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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

「ファストフードの無銭利用」で思い出した二、三の事柄

 午後六時、退勤時間の渋谷の繁華街は雨でごみごみしていた。某有名ファストフードの二階席もぐっと混雑の度合いを増してきた。
 窓辺で大判のテキストを拡げ、何か勉強していた女性の隣に、僕は座った。僕と彼女との間には空席があるが、スツールにはその女性のものと思しきボストンバッグが置いてある。バッグにはピンクのスパンコールがたくさんついていた。
 階段を上がってきた客の一人が「満席だな…」と呟いた。白いTシャツの店員が、荷物を席に置いた客に、荷物を下ろしてくれ、と順に頼んで回り出した。
 僕の隣の女性の所に来た。
「すみません、混み合っているので、お客様のお荷物はお足下に置いていただけませんか? それと、商品をお召し上がりでないようですが、ご注文はお済みですか?」
「あら、レジが混んでたから注文する前に席を取ろうと思って。何頼もうか考えてたとこなの」
「そうですか。店内大変混んでまいりましたので、こちらのお荷物をお足下に置いていただけませんか。それとご注文していただかないと」
「あたし、いつもこの店来てるけど、いつも席を取ってから注文するんです。これから注文しようと」
「でも本を拡げてお勉強してらっしゃいますね、ご注文なさらずにお勉強していたただくと、他のご注文いただいたお客様のご迷惑になりますので、やめていただけませんか?」
「でも注文する前に席を取るなんて普通でしょ? 他の店でもいつもこうしてるし」
 僕は、隣でいきなり始まった問答にちょっと驚いた。というより、このようなことが押し問答に発展すること自体に驚いた。
 白シャツの店員は、声を荒げないよう注意を払いながら、女性に話しかけている。女性は、そうしたいのかどうかわからないが、大きめの声で応酬する。女性の声は高いので、どう耳を塞いでも彼女の言葉が聞こえてしまう。一メートルほどしか離れていないから聞こえて当然なのだが。
 店員の言葉も、徐々にヒートアップしてくる。
「他の店はどうでも、今当店は大変混み合っておりまして、席がないお客様が大勢いらっしゃるんです。ですので、まず荷物に席に座っていただくわけにはいきません。そして、ご注文していただかないと困ります。ご理解いただけますか?」
「他の店ではいつもこうしてるのに、渋谷店だけダメなんですか。あなたの名前は何ですか。名札をつけてませんね。本部にメールしますから名前を名乗りなさい」
「私の名前はどうでもいいです。これは私個人のお願いではなく、店としてお願いしていますので。まず荷物を下ろしていただけませんか」
 なぜ、この店員の言葉が本部へのクレーム対象になるのか、僕にはまったく見当が付かなかった。
“モンスター”という言葉が脳裡をよぎった。
 コーヒーを飲んでリラックスした気分が僕の中から消え失せ、心がかき乱されるのが辛かった。こんなところで、奇妙な論理のかん高い声を延々聞かされる羽目になろうとは。
 他の席に移りたいが、空席はない。それこそ、空いてるのは僕の隣の、彼女がボストンバッグを置いた席だけだ。
「今は満席かもしれませんが、さっきまで店内は空いてたんです。だから座席に鞄置いてもいいかなって。そこもそこもそこも空いてたし」
「今は混み合ってまいりましたので、こうしてお願いしている次第です。当店は繁華街にありますし、お客様の流れは一瞬で変わりますので、さっきまで空いてても今は満席で座れないお客様がいらっしゃる状況です」
「ですから何頼もうか考えていたところですって。席を取ってから注文に行くのはそんなにいけないんですか。いつからそうなったんですか」
「注文する前にお勉強なさっていらっしゃいましたし、お座席にお荷物を置いていただきますと他のお客様が座れません。ご注文なさらずに席につかれますと、同様に他のお客様がご迷惑です。混雑時のお勉強も当店ではお断りしています」
「私は今までアルバイトとかいろんな仕事をしてきましたが、必ず名前がわかるよう名札をつけていました。なぜあなたは名札もなしに、私にいろいろ言うんですか。人にものを言うときはまず自分から名乗りなさい」
「何度も言いますが、私の名前は関係ないんです。今はご覧のように店内混み合っておりまして、お席のないお客様もいらっしゃいます。こちらの席に鞄を置いていただくと、お金を払って商品をお求めいただいたお客様にご迷惑がかかりますので」
「私、渋谷店でこのようなことを言われたと本部にメールするつもりです。席を取ってから注文を考えるのはいけませんか。失礼なことを言っておいて名乗らないとはどういうことですか。今日のこの時間のシフトに入っていた男性店員といえばあなただと特定できますか」
「名前を書かなくても今日この時間にこうしてお願いしているのは私だと本部でも誰でも特定できますから、それはご自由になさってください。とりあえず、他のお客様に迷惑ですから、鞄をどけて、下のフロアでご注文していただけませんか」
「私本部にメールします。いいですか」
 このようなやりとりが、混み合った店内で続いていた。僕はすっかりコーヒーを飲む気力を失い、呆然と隣の二人を見やった。
