新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

最近のピーター・バラカンは同じ曲を何度も掛ける

土曜朝。先週の旅行から帰ってきたバラカンの番組を聴いているのだが、今日はスモーキー・ロビンソンの特集なのだそうだ。この分だとコーエンとかラッセルとかの追悼リクエストは掛からないな。

NHK FM「ウィークエンド・サンシャイン」今月のプレイリスト
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いっとき、番組で死んだ人の追悼ばかりやっていて「抹香臭い」「死んだ人の曲を機械的に掛けるだけであまり意味が無い」といった批判が出ていた。だから、今のように時事的なことと関係なく自分の掛けたいものだけを掛ける、というのはある意味正しいのだが。
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バラカンの印象は大昔の「ポッパーズMTV」の頃に形成されていて、新しい曲をいろいろ紹介してくれる人、さすが日本人とは違う、というイメージがあるのだが……実は古臭いルーツ音楽が好きで、ポッパーズで掛けてたような曲はほとんど嫌いだった、というのが真相なのだなあと。
2ちゃんねるバラカンスレッドには、ちゃんと注意書きが書いてある。「かなり偏っているものと思って聴け」「日本は欧米よりルーツ音楽好きが多いのだが、それは実はバラカン布教の功績」とかね。
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ただ、今日のスモーキーとかモータウン特集にしても、いつも掛けてる曲を掛けてるだけじゃん、という印象は拭いきれない。最近掛けた曲を忘れてまた掛けてる疑惑が湧くくらいだが、正解はおそらく、年取ってストライクゾーンがごく狭くなっている、ということではないか。何しろ、ロックを掛けないものな、最近は。
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以前のこの番組は、けっこう新譜を掛けていた。ロックもね。
また、インターFMで平日朝の3時間番組を持ってた頃は、新譜やリクエストはあっちで、NHKでは全国からのリクエスト(渋めの)と、古いもの、自分がほんとに掛けたいものを、といった棲み分けがなされていたような気がする。
しかし今はインターも週1の2時間だし、バラカンのラジオ番組は1週間で4時間しかないわけで、そうすると他者のこと気にしていられず徹底的に自分が掛けたいものだけ、という選曲になるのか。
さっきから「マイ・ガール」(ストーンズもカバーしてるやつ)がテンプテーションズ、オーティスレディングと繰り返し掛かっているのだが、まさしくそういうことだろう。聴いてる側は「またか!2分半がもったいねえ!」と思うのだが、掛けてる方は「この違いがわかる?良いでしょ!」と言いたげだ。
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案外、レナード・コーエンは聴いたことがない、ということもあるかも。何しろ、子どもの頃から不快な曲(ボウイとかTレックスとか)が掛かるとラジオ消してたってくらい偏食な人なので。
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【追記】20161120のインターFMバラカン・ビート」では、レナード・コーエンはじめ最近なくなった音楽家四名の追悼リクエストを掛けてくれた。コーエンは最新作を遺して死んだのになかなかそれがかからないのが残念だったが、バラカンは新作のタイトル曲「You Want It Darker」をちゃんと掛けてくれた。これはうれしい。ありがとう。ニューオリンズの人の「ハレルヤ」カバーも良かった。つごう四曲だから他の番組に比すと大サービスだった。

ただ、リクエスト主体で喋ると、バラカン自身がコーエンをどう思っているかがわからないのが残念なのだった。やっぱりあまり興味ないんじゃないの説を僕は疑ってしまう。
この日のバラカンを聞いていて思ったのは、他の三人の音楽家と違って、コーエンの死にはあまり喪失感を感じない、ということだ。いやバラカンが感じてないとかじゃなくて、僕が感じないんだけどね。コーエンは禅をする人だったから。禅というのは小さな死だから。
ただ僕が腹が立つのは、死んだから曲が掛かる、という日本のラジオの状況だ。最新作が出たときに、死んでなくても掛けろよ。遅いんだよ。そんなことだからホントに新しい音楽聴きたいやつはYouTubeやネトラジに流れるんだよ。
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民放もNHKも洋楽をどんどん掛けなくなっている現状がある。その中の貴重な週4時間が時節と関係ないバラカンの趣味で埋められるのが少し勿体ないとは思う。だけどまあ、彼ももう晩年のよーなにおいがしているので、生きてる間は好きなルーツ音楽にすべての時間を捧げるのも良いかもね。

