新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

お金の重力

■1.お金には重さがあること
 お金が集まると、その量によって重力が生じる。
 十円くらいでは「お金が集まった」とは言わない。廊下の隅に埃が溜まった程度で、吹けば飛ぶ。
 百円単位だと、飲食ができるから、はじめて「お金があるな」と認識される量になる。
 千円単位だと、「失うと辛い」「得られると嬉しい」という感情の動きが生ずる。
 万円単位だと、この感情の振れ幅が大きくなる。また、「明日、使おう」「来週使おう」と、時間の観念が入って来る。
 十万円単位だと、これを失うと傷みが伴う。比喩ではなく、本当に痛い。

 ここから先は聞いた話である。作家の日垣隆さんは東日本大震災の直後、預金を下ろした現金を大量に持って被災地に入った。呆然とした被災者に会うと、話を聞き、その人が経営していた会社の支払やローンの支払に困っていると知ると、何も言わず数十万円とか数百万円を渡して去ったのだそうだ。
「ほんとにそんなことしたんですか?」と僕は面と向かって訊ねた(相変わらず失礼だ、僕は)。
「ほんとだよ。その百万円くらいで、その人たちは死なずに済むんだ。実は、借金で自殺する人たちっていうのは、百万円規模の場合がいちばん多い」
 被災地で会った人たちは、津波で家財を失い、目先の支払が数十万円から百万円内外滞ることで頭を抱え、悩み、死ぬほど思い詰めていたのだという。
 日垣さんの話はここから先も面白かった。
「一千万円とか、千万単位になると、かえって落ち着いているというか、自殺の危険はないんだよね」「億単位のお金を失った人は、むしろ明るい。元気を失ってない」……。
 お酒を飲みながら聞いたので正確なところは忘れてしまった。以下は、僕なりの理解と記憶です。

 お金を欠損して、死ぬほど思い詰めるケースでは、金額百万円台から数百万円が一番多く、実際に自殺に至ったケースもこのくらいの損失が多いのだという。
 一千万円から数千万円(億円未満)だと、自ら死を選ぶケースは少なくなるそうな。落ち着いて対処し、危ない行動を取らないのか。それとも、自分ではなく他人を傷つけるようになるのか。
 億円、数億〜数十億もの損失となると、貸した相手も個人というケースは少なく、たいていが法人なので、個人の生き死にといった事件にはならないようだ。失った本人も、数億を失うのは大変なダメージに思えるが意外にもそうではなく意気軒昂なことがあるという。それはつまり、数億をハンドリングするほどの実力がある人なのだから、すべてを失ってもまたゼロから挑戦すればいいさ、と考えることができるからだという。たしかに、孫正義堀江貴文なら、全資産を失っても「また稼げばいいや」と思えるだろうし、彼らにはその力があるだろう。

 この話で僕は、お金はその規模によって生じる重力が異なる、という考えに思い至った。
 なぜ主婦はスーパーの商品の懸賞で5000円当たると嬉しいのか。72円と80円の胡瓜に真剣に悩むのか(僕も悩むんだよね)。
 なぜ競馬だと数万円スるのが痛いのに、住宅ローンでは数百万円スるのが平気なのか。
 数千万円のお金を持つ人が、資産を金融商品に投じ、何千万円もの損失をしてしまう。なぜ数百万円の損のところで撤退できないのか。
 これら、不合理な人間の行動は、みな、お金が持つ固有振動というか重力によって、理性がねじ曲げられてしまうからではないか、と思うのだ。

 例の、人気タレントの親族が生活保護を受けていた、という件。ネット界隈ではタレント叩きが起きたわけだが、どうもこれ、「あいつが年収5000万円もあるのか」「何百万円も払ってビジネスクラスでハワイ旅行か」「生活保護は年間ン百万もらえるのか」という当たりに、人びとがグッと来るポイントがあったんじゃないかなー、と思う。これらも、「数千万」「ン百万」といった額がイメージさせる重力に、人びとが抗しきれなかったからではないかという気がするのだ。

