新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

お金の重力

■1.お金には重さがあること
 お金が集まると、その量によって重力が生じる。
 十円くらいでは「お金が集まった」とは言わない。廊下の隅に埃が溜まった程度で、吹けば飛ぶ。
 百円単位だと、飲食ができるから、はじめて「お金があるな」と認識される量になる。
 千円単位だと、「失うと辛い」「得られると嬉しい」という感情の動きが生ずる。
 万円単位だと、この感情の振れ幅が大きくなる。また、「明日、使おう」「来週使おう」と、時間の観念が入って来る。
 十万円単位だと、これを失うと傷みが伴う。比喩ではなく、本当に痛い。

 ここから先は聞いた話である。作家の日垣隆さんは東日本大震災の直後、預金を下ろした現金を大量に持って被災地に入った。呆然とした被災者に会うと、話を聞き、その人が経営していた会社の支払やローンの支払に困っていると知ると、何も言わず数十万円とか数百万円を渡して去ったのだそうだ。
「ほんとにそんなことしたんですか?」と僕は面と向かって訊ねた(相変わらず失礼だ、僕は)。
「ほんとだよ。その百万円くらいで、その人たちは死なずに済むんだ。実は、借金で自殺する人たちっていうのは、百万円規模の場合がいちばん多い」
 被災地で会った人たちは、津波で家財を失い、目先の支払が数十万円から百万円内外滞ることで頭を抱え、悩み、死ぬほど思い詰めていたのだという。
 日垣さんの話はここから先も面白かった。
「一千万円とか、千万単位になると、かえって落ち着いているというか、自殺の危険はないんだよね」「億単位のお金を失った人は、むしろ明るい。元気を失ってない」……。
 お酒を飲みながら聞いたので正確なところは忘れてしまった。以下は、僕なりの理解と記憶です。

 お金を欠損して、死ぬほど思い詰めるケースでは、金額百万円台から数百万円が一番多く、実際に自殺に至ったケースもこのくらいの損失が多いのだという。
 一千万円から数千万円(億円未満)だと、自ら死を選ぶケースは少なくなるそうな。落ち着いて対処し、危ない行動を取らないのか。それとも、自分ではなく他人を傷つけるようになるのか。
 億円、数億〜数十億もの損失となると、貸した相手も個人というケースは少なく、たいていが法人なので、個人の生き死にといった事件にはならないようだ。失った本人も、数億を失うのは大変なダメージに思えるが意外にもそうではなく意気軒昂なことがあるという。それはつまり、数億をハンドリングするほどの実力がある人なのだから、すべてを失ってもまたゼロから挑戦すればいいさ、と考えることができるからだという。たしかに、孫正義堀江貴文なら、全資産を失っても「また稼げばいいや」と思えるだろうし、彼らにはその力があるだろう。

 この話で僕は、お金はその規模によって生じる重力が異なる、という考えに思い至った。
 なぜ主婦はスーパーの商品の懸賞で5000円当たると嬉しいのか。72円と80円の胡瓜に真剣に悩むのか(僕も悩むんだよね)。
 なぜ競馬だと数万円スるのが痛いのに、住宅ローンでは数百万円スるのが平気なのか。
 数千万円のお金を持つ人が、資産を金融商品に投じ、何千万円もの損失をしてしまう。なぜ数百万円の損のところで撤退できないのか。
 これら、不合理な人間の行動は、みな、お金が持つ固有振動というか重力によって、理性がねじ曲げられてしまうからではないか、と思うのだ。

 例の、人気タレントの親族が生活保護を受けていた、という件。ネット界隈ではタレント叩きが起きたわけだが、どうもこれ、「あいつが年収5000万円もあるのか」「何百万円も払ってビジネスクラスでハワイ旅行か」「生活保護は年間ン百万もらえるのか」という当たりに、人びとがグッと来るポイントがあったんじゃないかなー、と思う。これらも、「数千万」「ン百万」といった額がイメージさせる重力に、人びとが抗しきれなかったからではないかという気がするのだ。

■2.素敵な人生に、お金はいくら必要か
「お前、いいなー、そんなたくさん退職金もらって。俺にも金くれよ」
 と、実際に言われたことがある。かつて会社で同僚だった男性からだ。彼は僕よりだいぶ前に会社を辞めたので、退職金はごく少なかった。その違い、満たされない気持ち、不公平感はわかるつもりだ。だが「お金くれよ」と面と向かって言われたのには面食らった。冗談のつもりだったのか。つまらない冗談だ。
「いくらご入用ですか」
 と訊き返せば良かったかな? 彼はいくらほしいと言っただろうか。
 人はなんとなく、「数千万円のお金が転がり込んだら、だいたいの問題は解決するし、遊んで暮らせるだろうな」と思うんじゃないか。
 ところがですね、そういうことはないんですよ。将来の不安はなくならないし、日本円しか持っていないのに円ドルレートとかが気になるし、政府が財政破綻するとか、資産課税が行われるとか、そういう根も葉もない噂に不安になるし、不安に駆られて金融商品買ったりしてホントに大損失を出したりして寝られなくなるんです。そういうもんです。

 いくらいくらのお金があれば、残りの人生を幸せに暮らすことが出来る、ということは、ない。あり得ない。人間の一生というのは、計測不可能だからだ。フィナンシャルプランナーはシミュレーションの算出式を持っているが、そういうお仕着せの標準的な人生は、あなたの実人生とは何の関係もない。
 僕は長い時間考えて、一つの結論に達した。

 人生において必要なお金の額は、……お金の魔力・重力に屈伏せずにすむだけの額があれば、十分だ。
 それ以下では、苦しい。それ以上あっても、別に幸せ度は増えない。むしろ苦痛が増える。

 お金は重力を持っており、そのせいで人びとの行動はねじ曲げられる。それは魔力と言い換えてもいい。
 お金が大切、お金が大事なのは、「お金を得るために自分の尊厳や人間性を売り渡すようなことをしない」ために、お金が必要だからだ。
 問題なのは、誇りや尊厳を維持できる最低限の額が、すぐにはわからないことだ。わかれば、どんなにいいだろう。

■3.お金から自由になる究極の方法
 一時、すべてを棄てて仏道に入りたい、と真剣に思っていた。夜も日もなく仏道をこいねがい続け、朝から坐禅をし、昼も、夜も座り続けた。仏教書を手当たり次第に借りて読んだ。
 一つは、将来の見えない不安に対して、最終的な救済を与えてくれそうだったから。何しろ、仏教には出家という、生きながら救われるメソッドがある。全財産を擲って仏門に入ってしまえば、お釈迦様のように悩みから逃れることができるんじゃないか。

 ……そういうのは、甘い考えなのだった。お釈迦様も「わしだって出家したけど悩みはなくならなかったよ」と言うだろうよ。実際、出家する人は近年増えているのだが、出家者の悩みは「どうやって食べていくか」「檀家のある寺を継ぐには」とかだったりするという。リアリティだなあ。
 また、僕の好きな禅宗にしても、プロのお坊さんたちはみな、実家のお寺をどう継承し、維持するか、に悩み苦しみ、また敢然と立ち向かっているのだという。自分の悩みがどうこう、人生の悩みがどうこう、なんて小さい小さい。みな生きることに一所懸命なのだ。

 先ごろ、オウム真理教事件の逃亡者がまた捕まったという。彼女は、逃亡中、信仰を持ち続けていたのだろうか?
 オウムは、90年代では唯一本当に、「すべてを棄てて出家したい」という熱望に応えてくれる宗教だった。だからこそ、大勢の若者が、全財産を寄進して、変な白衣を着て不味いご飯を食べる集団生活に入ったのだ。既存の仏教教団は、こういう大衆の過激な願望には応えてくれないから。

 ブログ「新teru0702の日記by今井照容」は、エントリ「オウムの闇は宗教ならではの闇ではないのか?」で、「オウム真理教は宗教にとって異物ではない」と記している。同感だ。むしろ、もっとも宗教らしかったから、あそこまで力を集めたのだ。
 オウムの力の根拠の一つは、私有財産を擲つことを許す、その過激さにあった。と僕は思う。このニーズに応えられる宗教は、現在日本にあるのか?