歯に衣着せぬ藻谷浩介『観光立国の正体』、面白かった

『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く」の藻谷浩介の最新刊、面白かった。
ただし本書は藻谷がホスト、共著者がゲストの本で、ゲストはツェルマットで観光のカリスマと呼ばれたらしい山田桂一郎という人。
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目次を列挙すると、

1 観光立国のあるべき姿 山田桂一郎
第1章 ロールモデルとしての観光立国スイス
第2章 地域全体の価値向上を目指せ
第3章 観光地を再生する──弟子屈町飛騨市古川、富山県の実例から
第4章 観光地再生の処方箋

2 「観光立国」の裏側 藻谷浩介×山田桂一郎
第5章 エゴと利害が地域をダメにする
第6章 「本当の金持ち」は日本に来られない

前半は山田さんの執筆なのかな。後半は藻谷と山田の対談。
興味深い小見出しを抜粋すると、

寂れた観光地に君臨する「頭の硬いエライ人」/「観光でまちおこし」の勘違い/「時間消費」を促すことが「地域内消費額」をアップさせる/「新幹線効果」の誤解/富裕層を取りはぐれている日本/「地域ゾンビ」の跋扈/「改革派」にも要注意/ボランティアガイドは「ストーカー」と一緒/世界一の酒がたったの五〇〇〇円/「アラブの大富豪」が来られるか/近鉄JR東海という「問題企業」/「熱海」という反面教師/大河ドラマに出たって効果なし!/頑張っても大変な佐世保/「おもてなし」は日本人の都合の押しつけである

などなど。
後半が悪口言いたい放題で、ほんとに面白い。実名挙げてる。熱海とかは有名だけど、こないだサミットやった志摩観光ホテルとかも手加減せず云ってる。佐世保では「佐世保バーガーとか手がけた遣り手の人がいたのだけど、結婚して東京に行ってしまったので以後きびしい」などと個人名特定できちゃうぞなことまで云ってる。いいのか。
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僕も観光大好きなのでこの本読んでいろいろ思ったのだけど、「ほとんどの田舎の観光地が『安かろう、多かろう』で物を売るので、大金持ちを連れていける店がない」という指摘。日本一になった日本酒が上代五千円しか取らない、ということとか。ロマネコンティみたいな値付けの商品が必要なんだよ、ということ。
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僕の好きな宮古島(と言いつつほんとは伊良部島が好き)も段々と開発が進んできたのだが、宿は富裕層向けと貧乏な若者の泊まるゲストハウスとかきちんと別れてるけど、食事がね。なかなか。安くて大盛りの店はたくさんあるんだけど、一食に3万円とか使って平気な金持ちだと行く店ないと思うよ。
僕はもちろんそんな贅沢はできないけど、そろそろ年取ってきて大盛りは苦手になってきたわけよ。それより毎食野菜をいくらか摂りたいんだけど、島は野菜が少なくてね…。
それと、本書が繰り返し云ってる、「名所旧跡は面白くない」というのは慧眼だと思う。
自分のこと考えても、宮古島に20回以上行っても、東平安名崎は最初に2回、友だちと1回くらいしか行ってない。それより平良の裏道を散歩したり、御嶽を訪ねたり、狩俣の誰も来ないビーチで昼寝する方がいい。
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用事があって世田谷の豪徳寺近辺に行ったわけよ。豪徳寺商店街と山下の駅近辺はごちゃごちゃしてて、歩くのには良いけど、クルマだと通り抜けるのも一苦労、自転車でもしばしば停止しないといけない。前近代的な街。
だけど、ここに英語圏のオジサンオバサンおねえさんの団体がいて、楽しそうにいろんなものの写真撮ってたわけ。郵便局の赤いカブの写真とか嬉しそうに撮ってる。
ああ、猫の豪徳寺に来たのかな、ここから隣の梅丘までは歩けるし、そしたら美登里寿司もあるしねえ、なんて思ったのだが、彼らは、狭隘で混み合った山下の通りがほんとに楽しそうで、それは羨ましいほどだった。
観光というのは、名所よりも、現地の人が普通に暮らしている場所、それが自分の故国と違ってたりするともう最高なのだね。この本では「異日常」と云っている。
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僕が大嫌いなのは、NHKラジオのお昼の番組「旅するラジオ 旅ラジ!」。
イベントカーがあちこちの自治体を廻って、その町の町おこしを地元民に紹介させる番組なのだが、ほんと聴いてて辛い。出る人たち、言わされてる感満載。一人一人は真面目だし、一所懸命だし、がんばってるんだけど、全体として見ると金太郎飴のようにテイストが同じ。地方の商店街の優等生を集めました、その弁論大会、みたいな。
僕の好きな観光は、特産品バーガーとか町おこしイベントじゃない。商店街の隅でやってる怪しいバー(全共闘崩れのマスターだったり、最近東京から流れてきた屈折青年がやってるような)とか、ヌードスタジオとか、あるいは碁会所とか、そういうのを見つけられるとすごく楽しいのだ。幸いそういうのは、「旅ラジ!」には決して出ない。僕が見つけるまでそっとしておいてくれる、粋な計らいなのだろう。
藻谷の本は、そういう感覚まで掬いとる度量があったと思う。

