新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

ダークツーリズム、記憶の風化に抗う旅と、被差別部落のフィールドワーク

前に、こういう本を読んだ。

僕はチェルノブイリには行きたくない(寒いの嫌い)けど、福島第一には行ってみたい。周辺の海で泳いでみたい。もしかして、漁業権が設定されていないのではないか、とすると、スピアフィッシングだってやり放題なのではないか?と思ったり。
というのはまあ実現可能性が低いけど、僕もここ数年、ダークツーリズムに参加している。
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北関東某県の某被差別部落のフィールドワーク。正式な呼称は「フィールドワーク」とか「スタディツアー」になっているが、僕ら歴史部会のはぐれメンバーの間では「ダークツーリズム」と呼んでいる。
ふつう観光しないような処を見に行く観光だから、ダーク、だと思っていた。
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田舎の路地や新興住宅地を見て回る。ここが百五十年前何だったか、その痕跡を探す。
古い墓碑や神社に詣でる。石造物や神社は大昔の痕跡を留めていることが多いので。
地味な地味な活動なのだけど、これが滅法面白い。
ただ、Facebookやブログに書いて自慢することは躊躇される。
なぜなら、地名を出したり写真を出したりすれば、「あそこは被差別部落なのか」とわかってしまうからだ。
検索すれば、各地の白山神社に参拝したブログが出てきたりするが、これなんかも微妙なとこだ。
リンクはしないけど、「部落探訪記」をwebで連載している「鳥取ループ」という有名人もいる。かれは『部落地名総鑑』事件を現代に再現していて、部落解放同盟との間で裁判になっている。
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解放同盟系シンクタンクのサイトに、こういう読書案内・リストがある。
  人権フィールドワークに役立つ本(関西編)
しかしよく見ると、戦争・在日・障害者・食肉といったテーマの方が多く、被差別部落そのものにフォーカスした本は案外少ない。
「部落」の「地名」を明示することは非常に難しい。
周囲の一般地区と完全に格差がなくなり、混住も進み、差別が事実上なくなっていたとしても、地名を指して「ここが被差別部落だ」と云うことは、新たな差別を生みかねない。
当事者たちが「オープンにして=カミングアウトして議論をしよう」と云ったとしても、当事者全員の意思統一ができるわけではないので、誰かが「それはやめてほしい」と思っていたとすると、「望まれぬ暴露=アウティング」になってしまう。
ネットは発信者情報を隠すことができるので、「アウティング」もやり放題だ。これは非常に苦しい問題だ。
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僕は、基本的には情報はすべての人にオープンにされるべきだ、と考えている。
だけど、「人を傷つける情報まで無制限にオープンにできるのか、その責任は誰が取れるのか」という問題がある。
このことで、ごく親しい同志のような友人とも、よく議論になる。
簡単には解決できない。
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でもね、面白いんだよ。前に行ったとこは、関八州でも上から三番目とかに位置する由緒正しい有力小頭が支配していたとこで、歴史も古い。織物や手工芸が発達していた北関東らしく貨幣経済でも豊かな小頭だったらしい。つい廿年前まで、堀と長屋門をめぐらした大きな屋敷があったという。
今は町が買い取って更地にして分譲してしまい、古井戸が公園の隅に残っているだけだ。小さな墓地と白山神社しか、その地区の歴史を刻んだものは残っていない。ちなみに白山神社はそのすべてが被差別部落と関連しているわけではないので、これもまた難しい。
同和対策事業のおかげで各地の部落の道路は整備され、厳しい環境は緩和された。同時に神社の氏子は流出して減り、高齢化が進んで地域の伝承も消滅しつつある。
中には、白山神社であることを隠した処もある。扁額が裏返しになっていたり、神社名の石碑をくるりと裏向きにしていたり。残念なことだと思うけど、その地の人たちが受けた苦しみを思うと、誰も責めることはできない。誰が好き好んで、自分たちの力で建てた、誇りである神社の名前を隠そうとするか。好きでやるものか。泣く泣く隠すのだ。
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ダークツーリズムとは、記憶の風化に抵抗する旅、ではないかと思う。
神社に生えていた柚子の実を一つ分けて貰った。大根の煮物に添えて食べた。売っているものと違って表面が汚れていたが、香りはことのほか高かった。汁を搾って醤油にたらしても美味かった。
豊かな歴史を持つ世界があるのだが、なかなかアクセスできない。そして、これらも高齢化と過疎で消滅しようとしている。あと半世紀経つと、完全になくなる地区が相当数だと思う。それは「差別がなくなる」ということなのだろうか?

「反戦イデオロギーがないから良い映画」ということについて

この世界の片隅に」についてもっと読みたくて、2ちゃんねるを漁っていたらこういうポストがあった。誰かのFacebookを引用したものらしい。

(FBより転載)
今回、『この世界の片隅に』をめぐっていちばん愕然とさせられたのは、この映画に「反戦じゃない」という評価が与えられたことではない。
反戦イデオロギーがないから良い作品」という意見がまるで当たり前のように語られていることだ。

 戦争に反対することがなぜ「イデオロギー」になってしまうのか、戦争に反対していないことがなぜプライオリティをもってしまうのか。
まったく理解に苦しむが、しかし、戦争のほんとうの残酷さや自分たちの加害性から目をそらしたがっている人たちにとって、この倒錯状況こそが常識になっているらしい。