 最近の僕は、一時の熱情は冷めた。幸いなことだ。だが、それはお金の重力から自由になったからではないし、自分の必要とするお金の量がわかったとか、お金をすべて擲つ覚悟ができた、ということでもない。熱がおさまった、というだけの話だ。
 世間は相変わらず、お金にまつわる様々な感情が渦巻いている。世界同時株安である。自殺をする人や、誰かを傷つける人がいないように、と切に願う。

“自分語り”と“止まらない食欲”について考えている本

沈黙入門 (幻冬舎文庫) もう、怒らない (幻冬舎文庫)

 いきなりアフィ画像から始まって恐縮なのだが、偶々読んだ本が非常に良かった。
 小池龍之介師はご著書もたくさんある、有名な僧侶だ。異端の僧侶、と言ってよいだろう。詳しくはwikipediaとかをご参照あれ。
 僕が触れたのは上記二冊の文庫で、どちらもたいへん薄い。薄いが、読み応えがあった。

 最初に読んだのは『もう、怒らない』だった。
 怒り、憤怒、に関しては自分に「困っている」という意識はなかったので本を手に取った時はピンと来なかったのだが、目次にぐぐっとハートを掴まれた。
 第一章は、欲望、それも食欲について延べているのである。

第一章 欲望はストレスの素
 ……
 食べ過ぎたくないのに食べ過ぎてしまう心理
 ストレスは食欲に転化しやすい
 なぜテレビを観ながら食べるのはよくないのか
 一口食べるごとに箸を置いてみる
 ……

 食欲は困りものだ。ダイエットに興味のない人はあんまりいないでしょ? 現代社会の人間は、みんな、自分の食欲を制御できなくて、食欲との折り合いをうまくつけられなくて、困っているのだ。
 最近常識になってきたことの一つに、「食べたくて食べてるんじゃない、ストレスのせいで食べ過ぎてしまうんだ」ということ。そして、食べ過ぎた後には必ず自己嫌悪が待っている。うまく空腹になれず晩飯が不味い。食べ残す。夜中に腹が減る。食べ過ぎる……不幸のスパイラルである。もう、食べること自体がストレスになってしまう。
 この不幸サイクルの根底に“怒り”がある、という話が『もう、怒らない』だった、と僕は理解した。浅い理解で済みません。

 次に読んだのが『沈黙入門』。オビに「自分語り…云々」とあったのが期待をそそった。

1 沈黙のすすめ
 自分濃度を薄める
  あふれる自分語りにウンザリ/「かけがえのない私」という現実逃避/…
 ケチつけをやめてみる
  みんなコメンテーター気取り/批判しながら依存する奴隷の心理/…
……
 意見あるところに欲あり
  …/本音も正直もくだらない/意見は邪悪/お釈迦様は宗教を説かなかった/意見から始まる怒りのループ
……

 案の定、出だしからグッときた。この人は掴みが巧い。さすがは説教するのが仕事の僧侶だけある。

「自分語り」は重要な問題だ。とくにブログ、TwitterFacebookは、水道の蛇口のようにひねればいつでも自分語りが溢れてくる恐ろしいメディアだから。
 もちろん、僕の書いていることも「自分語り」であり、不愉快な、百害あって一利なしの、くだらない代物であることは重々承知している。承知していても「自分語り」の魔力から脱することはできないし、それは、後で自己嫌悪になるよとわかっていてもジャンクフードの袋を次々開けてしまう行為と似ている。
 なるべく毒にならない「自分語り」を、と努力してみても、難しい。そこには必ず毒素が混じる。かといって、さらさらに漂白した、自分語りの要素がまったくないものは、役所の告知やダイレクトメールみたいで端から読む気がしない。自分が書いたものでもつまらないのだから、赤の他人はそんなの読みたくもないだろう。

 僕が読んで面白いと思うものは、例外なく、書いた人の個人史や、自我が反映したものだ。論評する対象は、ニュースであったり商品であったり近所の散歩道のことだったりといろいろで、そこには僕とまったく縁のないものもあるが、そこに書いた人の“人間”が投影されていれば、それはいきなり興味深い読み物になる。その一文を書くために、数十年の彼の人生があった、とまで言い得る名文になることだってある。
 反対に、これは勘弁、と思うのは、「自分語り」の毒を多量に含有していながら、その人の人生や経験・意志を感じさせないものだ。たとえば、世に溢れるプロパガンダをあたかも自分の意見であるかのように言い募るもの。他人の書いたものを(意識すらせず)模倣し、言い散らすことで自己顕示欲を満たすもの。
 これ、自分でもよくやってしまうんだよね。どこかで読んだものを、読んだという事実は忘却してしまい、エッセンスだけが頭の中に残ってるとき、やってしまう。知らず知らず、AKBの歌詞のようなものを書いてしまうことってありませんか。ないですか。それはよかった。僕は、自分では意識せず、SMAPの大流行歌と同じことを書いてしまったことがありました。ナンバーワンじゃなくてオンリーワン、だとか何とか……こんな洒落た台詞、自分で思いつくわけないのにね。刷り込まれ、脳の主導権を奪われているのだ。

 小池龍之介師が凄いのは、自分語りだとか食欲スパイラルだとかの話をしながら、自我の毒を薄めるにはどうすればよいか、その方法を読者とともに模索していくところだ。そして、これはお釈迦様がやった原初仏教の方法と似ている。あ、つまり小池師も凄いが釈尊も凄いということか。

 仏教は、つまるところ、北インドの王族の倅が、自意識の苦しみに耐えかねて始めた思索の一大系統だ。現代日本では葬儀などの典礼(虚礼?)が発達してしまい、思索の部分がなかなか見えにくいけれど、元々は虚礼を排し思索を深めるためのメソッドとセオリーだ。(この要素がかろうじて伝わっているのが、禅宗かもしれない。あるいは修験道か)
 ここを深めようとすると、必然的に現代の仏教権威と真っ向から対立してしまう。小池師は浄土真宗から破門されたことがあるそうだが、それも必定だったろう。現代では真剣に釈尊の教えと向き合うことは異端なのである。

 小池師の本にも、自分がどういう人生を送ってきたかなどの記述はある。だが、毒々しい自分語りにはなっていない。さらさらと漂白されていながら、小池師の人となりをしっかりと感じさせ、奥行きや味わいのある読み物になっている。
 自我の横溢がいかに人を苦しめるか、人を幸せから遠ざけるか、これは継続して考えていきたいテーマだ。それはつまり、ブログ・TwitterFacebookといったメディアが自分を幸せにするか不幸にするかという議題でもあると思う。

 などと言いながらFacebookに「今夜はこれ食った」なんてフィードを投稿する自分がいる。バカである。愚行は止むことがない。

河本準一一件を指弾できるのは誰か?

 人間、お金のこととなると理性の箍(たが)が吹っ飛ぶようだ。


 在宅仕事を請けている会社へ打合せに行ったときのこと。僕以外にもフリーの仲間がおり、かなり仲が良いのだが、その席で彼がこう言った。
「彼はお金持ちだからいーんですよ、仕事はぜひ僕のほうにください」
 もちろんジョークなのだろうが、僕はまったく笑えなかった。
 この仕事の報酬は決して高くない。また、量も潤沢とは言えない。これから増える見込みだが、どれくらいになるか、生活設計をするのはかなり難しい。
 彼には妻子がある。僕には扶養者はいない。貯金は、彼もそこそこあるらしい。だが住宅ローンがあるという。そういうことを愚痴り合うくらい親しい仲ではある。
 だが、第三者がいる前でそんな風に言われるのは不快だった。というか、僕の心証はどうでもいい、仕事相手の人たちの心証が悪いではないか。誰も面白くないジョークじゃないか。
 彼は、もともと気遣いも細やかで、優しく、オトナな人間だ。だからこそ、あの笑えないジョークには、何か、箍が外れたものを感じた。
 後で僕は彼に「ああいうことは不愉快なので言わないでくれ」と言った。彼は頷いて、わかってくれた。


 阪神大震災の時だから古い話である。僕は当時編集部で働いており、在阪サッカーチームの元監督の個人事務所を訪れていた。元監督は先シーズン末に電撃解任されたばかりで、地元には彼を惜しむ声が多かった。元々日本サッカー隆盛の立役者でもあり、世界的な名選手でもあったので人気者なのだ。その彼に、プロサッカーリーグやプロチームの内情を暴露する本を書いてもらおうという企画だった。
 その日は1月17日の震災からそんなに経っていなかったが、吹田市にある事務所は被害がないようだった。だが近隣のコンビニやスーパーには、神戸から大勢の被災者がスクーターで買い出しに来ており、街は騒然としていた。
 元監督は僕とのミーティングの前に、地元支持者だか誰かと打合せをしていたようだ。そのとき、客が「いま市役所(?)へ行くと、誰でも見舞金がもらえますよ。しかも無審査で。“棚が落ちた”とか言うだけでいいんです」と言った。市役所、だったか他の機関だったかは忘れたが、その地域では公共機関から住民へ臨時の見舞金が出ていたのだ。
 元監督は言った。
「そうか、そりゃええ。くれる言うもんはもろときゃええわ。みんな行け行け」
 僕は耳を疑った。つい先ほど、事務所は被害がなくて良かった、という挨拶を交わしたばかりだったのに。元監督の言葉は、お金をもらえるなら少々の嘘はかまわない、と聞こえた。
 後に元監督は与党から比例代表参議院選に出る、と言ってきた。僕はあの日吹田市の事務所で聞いた言葉がずっと頭から離れず、割り切れないものを感じた。本の企画は面白くならず、迷走していた。
 やがて社内の企画会議で、社長が「こういう企画はどうかね」と難色を示し、企画は流れることになった。僕は少しホッとした。元監督側には「選挙に当たっての売名になるといけないのでペンディングにさせてください」と曖昧な言い方で断りを入れた。普段は、こうした打ち切りを通告するのはイヤだし、どうせ言うならもっとはっきりとした物言いをしたいのだが、今回は別だった。どんな言い方でもいい、いや無言ででもいい、早く縁を切ってしまいたかった。
 痛恨だったのは、この企画のために原稿をリライトし奔走してくれたサッカー専門ライターの方への報酬だった。仕上げてくれた原稿の分量だけ原稿料をお支払いした。労力の割に些少にしかならず、本当に申し訳なかった。