■2.素敵な人生に、お金はいくら必要か
「お前、いいなー、そんなたくさん退職金もらって。俺にも金くれよ」
 と、実際に言われたことがある。かつて会社で同僚だった男性からだ。彼は僕よりだいぶ前に会社を辞めたので、退職金はごく少なかった。その違い、満たされない気持ち、不公平感はわかるつもりだ。だが「お金くれよ」と面と向かって言われたのには面食らった。冗談のつもりだったのか。つまらない冗談だ。
「いくらご入用ですか」
 と訊き返せば良かったかな? 彼はいくらほしいと言っただろうか。
 人はなんとなく、「数千万円のお金が転がり込んだら、だいたいの問題は解決するし、遊んで暮らせるだろうな」と思うんじゃないか。
 ところがですね、そういうことはないんですよ。将来の不安はなくならないし、日本円しか持っていないのに円ドルレートとかが気になるし、政府が財政破綻するとか、資産課税が行われるとか、そういう根も葉もない噂に不安になるし、不安に駆られて金融商品買ったりしてホントに大損失を出したりして寝られなくなるんです。そういうもんです。

 いくらいくらのお金があれば、残りの人生を幸せに暮らすことが出来る、ということは、ない。あり得ない。人間の一生というのは、計測不可能だからだ。フィナンシャルプランナーはシミュレーションの算出式を持っているが、そういうお仕着せの標準的な人生は、あなたの実人生とは何の関係もない。
 僕は長い時間考えて、一つの結論に達した。

 人生において必要なお金の額は、……お金の魔力・重力に屈伏せずにすむだけの額があれば、十分だ。
 それ以下では、苦しい。それ以上あっても、別に幸せ度は増えない。むしろ苦痛が増える。

 お金は重力を持っており、そのせいで人びとの行動はねじ曲げられる。それは魔力と言い換えてもいい。
 お金が大切、お金が大事なのは、「お金を得るために自分の尊厳や人間性を売り渡すようなことをしない」ために、お金が必要だからだ。
 問題なのは、誇りや尊厳を維持できる最低限の額が、すぐにはわからないことだ。わかれば、どんなにいいだろう。

■3.お金から自由になる究極の方法
 一時、すべてを棄てて仏道に入りたい、と真剣に思っていた。夜も日もなく仏道をこいねがい続け、朝から坐禅をし、昼も、夜も座り続けた。仏教書を手当たり次第に借りて読んだ。
 一つは、将来の見えない不安に対して、最終的な救済を与えてくれそうだったから。何しろ、仏教には出家という、生きながら救われるメソッドがある。全財産を擲って仏門に入ってしまえば、お釈迦様のように悩みから逃れることができるんじゃないか。

 ……そういうのは、甘い考えなのだった。お釈迦様も「わしだって出家したけど悩みはなくならなかったよ」と言うだろうよ。実際、出家する人は近年増えているのだが、出家者の悩みは「どうやって食べていくか」「檀家のある寺を継ぐには」とかだったりするという。リアリティだなあ。
 また、僕の好きな禅宗にしても、プロのお坊さんたちはみな、実家のお寺をどう継承し、維持するか、に悩み苦しみ、また敢然と立ち向かっているのだという。自分の悩みがどうこう、人生の悩みがどうこう、なんて小さい小さい。みな生きることに一所懸命なのだ。

 先ごろ、オウム真理教事件の逃亡者がまた捕まったという。彼女は、逃亡中、信仰を持ち続けていたのだろうか?
 オウムは、90年代では唯一本当に、「すべてを棄てて出家したい」という熱望に応えてくれる宗教だった。だからこそ、大勢の若者が、全財産を寄進して、変な白衣を着て不味いご飯を食べる集団生活に入ったのだ。既存の仏教教団は、こういう大衆の過激な願望には応えてくれないから。

 ブログ「新teru0702の日記by今井照容」は、エントリ「オウムの闇は宗教ならではの闇ではないのか?」で、「オウム真理教は宗教にとって異物ではない」と記している。同感だ。むしろ、もっとも宗教らしかったから、あそこまで力を集めたのだ。
 オウムの力の根拠の一つは、私有財産を擲つことを許す、その過激さにあった。と僕は思う。このニーズに応えられる宗教は、現在日本にあるのか?

 最近の僕は、一時の熱情は冷めた。幸いなことだ。だが、それはお金の重力から自由になったからではないし、自分の必要とするお金の量がわかったとか、お金をすべて擲つ覚悟ができた、ということでもない。熱がおさまった、というだけの話だ。
 世間は相変わらず、お金にまつわる様々な感情が渦巻いている。世界同時株安である。自殺をする人や、誰かを傷つける人がいないように、と切に願う。