 そして、『この世界の片隅に』はそういう人たちにとって、格好の逃げ場所になってしまったということだろう。
彼らは、戦時下の人たちの日常の暮らしを丹念に描いたこの映画の、その暮らしの描写だけをクローズアップし、「戦時下でもふつうに暮らす人たち」という物語に読み替えて、消費しようとしている。

 だが、それでも、『この世界の片隅に』のような映画が登場したことは、大きな意味があると思う。
この映画はたしかに、戦時下の日常の暮らしを描くことで、戦争の本質から目をそらしたがっている人たちを惹きつけているが、しかし、同時に戦争が日常をどのように変えてしまうのか、そのことに気付かせる力をもっているからだ。

反戦じゃないからいい」とうそぶいている人たちにも、この映画は、確実に戦争への恐怖を刻み込んでいるだろう。

いやあ、僕も「生半可な反戦イデオロギーを排した、良い作品」と思っていたので、このポストには、何か言いたい、当たってないとも言えないが、当たっているとは言えないぞ、ちょっと違うゾ、と云いたいのだった。
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生半可な「反戦イデオロギー」を入れ込んだ作品の代表は、妹尾河童の『少年H』だと思うんだよね。
後からわかったことや、当時は絶対になかったことを、戦中の少年に語らせた、という有名なアレ。
そして「大人も新聞も嘘つきや」と啖呵を切ったのだから、「お前も嘘つきやん」と言い返されてももしょうがない。
嘘は、たとえほんの少しだったとしても、それまで積み上げた信用を全部毀損してしまうよね、と。
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「片隅」のファンにも、「朝鮮人の強制連行はなかった」「大東亜戦争は欧米の侵略からアジアを解放した」と信じたい人もいる。だけど、「従来の戦争コンテンツに含まれていた、後付けの反戦平和イデオロギーが嫌い」と云ってるのはそういう人だけではない。
本当だったら、反戦平和イデオロギーの側の人が、都合よく事実と後付け思想をパッチワークした作品に対して、「それは思想や作品の信頼を失わせるから、よせ」と言うべきなんだがね。
自分らの思想や主張を安売りせず、大事に扱おうよ、と思うのだ。

  Amazonはユーザーレビューが面白い。
こっちはそれほどレビュー面白いわけじゃない。本編をぜひ。

こっから「この世界の片隅に」(以下「片隅」)の【ネタバレ】があります。ご注意を。
「片隅」でそういう論争が起こるのは、後半どんづまり、玉音放送の直後に、呉の街に太極旗が立っているシーンだ。
勘違いする人は、「あの国旗は戦後に作られたものだから、あのシーンは嘘」と云う。
それは単純な間違いで、大韓帝国の国旗なので戦前からちゃんとあった、日本への抵抗運動の象徴でもあった、ということ。
「呉に朝鮮人が居たかわからない、強制連行だったかどうかもわからない、なのに旗のシーンを入れるのはどうか」という意見。
さらに「原作ではここに『暴力で従えとったいう事か』『じゃけえ暴力に屈するいう事かね』という独白が入る、朝鮮を暴力で侵略していた、という見解は当時の人の見方というより、後付けの思想じゃないのか」という批判がある。
前者にかんしては、この映画の監督さんはものすごいリサーチを重ねているので、この一瞬だけ映る太極旗のシーンも、この日この時間に呉で太極旗が掲げられたのを覚えている人がいて、その証言がある、だから描いたのだ、と信頼できる。掲げた人がどんな人かは描かれていないので、強制連行かどうかはわからないが、この作品については「嘘つかない」という信用がある。僕はそれを信じたい。
後者にかんしては、うーん、薄々わかってたんじゃないかなあ、と思う。同邦で同じ日本人で融和しないと、と思っていた人でも、「やっぱり元々違うから融和せんといけんのんじゃない?」という気持ちは気付くでしょ。それに、やっぱり異民族で、経済的に恵まれた人は少なくて、社会の下積みの少数派なんだから、そこに差別がなかったわけがない。当時の公式見解だけに依拠して「差別はなかったはずだ」と云うのも、嘘がある、後知恵なのではないか、と思う。
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はだしのゲン」は小学校段階でトラウマになった忘れられない作品で、好きじゃないけど偉大な作品だと思ってる。
だけど、ほんの幾つか、後付けの思想を当時の人物が口にするシーンがある。少ないけどある。それがどれだけ「ゲン」の価値を損なっているか、ということだ。
尤も、「ゲン」の本質は反戦平和の広宣流布ではなく怨念の表明なので、本質的価値はあんまり毀損されてないとも思うが。
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テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」は、ジェイムズ・ジョーンズの原作の冒頭に、ウィット二等兵の脱走シーンとか入れたりして、改変してる。ここに何か、当時の感覚とは違う今風の反戦厭戦思想が覗いているようで、大好きな映画だけど僕は一部好きになれない。長い原作を3時間に押し込めるためにかなり無理した結果だと思うが、日本兵光石研の呪詛「お前も死ぬんだ」なども、うーん、どうかなあと思った。
ペキンパー「戦争のはらわた」は最後のシーン、シュタイナー軍曹の戦場での哄笑、虚無の笑いに、それまで積み上げてきたドラマのリアリティを吹き飛ばす不愉快な何かを感じた。明白な反戦メッセージではないけれど、当時の戦場でこれあり得るか、と思うとどうも腑に落ちない(萬屋錦之介の「夢じゃ夢じゃ』みたいな)。
でもまあ、両作ともものすごい価値のある、歴史に残る映画なんだけどね。
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反戦メッセージは、悪いとは云わないけど、それを昔の人に言わせるのは、ルール違反だし、昔の人に失礼じゃろ、と思うのだった。
そういう意味で「片隅」は、昔の人に極力失礼せぬよう、一所懸命尊重して、消えゆくものを化粧せずに素のままとどめておこう、と努力して作られた作品ではないかと思います。
人は、真実によってのみ、癒やされる、ということではないかと。

