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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

トランプ大統領だが、副島隆彦が20年前からその登場を延々と予言していたことについて

トランプ大統領が就任したらしいが、いまだにトランプが当選したことを〝アクシデント〟や〝愚かなこと〟と認識してる人がいるのかね。

目の前で起きていることを、事実そのままに認識するのが辛い、という生理がヒトにはある。ヒトはいろんな性向・傾向(バイアス)を持ち、それに適合しない事実(刺激)は認識したくない(反応)、という心理サイクルが起きることがある。きわめて単純な生理・心理反応にすぎないんだが、それが「民主主義」とか「人道」「倫理」といった政治的なバイアスをまとうと、ことがこじれる。

2011年の震災と原子力発電所の事故以来、どんな素人も政治性にさらされ、旗幟を鮮明にするよう迫られ、ストレスを受け続けている、という気がする。

   *  *  *

それはさておき、トランプだ。トランプが大統領になったのは、アメリカの一般民衆の底流、通奏低音、物言わぬ大衆、積年の憾みからして当然だ、と、なんと20年近く前に断言していた本があった。

副島隆彦の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』である。

元の本は1998年とか2000年に出ている(文庫は上下巻だが、底本は正編と続編、それを文庫化の際再構成しているようだ)。だからおおかた20年前に、と言っても間違いじゃない。

僕も底本が出た時に好きで読んでいたのだが、最近図書館で軽い気分転換のつもりで読んだら、〝トランプ〟という文字こそ出ないが、冒頭からどう考えてもトランプのことばかり書いていると気づいて驚愕したしだい。

 

クリント・イーストウッドは、「リバータリアニズム」Libertarianismというアメリカの民衆型の保守派政治思想を体現する人物である。リバータリアニズムとは、「社会福祉を推進し、貧しい人びとに味方し、人権を守る」と主張しているリベラル派の人間たちの巨大なる偽善と闘うために出現した、庶民的な保守思想である。現代においては、左翼リベラルたちは、キレイごとだけをいう偽善の集団に転落してしまっている。現代の思想弾圧は、人権とヒューマニズムを旗印にしてリベラル派が行うのである。(p.16)

 

トランプがリバータリアンかどうかはよくわからんけど、この引用で重要なのは後段だ。つまり、「リベラルの偽善に対して怒りが積もっている」ということ。

 

私は、そのようなヒューイ・ロングが大好きである。彼に体現される政治行動を「ポピュリズム」populismという。そのまま訳せば「人民主義」である。ポピュラーという言葉のイズム形であるから、一般大衆に大変人気のある庶民的な政治ということである。このポピュリズムが荒れ狂うときに、アメリカの支配階級であるエスタブリッシュメントの人々は、憂鬱になり不安な気持ちに襲われる。なぜなら、ポピュリズムは政治家や官僚や財界人たちに対して激しい不信感を抱いて沸き起こる、民衆の怒りの感情そのものを意味するからである。(p.102)

 

なんだ、トランプ登場ってそういうことだったんじゃん、と明快にわかる一段落。20年近く前にこれを読んでいたのに、今回トランプの当選に当惑してしまった自分がなさけなくなる。

   *  *  *

去年の大統領選で目立ったのは、ヒラリー支持派が「私たちはトランプ支持者よりも頭が良い」と思っていたことが印象的だった。ダダ漏れだったよね、この感じ。つまりあの人たちは、「私はお前のようにバカではない」と思っていたのだ。そんなこと思う人はまぎれもない「バカ」だよね。

現今の「左翼リベラル」の苦境も、ここに原因があると思う。リベラルは理想主義であり、自分らは保守派や民族派よりも合理的で進歩的で頭が良い、と思っている。その鼻持ちなら無さに、政治的でありたくない一般民衆が嫌悪感を抱き始めた。というのが日本の2016だったんじゃないかと思う。

副島は本書でヒューイ・ロングの他にポピュリストとしてロス・ペロー、パット・ブキャナンを挙げている。他にロン・ポールもいた(インターFM陰謀論好きドイツ系米人DJデイヴ・フロムが2012に支持していた)。ポールはリバタリアン党からの大統領候補だ。こういう人達はこれまで第三極から立候補していたので民主党対共和党の争いに割り込めなかったが、トランプは共和党から出たためについに大統領の座を射止めた、ということだろう。

   *  *  *

副島は、こんな風に政治的予測がよく当たる。経済的予測も、金地金の高騰などを見事に当てている。

それだけではない、吉本隆明が死んだ時は「自分以上に吉本を理解している人間は世界にいない」などと堂々公言し、自分の思想遍歴を隠さない男らしさがある。

私は学生時代から二十年間ずっと吉本思想に入れ上げた。しかし、この四、五年前から、彼の思想に興醒めするようになった。果たして、思想が変わらずに一貫しているということは、そんなにも意義深いことであろうか。私自身は、昔も今も、自分は時代に合わせて変わっていく存在でしかないと考えてきた。むしろ、時代の感覚のもっとも研ぎ澄まされた部分で誰よりも潔く変化し、思考転換を図っていこうと思っている。その際に大切なことは、自分の考えや思想的な態度がどのように変化していったかを、克明に正確に記録していくことである。私にとって思想とは、どこかから新しい知識を仕入れてきて、偉そうに人々に上手に売りさばくことではない。思想とは、自分の思考がどのように変わっていったかを、まず自分自身に対して偽らず正直に記録していくことである。思想とは、これ以上のものではない。私は、この結論に四十歳頃に到達した。(p.79-80)

この〝偉そうに人々に上手に売りさばく〟という一文で、浅田彰中沢新一、当時はまだ論壇に居なかった内田樹に至るまで、日本の思想家(輸入業者)をなで切りにしている辺り、すごいよね。 

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僕も副島には、心服したり、反発したり、やっぱり帰依したり、離反したりしてきた。今やっぱり、「この人は面白いし、熱い。この人の本は読むべきだ」と思っている。

拙著でも、二箇所ほど副島について触れている。もしよければ、書店で手に取ってみてください。