 女性は、いっかな店員に従おうとしない。店員は、あくまでもお客様に接する態度を保とうとしているが、額の血管がややピクついているように見える。はじめに店員から感じた人間らしい物腰や思いやりの雰囲気が、徐々に失われている気がする。いや、こんなことは彼にとって慣れっこなのだろうか、マシーンのような仏頂面モードになろうとしているのか。
「私本部にメールしますよ」
「その前に、何かご注文いただけませんか」
「ああー! うるさいっ! あんた早く出ていけよ。あんたの言ってることおかしいよ」
 僕は、隣で繰り広げられる緊張関係に耐えきれず、ついキレてしまった。女性の顔に指をつきつけ、そう叫んだのだ。
 一瞬、女性と店員は黙ったが、すぐに女性は口を開いた。
「私本部に連絡しますよ。名前を名乗らない店員から、こんなこと言われたって」
 女性を指さし、キレて顔を歪めている僕は、まるで存在しないがごとく、彼女は一瞬前までのやり取りに戻ったのだった。ワンクリックでテレビ録画を十秒前にスキップしたような、時間が狂った感覚に襲われた。
(しまった……こんなことしても何にもならなかった)
 再び押し問答に立ち戻る女性。女性に、席を立つよう求めるが決定打に欠ける店員。その横で無視されて呆然とする僕。
 これは三すくみですらない……僕の一人負けだ。
 もう、落ちついてコーヒーを飲むとか、都会の雑踏でちょっとの間のリラックスを求めるとか、この店を訪れた動機は消し飛んだ。不気味な押し問答に固執するこの女性の注意を、少しでも僕に向けさせ、僕が非常に不愉快な思いを蒙ったことを伝えたかった。
 僕は、手元の携帯電話のスイッチを入れ、カメラモードにして彼女に向けた。
 女性は、やっとこっちを向いた。こっちというか、彼女に向けた携帯電話を凝視した。僕のことは相変わらず見てくれない。
 店員の表情が、(ああ、これはマズいな。店内で他のお客さんを撮影するのはマズい…)と言っていた。
 僕は、画面をタップして、撮影するふりをして電話をしまった。
「いま私のこと撮りましたね。ネットに載せるんですね。私これから警察に通報します。通報していいですか」
「いいですけど、席を空けていただいて、ご注文してからにしていただけませんか」
「いいえすぐ通報します。私のこと撮りましたから、通報します。どうせネットに載せるんでしょう。2ちゃんねるとか」
 僕は自分がまた間違いを犯したことにやっと気づいた。
(僕はまた、彼女の違うスイッチを押してしまったのか……。とにかく絶対にここから動こうとしないんだな)
 僕は電話のスイッチを入れて、カメラモードを確認した。さっき画面をタップしたが、シャッターボタンは押していない。電話の中に彼女の画像は、たしかにない。この状態で警察官が来たら、僕はどうなるのだろうか。やっぱり肖像権侵害か何かで捕まるのだろうか。
「私通報します。本部にメールします」
 彼女は再び僕のことなんか意に介さず、店員の腰の低いお願いにも屈することなく、押し問答モードに戻っていた。
 いまやっと、僕は彼女をじっくりと見た。着ているものはユニクロというよりしまむらに近い。紫の薄手のダウンジャケットにはフェイク毛のふわふわがついている。バッグがピンクのスパンコールなのに合わせて、ピンクのパイピングだかワンポイントの入ったシャツ、わりと短いスカートから出ている足は痩せている。この恰好から年齢を当てられるほど、僕は女性一般にくわしくない。
 顔は、艶と張りがない、骨張って痩せた印象だった。化粧をしているようだが、潤いが感じられない。口の横には法令線が深く刻み込まれている。何か資格のための勉強をしているようだし、先ほどの押し問答では、アルバイトとか仕事とか言っていた、彼女の苦労の職歴が、頬に刻み込まれているようだった。二十代には見えない。だけど三十代なのか四十代なのかもわからない。何より、流暢にクレームのメールや通報を述べ立て、自分にはまったく非がないと主張している、ふてぶてしさが、彼女から若さを感じさせないのだった。
 僕は、自分が何度も大間違いを犯したことに気づいた。まず、彼女に、あんたがおかしい、と言ったのはまったくの無駄だった。彼女は、自分がやっていることはおかしいかもしれない、と思うような人ではなかった。
 次に、僕が迷惑を蒙った、不愉快な思いをしたことをわからせたかったが、カメラで撮影するふりをしたのも大間違いだった。そもそも、公共の場で知らない人間を撮影するのはマナー的に許されないことだし、撮影するふりも同じく許されないだろう。また、そんなことをして無理矢理彼女の注意を僕に向けたところで、彼女が僕の前から消えてくれるわけがない。彼女はそんな人ではない。
 何より、僕が座ってゆっくりしていたこの席の隣で、不愉快な押し問答が勃発したからと言って、僕が現座席の占有権を主張し、お前らここから去れ、ここは俺の席だ、俺がゆっくりする邪魔すんな、と申し立てることが、そもそも大間違いだった。
 ここは某有名ファストフードのお店で、座席はお店のものだ。僕のものじゃない。僕がここに居られるのは、コーヒー一杯にふさわしい短時間だけだ。その限度を超えて、自分の座席の占有権を主張するとなると、僕はいま隣でわめいている彼女とまったく同じ間違いを犯してしまうことになる。
 僕は荷物をまとめ、席を立った。
 去り際、白いシャツを着た店員さんに、「気持ちはわかるよ。がんばって……」そして「ごめんなさい」と言った。最後は蚊の鳴くようなか細い声になってしまったのでちゃんと聞こえたかどうかわからない。店員も、どう思ったか。客観的に見ると、変な客が変な客にキレて去って行った、というだけかもしれない。