 こんな神の手が作ったような作品に文句付けるなよ俺

ちょい古だけど重要作「裏切りのサーカス(ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ)」について

裏切りのサーカス』(原題: Tinker Tailor Soldier Spy)、2011の英国映画(ワーキングタイトル。仏独も製作に参加してるらしいが)。監督 トーマス・アルフレッドソン(「ぼくのエリ 200歳の少女」未見)、原作 ジョン・ル・カレ(「寒い国から帰ってきたスパイ」「リトル・ドラマー・ガール」他沢山)。
 僕は旧訳で読んだが、もう手に入らないのでこちらは新訳。
長い原作を比較的忠実に映画化しており、映画自体も十分な強度があって、名作と思います。
本作については語るべきことが沢山ありますが、今日はその一部を。
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本作には隠されたテーマがあって、登場人物たちは激しい女性不信なのである。
描かれる女性は浮気者、不貞を働く、あるいは権力の走狗となってこちらを監視する、取引を仕掛けてくるなど、決して男を安心させない。同志的繋がりを持てる女性は、老いて性的魅力を放棄した人だけ。原作にすでにこのテーマはあるのだが映画はそこをさらに掘り下げてて、登場人物たちは同性愛的信頼でのみ繋がる。
東欧に派遣されて撃たれ、挙句にサーカスから放逐されるジム・プリドーは、サーカス(SISの所在地ピカデリーサーカスから。警視庁を桜田門と呼ぶようなものか)の実力者ビル・ヘイドンと大学同級生でクリケット仲間、精神的に深く繋がっている。
スマイリーの片腕となるピーター・ギラムは映画では中年の男性教師と同棲していたが、スマイリーから「もぐら」炙り出しを命じられ、危険な任務だから身辺を整理しろと言われて彼と泣く泣く別れる。そして任務をこなすうちスマイリーへの信頼を深めていく。
他にも大臣と次官がスカッシュで汗を流し、ロッカールームの背景に全裸でシャワーを浴びる男性がいたり、なんだか中年男の魅力爆発BL映画なのだ。
だからハンサムな「首斬り人」リッキー・ターがソ連の女情報部員と情を通じて彼女を亡命させたがる部分がものすごく不自然に浮いている。すごく重要なエピソードなんだけど、男女の間柄がうまくいくわけないのがこの作品の決まり事。なので、ここの座りが悪いことが却って作品の魅力になってるという、ものすごい技巧が使われている。
原作を読んだとき、ル・カレって凄い、人類の至宝のような文学を書いたんだなと思った。
グレアム・グリーンも近親相姦的で不気味な話を書いてるけど、英国のこういう文学伝統は凄いと思う。英国には「諜報部員が小説家になる」という伝統があるのだ。ル・カレ、グレアム・グリーンイアン・フレミングサマセット・モーム、ラドャード・キプリングなど。
原作の骨肉をうまく掬い上げた映画化はとても素晴らしい。
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で、2014(日本では2015公開)の映画「キングスマン」は、「キック・アス」2010の脚本家が書いた話で、ぼんくら少年がスーパースパイになる、というジェイムズ・ボンドもののパロディのような話だそうですが、これ実際に見てみると007のというより、「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」の続編のように見えちゃうんですね。
先輩のスーパースパイがコリン・ファースで、選抜養成課程の教官がマーク・ストロング。この組み合わせは「裏切りのサーカス」で情報部の大物ビル・ヘイドンとその同性愛的親友ジム・プリドーを演じたコンビではないか! 雰囲気めちゃめちゃ良い。このキャスト偶然ですかね。絶対意識してませんか?
というのも、「裏切りの」のジム・プリドーは、ハンガリーでの作戦に失敗して撃たれ、ソ連に訊問されて東欧のスパイ網をずたずたにされ、ヘイドンの交渉でなんとか英国に送還されたが涙金とともに情報部を放逐され、挙げ句に私立中学に臨時教師として流れ着く、というエピソードがあるのだ。中学では異色の臨時教師として子供たちから支持され、とくに太っちょで引っ込み思案な少年ビル・ローチとの交流が美しい。ローチ少年は初めて自分を褒めてくれた大人として、元スパイのプリドーは自分が愛した男ビルと同じ名前だから、双方が互いを特別な存在と思うのだ。そして「君の取り柄は何だ。誰にでも取り柄はある。君は学校一優れた観察者だろう。とくに孤独な者は観察者に向いている」などと、我知らずローチ少年に情報工作員としての教育を施してしまう。業が深い。
この、「情報部員は情報部員特有の行動パターンがある」というのが重要。日本には公には情報機関はないことになっているが、内閣調査室、外務省、公安警察など伝統ある情報機関が実はある。だけでなく、新聞・雑誌・テレビの取材部門というのは一種の情報機関なのだ、という自覚が求められる。情報工作員の生き方、というのはグローバリズム社会ではとても重要なのだ。これは別件で詳しく論じたいほどだが。
さてプリドーとローチ少年の交流は、英国情報部内のもぐら(二重スパイ)をスマイリーがまんまと炙り出してしまったせいで突然断たれる。プリドーは悲嘆に暮れ、「もうここへは来るな。みんなと遊べ」とローチ少年を拒む。プリドーの若い工作員養成は突然終わってしまうのだ。
それが、「キングスマン」での教官役にマーク・ストロングが再任し、キャストが若干変わってしまったが、スパイ養成が続くのである。こちらはぼんくら少年をきちんと立派なスパイに育て上げ、お話は完結する。うれしいことです。