 もう一つ印象に残っているのは、これまた古い話だが、会社を辞める時にブログが本になり、ネットの一部で話題になったとき、映画批評家町山智浩(公人なので敬称は略します)からこうツイートされたことだ。昔のエントリにも書いたけど。

「リストラなう」の著者は■■社の経営改善のためにリストラされたが退職金が5200万円だった。また彼は病気により、ほとんど生産高がなかったが年収は 1300万円以上だった。大手出版社や放送局の現場はフリーに依存しているが不況下では最初にそこから切る。派遣切りと同じ問題がそこにある (10月27日1:40AM @TomoMachi)

 ■■は僕の恣意で伏せ字にした。
 このツイートの後段は、町山が昔から一貫して言っている主張であり、僕にも異論はない。しかも、フリーになり、自由自在に切られる立場になった僕は今、言ってみれば町山と同じ側に立っている。だが、彼にはそうは見えなかったのだろう。それは全然かまわない。
 だが前段には、間違った情報、虚偽の情報が混じっている。どこで聞いてきたのか知らないが、嘘を交えた情報を町山に流していた人がいたのだろう。
 僕が悲しく思ったのは、「彼は病気により、ほとんど生産高がなかったが」のくだりだ。僕が病気で会社を休んだのは2001年のことだ。そんな昔のことを言いつのる人がいて、それを劣化コピーして吹聴する人がいる。これじゃあ、いま病気になった人がいても怖くてカミングアウトできないじゃないか。病気になったのは、本人のせいか? 本人の生活習慣によるところもあろうが、それを追及して自己責任化すべきことなのか?
 国籍や肌の色で人を分け隔てしてはいけない、とは町山が一貫して言っていることだ。その主張からあまりに離れたトーンの言葉に、僕は目を疑った。
 もともと町山智浩の作った本、書いた本・記事、ブログもポッドキャストも大好きだった。情熱的で、かつ冷徹で、厳しく、温かい映画批評が大好きだった。だからこそ、この一件は僕を狼狽させた。あんなに聡明な彼も、こんな妄語を吐いてしまうことがあるんだ……と。
 いま改めて思う。町山のツイートは、一番の力点は「出版社の構造」にあったにもかかわらず、傍証として出した「退職金5200万円」「年収1300万円」という数字があまりにも重く、本来の主張がその重力に引きずられてしまったんじゃないか。と。
 彼が出版社を辞めたときはそんな退職金はなかったろうし、給料だってそれほど多くはなかったろう。そして、仕事は僕がいた出版社の誰よりも懸命にしてただろうし、何より段違いに面白い仕事をしていた。僕は彼の仕事の大ファンだったし。その矜持が、そのルサンチマンが、彼にこういう言葉を吐かせたのではないだろうか、と思う。だが、不用意な言葉を挟んだために妄語になってしまった、と残念に思うのだ。

 ちなみに、2012年現在の僕は、「派遣切り」を指弾する気はまったくない。どんどん切るべきなのだ。そうしないと、次の産業が勃興するチャンスが得られない、次の仕事口が生まれない。僕が働く順番が回ってこないから。切らなきゃやっていけないのに無理して切らない、というのは美談でもなんでもない。共倒れを選ぶという愚行だ。
 僕が働いていた■■社は、社外スタッフや著者・ライターさんへの待遇が、篤い。業界的にはかなりの高水準で篤い。少なくとも僕がいた2010年まではそうだった。週刊誌には、その週まったく原稿を書かなくても、拘束料とか専属料みたいな形式でギャラが支払われる外部ライターがいた。何十年も働いている古株の記者たちがいた。
 それは、外部スタッフもファミリーのように遇するという、創業時からの遺風だった。だが、そのせいでライターの世代交代が進まず、魅力を失ってしまった媒体が多々あった。
 決して高額ではないかもしれないが、かといって低くもない報酬がフィクストでずっと支払われる職場である。そこからフリーの人間が、「やっぱよそに行ってみよう」と足を踏み出せるか。出来はしない。その結果、老齢ライターの溜まり場のようになってしまった。
 いま僕は会社を離れたので週刊誌の現場がどうなっているか知らない。だが、きっと、改革をしたに違いないと思う。働いてない人にもギャラを支払うようなことは止めたはずだ。そんな“美風”を続ける体力はもうないし、共倒れへの途、百害あって一利なしとわかっただろうから。
 だが、ギャラを受け取っていた側は、「これも派遣切りと同じだ」と思うのだろう。


 そして、この度の「次長課長河本準一の母親が生活保護を受けていた件」である。
 これ、僕は河本準一(公人なので敬称略す)本人にはまったく興味がないし、ああ岡山か、ほぼ同郷だな、と思うくらいで思い入れもない。だが、ネットでこの件を巡って書く人たちには興味がある。とくに、河本けしからん!、と自信をもって書く人たちに。
 いったいどんな人が、この件を「けしからん!」と指弾しているのだろうか。

 推測するに、月給取りで、それまで失職や失業状態を経験したことのない人、あるいは酷税の標的にされる経営者、従業員の社会保障を負担させられる理不尽に憤っている経営者、といった人たちが、ブログ論壇で気炎を吐いているように見える。
 今日ただいま生活保護を受給していて、「河本母は稼ぐ息子がいるのに受給していたとは、許せない!」と言ってるような人は、僕は寡聞にして知らない。誰か、そういう発言を見た人、ぜひ教えて下さい。生活保護の当事者たちが、この河本準一一件をどう思っているか、僕はすごく知りたい。

 誤解を恐れず言ってしまおう。河本一件で怪気炎を上げている人たちは、生活保護なんかとは無縁の、お気楽でおめでたい人たちではないか? ただ単に、「自分は額に汗して働いてこれだけしかお金をもらえないのに、働かずに金をもらうなんて、許せない!」と思い込んでるだけではないか?
 生活保護など、“働かずに役所から金を恵んでもらう”状態がどんなものか、知らない人が、乏しい想像力で言っているのじゃないか?


 僕には生活保護の経験はないが、失業給付を受給した経験がある。一カ月約20万円、会社都合退職だから即時支給、勤続20年以上だから330日有資格、だった。働かずに220万円を受け取れる、という制度である。
 これが、本当に苦痛だった。僕はこの、毎月ハローワークと転職相談所に通うだけでお金がもらえる、働いたら資格を失う、という宙ぶらりんの状態に耐えられなかった。
 結局、僕は200日弱を受給したところで先述の在宅仕事をやることにして「仕事があったので失業手当は要りません」と申告した。ハローワークは「じゃあ、残った有資格分のうち、ン割を就職が決まった一時手当として支給します」と、最後にもうひと月分くらいを振り込んでくれた。僕はその金でPCを買い、仕事用に使っている。
 始めた仕事はほんとうに金にならず、月々数万円の報酬という時期が続いた。今はだいぶ回復したが、それにしたって月間収入は最低賃金レベル、失業給付の足元にも及ばない。貯金を切り崩して使っているから生活は普通レベルだけど、キャッシュフローでは間違いなくワーキングプアである。
 だが僕は後悔はしていない。黙っていればあと数十万円ももらえるのに、途中でそれを投げ出す、という決断もけっこうなストレスだったが、その前に、何もせずに金を恵んでもらうストレスにやられて、ダメになるところだったから。あの状況から抜け出せただけでも御の字である。
 将来のことは不安だ。貯金は有限だし、また病気だってするかもしれない。一時は、就職してまた月給取りになったほうがいいかも、と思っていたが、今は考えを変えた。しばらくこうしてみる、と思っている。何より、誰にも気兼ねせずに生きられるのは、楽しい。自分で決めたことだから。

 ひるがえって、“金を恵んでもらう”ことのストレスを克服し、そこに胡座をかくことができるようになった人たちの人生はどうなのか。僕は知りたい。だが、僕の乏しい想像力では、彼らの生活が楽しいようにはとても思えないのだ。パチンコしたり酒やタバコでストレスを紛らわさなくては生きていけないくらい、辛い暮らしなのではないか。――働かないことは、それ自体がストレスだと、彼らは身に沁みて知っているはずだ。
 ネットには、生活保護のことを「ナマポ」と呼び、「ナマポ受給者はパチンコ・酒・タバコを禁止にしろ。家も出させて、収容所に入れろ」などと主張する人がいる。僕は、「ナマポ」と言う人のことを信用しないし、軽蔑する。ぬるま湯のような自分の暮らしに飽き飽きし、かと言って何処かに足を踏み出すこともできず、ネットで安全なところから石を投げているだけの、愚かな人たちだ。くだらないことだ。
 みんな、お金のこととなると、理性を失っているのだ。

