新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

“自分語り”と“止まらない食欲”について考えている本

沈黙入門 (幻冬舎文庫) もう、怒らない (幻冬舎文庫)

 いきなりアフィ画像から始まって恐縮なのだが、偶々読んだ本が非常に良かった。
 小池龍之介師はご著書もたくさんある、有名な僧侶だ。異端の僧侶、と言ってよいだろう。詳しくはwikipediaとかをご参照あれ。
 僕が触れたのは上記二冊の文庫で、どちらもたいへん薄い。薄いが、読み応えがあった。

 最初に読んだのは『もう、怒らない』だった。
 怒り、憤怒、に関しては自分に「困っている」という意識はなかったので本を手に取った時はピンと来なかったのだが、目次にぐぐっとハートを掴まれた。
 第一章は、欲望、それも食欲について延べているのである。

第一章 欲望はストレスの素
 ……
 食べ過ぎたくないのに食べ過ぎてしまう心理
 ストレスは食欲に転化しやすい
 なぜテレビを観ながら食べるのはよくないのか
 一口食べるごとに箸を置いてみる
 ……

 食欲は困りものだ。ダイエットに興味のない人はあんまりいないでしょ? 現代社会の人間は、みんな、自分の食欲を制御できなくて、食欲との折り合いをうまくつけられなくて、困っているのだ。
 最近常識になってきたことの一つに、「食べたくて食べてるんじゃない、ストレスのせいで食べ過ぎてしまうんだ」ということ。そして、食べ過ぎた後には必ず自己嫌悪が待っている。うまく空腹になれず晩飯が不味い。食べ残す。夜中に腹が減る。食べ過ぎる……不幸のスパイラルである。もう、食べること自体がストレスになってしまう。
 この不幸サイクルの根底に“怒り”がある、という話が『もう、怒らない』だった、と僕は理解した。浅い理解で済みません。

 次に読んだのが『沈黙入門』。オビに「自分語り…云々」とあったのが期待をそそった。

1 沈黙のすすめ
 自分濃度を薄める
  あふれる自分語りにウンザリ/「かけがえのない私」という現実逃避/…
 ケチつけをやめてみる
  みんなコメンテーター気取り/批判しながら依存する奴隷の心理/…
……
 意見あるところに欲あり
  …/本音も正直もくだらない/意見は邪悪/お釈迦様は宗教を説かなかった/意見から始まる怒りのループ
……

 案の定、出だしからグッときた。この人は掴みが巧い。さすがは説教するのが仕事の僧侶だけある。

「自分語り」は重要な問題だ。とくにブログ、TwitterFacebookは、水道の蛇口のようにひねればいつでも自分語りが溢れてくる恐ろしいメディアだから。
 もちろん、僕の書いていることも「自分語り」であり、不愉快な、百害あって一利なしの、くだらない代物であることは重々承知している。承知していても「自分語り」の魔力から脱することはできないし、それは、後で自己嫌悪になるよとわかっていてもジャンクフードの袋を次々開けてしまう行為と似ている。
 なるべく毒にならない「自分語り」を、と努力してみても、難しい。そこには必ず毒素が混じる。かといって、さらさらに漂白した、自分語りの要素がまったくないものは、役所の告知やダイレクトメールみたいで端から読む気がしない。自分が書いたものでもつまらないのだから、赤の他人はそんなの読みたくもないだろう。

 僕が読んで面白いと思うものは、例外なく、書いた人の個人史や、自我が反映したものだ。論評する対象は、ニュースであったり商品であったり近所の散歩道のことだったりといろいろで、そこには僕とまったく縁のないものもあるが、そこに書いた人の“人間”が投影されていれば、それはいきなり興味深い読み物になる。その一文を書くために、数十年の彼の人生があった、とまで言い得る名文になることだってある。
 反対に、これは勘弁、と思うのは、「自分語り」の毒を多量に含有していながら、その人の人生や経験・意志を感じさせないものだ。たとえば、世に溢れるプロパガンダをあたかも自分の意見であるかのように言い募るもの。他人の書いたものを(意識すらせず)模倣し、言い散らすことで自己顕示欲を満たすもの。
 これ、自分でもよくやってしまうんだよね。どこかで読んだものを、読んだという事実は忘却してしまい、エッセンスだけが頭の中に残ってるとき、やってしまう。知らず知らず、AKBの歌詞のようなものを書いてしまうことってありませんか。ないですか。それはよかった。僕は、自分では意識せず、SMAPの大流行歌と同じことを書いてしまったことがありました。ナンバーワンじゃなくてオンリーワン、だとか何とか……こんな洒落た台詞、自分で思いつくわけないのにね。刷り込まれ、脳の主導権を奪われているのだ。

 小池龍之介師が凄いのは、自分語りだとか食欲スパイラルだとかの話をしながら、自我の毒を薄めるにはどうすればよいか、その方法を読者とともに模索していくところだ。そして、これはお釈迦様がやった原初仏教の方法と似ている。あ、つまり小池師も凄いが釈尊も凄いということか。

 仏教は、つまるところ、北インドの王族の倅が、自意識の苦しみに耐えかねて始めた思索の一大系統だ。現代日本では葬儀などの典礼(虚礼?)が発達してしまい、思索の部分がなかなか見えにくいけれど、元々は虚礼を排し思索を深めるためのメソッドとセオリーだ。(この要素がかろうじて伝わっているのが、禅宗かもしれない。あるいは修験道か)
 ここを深めようとすると、必然的に現代の仏教権威と真っ向から対立してしまう。小池師は浄土真宗から破門されたことがあるそうだが、それも必定だったろう。現代では真剣に釈尊の教えと向き合うことは異端なのである。

 小池師の本にも、自分がどういう人生を送ってきたかなどの記述はある。だが、毒々しい自分語りにはなっていない。さらさらと漂白されていながら、小池師の人となりをしっかりと感じさせ、奥行きや味わいのある読み物になっている。
 自我の横溢がいかに人を苦しめるか、人を幸せから遠ざけるか、これは継続して考えていきたいテーマだ。それはつまり、ブログ・TwitterFacebookといったメディアが自分を幸せにするか不幸にするかという議題でもあると思う。

 などと言いながらFacebookに「今夜はこれ食った」なんてフィードを投稿する自分がいる。バカである。愚行は止むことがない。