ただし、本作の設定は「国営ではない情報機関」なんだよね。少し理解しにくい。日本だと宗教団体か政治結社の情報機関、くらいしか想像できない。あるいは、総合商社か。あと、飛行機会社というのは情報機関としての側面がある。ナショナル・フラッグ・キャリアのCAは国家の情報部員が務めている、という国は多い。イスラエルとか)

「この世界の片隅に」は大傑作戦争映画だ。戦争映画マニア必見。


(画像は公式サイトTwitter応援キャンペーンより借用)

「この世界の片隅で」、平日昼間の二子玉川ライズで見たのだが、ものすごい作品で、打ちのめされてしまって、立ち上がるのが大変だった。
これ見てよかった〜〜〜!!!
と思ったよ久しぶりに。
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本作とは関係ないが、僕は二子玉川ライズ109シネマズがあまり好きではない。明るく健全な家族が楽しむシネコン、が嫌いだ。僕の映画館ホームグラウンドは池袋ロサ会館であり、文芸坐(旧)なので、ごみごみしていかがわしい場所でないと映画を見た気になれない。
というノスタルジックな話だけじゃなくて、予告編が始まる前のCMが気にくわない。子供が東急の改札を通過したらメールが来るシステムとか、IMAXシアターの宣伝とか、シネマポイントカードでエグゼクティブシートが云々とか…無性に腹が立つ。映画の予告編が始まったが、そのラインナップも気に食わない! 「109シネマズにお越しのお客様、阿部寛です」とかって劇場向けの宣伝もきらいだ!
Jポップと今風アニメの予告編連打にほんと帰ろうかと思ってしまったのだが、本編が始まってすぐに全部忘れた。
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僕の好きな時代劇だったからだ。昭和初期の日本の都市風景は、江戸時代の瓦屋根の雰囲気を強く遺している。それを水彩画タッチで再現した本作の背景は、時代劇好きにはぐさぐさ刺さるものだった。あそこまでは江戸時代が息づいていたのだ、というノスタルジーと喪失感を強烈に感じた。
そして中盤から僕の大好きな戦争映画になる。
この映画の評判では、呉港の軍艦遠景の描写、艦載機の空襲と高射砲での迎撃、爆弾での爆撃と焼夷弾での爆撃などの描写がすごい、という。アニメなのにというかアニメだから可能になったというか、たしかに最近の虚仮威しCGよりかずっとリアルに響く音と映像だった。
それもいいんだけど、舞台は呉と広島という軍都なのだ。軍都とは軍人の町だ。
この映画の素晴らしい戦争描写は、軍人を描いたことだ。
主人公の夫は軍法会議の録時(書記官)で、お舅さんは広の海軍工廠で飛行機を開発している技師。リアルな控えめ感でそれらが物語に顔を出す。
そして、幼なじみが海軍に志願し、水兵となって再登場する。これが良い。
僕は海軍の階級章を読めないので彼の階級がわからないのだが、入湯上陸で幼なじみの婚家を訪れる、という超微妙な挿話が本当に素晴らしい。何が素晴らしいかというと、当時の一般人が軍人を遇した感じ、尊敬と敬遠と愛着と忌まわしさなどがちゃーんと、後知恵とかではなく当時の感覚を再現する方向で描かれているからだ。
夫は軍の関係者だが文官で、ひ弱な人だ。幼なじみの水兵は頑健で躰も大きい。軍隊は暴力装置で、兵士は暴力を遂行できる肉体を持っている、という単純だけど見過ごされやすい事実が、きちーんと丁寧に描かれる。これ、なかなか他の映画ではやれてないこと多いのよ。
戦争は良くない、軍隊は人殺しの組織だ、核兵器は良くない、なんて戦争やってる最中の登場人物は云ってはいけない。そんなこと思わないし、思っても口に出してはいけないから。
まったく、こんなに手応えのある、ちゃんとした戦争映画は何以来だろうか?
ペキンパー「戦争のはらわた」か、テレンス・マリックシン・レッド・ライン」か。実はこれらの名作でも、どうしても後知恵が入ってしまってて、当時の人らしからぬ言動があったりするのよ。それを、鬼のような考証を積み重ね、徹底的に後知恵を排除して「当時の人びとの感覚・言動」を再現した「この世界の片隅に」は、これが良い戦争映画でなくていったいなんでしょうか。
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能年玲奈は歴史に残る作品に主演できて本当に幸運だったと思う。もちろん彼女は作品に全身全霊捧げる貢献をしている。
呉市広島市も、歴史に残る作品を得て本当に幸せだと思う。あの戦で亡くなった人たちの供養になったと思う。
エンドロールの後にクラウドファンディング支援者リストが出るのだが、これ支援できた人は本当に幸せだと思う。歴史に残る作品に自分の名を刻めたのだから。
これほんと凄い作品で、アニメ史というより映画史に残ると思う。
いやこれほんと凄い。一分の隙も無い。
   *  *  *
見終わって、悲しくないのに涙が止まらないのである。切なくて、いとおしくて、涙が出てくる。というか。
これはある種トラウマを植え付けられたようなもので、心の傷が深くて深くて、泣けてしまうのだ。
そんなことしていいのか娯楽映画が、とまで思う。衝撃だったです。
まあ仕方ない。
百年後も語られる名作を封切りで見てしまったのだから。
映画はトラウマになる作品ほど素晴らしい。というのは誰が言ってたのかな。ああ彼か。