 この有名ファストフードチェーンは、日本で開業した頃はどちらかというと高級なお店だった。カジュアルだけどおしゃれで、その分ちょっと高級、というのが80年代の僕らがこのチェーンに抱いた印象だ。
 90年代はファストフードが最後の輝きを見せた年代かも知れない。モスバーガーに続きフレッシュネスバーガーが台頭し、ファストだけど味気なくない、しっとりしたハンバーガーを提示してくれた。吉野家は業界のリーダーで、特盛りが一世を風靡した。バーガーキングなどの大物も海外から渡来したが、某有名ファストフードチェーンは、三段重ねハンバーガーをアイコンとして盛り場に君臨し続けた。
 2000年代に業界は大きく変動した。モノの価値が下落していくデフレが定着し、ファストフードも業界一位の会社がどんどん新顔に追い上げられ、凋落していった。僕が郷愁を感じる吉野家は三番手くらいになってしまったし、バーガーキングは日本から(僕にとっては池袋から)撤退した。我らが某有名ファストフードチェーンは創業者を失い、しばし迷走したが、異業種からやり手の社長を招聘して苛烈な値下げ競争を始めた。主力商品が百円を切り、80円とか60数円とかになり、ライバルは競争に伍する体力を失ってやがて一人勝ちが確定した。それから後の第二次黄金時代はみなさんご存じの通りだ。
 日本で一番稼いでいるファストフードチェーンだろうし、店舗の数も膨大だ。24時間営業の店も多く、またクーポンで気軽に無料利用できるため、本来ならファストフードなど立ち寄らない客層までも取り込んで、成長を続けている。
 そして、店内には、様々な客が溢れることとなった。
 平日午前中は営業マンが打合せをし、午後から子供たちが入り浸りWi-Fiゲームに興じる。夜は仕事帰りの人たちが去ると、行き場のないホームレスと思しき人たちがうつらうつらする。
 デフレの進行とともに、これも大きな変化だったと思うのだが、いつの間に顧客はお店の人よりもずっとずっと偉くなってしまったのだろうか。顧客は、自分が満足しないことを、お店に不満としてぶちまける。お店の落ち度だと言わんばかりに、お店の上位機構に直訴する、と言う。そう言うことで、お店に対してなんらかの譲歩を要求しているかのようだ。
 ついには、何も商品を買っていない、つまりお客ではない人から、お店は怒られるまでになってしまった。
 いったい、この国のお客様はどんだけ偉くなるのだろう。
 いや、お客様とか言っても、コーヒー一杯くらいでお客様ヅラして威張りくさっていいはずがない。
 いやいや、コーヒーだろうが新車一台だろうが、お客様はお客様だ。
 いやいやいや、新車買ったとか言っても、それを楯に威張りくさっては、みずから客としての品位を放棄したと同じではないか。
 誰も、誰かに対して、威張り腐ったり、尊厳を冒したりする権利は持ち得ないのではないか。