スピルバーグの魔術に騙されてはいけない、とよくわかる「戦火の馬」

先日やっとDVDを見た。スピルバーグの泣かせる戦争映画。
鑑賞中ずっと違和感が付き纏ったのだが、ネットでいろいろ感想を読んでも解消されなかったところ、Amazonの★1つレビューを読んで納得。

このリンク先のレビューで「★1つ」には3つの投稿があるが、うち2つは北海道の人のレビューだった。二つとも「馬という動物への間違ったイメージ」「動物映画にありがちなご都合主義」と手厳しい。
ネット上の感想はほとんどが「感動した」「スピルバーグ健在」といった好意的なものばかりなので、僕も搦め取られそうになったが、なんとか踏みとどまった。
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スピルバーグ、相変わらず「見たいものを撮る」という癖が抜けないんだな。
「そこにあるものを撮る」のではなく、「見たいものを撮る」、この違いがわかるまで、僕はずいぶん時間が掛かった。
「そこにあるもの」だけで「自分の見たいもの」を作り出すのは、すごく難しい。だから、つい人は「そこにないもの」を撮ってしまう誘惑に負ける。
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ずっと以前、ちょっと競馬をやっていたのだが、馬券を選ぶ決め手が最後までわからなかった。パドックで美しく強そうに見える馬を買えばいい、という人もいたが、外見と強さは比例するのか、全然わからなかった。 目利きにはそれがわかるのだろうか? 今でもわからない。
この映画ではみんなが主人公の馬をひと目見て「名馬だ」と惚れる。外国人は僕なんかよりずっと馬に馴染みがあるのでわかるのだろうか。
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それでも、WW1の終盤は、馬は自動車にリプレースされ、無用の長物になっていたことが少し描かれててよかった。
なお、日本陸軍では大東亜戦争でもこの映画序盤のように、騎兵や輜重や砲科で馬が重用されていた。「愛馬進軍歌」に歌われたように(この歌にはあの栗林中将がちょっと関わっている。良い歌だ)。
だから馬と兵士との心理的紐帯はよく描けているのだが、それに馬がきちんと応えてくれる、というのはどうも嘘くさい。 とても綺麗な映画だけど、駄作だとしか云えない。