ヒマネタ妄想シリーズ。好きな人をクルマに喩えると

好きな異性(人によっては同性でもいいが)のタイプって、好きな車のタイプとどっか似てくるのではないでしょうか。なんてことを思い。

今乗ってる車と、付き合ってる人が似たタイプになるというわけではないけれど。
(ベンツに乗ってるから付き合う彼女もベンツみたいな女、というケースはどうかな、あるかな。むしろメルセデスを目ざしてクラウンマジェスタ改造版になってしまった、というひとが助手席にいるケースの方が多いか?)

フェラーリのような女(ひと)、憧れますよね。なかなかいないけど。
実際付き合うとアクセル全開なんてできないわけですが。

ポルシェのような女(ひと)、アニメ「カーズ」に出てきた弁護士の彼女は車体がポルシェだったけど、あれは感じ良かった。たとえばアストンマーチンでは弁護士という仕事は似合わない。ましてGT-Rじゃね。

ドイツっぽい良妻賢母といえばBMWでもオペルでもアウディでもなく、VWでしょう?
ただし、ずっとウソついてたことが最近バレました。

スバルのような女(ひと)、独身時代はインプレッサのような、結婚して家庭を持ったらR2のようになるかフォレスターのようになるか分岐するかも。
スズキのような女(ひと)、スケール感には乏しいかもしれませんが、生涯の山あり谷ありをともにするには最良の伴侶かもしれません。

日産のようにな女(ひと)、若い頃はシルビア(古いか)を目ざしていたかもですが、スカイラインのような貫禄が出る頃結婚し、子どもができた頃はセドリックというかフーガになるか、あるいはエルグランドのようななんでもござれのひとになるか。これが旦那には終始「うちの奥さんはモコみたいなひと」と見えているから可笑しい。日産型奥さんは最終的にリーフになるのでしょうか。

ぼかぁ、フィアットパンダ(初代ではないやつ)か、ミニ(2002年くらい型)のようなタイプが好きだな。国産ならデミオのような。
(あるいは、消防車のような奥さん、救急車のようなお母さん、ゴミ収集車のようなおねいさん、街宣車のような隣のおばさん、というのもあるか。ゴミ収集車は好きだな、新明和だし)
(これって性的偏見にもとづく妄想だね、全部。政治的正しさに欠ける)

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全然関係ないけど、地震のちょっと前に僕、尻がむずむずするのでわかるんです。
座ってると、微細な震動を感じる。
今の長い揺れは震度2くらいかなあ。震源は福島沖か。

今年ももうすぐ「アイランダー」だ。サンシャインに行かねば

毎年、池袋サンシャインのイベント催事場で開かれているアイランダーフェスティバル。
今年は11月26日(土)と27日(日)だ。

アイランダー2016ホームページ

毎年、同じ日程で1フロア上では「全国物産展」がやってて、こちらは美味やスイーツがてんこ盛りなので大盛況だ。
しかしアイランダーは、「離島の展示会」であって、美味ばかりとは言い難く、観光客誘致も主眼。あるいは移住の相談とかになると、実際の移住者の体験談など聞けてかなりシリアス。
もちろん美味も売ってるんだけど、だいたい地酒か、海産物で、どこも変わり映えがしない。海産物はどこもイワシかトビウオが多い。日本近海に普遍的にいるんだなあ、ということがわかるが、どこで取れても味は同じなので「この島の名産」という感じがしないんだよなあ。
   *  *  *
アイランダーは離島=限界集落の必死の村おこしなのだ。
もう10年以上フェス見に行ってるけど、出展島の顔ぶれが変わっていくんだよね。竹富町は出ているけど石垣島はいないとか。宮古島も5年くらい前に離脱。つまり、メジャーになった島は広報しなくていいから、来なくなるんだよね。
となると、ここに出続けている島は、メジャーになりきれない島ばかり、ということになる。必死さが滲み出てくる。
これは大盛況のメジャーイベント「全国物産展」でも同じことが言えて、たとえば昨年の京都府は食べ物の出展がなく、刃物・陶磁器・宝飾が来てた。京都のお土産屋さんはこんな展示会で広報しなくてもいいから来ないんだろーなー。毎年、熊本の「山うにとうふ(チーズのような豆腐の味噌漬け)」を買ってたのだけど、去年は来てなかった。メジャーになったのかしら。
自治体や商工会議所で出展者の調整するんだろうけど、正直、「今年はこんなんだけ?」っていうことがある。
   *  *  *
寒い地方の島は広報に必死だ。南の島はのんびりゆったり、のイメージで攻めてくるが、北の島は魚が美味いとはいえ、観光シーズンは南よりぐっと短く、進んで移住しようという人も少ない。
僕の故郷、瀬戸内海からもけっこう来てる。家島、犬島、佐木島、阿多田島、江田島(離島じゃないだろ!と思ったが)、大崎上島、大津島、周防大島祝島、そして笠岡諸島
そう、白石島や北木島からも来てる。近くても離島なんだよなーと。