 雨の渋谷を歩きながら、そんなことを考えたとき、フッと彼女の気持ちがわかったような気がした。
 あの店員は、十分抑制して彼女に接していたが、それでも彼女には店員の指摘が苦痛だったのだ。
 あなたは何も注文していない、あなたは客ではない。あなたに、ここに坐っている権利はない。
 そう、真実を指摘され、彼女は赤面したのだ。とくに、周りにそれがバレてしまったことが、彼女をのっぴきならない苦境に追い込んだ。彼女がそれを認め、はいそうですね、と改めて注文したものを持って二階席に戻って来ることなんて、できっこない。そんな辱めにさらされて耐えられるほど、彼女のプライドは安っぽくない。
 だから彼女は、その場を動かず、徹底抗戦をした……んじゃないか。
 だから、僕がやったことは、すべて無駄だった。無駄どころか、より有害だった。すでに傷ついた彼女の気持ちを、さらに横から傷つけた、笑いものにしただけだった。見知らぬ人間から嘲笑されるなんて、こんなにも尊厳を踏みにじられることってあるだろうか。

 彼女はその後どうしただろうか。どこか場所を変えて、また大判テキストを広げて勉強の続きをしているのだろうか。
 二十一世紀のこの街では、金を払わずに腰を掛け、ちょっと本を読んだりする場所がとても少ない。公共の場所にベンチがあったとしても、東京のほとんどのベンチには、横たわれないように、ごつごつした仕切りがある。
 なんだか、巨大でぎすぎすした街だと思う。この街をそうしたのは僕たち自身なのだが。

【222】【業務用 訳あり】フライドポテト(1袋約1kg)
【業務用 訳あり】フライドポテト(1袋約1kg)

※このエントリはBLOGOSの記事「ファストフードの無銭利用キッズたちが示す「米国的雇用環境」」に触発されて、思い出して書きました。