静か、かつ流暢な、スムースな映画を撮る人だっけスコセッシは?と驚いた。とても気持ちいい緊張が持続する、快感に満ちた映画だった。周りのみんなもしーんとして、映画を観る喜びに満ちて観ていた。暗〜い拷問の映画なのにね。CGが控え目なのも嬉しかった。きらびやかなCG見ると白けるんだよね、歳だから。

〽︎映画を観ながら泣くのも大事なことのひとつ(戸川純

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以下【ネタバレ】含みます。

イッセー尾形の演技が大変評判だが、僕は奉行所与力が気に入った。おのれを殺して奉行に仕える、忠義を尽くす様子が良かったし、拷問に当たっては、やってる側も痛みを感じないわけはないのだが、葛藤を強面で押し隠す様子が伺えた。これが武士なんだよね。

ただ、奉行所の下役・現業の人たちは武士ではなく、歴史的に云うと長吏非人である可能性があるのだが、さすがにそこまでは再現されてはいない。日本人でもそこまで考証することはないからなー。

でも、とにかく時代劇として良かった。最近は「超高速参勤交代」のようなパロディしか作られないから、ちゃんとした時代劇を観られて嬉しい。

前半の山場、トモギ村が良い。塚本晋也は目立ちすぎだなーと思うが、彼含む村人たちのゴツゴツした面構えがリアリティを支えてくれた。村人#1こと吾らがPANTAの存在感に至っては青木繁「海の幸」を連想させた。

この映画、すごい風格があって名画なんだよね。藤田嗣治戦争画とか、あるいはゴヤのような重厚な画面が続く。

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リアム・ニーソンの転び伴天連フェレイラ最高。僕は原作小説を読んだとき、ル・カレのスパイ小説やグレアム・グリーンの心理スリラー小説を強く連想したのだけど、イッセーとニーソンに責めたてられる若い主人公など、まさにル・カレ的と思った。ル・カレは尋問が大好きだしね。

何より、ル・カレのテーマというのはつねに「二重スパイ」なのだが、フェレイラと後のロドリゴはまさにそれになったのだ。設定では通詞の浅野忠信も、イッセーの井上筑後守も、実は元切支丹らしい。彼らも二重スパイなのだ(井上政重の史実はようわからんが)。弾圧する側だが弾圧対象を知悉し、どう責めれば効くかの研究に典礼書まで読み漁る情熱がある、〝カーラ〟や〝スマイリー〟のような人たちなのだ。みんな異端審問官ベルナール・ギーの血を引く人たちだ。

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作中、唸ってしまったのは、「真理(キリスト教)は普遍だから世界中に広めるのだ」とロドリゴが云う、だがフェレイラが「違う」と反駁する、これがまるでグローバリストと反グローバリストの問答のように聞こえてしまった処だ。

映画が撮られたのは2015だが、今は2017、連日トランプ大統領のニュースが取り沙汰される、反動的な、アンチ普遍主義の時代だ。何という先取り。

そうなのだ、現代は「(神という)真理は普遍でも不変でもない」とバレてしまった時代なのだ。世界の辺境あちこちから普遍主義へノーが突き付けられている。六角のネジは宇宙のどこで作っても同じ形になる、それは物理学だからだ。神学はそうか?心理学ですら普遍性というと怪しいレベルだ。社会学だって。人類学に至っては。

井上政重や通詞の云ってることが、実は今でも正しいのでは?という恐ろしい想念に取り憑かれる。原作小説は主に九州地方のカトリック社会では忌まれたらしい。恐ろしい真実を突いているからではないのか。

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原作では改宗した後のロドリゴを直接描写せず、擬古文の「切支丹屋敷役人日記」で読者に匂わすにとどめている。映画はそれをはっきりと映像化しているが、そこも良かった。【ネタバレ】考慮せずいきますよ。

『沈黙』覚書 「切支丹屋敷役人日記」と「査祅余録」」という論文がある。リンクボタンにしていますが、これ押すとpdfのダウンロードが始まるので注意してください。

これ、宮尾俊彦さんという方が1981に長野県短期大学紀要に書かれた論文なんだけど、原作小説末尾の「切支丹屋敷役人日記」と、そのパクリ元である「続々群書類従」第十二所収「査祅余録」を比較して、どこをどう改変して「沈黙」エピローグとしたか、詳細に検証している。すごく面白い。

ロドリゴのモデルはイタリア人司祭ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)。42歳で棄教し80歳以上まで生きた。キアラに仕えた角内という小物がキチジローに相当する。角内は越前の人で、吉次郎と違って五島から付き従ったのではない。小説や映画では吉次郎の最期は描かれないが、角内は切支丹信仰が露顕して屋敷の庭で殺された、とはっきり書かれている。

論文の著者は、遠藤は周到に原文を書き換えてテーマを明らかにした、と褒めているが、僕は同意できない。原文は報告書(公文書)ナノデ、何が起きたか、処置はどうだったかがきちんと書かれ、対応関係がある。だが小説の「日記」は対応関係がきちんとしてなく、吉次郎の処置など当然触れられるべきことが書かれていない(隠されている?)ので公文書としての体裁が整っていない。辻褄が合わないのだ。

「日記」では、ロドリゴは吉次郎に信仰を持たせ続け、さらに屋敷の役人をも折伏したようなことが伺える。切支丹屋敷、すなわち強制収容所の中でキリスト教が跋扈していたのである。これはなかなかサスペンスである。

また作者は、ロドリゴの死因は自然死ではなく、何か人為的な死を匂わせているのではないか。ハンガーストライキとか。だもんでキアラより若くして死んだのではないか。

文京区小日向の切支丹屋敷跡から、最後の転び伴天連ジョバンニ・シドッチの遺骨が発掘された。シドッチと判明したのは2016。シドッチは屋敷の世話係夫婦を折伏(というか十字架を与えたらしい)したのが露顕して屋敷内の地下牢で牢死した。なんと映画や小説のようなことが実際に起きていたのだ。

そして、なんと火葬ではなく身体を横たえた遺骨なので土葬である。映画のロドリゲスとは違う。なんということか。シドッチはキリスト教徒として葬られたのか?

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映画では、棄教後のロドリゲス(映画だからこう呼ぶ。ロドリゴは姓ではなく名、作者のミスだ)がしっかり描写されている。輸入品の中にキリスト教の意匠が隠されていないかの検閲に従事する。ここで師フェレイラが見落とした(見逃した?)隠し画を見つけたりして、優秀な査察官であることを匂わしている。そして死んだ日本人の妻子を娶り、縁もゆかりもない日本人親子と家族として暮らさせられた。

「日記」によるとロドリゴの享年は64とのこと。年老いた妻が、ロドリゲスの座棺にこっそりと〝ある物〟を忍ばせたとしたら、彼女自身が切支丹であったかどうかはわからないが、棄教者ロドリゲスの後半生には良き理解者・伴侶…共犯者がいた、ということになる。

なんと幸せなことか。

僕は、映画の結末で、この名も明らかにされぬ岡田三右衛門妻の心持ちや覚悟を思って、戦慄したのだった。

棄教後の彼についてはいくらでも書けるが、ここら辺で一旦やめとこう。実は、棄教するまでの彼の人生が、彼にとっての最大のドラマ、栄光の時、花のような光差す時間なのだが、人生の真実は棄教後の地味な後半生にあるのだ。

 

※論文「『沈黙』覚書」のリンクが間違っていたので修正しました。