 そして、河本準一一件の一番のキモは、河本準一の最近の年収が5000万円だかなんだか非常に多額だった、なのに、という点じゃないか。河本母の生活保護受給、ではなく。「年収5000万円」という、不確かな、眩しい数字に、みんな目が眩んで、妄語を吐いているのではないか。
 人間は、お金のこととなると、理性が激しく揺らぐものだ。

 一番心配なのは、この一件で、不正受給・不適格受給は減らさねばならない、という国民的合意が形成されそうなことだ。もしそうなると、生活保護を職掌する役所の人たちが、恣意的に厳しいハンドリングを始めるかもしれない。不正受給・不適格受給を放置すると、支給主体までが叩かれる。そう思いこみ、少しでも規定に外れる申請は却下却下するような、厳しい運用をしたら、どうなるか。
 生活保護が必要な人たちの実態のうち、規定にぴったり当てはまるものがどれだけあるか。DV夫からやっと逃げのびた主婦が生活保護を申請したら、「家に帰って旦那さんに扶養してもらってください」と言われた、という話を読んだことはありませんか? 不正と不適格、適格の境界は見えにくい。窓口の御役人は、いつも厳しく微妙な判断を迫られている。
 僕は、不正受給なんて減らそうとしなくていいと思っている。不正受給なんて、プログラムにおけるバグ、書籍雑誌の誤植みたいなもんで、なくそうたってなくなりゃしない。むしろ、不正を根絶しようとして適格な人・援助の必要な人を追い返す危険のほうがよっぽど大きい。
 むかし僕はサッカー元監督の言辞に激しい嫌悪をおぼえたが、制度的にはあれでいいのだ。少々のグレーゾーンは見過ごすつもりでないと、本当に必要な人のところに届かないからだ。倫理と制度は別のものなのだ。
 不正受給の追及は、公共の福祉に資するところが(さほど)大きくない。人間の幸せを増大させない。せいぜいが、自分を愚かだとまだ気づいていないネット論者の鬱憤を晴らすだけで、世界を良い方向へ前進させるものではない。
 人間は、お金のこととなると理性を見失う。
 正しいと思い込んだことが、往々にして誤っていることがある。
 お金の魔力にやられて、正しいと思い込んで主張していることが、いつの間にか歪んでしまっている。

 もし問題を立てるなら、お金を恵んでもらう、という状況を、本人たちが進んで跳ね返すことができるインセンティブを設計し、制度化することだ。
 あなたは、自分が生活保護なり失業給付なりを受けるようになったとき、進んでそれを返上することができますか? 制度的には支給OKと言われ、受け取る受け取らないはあなたの決断一つに委ねられたとき、どんな決断ができますか?
 人間は、お金という魔物の前には、ずいぶんと無力な存在だ、と知る人が、増えてほしいと思う。
 河本準一一件に、ドヤ顔で怪気炎を上げることの愚かさを、知ってほしいと思う。

坐禅アプリ「雲堂」は、非常に実用的、かつ禅的

 自宅で坐禅するとき、iPhoneのタイマーを終了時間にセットしていたのだが、あのいつもの木琴の音色で坐禅を切り上げるのは非常に無粋でイヤだった。梵鐘や木版の音がネットのどこかにないか、探してみたけどなかなかいいのが見つからない。
 そしたら、つい先日、アプリ「雲堂」のことを教えてもらった。テレビのニュースで取りあげられたらしい。
 坐禅アプリ「雲堂」(プレビュー)

 これは、言ってみれば、坐禅専用のタイマーである。セットした時間になると、静かな梵鐘の音がして、アプリが動作を止める。ただそれだけ。
 坐禅の始まりに「準備音」として木版や坐り方指導の音声も入っている(この声はオフにもできる)。
 あと、警策(きょうさく)の機能がついててiPhoneがブルッと震える、と聞いたのだが、どうすればそうなるのか僕にはわからない。ほんまかいな。

 僕の要求水準は非常に低くて、「坐禅の終わり際に、静かな音で終わりがわかるタイマーがほしかった」だけだった。だからこのアプリには非常に満足している。
 YouTubeの解説ビデオにリンクしていたり、Twitterに「坐禅を始めました」とつぶやける機能が付いてる(なぜか僕のアカウントでは認証できない)けれど、まあこういうのはどうでもいい。あと、どっかのサーバと通信してて、「(このアプリを使って)24時間以内に全世界で坐禅してる人の人数」がわかるようになっている。
 けど、こんな機能はすべてどうでもよい。作った人もそれは十分承知しているらしく、これらの機能は「あくまでオマケ」というデザインになっている(累積坐禅時間のカウントとか、かなりいい加減だ。結構)。
 基本はあくまでもただのタイマー、余計なものはついてない、という、設計からして禅的なアプリだ。

 傑作なのは、アプリの説明だ。

さあ、全てを棚に上げて雲堂(修行僧の坐禅堂)に坐りましょう。
ゆったりした呼吸で坐禅開始の心地よい鐘の音を聞いて下さい。

「すべてを棚に上げて」、である。
 そう、坐禅って、日常の諸々を棚に上げる行為なのだ。それ以上でも、それ以下でもなく。
 坐禅してます、と言うと何か良いこと、素晴らしいこと、他人がめったにしないことをしてるような、祈りを捧げているような印象を持つ人はいないだろうか。僕はずっと以前、参禅する人を見ると「奇特なひとだ」と思っていた。
 実は、そんなことはなくて、坐禅というのは身体を休めることであり、エクササイズの一種であり、利他的なことなんてなーんにもない、きわめて利己的な行為なのだった。
 恐山の庵主・南直哉師はよく「坐禅とは心身を休めること、休憩」と言っておられるが、ほんとそうだと思う。それ以上ではない。高名な故・沢木興道師は「坐禅をしても何にもならん」と言っておられたそうだが、それもそうなのかもしれない。せいぜい「気持ち良かった」と思えるていどで。
 でも、それが良い。

 このアプリはリリースされてもう一年以上になるらしい。Android版も出たそうだ。毎度僕は情報が遅いのだけど、これは良いものを教えてもらった。今朝もとても気持ち良く坐れた。作者に感謝したい。

 あと、坐禅のやり方については、丹波の山奥の禅寺「安泰寺」のwebサイトが優れている。ここのご住職・ネルケ無方師はドイツ人だからか、理詰めで坐禅に取り組んでおり、日本人の禅僧よりも教え方が腑に落ちる。たとえば結跏趺坐の組み方なども、「なぜ結跏趺坐なのか」「どう組むべきなのか」「右足が上に来てもいいのか」など、日本人が教えてくれないことにいちいち言及している。好きです。そして役に立つ。

docomo運用のiPhoneで、moperaU公衆無線LANにつなぐ

 moperaスタンダードには「moperaU公衆無線LAN」というサービスがあって、某2ちゃんの該当スレで「公衆無線LANはタダだよ」とおしえてもらったのでさっそく契約してきた(来年3月いっぱいまでタダとの説)。

 ちょっと繋ぎ方にわからないところがあったので、自分のためにメモしておく。

※まず、あなたの手元にはAPN「mopera.net」で運用中のiPhoneがあるという前提で。

1.近所のdocomoショップに行って「モペラの公衆無線LANつけてください」と頼む。テンキーで電話番号をたたき、名前を書き、ネットワーク暗証番号もたたきましたね。
 ものの数分で「各種ご注文申込書」をプリントしてぺろっと渡される。この注文書にはmopera U公衆無線LANのSSIDとWEPキーが記されている。
2.もうちょっとすると、あなたのiPhoneにSMSが届く。

mopera Uへようこそ>
下記サイトより追加オプションのID等をご確認下さい。
http://start.mopera.net/

 このリンクをタップして、初期設定を始める。
 この初期設定を経なければ、ユーザIDも、パスワードも、ゲットできないので、重要です。

3.念のため、iPhoneWi-Fiをオフにする。3Gの電波を掴んでることを確認する(つまり、mopera.netのアクセスポイントに繋がってるという状態です)。
4.リンク「http://start.mopera.net/」をタップする。
 mopera Uのwebサイト「初期設定ログイン」が出てくる。
 ここで「ネットワーク暗証番号」を入力。さっきdocomoショップで入力したやつです。

5.ページが遷移して「ユーザ情報表示」になる。
 初めてアクセスしたときは、「基本ID」「パスワード」は無意味文字列になっている。これを、自分なりにカスタマイズする。右端の「変更」ボタンをおせば、IDもPWも自分の好きなものに変更できる。
 下の方に、「U「無線LAN」コース設定」とあって、さっき紙でもらった「SSID docomo」「WEPキー xxxxxxxxxx」と同じことが載っている。そのさらに下には、「Mzoneローミングエリア」として、「SSID mobilepoint」と「WEPキー」が載っている。どうやらSoftBankの公衆無線LANサービスにもローミングできるらしい。これは便利なのでメモしておいて、マクドナルドに行ったときに試してみよう。

6.docomo無線LANは駅とかにある。実際にログインするために移動する。
 もっとも、あなたが契約したdocomoショップにも必ずあるので、そのまま待合室の椅子に座って設定を開始してもいい。

