新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

リストラなう!その15 文芸書が陥った地獄 後編

 今日、ついに早期退職優遇制度の応募状況が明らかになった。会社の公式発表ではないが、あちこちで人数がささやかれている。
「三十九人」
 そうか、定員の五十人には満たなかったか…。
 だが間髪入れず「追加募集が始まったよ」と聞いた。僕は今日は午後外出してて会社のイントラネットを見てないので知らなかったのだが、対象者を「編集部門の四十歳以上も含む」に広げるらしい。
 これならきっと、あと十一人なんて埋まるな。
 噂では、編集部でも真剣に「応募したいが、なんで自分は対象じゃないんだ」と苦悶していた四十代がいたと聞く。選択肢が与えられることで救われる者がいるはずだ。一方で、自分も対象になったことで不安になる者も出てくるだろうが。
 ちなみに、追加募集では個別面談はやらないらしい。あれは受ける側もやる側も疲れるからな。それもいいだろう。


 なんとなく、なんとなくだが、再建案に見通しが立ってきた気がする。当初は、殺到するんじゃないかとか、逆にまったく応募がないんじゃないかとか、極端な悲観論が流れていた。そうではなく、ほぼ適正規模の応募があったことに僕は安堵した。また、編集の希望者に枠が開放されたことも喜ばしい。ま、僕は会社の総務じゃないので僕が安堵するなんて変なのだが。自分が賭けた側に乗ったやつが意外に多かったのが嬉しかったのか。辞めることになるがそれでも愛着のある職場が再建する目鼻がつきそうなのが嬉しかったのか。よくわからない感情だが、今日まで微妙に緊張していたものがほどける気がした。あと、望まぬ退職を強いられた人がいなければいいのだが。
 それではこのへんで、昨日の話の続きをお送りします。リストラとは関係ない話じゃん、と思われる向きもあるでしょうが、僕の中では文芸書の問題は会社の再建と切り離せないのです。


■文芸書のプロモーションはいつからこうなった
 ひと気のない夜の職場で編集の□□さんと向き合ってけっこう時間が経った。さっきから僕のけんか腰の言葉を□□さんが黙って聴いてるに気づき、一方的に営業の論理をまくしたてていた僕はちょっと自己嫌悪に陥る。これじゃ、自分が今まで嫌ってた輩と同じことをしてしまってる。
「……今度出す本なんだけど、すごい力作の原稿なんだ。賞も取ってる人だよ。だけど、営業がつけてきた部数は数千だよ、数千。それって、どういうことなの。営業は何考えてるの」
 やっぱりか。通じないんだな、伝えたいことは。ちょっとサディスティックな気分になってくる。
「そんなに少なく感じましたか。そりゃ“ほんとは出してほしくない”ってことでしょうよ」
「!……」
 相手が絶句した途端、やはり後悔する。こんな恫喝はあまり意味がない。
 だが「文芸書」と総称されるジャンルがここ数年とくに苦しいのは、もう僕たち営業の間では常識だ。そこに向かって、純文学とエンタテインメントの中間あたりを狙ったタイトルを出してくる編集部の“空気読めなさ”も僕らを苛立たせていた。僕は小説に詳しくないし得意でもないのだが、最近だと警察小説・時代・キャラもの・ラノベといった特定ジャンルのタグづけがされた作品でないとうまく売る自信がない。純文学志向の作家にエンタメ寄りの作品を書いてもらうのが□□さんのやり方だが、これだとどう売ったら良いのか、営業としてはけっこう途方に暮れるのだ。また、そうした作家さんの基礎票は低い。他社の仕上がり数を尋ねると、驚くべき低さだったりする。商業出版として維持できないレベルであることもしばしばだ。結局、制作費とのかねあい、損益分岐が高くなりすぎるので泣く泣くやや部数を上げるような、本末転倒なことが起きている。そういう、すでに“下駄をはかせた”部数なのに、□□さんは不満があるようだ。
「こんな少ない部数で、いったいどうやったらいいの。文芸に強いお店で仕掛けてもらおうにも余分はないし、地方のお店には一冊も行かない」
「□□さんは、今までどういうプロモーションやったんですか?」
「いっぱいやったよ。知り合いの書評委員に献本するし、書評家にも送る。著者と臨店もしたし、僕だけで臨店したこともある。営業にもすぐゲラ届けてるし、君らが懇意にしてる書店員さんに読んでもらえるゲラも用意してる」
 ……僕はだんだん面倒になってきた。お決まりのルーチンワークのようなプロモーションごっこ。あとは、サイン会、トークイベント、あるいは書店員を招いた茶話会。ただし、サイン会やイベントなどエンドユーザ相手のものは集客が見込めるネームバリューのある人でないと無効だ。今回のような、作品は良い(と□□さんは強固に主張する)んだけど残念なことに名前の知られていない人だと集客イベントはできない。いきおい、臨店したりゲラを読んでもらったりの“草の根”プロモーションに頼ることになる。
 だがこれが僕には疑問なのだ。書店営業を少しでもすれば、現場の忙しさ、ストレスの高さ、仕事量の多さに圧倒される。着荷・品だし・店頭の管理・接客・会計・防犯・発注・メンテナンスをこなしながら、各社の営業と接し、そのうえで自発的に商品を研究している彼・彼女たちの時間は少ない。そこに、意欲作とはいえあまり売上の期待できない商品のドラフトを届けて、余暇に目を通してもらえないか、と頼むのは、はっきり言って気が重い。
「こないだも営業の▽▽君にゲラ読んでもらったんだよ。面白いと言ってくれた。でもそれだけなんだ。彼の知ってる書店員さんにゲラ届けてくれるかと思ったら、してくれない」
 当たり前だ。きっと僕だってそうする。
 書店員さん、なかでも文芸書の担当者は、目利きになろうと絶えず努力している。身銭を切って膨大な作品を読み込んでいる意欲的な書店員を僕は何人も何人も知っている。営業経験の浅い僕ですら、だ。そして、こうしたスーパーウーマン・スーパーマンたちがどんなに忙しいかは説明した通りだ。仕事は、仕事ができる人のところに集中する。これをある人は「仕事は寂しがり屋だから」と言った。言い得て妙だ。
 僕たち自身ですら、ゲラを読み込む時間がない。それを書店員にやすやすと頼めるか。僕は躊躇する。


