新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

イエスの高弟・ペテロ(シモン・ペトロ)に関する想像

 ペテロは十二使徒の筆頭、イエスの一番弟子で、もっとも高弟とされる。位の高い使徒、ということだ。年もイエスより上で、三十代で青年期の終わりだったイエスと比べると、おそらく四十代の中年期、青年らしい潑剌さはなく中年の落ち着きや分別があった、だからイエスはペテロを重用したのだろう。
    ※  ※  ※
 ペテロはガリラヤ湖の畔で漁師をしていた。漁を終えて舟を着けたところか、舟の手入れをしているところをイエスに声を掛けられ、最初の弟子になった。このとき兄弟のアンデレ──おそらく弟だろう──も一緒に弟子になっている。ペテロは既に結婚していた。家族がいて仕事もあるのに、イエスに帰依し、放浪するイエスに付いて南方のエルサレムまで行った。序列では教祖イエスに次ぐ地位だが、一を聞いて十を知るタイプなどではなく、どちらかと言うと物わかりが悪い、また眠気に負けて眠り込んでしまい、イエスに叱咤されるなど、ピリッとしないところもある。
だが、そこが良かったのだ。
    ※  ※  ※
 十二使徒は、その筆頭が中年で、あまり聡明とはいえない、どちらかというと鈍くさい元漁師のペテロだったことで、他の十一人がまとまりよくイエスに付き従った、とも言える。
 使徒たちにはいろんなタイプがいた。若くて才気煥発な、イエスに愛されたヨハネ。ガリラヤの有力者のせがれで、堂々としてリーダーシップもあるヨハネの兄ヤコブ。教団の会計を引き受け、頭が切れて仕事もできるユダ。過激派である熱心党《ゼロテ》から弟子入りし、他党派の影響を強く引き摺っているシモン。などなど、敬虔な宗教者、つまり大人しい羊のようなイメージからはかけ離れた、曲者揃いの寄り合い所帯だった。

 だが長男にあたる高弟ペテロが凡庸で鈍くさい、別の言い方をすればどっしりとして落ち着いた男だったので、他の弟子たちの重石になっただろう。
 ペテロ自身にも筆頭の弟子である自覚があった。イエスが弟子たちに問うと、ペテロが答えることが多かった。おそらく、聡明なユダやヨハネは、自分ならもっと気の効いたことを言えるのに、と内心思っても、兄弟子の面目を立てて言わずにいただろう。だからこそペテロにお鉢が回ってくるというのもある。
 もっとお調子者で軽い弟子はいなかったのか。
 一番年少のヨハネがもっとも賢く、イエスにも愛されていたから、彼より年上の弟子があえて道化になろうとはしなかったのではないか。また、イエスの問い掛けは引っかけやダブルバインドが多く、素直に答えた者はたいてい恥をかく。イエスの問いに答えるということは、この、恥をかく役回りを進んで引き受ける、という意味だった。だからユダやヨハネが黙っているなか、どうせ正解ではないと知りながら、ペテロはイエスの問いに果敢に答えていたのだ。
 おそらくペテロ本人も、ああ俺はまた間抜けなことを言ってしまった、といった後悔がいつもあったに違いない。年長者が年下の教祖にいいようにあしらわれる、そのみじめな姿を取り繕わず、さらけ出すことに、イエスの高弟ペテロの誇りや意地が有ったのではないか。

「億り人」についての感想

 夜のNHKニュース(ラジオ)で、暗号通貨仲介業へのハッキングの件で「億り人とも言われる…」と流行語が出てきた。ふうん、こんなに普通の言葉になったのか。

 多量を意味する「がっつり」や2ちゃん語の「キター」などが説明抜きで雑誌の見出しになり始めた頃(2004年くらいか)もへーと思ったが、今夜の「億り人」には少なからず感心した。なぜって、これは投機で儲けている人がこう呼ばれています、ということでしょ。射幸心を煽ってる流行語が、一応日本で一番堅い公共放送の報道(バラエティじゃなく)に出る、って今がバブル状況だって証拠だなあ、と。だから感心した。

    ※  ※  ※

 ちょい前に友人が「僕もビットコインやるべきかと……リアルな知り合いが〝億り人〟になってたりするんで」と言っていた。

 僕はその時は深く考えず、反射的に「やめといた方がいいんじゃ?」と答えといた。

 あれからしばらく考えていたのだが、僕がなぜ否定したか、理由が二つ思い当たった。それをここにメモしておきます。

 

【理由その1】毎日を仮想通貨に捧げられるか?