7.iPhoneWi-Fiをオンにする。すぐに「docomo」という電波をつかまえるはずだ。
Wi-Fiネットワーク」画面で「docomo」をタップすると、パスワード入力を要求される。
 ここでは、「WEPキー」を入力する。
 これでとりあえず、Wi-Fiの電波マークが立ったと思う。でもまだ使えない。ユーザ認証が済んでないから。

8.safariを起動し、適当なブックマークを開く。しかしそこには飛ばないはず。赤っぽい画面の、「docomo Wi-Fi ログイン画面」になる。
 ここで、さっき自分好みに設定し直した「ユーザID」と「パスワード」を入れる。
 これで完全にdocomoの公衆無線LANに繋がった。

 ちなみに、このサービスはスマートフォンだけじゃなくてパソコンやiPadでも使える。たしか図書館にもdocomo公衆無線LANは来ていたはずなので、次に行ったときはiPhoneテザリングではなく、この無線LANを使ってみよう。
 ただし、iPhoneとパソコンは同時に同じ無線LANは使えない。「二重ログイン」になるからだ。現在ログイン中の端末で例の赤い画面に行って「ログアウト」しないと、別の端末は使えない。ログイン中の端末の電源を切る、Wi-Fiをオフにする、などではログイン状態は解消されないので注意。


 この一連の手続では、初めて「http://start.mopera.net/」にアクセスするあたりがちょっとハードル高い。必ずアクセスポイント「mopera.net」に繋がった状態でないと、ネットワーク暗証番号から先へ進めないからだ。そこがわかんなかったので、僕は自宅で、自分ちのWi-Fiに繋がった状態で「ここから先に行かないにゃあ」などと悩んでいたのだった。バカである。

 docomoは3Gは遅いけど、公衆無線LANSoftBankのやつより快適な気がする(気のせい?)ので、まあまあ満足してます。

他人の「映画ベスト100」に勝手なコメントをしてみる

 尊敬するブロガー、teruさんが「私の映画ベスト100」というエントリを書いていた。知ってる人が挙げた私的な映画ランキングは、「世界中の人にアンケートを採ったベスト100」なんかよりずっと興味深い。
 だいたい、僕は偏屈で自我が肥大した困ったちゃんなので、「今年の映画ベスト10」とか挙げられても興味もないし見たこともない、ということが多い。それでいて数年後にTSUTAYAで借りて観て感動したりするのだから、バカである。
 つまり、他人のことにはあまり興味がないのだ。だけど、知ってる他人のことには興味が湧くのを抑えられないものだ。だから他人の「私の映画ベスト100」を見ながら、横から勝手なコメントをしてみたい。

 なお、teruさんのベスト100は「監督は一人一作」という大変窮屈なルールになっていることをまず断っておく。

◆teruさんのベスト
1位「地獄の黙示録」……同意。実にいい映画だと思う。難解な後半について、「ブランドが太って現場に来たから苦肉の策でああなった。意図したもんじゃないし傑作でもなんでもない」という言い方があるけれど、「だから?」と逆に訊き返したい。十分面白いし魅力的だし、高校生の時見たけどよく納得できたけど。あれから三十年、見る度に発見があって好きだ。「ゴッドファーザー」もすごい映画だけど、コッポラで1本というとこっちになるのはわかる。

2位「地獄に堕ちた勇者ども」。ごめん。ヴィスコンティ見たことないっす。これに限らずヨーロッパ映画は疎いっす。語ダールもよく知らない(一、二度見たけど面白さがわからなかったような気がする)。劇場を間違ってテオ・アンゲロプスが上映されてるとこに入ったことがあって、これは驚くほど苦痛だったけど意外に面白かった、とも思った。でも自分から見ようとはなかなか思えない。

3位「愛の嵐」。ごめん、これも見てない。

4位「地獄の逃避行」……同意。ただ、テレンス・マリックなら「シン・レッド・ライン」の方が好きかな。マリック作品は「困ったことになってにっちもさっちもいかなくなった人」が頻出するけど、「シン・レッド…」は戦争という巨大公共事業の現場で様々な人が困る様が非常に面白い。また、自然も、日本兵の描写も美しい。なお「地獄の逃避行」は原題「Badlands」、スプリングスティーンも同じ題の歌を歌ってるけど、聖書の言葉を忠実に映像化した、アメリカらしいといえば“らしい”映画なのだった。

5位「ガルシアの首」…は未見なのだけど、ペキンパーならなんで「ワイルド・バンチ」じゃないのかな? 玄人好みなのかな。ところで関係ないけどトミー・リー・ジョーンズ監督作「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」はご覧になりましたか? こういうの、ペキンパーの影響ってないですかね。ところで僕はこの「メルキアデス…」は未見だけど、ショーン・ペン監督作品とか、有名俳優が小さなアートっぽい映画を撮ると、たいがいものすごく地味で、自分が仕事で出るような大仕掛けな映画には絶対ならないんだけど、それはなんでかなー? 制作費が小さいってだけじゃないような気がする。

6位「時計仕掛けのオレンジ」、好きですねー。キューブリックで僕が好きなのは「博士の異常な愛情」ですが(あの妙に勇ましいマーチと、エンディングの曲が好き)、「時計仕掛け」の音楽もいい。「スイッチト・オン・ベートーベン」だったかな? 第九の電子音楽とか、ウィリアムテル序曲とか、本当に失礼な使い方だと思う。パンクだ。

7位「天国の門」。長くて退屈な映画だったなー。「ディア・ハンター」も長くて退屈だったが。だけど、他人の宴会とかを覗き見するのは意外に面白くて、そういうシーンは大好き。

8位「ヘカテ」。フランス映画か−、1983年日本公開だから、学生時代によく行ってたフランス映画社の出張上映会にかかっただろうから、まかり間違ってれば見てたかもしれないが、今となってはなかなか縁遠いな。こういう作品のDVDはTSUTAYAにはないし。HMVは…もうないか。紀伊國屋書店ジュンク堂の映画書売り場にあるんだろうな。

9位「ロンググッドバイ」、ごめん、僕チャンドラーとかも読んでないし、面白さがよくわかんない。基礎教養の単位をゲタ履かせてもらって取ったようなもんだね。映画も当然未見です。

10位「許されざる者」…そうか、監督一人一作ならこれになるのか。僕はイーストウッドならつねに最新作が一番好きだな。そして僕はレオーネ作品もシーゲル作品も全然興味ないな。「ダーティ・ハリー」ってそんなに面白いか?と思うし。だけど、イーストウッド監督作は面白いと思う。最初に好きになったのは、たしかに「許されざる者」だったかもしれない。

11位以下は、知ってるやつだけにコメントつけることにします。
仁義の墓場」、そうか、深作欣二だとこれか。菅原文太出演作じゃないんだ。わかるけどね。僕は「仁義なき戦い代理戦争」か「新仁義なき戦い組長の首」が好きです。

「肉体の悪魔」、ケン・ラッセルって変な人だよね。僕が映画をよく見てた80年代は、「アルタード・ステーツ」「クライム・オブ・パッション」にみんなで夢中になってた。そして同時期に台頭してきたのがデビッド・リンチだ。ラッセルの打席の次にリンチが代打に起用され、大事な局面に凡打(「砂の惑星」)だったけど物凄く強い印象を残した、という感じ。後にリンチは大ヒットを連発するわけですが。

ブルーベルベット」、そうですね、わかります。僕が好きなのは「マルホランド・ドライブ」ですが。なぜって、こっちのほうが謎が解けたときの快感が大きいから。「ロスト・ハイウェイ」もいいですね。リンチ作品から僕はデビッド・ボウイルー・リードなどの、なんというか、アートなロックの気持ちよさを教えてもらった。

「タクシードライバー」、これはスコセッシ監督作というより僕の中ではポール・シュレーダーの作品だ。シュレーダーは変な人だと思う。不眠症だから深夜タクシーの運転手になる、なんて、寝言もいい加減にしろって感じの設定ではないですか? ただ、戦争から帰ってどう生きていいかわからない若者の感情には共感できる。ただし、作品内でトラヴィスが帰還兵であることは明言されていない気がする。それどころか、彼には妄想癖や虚言癖があるみたいなので、単なる引きこもり青年だった可能性もある。そう思って見直すと、とても今日的な映画に見えるよーな気がします。

「アメリカングラフィティ」、ルーカスだとこれですか! お見それしました。まあ、僕も「スター・ウォーズ」は興味なくて、1作目しか見てないんですよね。「アメグラ」は何度も見てます。あのポール・ルマットのようなかっこいいアンちゃんは、すべての田舎町に一人ずつそっくりな人がいたような気がする。もちろん僕が過ごした岡山の街にもいて、そこでの彼はラッキーストライクをTシャツの袖にたくしこんでギターを弾いていた。普遍的なことを描いた大切な映画だ。

「レザボア・ドッグズ」、舞台があまり移り変わらない、閉ざされた安っぽい画面の、演劇的な映画でしたね。このほうがタランティーノの話芸が瑞々しかったと思う。僕は使われている音楽の好みで「パルプ・フィクション」が好き。