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以下、オマケ。
以前、春休みに沖縄本島に遊びに行ったら、帰りの便で巨漢が乗ってきて、前席に坐ったら、何もしてないのに座席がリクライニングした。
迷惑なデブだな、と思って見たら目が合った。松村邦洋だった(野球のキャンプを見に来てたそうだ)。
羽田まで座席はリクライニング?したままだった。
飛行機の旅というのは拘束度が高いというか、列車などと全然違うよな、と思う。
スネーク・フライト」という映画を見たときは、蛇がいっぱいの便より、サミュエル・L・ジャクソンと一緒の便ってのが嫌だ、と思った。

ヒマネタ。私の「映画女優ベスト100」

 僕はもの知らずで教養課程をちゃんと踏んでいないので100人の女優を集める自身がまったくないのだが、どこまでできるか。
(このエントリは、以前、尊敬するブロガーteruさんが「私の映画ベスト100」などなどをやっておられたので、こっちは「映画女優ベスト100」をやってみたのでした)


第1位 シャーリーズ・セロン
 え、これかよ、とおっしゃる向きもあろうが、近年出色の女優は?というと、この人なのではなかろうかやっぱり。ド醜女メイクで観る者をアッと言わせた「モンスター」(2003)が強烈な印象だったけど、その後の「スタンドアップ」(2005)、助演「告発のとき」(2007)、「あの日、欲望の大地で」(2008)いずれも素晴らしかった。もうお色気女優としてのピークは過ぎたのかも知れないが、超美形なのに服をパッパッと脱ぎ捨てる度胸・根性がある。作品選びも丹念で、なかなかハズレの脚本を引かない(「コール」(2002)はハズレだったけど彼女の出演シーンはやはり良い)。そして「マッドマックス 怒りのデスロード」(2015)。あれ、主役はトム・ハーディじゃなくてこの人だよね。ていうかマックスがマッドじゃなくてクレバーだったので、マッド担当はこの人だったような。

第2位 ドリュー・バリモア
 この人は僕のちょうど10歳下。誕生日が同じ。ちなみに僕より10歳上が故スティーブ・ジョブズ。誕生日は数日違うが。どうでもいいか。
 ドリューはもしかすると、女イーストウッドのようになるのではなかろうか。偉大なアクター・ディレクターになるような気がする。今はフェミニンで楽しい、ホロッとする作品を手がけることが多いが、それってイーストウッドが監督を始めた頃ドン・シーゲルセルジオ・レオーネへのオマージュみたいな小粒の作品ばかり撮っていたのを彷彿とさせる。彼は「許されざる者」で全世界の観客をねじ伏せたわけだけど、ドリューもこのまま映画作り続けていればいつか凄いのを撮りそうな気がする。出演作で好きなのは現代的なシンデレラを演った「エバーアフター」か、一人でばんばん脱いでる西部劇「バッドガールズ」か。いやどっちも傑作からはほど遠いですけど、ドリューが可愛く映っているので。1999年の年末にTVKか何かで観た「ノー・プレイス・トゥ・ハイド」(1993)も良かった。18歳でスキニー(痩せっぽち)だが美しさは生涯最高かも。クリス・クリストファーソンやOJシンプソンら共演者もよかった。といってもDVDなど出てないので二度と見られないが。

第3位 原節子
 伝説的な人はなるべく取りあげたくないのだが、やっぱり自分的にはこの人は避けて通れない。1990何年だかに「東京物語」をニュープリント再公開で観たとき、白いブラウスから出た二の腕が物凄く色っぽくて、以来外せない。

第4位 モーガナ・キング
 誰やこれ? と言われる方もあろう。「ゴッドファーザー」(1972)「同PartII」でママ・コルレオーネを演ってた人。どうも俳優ではなく歌手だったらしい。本編の台詞も非常に少ない。だが、「GF」を代表する女優といえば僕的にはタリア・シャイアでもダイアン・キートンでもなくこの人。そうだな、この人の次点がシモネッタ・ステファネッリ(マイケルの最初の嫁アポロニア)か。撮影時17歳とかだよ。ヌードあるよ。今なら怒られるよ。
 ママ・コルレオーネに話を戻すと、この人の安定感と重量感がドラマに比類なきリアリティを与えてたと思います。イタリア多産系・女大黒柱のロールモデルというか、アイコンかもしれない。原節子の小津作品は、結局家庭に入るって話が多かったが、彼女の主婦姿はまったくリアリティがない。結局離婚して帰ってきそうなひと。彼女は独身を貫くOLのはしりではないかと。ママ・コルレオーネはその真反対というか。そして、夫ヴィトや息子ソニーの暴虐(家庭外での、ね)を知りつつ目を瞑る表情とか、素晴らしい。娘コニーに聟カルロがDV働いていたことにも無力だった。そのリアリズムが恐ろしい。彼女の存在感を上回る女優を僕はあまり知らない。
 あ、もしかしてママ・コルレオーネは東山千栄子なのか。