■映画のように文芸書を語り合うことはできないのか
 だいぶ前に、東京駅近くの大書店の面々とモツ焼き屋で飲ったことがある。きっぷの良い江戸っ子みたいな店長さんも参加してくれた。彼とは、映画の話で盛り上がった。手帳に見た映画をマメにつけてる人なのだ。僕は最新の映画はあまり見てないが80〜90年代はよく見た。誰しも経験あると思うが映画駄バナシは本当に盛り上がる。
 その時僕は、読んだ書籍の話で同じように盛り上がれないのかな、と思った。
 映画と書籍とではインプットする際の手間がかなり違う。速読できる人ならいざ知らず、普通は書籍を2時間で読み通すのは難しい。移動時間など隙間時間を使って読むこともできるが、自分で読み進める努力を要するという問題もある。だがそれ以上に、映画と書籍とでは僕たちの消費の仕方、感動の流通の仕方が違うようだ。この差は何か。
「君らが臨店するのが大変なのは知ってるよ。僕だって、有名な書店員さんを訪ねたときに言われたんだ。『あ、それ興味ないです』って。あんまりだよね」
「□□さん、それはあなたのほうがあんまりですよ。結局やってることって全部書店員まかせじゃないですか。ゲラ読んでもらって、彼らに考えさせて、タダでプロモーションやってもらおうってことでしょ。その有名な店員さんが毎週何通のゲラ受け取ってると思ってるんですか」
 別の人だが僕が知ってる彼は、週刊誌に書評を寄稿する以外につねに手元にゲラの束を抱えている。しかもそうした人はたいがい売り場のリーダーであり研修も担当している。売上を立てる責任もある。そんな人に、自分の思い入れだけで、貴重な余暇時間にゲラを読んでもらおうというのは、まともなビジネスなのか?
「□□さん、フィクションの編集部が出す本は、なぜ著者のプロフィールとかが貧弱なんですか」
「失礼な。僕が作る本はプロフィールしっかり出してるよ。ほら」
「あ、すいません。これは違う人の担当ですね。でもオビやソデに作品のバックグラウンドの情報とかが載ってるケースってあんまりないですよね」
 話が少々ズレるが、僕はノンフィクション、とくに翻訳書と新書が好きだ。小説より読むのが楽だし、こっちはなぜか同好の士と“映画のように”読んだ本について語り合うことが可能なジャンルだ。とくに新書は、ブランドが乱立気味だが、テーマや著者が競合したりして話題も豊富だ。それこそ未読の新書であっても、企画性や著者の立ち位置などをゴシップ的に語り合う楽しみがある。勝間和代香山リカ内田樹小谷野敦など、格闘技的な読み方楽しみ方すらできる。(注、内田・小谷野両氏の関係についての部分未確認です。確認次第訂正させていただきます)
 小説でこういうことができないのはなぜなんだろう。いや、ミステリーで本格とか何かの論争があったって聞いたこともあるな。純文学でも小谷野敦がいろいろ言ってたりするし。本当は何にでもこういうトピックやテーマがその時代その時代にあるんだろう。
 ではなぜ、この会社で出す文芸書には、それがないんだ?
 いや、あるのかもしれないが、読者に見えるようになってないのか。
「□□さん、ゲラを通読しなくても作品の問題性や立ち位置をわかってもらえるようなことってできないんですかね? あるいは、この本を読む必然性を読者に感じてもらうとか」


■文芸書をコンテキスト化することは可能か
 僕はこのとき、佐々木俊尚さんの電子書籍版『電子書籍の衝撃』DL祭りを思い出していた。期間限定110円ダウンロード中、僕の周りのiPhoneユーザはけっこう競って自分の端末にインストールしていた。あれを体験することが、あの日もっとも熱いトピックだった。イベントだった。
 コンテキスト化。あるいはコンテキスト消費。
 そいつの有無が、新書ブームと文芸書不振を分けてるんじゃないか。
 同時代性というのか、共時性というのか。うまく言葉にできないが。
 と思ったらグーグル先生がばっちりわかりやすい定義を教えてくれた。