軍馬について、日本にもすぐれた小説があった。連作の中の一篇なのだが、帚木蓬生の軍医小説『蠅の帝国』所収の「軍馬」である。
帚木のこの連作は、実在の軍医たちが遺した数多くの論文や手記を元に書かれている。医師である帚木は、あの戦争を医師はどう生きたか、をこの連作で描き込んでいる。「軍馬」は、日中戦争にいった軍医の物語なのだが、軍馬に対する情熱が嵩じて馬術の達人になってしまい、本職の騎兵を凌駕してしまった、という愉快な話。しかしここで描かれる軍馬の姿はファンタシーではなくリアリズムである。

 この2冊は全部、軍医の物語です。

クソみたいな物語を面白く見せられる時代──感想『「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方』

部屋を整理してて出てきたので再読。

キネ旬総研エンタメ叢書 「おもしろい」映画と「つまらない」映画の見分け方

大変危険な本! 映画を「ストーリー(骨格)」と「テリング(盛り込まれたもの)」に分けて分析する、よくある本だけど、本書の危険さは他に類を見ない。岡田斗司夫のハリウッド映画分析とか、この手はいろいろあるんだけど、決定版だと思う。
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なんで危険かというと、「人はストーリーの起伏で感情を刺激される」「盛り込まれたものは(けっこう)どうでもいい」という明け透けな事実がバラされ、「こうすれば絶対、深く感動する」という急所が全部明かされている。
すべては動物としてのヒトの深層心理レベルに依拠している、そこには教養や人格はあまり反映されず、乳幼児レベルの快不快の原則が適用される。
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というか、思想にも感情を刺激する骨格はあるので、思想の善悪ではなく、非常に低いレベルの好悪が思想を左右してきた、ということがバレる。
マルクス主義吉本隆明が支持されたのも、思想の善ゆえではなく、読んだ人の感情を刺激した(それだけだ!)からじゃあないかという疑惑が持ち上がりかねない。
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映画に話を戻すと、「千と千尋」がジブリのピークで、以降のジブリ作品はストーリー作りにことごとく失敗している、というのがはっきり明かされている。ピクサーについては触れられていないが、どんなテーマでも絶対に感動させてくれるピクサーのシナリオは、本書の指摘通りベッタベタに作られていることもわかる。(だから最近のピクサー作品は構造が全部同じで、鼻につくところも多い)
イーストウッド作品は「グラントリノ」と「硫黄島からの手紙」が取り上げられているが、他の同監督作品もほとんど同じ構造を持ってることがわかる。「真夜中のサバナ」はちょっとはずしてるけど、「許されざる者」以降はほとんど同じだね、とファンならわかるはず。
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本書以降の映画批評は変わらなければならないはず。
これまでは「テリング」について語るだけの批評も許されたが、そうじゃなくて、作り手が「ストーリー」の動力源として採用した「哲学」や「倫理」を語らなければ、批評としての価値がないのではないか。
また、俗流の感想文で「見る人の趣味嗜好に依る」と投げっぱなしにしてしまうことがあるが、これもウソ。どんなに趣味が似た映画でも、このツボをはずして作られると、「テーマは良いんだがなぜかノレなかった」ということになる。
あと、本書は多くの映画では「真の主人公」がいて、ぱっと見の主人公とは違う、と指摘している。大物の主演俳優じゃなくて「こいつだったか!」という発見があると確かにメチャ面白い。

パリのテロから1年後、トランプ登場なんだね

「トランプの勝利で、アメリカのレイシストだけでなく、日本のレイシストも浮かれてる。言っとくけど、トランプ支持のアメリカの白人からすれば、日本人は有色人種。差別される側だよ。」
映画作家・想田和弘監督のFacebook投稿である。