第5位 ジーナ・デイビス
 出演作は少ないが、「ザ・フライ」「テルマ&ルイーズ」「プリティリーグ」といった偉大な作品にその雄姿を刻み込んだ、偉大な女優と思う。スケールも大きいし(身長180)。「カットスロート・アイランド」という超大作・大コケ映画の主演だったため、その後起用されなくなった、んだよね? 残念なことだ。大柄で、優しそうで、かつキュートでイノセントな女を演じられる、稀有な女優だった。この状況を彼女が演じていれば!と思って他の作品を観ることがあります。まあ、流行とは無縁の美人でしたが、ごく一部に熱烈なファンがいることを書きとどめておきます。

第6位 キャロル・クリーブランド
 BBCのテレビシリーズ「モンティ・パイソン」主演女優。コメディエンヌだけど美形かつナイスバディで、胸元を強調した服を着せられ、頭の悪いグラマー美人を嬉々として演じていた。「モンティ・パイソンホーリー・グレイル」ではアンスラックス炭疽菌)城の女城主などを演じているので、映画女優認定します。キャロルがいなかったらパイソンのギャグはどんなことになってたか、想像してみられたし。彼女の役を全部、女装したテリー・ギリアムグレアム・チャップマンに置換してみるのだ。どうです、彼女の偉大さがわかるでしょ。

第7位 ジョディ・フォスター
羊たちの沈黙」(1991)が大好きだったので挙げざるを得ない。映画通の人は「タクシードライバー」(1976)とか挙げるのかな。僕は「告発の行方」はあまり好きじゃない。そして一番好きな作品、かつ彼女のベスト演技は「コンタクト」(1997)じゃないかと思う。しかし、彼女はその後作品に恵まれず、「アンナと王様」「フライトプラン」とかひどい作品に出てしまった。というか、彼女は「作品は自分で吟味する」と言っており、それじゃアレか?おまいはこれらが良いと思って出たのか?と問い詰めたい心境だ。

第8位 ニコール・キッドマン
 一時ハマってた。ベストは「奥様は魔女」(2005)かなァ? ラズベリー賞も見事ゲットしてるし。その前年の「ステップフォード・ワイフ」も良かった。この時期にジョディ・フォスターが激しく迷走してるのを見て、「作品選びはキッドマンの方がうまいじゃん」と思っていた。まあ、ジョディは軽く自分を笑いものにするような役は演じられないんだろうなー、と思う。その点キッドマンは凄い。痛い役、イケてない役、観る者を唖然とさせる役とかを軽々とこなす。キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」(1999)では、観客とトム・クルーズの前でおしっこして局部を紙で拭いてみせた! もっとも、この人も超大作大コケをやらかすたちで、「ライラの冒険」「オーストラリア」と、大失敗作に関与している(後者はオーストラリア歴代興収2位なので一概に失敗とは言えないかもしれないが……投資家にとっては危険な投資先だったろう)。
 なんかこう書いてると僕内には大した印象がなかったのかなァなどと思う。それは彼女の代表作「ムーラン・ルージュ」「めぐりあう時間たち」「ラビット・ホール」などを無視してるからか。でもなあ…僕は、美人女優が美人を演じる映画はあまり好きじゃないのよ。コメディエンヌとしてのキッドマンが好きなんだな、うん。

第9位 スーザン・サランドン
 90年代のこの人は「テルマ&ルイーズ」(1991)「依頼人」(1994)「デッドマン・ウォーキング」(1995)と、男より男らしいおばさんを颯爽と演じて一世を風靡した。もちろん僕はこれらの作品が好きだ。だがサランドンのベストはこんなんじゃなくて、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975)と断言する。「ロッキー…」はそれこそ伝説の作品で、デビッド・ボウイフレディ・マーキュリーを彷彿とさせる世界観のミュージカル、女流漫画家など熱烈ファン多数、すごく賑やかな上映会、などで有名だが、これのヒロインをサランドンが演じていることは誰も言及しない。なぜだ?
 まあ、変な人物ばかりが出てくる映画なのだが、女主人公ジャネットだけは割とまともなのだ。そして、若いサランドンは懸命にそれを演じている。ミュージカルだからもちろん歌うのだけど、鈴を転がす美声とはまさにこのこと。というか、真剣に演じれば演じるほど、周りからどんどん浮いていく。最後は登場人物全員があっちの世界へいっちゃって、踊って大団円、て感じなのだが、サランドン浮きまくり。
 そもそもこの映画の顧客はグラムロック・耽美系大好きな女性であって、彼女らは映画を観るとき自分を女主人公に比定する。つまり、サランドンの個性なんてどうでもいいわけだ。観光地の顔出しみたいなもので、サランドンの姿の顔の部分はぽっかりと穴が空いてて、映画を観ている自分がそこに入る。そしてリフラフだのロッキーだのに取り囲まれる夢想をする……という仕組みの映画なのだ。サランドンは頑張り損で、熱演すればするだけバカみたいに見えるわけ。
 でも、それをやっぱり真剣に演じている彼女が僕は好きだ。そもそも僕はこの映画自体が嫌いなのかもしれないが。
 近年では「告発のとき」で大変厳しい運命に遭う母をすごく巧く演じていた。この人が画面にいると嬉しい。