惑星ソラリス」、上京して、初めて首都高赤坂ランプあたりを通ったとき、あまりにも映画そっくりでびっくりしました。というか、あれを「未来都市」として映画に登場させたタルコフスキーも変すぎる。僕は「ストーカー」が好きだけど、何度も見たわけじゃない。

「恋恋風塵」、これ見てないんだよね。ホウ・シォオシェンだと画面は「非情城市」、筋は「風櫃の少年」が好き。

「けんかえれじい」、前半の舞台が岡山なので大好き。僕はこれ、岡山のライブハウスに鈴木清順を招いての上映会で見た。今思えばなんて贅沢な鑑賞環境か。しかし同時上映の「殺しの烙印」があんまりにも退屈で、しかも監督本人がすぐ近くにいるので文句も言えず困った。「けんか…」はもっとも大事な「226事件以後」がばっさりと描かれないところがいいですね。勝手に想像できて。

灰とダイヤモンド」、高校で一級上の人たちが映画研究会を作り、その発足記念上映会で見た。たぶん自治体が所有するフィルムを借りての上映会だったと思う。田舎の高校の寒々しい小講堂という、今思えば良い鑑賞環境であった。社会主義レクリエーション施設みたいで、映画の中と外との境目が曖昧な錯覚を覚えた。

「チャイナタウン」、ほんと思うのだが、僕にはハードボイルドなどの教養が決定的に欠けている。また、見てもよくわからないというのが情けない。でもテーマ曲は好き。
「L.A.コンフィデンシャル」、これは好き。警察の内部監査ものだからかな、僕が好きなのは。小池和夫原作の漫画「サハラ」(画・平野仁)の後半にもNY市警の内部監査ストーリーがあって、なかなか読ませるんだけど、みなさんご存じでしょうか。内部監査ものって、当事者間のストレスが最大になる設定だと思います。

「ミラーズクロッシング」、コーエン兄弟ですよね、でもこれはダメでした。あとトム・ハンクスの「ロード・トゥ・パーディション」もてんでダメだった。つまり僕は「子連れ狼」の系統はダメなんだな。様式美っていうのは一つツボが違うと陳腐の連打連打、に感じられてしまうのかも。

去年マリエンバートで」、これ何が面白かったのかさっぱりわからなかったけど、上映されたライブハウスを出たら雨が降っていて、むちゃくちゃ興奮してたことを覚えている。あんまり興奮したので当時好きだったサークルの先輩女子の下宿に電話して告白して振られ、濡れながら歩いて帰った。とても気持ち良かった。今思うと相手に迷惑だったな。

ジョーズ」、スピルバーグが出てこないなーと思ったら、これですか! そうかー。僕はスピなら「続・激突!カージャック(シュガーランド・エクスプレス)」が好きです。スピルバーグは他人への共感に難のある人なんじゃないかと思うけど、これは素朴に素敵。

ストレンジャー・ザン・パラダイス」、僕の周りでも流行りました。でも流行り物だったな…。「ゴースト・ドッグ」(1999)とか、作者の衰えを感じて切なかった。
俺たちに明日はない」、これも奇妙な映画ですね。ジーン・ハックマンの存在がとくに奇妙。家族関係が猥雑で、背徳的に見えるのかな。見ていて落ちつかない映画でした。でもここには米国の何か真実が描かれているような気がした。
サスペリア」、大好きです。主演のジェシカ・ハーパーはこれと「ファントム・オブ・パラダイス」のせいで僕的には崇拝対象です。ゴブリンの音楽もいい。美術もいい。映画の筋は真剣に見るとへぼい。それも好き。

東京物語」、広島県人が見ても不自然なところのない笠智衆東山千栄子、人情の薄い杉村春子たち、カツカツのひとり暮らしがグッとくる原節子……どこを取っても素晴らしい映画ですね−。この中で苦労知らずなのは香川京子だけか。原節子の二の腕が非常に色っぽいですよね。それにしても尾道と福山は隣町なのにずいぶん全国的なイメージは違うよね。ていうか福山のイメージってないよな。最近だとラブホ火災だけど、それ以前に福山に何かのイメージを持っていた人っているのだろうか?

市民ケーン」、小学生の時、チャールズ・シュルツ四コマ漫画集「ピーナツ」でネタバラしを目にしてしまい、結果的に今日まで見ずに来てしまいました。シュルツはひどい人だと思います。

 ということで、teruさんのベスト100にインスパイアされ、尻馬に乗った僕のコメントは終わりです。僕は自分のベスト100を挙げられるほど記憶が整然としてなくて困るのですが、ここに挙げなかった映画のことをまたいつか書いてみたいと思います。
 

SIMフリーのiPhone4S、docomoでの運用顛末(付・Androidへの愚痴)

 結局、またiPhoneを買うことにした。だけど、docomoAndroidSoftBankiPhone両方に使用料を払い続けるのはもううんざりなのだ。
 機械は圧倒的にiPhoneが良い。それはもう、Androidを一年半使って身に沁みてわかった。Androidは面白いけれど、いつまで経っても未完成のOSだ。将来そこそこに完成されるという見込みもないし、手元の機械はアップデートすらされない(一度機会があったが不自由になるのでしなかった)。山ほどある欠陥は積み残しのままだ。面白いやつだけど、もう付き合いきれない。
 SoftBankは、最近ではキャリアとして使い勝手が良くなった。以前は新宿や渋谷で繋がらないことがあったが、最近ではむしろ表参道駅docomoが繋がらないなど、回線の輻輳具合はどっちもどっちな有様だ(auは知らない。ごめん)。そしてSoftBankdocomoよりPINが速く、下りスピードも出ている気がする(体感で、です)。だけど、僕の通話やSMSの相手はみなdocomoなのだった。SMSはキャリア間をまたげるようになったけど、異キャリアへのSMS送信は1通3.15円かかるので、チャットのように使ってしまうと瞬く間に30円とか百円費消する。……失礼、docomoはすべてのSMS送信が3.15円なので、docomo同士でも金はかかるのだった。こんなの気にしてもしかたない、ってことだね。ちっ。
 いろいろ巧い手を考えるのは面倒なので、もういっそ「iPhonedocomoで使う」ことにした。

SIMロックフリーiPhoneをネットで買う
 手元にあるSoftBankiPhone3GSは古いし、筐体にヒビが入っちゃってるし、そもそも他キャリアでは使えない(たぶんこれを「SIMロック」というのだ)。だからまず、SIMロックフリー(一般にはSIMフリーと略す)の端末を手に入れなければならない。
 さっそく検索する。「iPhone docomo SIMフリー」で検索すると、先輩諸賢のノウハウがいろいろ出てくる。僕はYahoo!オークションで買うことにした。iPhone4sの黒・32GBを6万円台後半で見つけた。(失敗その1。後でXpansysという通販サイトで、もう少し安く売っているのを発見した。こっちで買えばよかった…。賢明なみなさんはそうして下さい)
 また、何年もヤフオクを使っていなかったので当時のアカウントのパスワードを忘れてて、新しいアカウントを作ったり、何万円もする出品を落札するためのプレミアム会員になったり、いろいろ面倒だった……送料が2000円かかるので払った金は7万円ほどになった。我ながら非効率である。まあ、気持ち良く取引できたからいいや。

◆せっかくキャリアを選び直す機会なのに
 次に、SoftBankを解約した。ここで、契約解除料9975円也を取られた。「しばらく待てば解除料がかからない時が来ますよ」と言われたが、それは僕の場合2013年の年末なのだった……僕は2009年の暮れにこのiPhoneを買った。2年経ったところで解除するタイミングがあったのだが、それを逸したので1万円ほど取られたのだった。
 ここで失敗その2。SoftBankの番号を持ってdocomoMNPする手があったのだが、うっかりして番号を破棄してしまった。十数年使い続けているdocomoの番号を使う、と決めていたため、「MNPにはdocomoから多額のキャッシュバックがある」ということを忘れていたのだ。MNPdocomoが今売りたがっているタブレット端末などを買い、そのマイクロSIMdocomoの言い方だとminiUIMカードか)をiPhoneに流用すれば、毎月購入補助だのなんだので3000円くらいのキャッシュバックがあったらしい。その場合端末を即金で買う必要があるが、端末はオークションで売り払って換金すればいいわけだ。世間の人は世知に長けてるしマメだなー、と思うのだが、自分にはそんなことは面倒でとてもできないのだった。オークションは一件落札しただけでもう満腹だよ。

◆実機の開封とアクティベーション
 そうこうするうち、香港から国際郵便で新品のiPhoneが届いた。ヤフオクの人は香港で買ったiPhone4sを転売しているのだ。検索すれば出てくるけど、他社キャリアで使うのは香港版のiPhoneが一番いい、という意見がある。外国のiPhoneを日本で使う場合、正式国内リテラーから買ったものではないので新品保証もないしAppleCareも購入できないけど、香港版なら万が一のときはアップルストアに泣きついて有償で修理できるかも、というのだ(週アスplus)。またオーストラリア版などは購入して半年とか経過しないとSIMロックを解除できないなど、不自由な規定がある。僕は香港より台湾やシンガポールに馴染みがあるのでそれらの国版はどうかと思ったが、日本でキャリアを超えてiPhoneを使う人はほとんど香港版を買っているらしい。そういうわけで僕が買った転売屋さんも香港版でした。