僕はもともとは想田のような左翼が好きだったけど、こういうコメントを読むたび、幻滅してしまう。「差別されない側、差別する側なら、良いのか」という揚げ足を取るつもりではないが、事態を単純に見積もりすぎだと思う。
日本のレイシストが浮かれているとしたら、それは「トランプ当選によって差別をしてよい社会が到来した」ことに喜んでいるのだ。自分が差別される側であろうと、そんなことはかまわない。それが差別のある社会、差別する社会の本質だ。
だから差別は手強いのだ。差別することに抵抗がないうえに、彼らは差別されることも何とも思わない。だから彼らに対して「やーいやーいレイシスト」と揶揄軽蔑する戦術は、「こちらも差別する側になってしまう」というネガティブ効果しか発揮しなかった。それをカウンターの人たちは分かっていたのかどうか。
こういった「差別の手強さ」を認識しないと、差別には勝てないのではないか。

なにか、躊躇していれば良識がありそうな、現在の権威に反抗していれば正しいような、固着した行動様式がうかがえる。
現実の世界では、アメリカの軍事秩序の下で生きる以外の良い選択肢はなかなかないし、世界中どこに往ったって監視社会で生きるしかないし、自由が制限されることを受け容れるしかない。現実を否認していれば自由でいられる、というのは石破茂とかの言う「ダチョウの平和」になってしまう。

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1年前のパリ・テロの際、池内恵がシェアしていた記事が以下。
To Save Paris, Defeat ISIS
師曰く、
「(当該記事執筆者ロジャー・)コーエンの議論ではあたかもイラクやシリアへの軍事的対処がテロをなくすかのように見えかねないが、そしてそれは究極的には正しいのかもしれないが、私の見方では、軍事的対処策は短期的にはテロを増やす。「短期」がどれぐらいかというと、かなり長いかもしれない。」

だからといって池内は「軍事的対処はいっさいやめよう」と云ってるわけではないことに注意。
それと、小田嶋隆のように「今回のテロで移民や難民への憎しみが増すならそれはテロの勝利だ」というのもどうか。「被害者に哀悼を捧げること」=「異民族への憎しみを募らせること」という回路が当たり前、と言っているように見える。それは違うでしょう。
監視・管理社会は喜ばしいものではないが、それがきちんと運営されれば、少数派異民族を守ることにもなる。単純に「テロはなくならない」と覚悟して、粛々とテロ対策するしかない。
「テロがない社会」「憎しみのない社会」が理想だが、それは無理なのだ。「憎しみを肯定することは許されない」という主張は短絡過ぎて無意味だ。

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同じく一年前にダークツーリズムの井出明先生はこんなことを書いておられた。
「アメリカの自然科学博物館では、なぜか(と言うか社会的影響力の強い博物館なのであえて)「スパイ、売国奴工作員:アメリカにおける恐怖と自由」と言う企画展示をやっている。これを見る機会があったのだが、9.11以降、近所のスパイを炙り出せということで無関係なムスリムを片っ端からグアンタナモに送り込んだことがこの展示を企画した背景にあるようで、一次大戦の無制限潜水艦作戦後、パールハーバーアタック後、冷戦下の赤狩り中に、密告されたスパイと呼ばれる人々が実はほとんど無関係であったことが反省とともに語られている。酷いのになると、日系人が鳩を飼っていただけでスパイとして取り調べられたと言う話があり、スパイを探すという活動が非常に無意味で、結果的に重大な人権侵害となると言う警告を発している。病が深いのは、スパイを密告していた連中が、自分たちは国のために良いことをしているという意識を持っていた点で、展示に出ていたKKKの関係者も世の中のためになるとおもってやっていたというのが衝撃的であった。
フランスは人権先進国なのでグアンタナモみたいなものは出来ないだろうけれども、この展示を見たあとで来訪者にとったアンケートの8割が、「それでもスパイを我々が見つけることは大事だと思う」というのにYesと答えていたので、フランスのこれからがやはり心配になってしまう。」
(ヒューストンのMuseum of Natural Scienceで、「Spies, Traitors, Saboteurs: Fear and Freedom in America」と題する特別展があったのだ。リンクはすでに切れてしまっている)

僕は、同じ考え込むならこういう方向へ行きたい。
「そもそも植民地支配始めたのは英米だ」というのは、間違っちゃいないかもしれないが、今言っても詮無い。そして、イスラム世界の民衆が陥りがちな陰謀説にこちらも搦め取られる危険がある。

レオン・ラッセル、レナード・コーエンの後を追って(?)訃報

レオン・ラッセルも死んだそうな。11月13日(日)にナッシュビルで亡くなったと。享年74。若い!

