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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

時代考証の楽しみと、考証に突っ込む楽しみ

暢気な本を読もう、というときは、やわらかい歴史の本を借りる。考証家によるドラマ突っ込み本とかいいよね。

大野敏明『歴史ドラマの大ウソ』2010 

歴史ドラマの大ウソ

歴史ドラマの大ウソ

 


この人は産経新聞の編集長だったということで、考証のプロではないらしい。なので、一刀両断したつもりが、ときどき自分の足も斬ってる、みたいなことがある。

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Amazonのレビューでも突っ込まれてたが、「日本刀は二、三人斬ったらもう使えなくなる」という件。大野は「目釘が緩む」と言うのだが、緩まないように竹の目釘が使われている(金属の目釘だと緩むらしい)し、新選組池田屋などおおぜい斬った記録があるので、一概にそうは言えないと思う。

(そもそも一人が三人くらいを切る、というのは滅多にない、歴史に残る斬り合いなのだ。荒木又右衛門や堀部安兵衛が何人斬ったか、調べてみるといい)

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ドラマに突っ込む考証本って多いんだけど、なかなか難しい。たとえば「町は夜、木戸が閉まって、出入りするには拍子木で申し送りした」というが、これは三田村鳶魚が書いたのが広まっているようだが、浮世絵では町木戸がひとつも描かれてない、という矛盾がある。三田村鳶魚岡本綺堂も、案外ウソつきだ。自分は見てないのだから。

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本書の著者の突っ込みで面白いのは、「武士は笑わない・泣かない」「男女が一緒に食事しない」「正座は足の裏を見せない」「江戸のごく初期と最幕末を除けば大小には必ず柄袋」「言葉、とくに二人称が違う」「名前を呼ぶな」といった指摘が繰り返し出てくること。

武士は感情を表に出さない訓練をしてきた、ということだが、だから明け透けな感情表現をする龍馬像が新しかったんだなー、ということが逆に判って面白かった。
名前と二人称の件はほんとに難しい。あと「藩士」ね。「藩」は明治になってから使われるようになった、という説と、志士の間では新規な流行語として使われていた、という説の二つを目にする。どっちなんだ。
言葉づかいでは、「武士らしく感じさせるのなら『候』と『御座る』をうまく使え」という指摘はよかった。古文書は「候・御座る」文で書かれているけれど、僕はこれは言文一致ではなかろうから、こんな話し方ではなかったろう、と思っていたが、いまそれらしい雰囲気を出そうとするなら、こういう記述言葉を使うしかないのかしれない。

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というか、この人が必死に突っ込んでいるものとは、時代劇を作る側が「感情表現豊かな武士を見せたい」「リベラルな家族の武士を見せたい」と思って演出しているところなんだな、ことごとく。現代人の理想像が武士に仮託・投影されているので、話がややこしいのだ。

今風時代小説をたくさん読んで判ったのだが、今の読者は庶民が嫌いで、武士が好きだ。主人公は何が何でも武士でなきゃいけない。だから多くの場合「市井に暮らす武士らしくない武士」なんてのが主人公になっている。
(武士らしい武士を描くのが好きなのは、上田秀人かな。この人の考証は面白い)
また、武士が武士らしく男尊女卑や身分の上下にうるさいと読者は反感を持つので、型破りな武士が好まれる。春日太一が憤慨していた岸谷五朗の件なども、リベラルな秀吉とかそーゆうのが好まれると思って、らしくなくやっているのではないか。

「八重の桜」で「弟の仇討ち」と言っていたが、卑属の仇討ちはあり得ない。また、主君の命で戦に出て死んだのだから、それは天晴れなことであって、仇云々ではない。また、武士に向かって「死ぬなよ」とか声を掛けるのもあり得ない。命を惜しむのは武士の風上に置けない。「命どぅ、ゴミ」なのだ、武士は。

渡辺京二の本を読むと、一般庶民も命を軽んじており、さらに幕末くらいになると無神論が増えていた、とのこと。 

江戸という幻景

江戸という幻景

 

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ニーズとかマーケティングがあるから、考証の出鱈目が起きてる側面が大きい。というか、作者の側もリベラルで(現代)人間らしい武士がかっこいいと思っているから、こういうことになるんだろうな。

一番の問題は、多くの読者が「庶民が主人公の時代劇なんて読みたくない」と思ってるとこだと思う。150年経っても、いや150年経ったからか、武士が一番良いんだね、お前ら。ふーん。て感じ。