 新品のiPhoneは、アクティベートしないと使えない。これは知っていた。だが僕は、世間の人たちがアクティベーションにどんだけ苦労しているかはまったく知らなかった。
 香港から届いた小さな小包を開けると、白くてお洒落なiPhoneの箱だけじゃなくて、もう一つ荷物が入っていた。小さなホチキスのような文具?だ。何かというと、「マイクロSIMカッター」。iPhone4以降のSIMは普通のSIMより一回り小さいので、こういう器具でSIMを切ってやって使うらしい。
 ……でも僕は、docomoから正規のマイクロSIMを発行してもらって使うつもりだから、こんなもの要らないよ、と思っていた。余計なものが入ってたなー、と。
 だが一瞬後に、それがそうじゃなくて、あるとすごく便利なんだ、ということがわかった。
 つまり、自分でiPhone4sをアクティベートするために、手元にある適当なSIMを切って使うのだ。これがないと、手元でアクティベートできない。
 docomoショップでマイクロSIMを発行してもらう際には、「技適マークを見せて下さい」などと言われるらしい。iPhone3GSの技適マークは背面にプリントされているから問題ないが、iPhone4以降は「設定>一般>情報>認証」を使って画面表示させる。画面表示させるにはアクティベーションしないとダメ。でもアクティベーションに使うマイクロSIMdocomoさんのお許しを経ないと発行されない……では堂々巡りで何もできない。docomoでのやり取りをスムースに運ぶために、手元でアクティベートするのが理想、と。
 手元には2枚のSIM。先日契約を切ったSoftBankiPhone3GSの黒いSIM(もう動かない)と、docomoFOMAの白いSIM(まだちゃんと動いてるよ)。さて、どっちかをパンチしてマイクロサイズにしてしまうか……。当然、もう動かないほうをパンチすることに。まだ契約中のものを破損したら面倒だしね。
 カードを丁寧に固定し、机に置き、ちょっと重いホチキスみたいなハンドルをしっかり押し込むと、「ばきっ」と言って黒いSIMがきれいに抜けた。ちょっと切り口にバリが残ったが、ナイフでちょいちょいと整えて、iPhone4sのSIMトレイに載せて入れてやった。
 電源スイッチを入れると、しばらくして「アクティベートするかい?」みたいなメッセージとともに言語や地域を選択するメニューが出て、アクティベーションが始まった。
 アクティベーションとは、端末が動き始めるよ、ということをAppleに知らせ、許しを請うことだ、と僕は理解している。アクティベーションは、Wi-Fiかネットに繋がったiTunesのある環境で行う。つまり、目覚めたばかりのiPhoneはネット越しにアップルと連絡を取るけれど、キャリア(携帯電話会社)のことは知らないよ、それはSIMに情報があるでしょ、そっちを使うべさ、ということだと思う。
 アクティベーション中のiPhoneは自宅のWi-Fiに繋がろうとするので、自宅の無線LANの名前を教えてやり、パスワードを打ち込んでやる。さらにしばらくすると「新品として使いますか」「前のiPhoneの情報を引き継ぎますか」みたいなことを訊かれるので、僕は自分のMacを起動して、普段iPhoneのバックアップを取っていたiTunesに繋げてやった。すると、前のiPhoneに入れていたアプリや、Safariのブックマークなどが自動で新しいほうに入るのだ。
 これはちょっと時間がかかるけど、後で楽だった。僕はそんなにアプリを入れてないけれど、どんなアプリを入れてたっけ、と思い出すのも面倒なので、全部適当に自動でやってくれるのがありがたい。
 しかし、お小遣い帳の記録は引き継がれなかったし、青空文庫ビューワなどに格納されているとおぼしき青空文庫のデータは引き継がれなかった…。ちょっと残念。iTunes経由で入れていた音楽や映画はきちんと入る。お小遣い帳は、一回デフォルト(破綻)したことにするか。

 ネットの一部には「SoftBankのSIMを使ってアクティベートすると、せっかくのSIMフリー端末なのに、アクティベートの際SoftBankしか使えないキャリアロックがかかってしまう。SIMロックを強要しない海外キャリアのSIMを使わないといけない」という情報がある。だからか、世間ではアクティベーション専用SIMだとかがオークションで取引されているようだ。
 だがそれは誤報だ。僕は、契約切れとは言えSoftBankの黒SIMでアクティベートして問題なくdocomoで使っている。
 こういう機械は中で何がどう動いているのか、まったく目に見えないので、時々オカルトじみた言説や、いかにもそれっぽい噂が流れても、なかなかそれを否定できない。けど、物事は案外と単純だ。とくにApple社の製品は、複雑なものも単純に動くようになっている(もしくは、単純に動いているように見えるようになっている)。

 まだSIMがないので電話はできないけど、iPhone4sは動くようになった。技適マークも表示できる。さ、docomoショップに行こう。

docomoショップでマイクロSIMをもらう
 一駅歩いて近所のdocomo直営店に行く。週末なのでかものすごく待たされる。番号札を引いて順番を予約するのだが、とくに「ご契約について」の番号札だとなんだか時間がかかる。みんな難しい相談をしているのか。
 名残惜しくAndroidで遊んでいるうちに一時間ほど経ち、番号が呼ばれた。一日中接客してちょっと疲れた表情のお姉さんが窓口に招いてくれた。
「このSIMを(と、Android端末から引っこ抜いたSIMを見せ)、マイクロSIMに交換してもらいたいのです。そんで契約も変更を」
「はい……お客様のお電話番号からうかがえますか?」とクレジットカード入力機のようなテンキーパッドを出された。
 続いて生年月日とかで本人確認し(運転免許を持参したが不要だった)、変更する料金プランの話をする。「こうして下さいな」、僕はメモ用紙を差しだした。そこにはこうプリントしてある。

・タイプXi にねん
・Xiパケ・ホーダイ フラット定額
mopera U スタンダード

 はっきり言って携帯電話会社の料金プランのことはまったく理解できないのだが、iPhoneを使うには今のとここのプランが最適らしい。僕が言うんじゃないよ、ネットの賢人諸氏が集合知で決めたんだ。
いろいろ説明しようとしたお姉さんは出端をくじかれたようで、「よくお調べですね」、とメモを受け取って入力した。そして、付帯費用の説明が始まった。まず、事務手数料が2100円。そして、これが残念だったんだが、一年ちょっと前にAndroid端末を買ったとき、「端末購入サポート」ということで補助が出ていたのだった。だがSIMを変えると「機種変更」と見なされ、サポート解除料を取られる。これが4800円、だったかな? 五千円くらい。また金取られるんかー、という理不尽な思いだが、眼の前のお姉さんに当たっても何にもならない。
「来月のご請求でいっしょに引き落としさせていただきますが、いいですか?」
「ええ、いいですとも。早くやっちゃいましょう、早く」
「早くiPhone使いたいんですね、クスッ」
 docomoのお姉さんには全部ばれているのだった。
 そしてお姉さんは、僕のSIM内容をマイクロSIMにコピーするため、「ネットワーク暗証番号」を一度入力させ、しばらくしてから赤い水玉のカードを持ってきた。真ん中に金色の端子が見える。ここを刳り抜くとマイクロSIMになるのだ。
「技適マークの確認はしないんですか?」
「ええ、不要です」
 あれれ、残念だ。せっかく頑張ってアクティベートしたのに。
「実機の動作検証も不要ですか?」
「不要です」にこやかに、お姉さんは言った。はい、あなたの番はおしまいですよー、とでも言うように。
 僕はdocomoを出て、百円ショップでiPhoneのシリコンバンパーを買って帰った。

◆設定。すごく簡単
 めでたくマイクロSIMは手に入ったし、契約も無事済んだ。実は契約内容はよくわからないので、不要なプランを契約させられている疑いがずーっと晴れないのだが、まあおいおい片付ける。ちなみに、僕はそれまでAndroid端末をSPモードというプロバイダで使う契約をして、データと通話は定額で、毎月7600円を支払っていた。SoftBankiPhoneは月額5000円台だから、比べるとかなり高い。というか、両方払っていたのだからバカみたいだ。今度は、docomoだけになり、5000円台から6000円台になる予定だ。まあ、我慢できる範囲だ。前にも書いたように、MNPに伴う補助を使えばもっともっと安く使えるのだが、まあそれはいい。済んだことを言ってもしょーがない。

 で、実際にiPhonedocomoマイクロSIMを入れてみる。最初は長いこと電波を探してて「もしかして使えないのか?」と不安になったが、無事に電波を掴んだようだ。左肩に出る名前が「NTT DOCOMO…」になってい……ないよ、あれ、「JP DOCOMO」になってる。なんだこりゃ。日本郵政か?
 どうも、iPhonedocomoの電波を掴むと、表記が「NTT」と「JP」の二通りになるらしい。どっちが表示されても使い心地や料金は変わらないので問題はない。