今、多くの人々に楽しまれているのは、
コンテンツ消費ではなくコンテクスト消費だといえる。

つまり、特定の曲や動画などの1コンテンツが良いの悪いのではなく、
ある「文脈」にのっとって皆が参加して盛り上がれるか、どうか。

そういう場や総体を共有して楽しむという方向に、
エンターティメントの楽しみ方の主流が移行して来ている。


最近、何が面白い? と若者に訊いた時に、特定の「作品」ではなく、
流行している「現象」や「ジャンル」や
「WEB上の場」を上げるケースが多くなって来ていることに、気づくだろう。

それが「コンテクスト消費」である。

ブログ「インタラクリ——インタラクティブと、クリエィティブ。広告とメディアの変化。新現象の観察記」より)

 明日発売になる『1Q84 Book3』は、まさしく作品そのものではなくコンテキストとして買われ、読まれていくのだろう。そういえば僕もどっかで予約してたな。S堂S城店か。遠いけど行かなきゃ。
 今、文芸書四六判を売って利益を取ろうとすると、村上春樹東野圭吾伊坂幸太郎といった人たちの作品を出すしかないじゃない、といった思考停止状況がある。あるいは、どこかにいるカリスマ書店員が魔法のPOPを描いてくれるのを待つか。
 文芸書の編集は何をしているんだ?
 ゲラを配ることがプロモーションなわけ、ないだろ。
 作品の価値、文学史上の立ち位置、読者にとっての必然性、著者と読者の共時性を、本文なんか一ページも読ませずに読者・書店員に伝えることができなければ。それができてはじめて“本を読む”という体験をしようという気にさせられるのでは。
 過去の“奇跡のPOP”のたぐいは、たぶんこれに成功しているのである。

 例:外山滋比古 思考の整理学 (ちくま文庫)

 「もっと若いときに読んでいれば…とそう思わずにはいられませんでした」(盛岡市 さわや書店)


 僕はここまで思いついて、□□さんに説明しようと喉まで出かかったが、やっぱりやめてしまった。彼にこれらを伝えることができるか、まったく自信がなかったからだ。自信がないことにかけては自信があるよ。
 つまり、僕と彼とはコンテキストを共有していない。本を売るということは、商品を売るのではなく体験を買ってもらうことだという理解もあるかどうか。長い年月コンテンツを作ることに専念してきた挙げ句、時代の文脈をとらえきれなくなってるんじゃないか。ましてこの先に電子書籍という選択肢がある、それなら初版部数も在庫もない、古い作品だろうと昨日脱稿した作品だろうと同じに読める、という話を伝えられるか。
 僕は疲れてきたので、こんなふうに投げやりに締めくくってしまった。
「今はTwitterとかあるじゃないですか。会社のアカウントは書店員さんたちがたくさんフォローしてくれているので、そこに作品の情報つぶやくとか? あとはプレスリリース作りましょうよ。こないだ重版したあの本は何かの賞にノミネートされてるんですよね? リリースの送り先は宣伝部が知ってますよ。
 あとですね、また愚痴になりますが、凝った造本はやめましょ? 稀少な用紙使ったり、箔押したりって、もう流行りませんよ。デザイナーの口車に振り回されないでください。造本が高価なせいでこっちは重版ためらってるんだから。紙の手触りがどーのとか、質感がどーとか、読者の誰もそんなこと期待してませんって。造本にコストかけるくらいなら、いっそプルーフみたいな造りにして安く出すほうがマシですよ」


 □□さんは結局首をかしげながら編集部に戻っていった。僕は、自分の中であるていど考えはまとまったのだが、それをどう同僚に伝えていくか、わからないでいる。コンテキスト化といっても具体的にはどうするのか、それもまだわからない。だけれど、これを言語化して同僚たちと共有しておかないと、たぶん今後も文芸書の不振は続くだろうし、それは他ジャンルへと波及していくだろう。
 リストラとは首斬りのみにあらず。再構築なり。されどその道は遠い。
 しかし、こんだけ社内は混乱してるんだ。この隙に、言いたいこと言っちゃえ。みんなで。言わないと、絶対に変わらないぞこの会社は。(つづく)

※本文中、内田樹氏と小谷野敦氏の間で新書を舞台にした論争が起きているかのように読める箇所があります。Twitterでご指摘を受けて急遽調べたのですがまだ確認が取れません。
ここは以前、小谷野氏のtweetに内田氏を批判したものがあったとの記憶をもとに確認せぬまま書いてしまいました。確認次第訂正させていただきますので、しばしお待ちください。
両氏とブログをお読みいただいた方々に御迷惑をおかけしましたことを深くお詫びいたします。

※都合により金曜・土曜の更新はお休みします。日曜にまたお会いしましょう。