第10位 ひし見ゆり子
 アンヌ隊員だし、「新仁義なき戦い 組長の首」のヒロインなので。脱ぎっぷりも素晴らしいし。

第11位〜 渚まゆみ梶芽衣子池玲子
 東映仁義なき戦い」シリーズのヒロインたち、いわゆる「仁義ガールズ」ということで。
 自分で書いたこのランキング、よく見ると梶芽衣子とひし見ゆり子の位置が逆じゃないか?とも思うが、ま、ひし見さんは別格ということで(梶芽衣子は脱いでないし)。

以下、順位を付けずに。
沖山秀子 「十九歳の地図」でKOされた。「神々の深き欲望」見なきゃ。
秋吉久美子 「さらば愛しき大地」
東山千栄子 「東京物語」。「Part II」のママ・コルレオーネと同じく作中で死ぬ。
杉村春子 もろもろ。セコいことをする役がいい。
ショーン・ヤング 「ブレード・ランナー」「デューン砂の惑星」。変な性格でトラブルメーカーだったらしいですね。
ダリル・ハンナ 「ブレード・ランナー」よりも自分的には「俺たちの明日(Reckless)」(1984)。といっても知らないでしょうかしら。僕は「ストリート・オブ・ファイア」(1984)の併映で見ました。
アリソン・イーストウッド 「目撃者」「真夜中のサバナ」。他の出演作知らない。もっと見たかった。
ヒラリー・スワンク 「ミリオンダラー・ベイビー」。
タリア・シャイア 「ゴッドファーザー」「ロッキー」。この人、出演作すっごい少ないのね。どのコニーも、どのエイドリアンも好きです。不在なのに存在感のあった「ロッキー・ザ・ファイナル」も好きです。
キム・ベイシンガー 「L.A.コンフィデンシャル」、と思うでしょ。でも僕は「ウェインズ・ワールド2」がベスト。
ジェニファー・ローレンス 最近このひとに夢中。「ウィンターズ・ボーン」(2010)。「あの日、欲望の大地で」はキム・ベイシンガーシャーリーズ・セロンも食っていた。若いからってだけじゃない、輝きを持ったひと。ただ、「ハンガーゲーム」は最悪。
ナンシー・アレン 「殺しのドレス」「ロボコップ」。可愛い! 今見るとちょっと野暮ったいが、そこが良い。
ディナ・メイヤー 「スターシップ・トゥルーパーズ」、彼女がヒロインなのに映画の紹介スチルではデニース・リチャーズばかりが出てくる。
デニース・リチャーズ 「同上」「ワイルド・シングス」「最'狂'絶叫計画」。全然好きじゃないけど、チャーリー・シーンの嫁だったとか、雑な私生活とかいった、荒れ果てたセレブぶりは好き。あと、彼女の顔つきは日本の巻き髪したりするオシャレな女の子のロールモデルですね。前の職場にもこういう美人がいたっけ。こういう容姿がどんなふうに見られるか、という面でも興味深い女優さんです。
坂本スミ子 「楢山節考」。この人も案外出演作が少ないんですね。
倍賞美津子 いろいろあるけど、自分的ベストは「秘祭」(1998)かな。友人からDVD借りて観た。役どころは「楢山節考」とたいして変わらんかった。
大谷直子 「ツィゴイネルワイゼン」。あの蒟蒻のちぎり方は大きすぎると思いますが。

ここまでで30人。あと70人は挙げられないな。今だって、ただ知ってる女優の名前を列挙してるだけだもんな。
難しいんだよね、ロメロ監督作とか全部見てるけど、主演女優の名前なんて覚えてないっしょ? そもそも中学生男子が好むような映画ばかり見てるので、女優さんの魅力が開花してるような質の良い作品とあんまり縁がないんだ僕は。

というわけで、実用的なランキング。
池上季実子 「HOUSE」(1977)。序盤から脱いでるあたり、素晴らしい。あと「太陽を盗んだ男」も良かった。
神保美喜 「HOUSE」。脱いでないけど素晴らしい。当時の女優は脚が太かった。それでも素晴らしい。
みひろ 「SRサイタマノラッパー」はすごく良かった。主演ビデオ群は好きじゃないけど。
菊池桃子 「パンツの穴」(1984)。当時、イスラエル製作の青春エッチコメディ「グローイング・アップ」というシリーズがありまして、そんなのを日本でやろう、って企画が「パンツの穴」だったと思います。菊地はお色気アイドルとして登場したわけです。いま家庭用品のCMタレントとして多露出しているのを見ると、過ぎた時間の長さを感じます。映画はあまり良い出来だったように思いません。
坂井真紀 「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008)。この恐ろしい映画の中で彼女の可愛さは貴重でした。たしか脱いでますし。
ダイアン・レイン 「ストリート・オブ・ファイア」(1984)ですっごくかっこよかったし、美人だった。でもそれは化粧のせいなんだとは、当時の僕にはわからなかった。「愛は危険な香り」(1987)で脱いだというので喜んで見に行ったがたいへん残念な作品だった。
エレン・バースティン 「エクソシスト」(1973)のお母さんだが、僕的には「この森で天使はバスを降りた」(1996)のお母さん。三遊亭白鳥の「この寄席で天使はバスを降りた」もとい「天使がバスで降りた寄席」も必聴といえよう。関係ないが。
市川実日子 「シン・ゴジラ」の尾頭ヒロミ、環境相自然環境局野生生物課長補佐しか知りませんが、作中屈指の女子力で作品を支えたと思います。