 そして、「設定>一般>ネットワーク>モバイルデータ通信ネットワーク」で、モバイルデータ通信の「APN」を「mopera.net」に、も一つインターネット共有の「APN」も「mopera.net」にしてやる。これだけで繋がる。
 docomoでは、プロバイダのmoperaを設定するときは一時的な設定用のAPN名がSMSで支給されるので、それに従って設定せよ、と教えられるが、moperaをドメインにしたメールアカウントを使わないのであれば、設定はこれだけで済む。僕はメールはgmailしか使わないので、これだけでちゃんと動く。あまりにもあっさり始められるのでほんとに大丈夫かどうか心配だったが、今のとこすべての機能がちゃんと動いている。(Facetimeに関しては実験する相手がいないのでわからないけど、アクティベートは済んでいる。iMessageも同様。でもたぶんこの先使わない)

 ということで、今は普通にiPhonedocomoの電波で使っている。ちょっと前に「docomoiPhone、普通に使えますよ−」と教えてくれたSGさん、ありがとうございました。
 で、せっかく高価な海外版iPhoneを買ってXi契約したのだから、堂々とテザリングもしている。今も、出先でネットブックiPhoneを差してネットに繋いでいる。テザリングWi-FiBluetooth、USB接続の三つが選べるが、世間に無用の電波を垂れ流さないUSB接続テザリングが僕は好きだ。USBから給電されるのでiPhoneの電池も減らないし。

Androidはちゃんと成功しようというつもりがあるのか
 というわけで、僕はAndroid使いから、元のiPhone使いに戻ったのだった。一時はAndroidのオープンさやシェアが広がる勢いに夢中になったが、昨年後半から「やっぱAndroidはダメじゃね?」と思い始め、やっとこさ乗り換える決意がついたのだ。
 ちょっと、Androidについて訣別の辞というか愚痴を書いておく。他に書く機会もないだろうから。
 Androidは、出だしは良かったけど、結局すごい勢いで化けの皮が剥がれつつある、と思う。マイクロソフトのダメOS、Windowsはかなり長いこと市場を席巻したし、今もダメだめ言われながらもWindows7は日本のコンシューマ市場では第一位、僕もこのエントリはWindowsで書いている。だけど、Windowsも確実に終わりが近づいてると思う。
 Androidのオープン性と広い支持は、携帯端末のOS覇権で再びAppleがダサい勢力に敗れ去る景色を予感させた。ところが、対立図式がはっきりしてから二、三年経った今、Appleは史上空前の利益と、これまた空前の市場利益占有率を見せている。携帯端末のメーカー別市場占有率では、Appleはそんなに目立たない。一位はサムスン、二位はいろいろあって、三位とか四位で市場の一割弱がAppleiPhoneだ。だが市場利益の占有率で見ると、Appleは七割でサムスンが二割五分、台湾HTCに至ってはあんなにAndroidを育ててきたのに今や全体の1%の利益しか取れていない、のだとか(「携帯市場の利益」7割はアップルが独占スマートフォン戦争の勝敗はついたのか)。ほんとか?と目を疑う話だが、もしかするとほんとかもしれない。

 Android端末は、価格が変動する。iPhoneはなかなか安くならない。また、iPhoneAppleが新製品を出す年に一回だけ価格が変動するが、売れ筋はつねにAppleの目論見通りの値段で売れている。Androidは各社が凌ぎを削っている結果、新製品や旧製品がつねに入り乱れ、いつも価格下落圧力にさらされている。サムスンAppleの何倍も何倍もAndroid端末を売っているが、そこからApple同様きちんと利益を回収しているかは疑わしい。
 Appleも、ジョブズが留守にしていた90年代は、Macでは投げ売りのようなことが起きた。デスクトップやノートでよくわからないモデルがいっぱい出て、どれを買うのが賢いか、ユーザ同士で侃々諤々話し合ったものだ。それは楽しい議論だったが、どれを買ってもある程度不満が残るということでもあった。今、Appleのラインナップはとてもシンプルになっているので、選択の幅はそんなに多くない。だから逆に、どれを買っても不満は残らない。選ぶストレスがないからだ。
 また、認めたくない人も多いだろうが、Apple製品は動作が安定している。90年代のMacOSWindowsと比べるとよくクラッシュしたので、今でも「Apple製品は不安定」と思い込んでる人がいるだろうが、今やすっかり逆になった。Macはクラッシュしない、クラッシュしてもアプリケーション単体が停まるだけだ。Windows7はいちおうメモリ保護とか動いてるが、しばしば「応答しません」などとウインドウに出る。恐ろしく遅くなることも多い。これは僕が使っているVAIOの問題なのかもしれないが、Corei7なのにこの遅さは!と頭を抱えて叫びたくなる。MacBookは2007年くらいに買った古いものだが、一つ前のOS Xが安定して動き、2GHzそこそこのCore2DuoVAIOよりよほど体感が速い。
 スリープからの復帰一つとっても、Windowsは遅いうえにわかりにくい(スリープとハイバネーションの違いって何?)。起きるのも遅ければ寝付くのも時間が掛かる、悪質な幼児のようだ。また僕のVAIOは夜半に突然火が入ってファンがぶーううーーんと唸り始める。夜泣きか!? ウイルススキャンの設定をしているのでそれかと思ったが、違う。スキャンはやってない。なのにうるさい音を立てる。いい加減にしろ、と言いたい。それにひきかえMacは静かで堅牢でよく働いてくれる。
 電話でもそうだ。Android(僕のはサムスンのGalaxyTab SC-01C)は買ったときはさくさく動いた。だが数カ月経つとどうも動作が緩慢になり、今ではブラウザの画面がしばしば固まる(さすがに電話は固まらないが、あわや電話も使用不能になりかけたことが何度か)。iPhoneは、古くなって物理スイッチ(電源)の接触が悪くなったりしたが、一番頻繁に使うホームボタンは堅牢だし、何よりOSやアプリの動作がしっかりしている。時々「よっこいしょ」と言わんばかりにゆっくり動くことがあるが、「もしかして停まる?」という不安感は抱かせない。
 また、一番嫌なのは、Androidのアプリにはマルウェアスパイウェアが混じっていることだ。僕は動作が速いあるブラウザを気に入って使っていたのだが、それは中国製で、実はマルウェアだった。このブラウザ上で使ったパスワードを僕は一斉に書き替える必要に迫られた。というかAndroidでパスワードやクレジットカードは怖くて使えない。たとえ純正アプリしか動作させてなくても、どこでどういうウイルスを拾ってくるかわからないからだ。Androidに強い人に言わせると、「携帯端末でパスワード使ったりするのがバカだよ」ということになるのかもしれんが。
 アーキテクチャの優劣もはっきりしてきた。AndroidLinuxの上で動くJavaが基本だ。Javaは言ってみればエミュレータで、ハードの違いを問わずに動く。これはメリットだが、結局エミュレーションさせている時間が無駄というか、音楽やゲームのようにリアルタイム性が必要なタスクが非常に苦手だ。個人的にはお絵かきなどデザインにも向いてないと思う。iOSはゲームも音楽も得意だし、映像・画像処理までできる。ハードに高い負荷をかけても平気みたいだ。Android端末はCPUがデュアルコアからクアッドコアになり、クロック速度もどんどん上がっているようだけど、数字ほどの体感があるのかどうか。むしろ、重くなるAndroidを必死で動かしているような、そもそもiPhoneのように高解像度画面を載せてこないあたり、画像処理の力が足りません、と白状しているような気がする。
 いまAppleの景気は絶好調だ。今にも潰れそうだったAppleを覚えている僕らの世代からは信じられない。一部のマニアの専有物だったApple製品が、今は誰もが普通に使う、喜んで使うものになった。シンプルで便利で(構造が)お洒落なところは昔と変わらないが、とにかく人気が大きく変わった。隔世の感がある。
 一昨年くらいはGoogleが絶好調だった。いまGoogleFacebookに大きく水をあけられ(検索エンジンSNSは業種が違うと思っていたが、どちらも稼ぎ所は広告業なので競業なのだと思う)、Androidは未完成の欠陥品だとバレつつある。タダより高いものはない、を地でいくような話だ。
 再来年あたり、Appleもがっかりと地に落ちるのかもしれないけど、現状、最高のものを出しているのはAppleにほかならないし、Appleを凌ぐものを出しそうな人たちは僕は知らない。何より、最高のものを世間に問う、というスタンスでずっとやってきたプレイヤーはAppleだけだ。Appleはあざとい価格競争で勝ったことはない。これまで「勝った」と言えたのは、良いものを出したときだけだ。いつだって、高くて、売るのには不向きな商品ばかりだった。それでも世間の人を振り向かせるのに成功したのだ。
 くやしいけど、やっぱりジョブズ、あんたは凄いものを残したねー、と思うのだった。いや何がくやしいのかよくわからんが。