彼については音楽・恋愛・バイク・クルマ小説家の山川健一が短編を書いていた。
(以下大意)レオンが身体の自由が利かなくなった頃に来日して、九段会館でひとりコンサートをやった。バックなしで、キーボードを叩いて一人で全部の音を出し一人で歌うライブ。小さなホールで(昔はすぐ近くの武道館でもやったのに)、客も少なく、一時間ほどで終了。「友だちがいなくなってしまったんだろうな」と思えるような寂しいコンサートだった。(『ふつつかな愛人達』1993所収「メロディとその他のもの」)
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レオン・ラッセルは70年の「ア・ソング・フォー・ユー」がとにかく有名だが、それって28歳ってことになる。
だけどそれはけっして幸福なことではなくて、山川健一も「一時は世界的なロック・スターになり、けれどその後落ぶれ、もう十年近く前からどこで何をやっているのかわからなくなってしまった」(前掲書)と書いていたように、光が眩しければ眩しいほど、影も深い、というか。
山川は、一人でピアノを叩いて歌うレオンについて、「友達が、いなくなっちゃったんだろうな」「喧嘩したりして友達がいなくなっちゃって、のこり少ない友達はもうジジイでツアーに出るなんてとても無理なんだろう。だからああやって一人で回ってんだよ」(前掲書)と皮肉っぽく言及する。この見解は短編小説の中で一瞬爽快に書き替えられるのだが、大筋はこの通り寂しいまま終わる。
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しかし考えてみれば、この小説じたいが23年前の刊行だ。その時点のレオンの年齢は、51歳!
今の僕と同じ年だ。
そのレオンに対して山川は「考えてみりゃ、あのジジイは大したジジイだよな」と云う。
山川自身が若かったというのもあるだろうが、51歳で杖を突かなければ歩けないレオンもちょっとどうかと思う。昔の人はだいたい健康に無頓着だし芸能人は不品行で乱行したのだろうけど。
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レナード・コーエンは享年82歳。コーエンは「ア・ソング・フォー・ユー」に匹敵するようなヒット曲はない。「スザンヌ」や「電線の鳥」「慈悲の姉妹」「立派な青い雨合羽」「チェルシーホテルNo2」など初期のヒット曲と言えるものもあるにはあるが、ラッセルには全然かなわない。ラッセルはスーパースター、コーエンは食い詰め寸前の詩人であった。
だがこの後、二人の運命はまったく逆転する。
80年代から90年代、「スーパースター」「ジス・マスカレード」など一世を風靡した曲が、すべてアウトオブデイトになって過去の人となっていったラッセル。反対に84年の「様々な位相」(「ハレルヤ」を含む)から段々と大衆に名を知られるようになり(それでもマイナーでしかないのだが、前よりはマシ)、若手の同業者からなぜか好かれたり、愛人を取っかえ引っかえしたり、マイナーながら幸せそうである。
90年代は「未来」というアルバム1枚を出しただけだが、これが実は微妙にヒット作で、映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」に使われたりして、コーエンの一番新しい古典、という評価になっていく。そして2001以降の15年間で5枚ものアルバムをリリースし、ワールドツアーを敢行するなど、驚くほど精力的な晩年を過ごした。
先だっての死も、最後のアルバム「もっと暗いのがいいんだろ」リリース直後で、ボブ・ディランノーベル文学賞受賞についても「エベレストのてっぺんにメダルを飾るようなものだな」と皮肉なコメントを出したり、元気いっぱいの中での突然の死だった。なんと幸せそうな死であったことか。
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コーエンは禅をやっていた。臨済禅らしい。ずっと前に来日した際には「日本の禅は死んでる」とか悪態をついたらしいが、それでもやめなかったようだ。
禅をやりながらも煩悩の火は滅することなく、伴奏女声ボーカルを次々替えて楽しんでおった。楽しんでいたのが聞き手にもわかるくらい、楽しそうだった。
こいつ煩悩まみれじゃん! と思って呆れていたのだが、どうもこれは正しい禅と煩悩のあり方なのではないか、と思うようになった。
たぶん禅をやっていなかったら、愛人と愛人がバッティングしたとかの時慌てたりしただろうし、ブレーキが利かなかったりアクセルが開かなかったりもしただろう。禅は煩悩を消すためにやるのではない、コントロールの精度を上げるために禅があるのだ。何より、そうした楽しい煩悩まみれの人生をコーエンは積極的に楽しんでいた。人生に振りまわされることがなかった。彼は人生の主導権を握って、楽しく歌いながら、楽しく働きながら、老いて死んでいった。
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レオン・ラッセルの晩年はどうだったのか、知らない。いくつもの表彰を受けたことは年譜に書いてあるが、どのようなコンサートをしたのかは山川健一くらいしか書き残していない。50代以降のことは皆目分からない。
山川が言うように「友だちが居なくなったから、一人で演奏しに来た」のだとしたら、それは哀しすぎる。
コーエンは艶福家でかつ若い音楽家にも愛され、ツアーは大団体だった。
ラッセルは紛れもないスーパースターなのに、ひとりの演奏旅行だったと。
それが楽しいもので、魂を燃焼させるにふさわしいものであれば、ひとりでもいい、かまわないだろう。そうだったに違いない、と思いたい。
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レナードLeonardもレオンLeonも、ライオン、獅子を語源とする名前である。
ライオンの雄は、雌が中心になって形成する群れ「プライド」に一頭だけ君臨するボス雄と、群れに入れず放浪するはぐれ雄とがいる。だがどちらもライオンである。

 
 

中島義道に怒られてみたかった

中島義道。大人気の哲学者である。彼の本を、時々僕も読んでいる。
これとか。

この人は、本当に言行一致の人らしい。電車の中で化粧している少女に向かって「車内での化粧はやめなさい!」と大声をかけ、少女を追い詰める。
やれやれである。
だがまあ、たまにはこういう人が居てもいいか。
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この人の態度はこんなだから、本書のタイトルも逆説やレトリックではない。
本気でこう考えているし、この人の本は一貫してこんな感じらしい。
『自分の弱さに悩むきみへ』というタイトルの、若者を励ますような著書もあるが、それは「人生は生きる甲斐なんてないから、そう認識して生きていけ」という、よくわからない励まし方である。
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この人とよく似た人、いやキャラクターを知っている。
ムーミン」に登場する厭世的な哲学者「じゃこうねずみ」である。
彼は日がなハンモックに揺られながら『すべてが無駄であることについて』という本を読んでいる。時折厭世的な言葉や、超上から目線の嫌味などを云ってムーミン一家を不快にさせる。彼の嫌味に動じないのはママだけである。
中島義道の嫌味がオバサンにはまったく通じないのとよく似ている。
そんなわけで、読めば読むほど本書の著者の姿形がじゃこうねずみに変換されて私の中で像を結ぶ。電車の中で少女に食ってかかるじゃこうねずみ。無視されて怒り、腹いせに少女の写真を撮るじゃこうねずみ。少女にそれを奪われまいと肘を突っ張るじゃこうねずみ。少女を蹴ろうとして足が届かないじゃこうねずみ
私はというと、ハンモックでこの本を読もうとして、うかうかと寝てしまうのである。厭世的な哲学愛好者にすらなれない。
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中島は電気通信大学の教授だったとき、調布の商店街のうるさいスピーカを引っこ抜いて捨てたりしていたそうだ。2009年に退任したらしいが、それ以前だったら調布の街でうるさくしていたら中島義道に𠮟られたりしたのだろうか。𠮟られてみたいものである。