 投機を始めたら、日々の意識が投機のこと以外に向けられなくなる。これは相当辛いのだが、始める前はたぶん絶対にわからない。投機に振り回される自分、を想像できる人はあまりいないと思う。

 僕のつたない経験だけど、退職金で投機をしたことがある。結局大敗したのだが、少し勝ったこともある。当時は投機ではなくちょっとリスクとリターンの大きい投資、だと思っていた。だが間違いなく投機=博奕だった。自分に何の関係もない海外の金融商品なんて、世界のどこかでサイコロが転がっているようなものなのだ。そのサイコロが、「最近良い目が出てるんですよ、あなたも張りませんか?」と言ってくるのが金融商品のセールスマンだ。

 当時の金融商品は一日一回しか基準価格が発表にならなかった。だけど、僕は毎日の価格のチェックで相当エネルギーを取られた。仮想通貨は価格の変動が激しいからデイトレードになるんじゃないか? 一日何時間をトレードや監視に費やす予定か知らないが、どのくらいの労力を予定しているか?

 また、何か他に本当にやりたいことがあって、その資金稼ぎに仮想通貨投機をやろうという人もいるだろう。そういう人にはもっと言いたい。先に本当にやりたいことをやれ!と。それでも時間がすごく余るなら、投機もいいだろう。でも、それって本当にやりたいことをやってるのか? やりたいこと、人生でやるべきことを始めたら、他のことなんてやってる暇ないはずなんだが。創作でも身体的なことでも勉強でも。

 好きでもないギャンブルに時間を費やすより、やりたいこと、やるべきことをやる方がいいと思う。

 

【理由その2】いつやめるのか?

 投機=ギャンブルを始めるのは割と簡単だ。だがやめるのはとても難しい。

 実は、古今東西の博奕小説というのはたった一つのテーマで書かれている。それは「いつやめるのか?」だ。ドストエフスキー『賭博者』や阿佐田哲也『ドサ健ばくち地獄』が一応名作とされる、前者は世界的な評価、後者は僕をはじめ日本の好事家の評価だが、僕的には圧倒的に後者の方が名作で、前者は間延びしててつまらない、ドストエフスキーにしては短い作品だけど、それでもテーマが伝わりにくいので、読むなら阿佐田哲也がオススメだ。

 ドストエフスキーで唯一良いのは、歴史的背景、当時の貴族のギャンブル事情がわかることだ。博奕は貴族のたしなみでもあった。どういうことかというと、〝負ける〟ことを学ぶためなのだ。〝死〟をシミュレートするようなものだと思う。若い貴族は博奕場で負けること、いかに負けるか、どうやって負けを認めて去るか、を学び、本業(領主・軍人・政治家)へと戻っていく。

 阿佐田哲也の場合は貴族ではない、下賤な民衆の中のアウトローがやる博奕を描いている。ドサ健の部屋の押し入れには、輪ゴムで束ねた札束が山のように入っている。ドサ健は大金持ちなのだ。だが彼は金持ちらしい消費はしないしステイタスとも無縁だ。なぜなら彼の札束は、使うための金ではなく、博奕をする資金、チップにすぎないからだ。

 凡人が仮想通貨の投機をすると、貴族ではなくドサ健のような毎日になる。いつか足を洗って本業に復帰する、のではなく、どんなに儲かってもそれは次の勝負の種銭、チップにすぎなくなる。

「1億円勝ったらやめよう」と決めていて、本当にやめられるならいい。けど、大きな上昇トレンドの中で「もう1億円分上がった。換金するぞ」ってできると思う? できないよ。上がってる間は勝負を降りられないし、下がり始めたらなおさら降りられない。大負けしてやっと「もういい、降りよう」と決心できる(僕のように)。

 

 もし、この二つに当てはまらない、私は時間をきっちり守って、いくらいくら勝ったらやめますよ、と断言できる人なら、止めない。ご武運を、と思う。

 

【ではどんな人がやるべきなのか】

 それはもう簡単だ。自分の金を張る人は、やるべきではない。

 プロのギャンブラーは自分の金を張らない。張るのは他人の金だけだ。

 少し反社会的なことを書いてしまうけど、事実だから仕方がない。世界で名をなしている投資家・投機家は、自分の金では勝負してない。他人から預かった金を張っている。結果が出ない=負けても、自分は責めを負わなくていい。預けたやつが悪いだけだ。そう言える立場の人間だけが、プロの博奕打ちの資格がある。

 ドサ健の札束(専門用語で〝ズク〟という)も、実は全部借金で作ったものだ。当然、ドサ健は借金は返さない。踏み倒すはずだ。

 最近デヴィッド・グレーバー『負債論』をちらっと読んだのだが、長い長い〝世界の借金の歴史〟が書かれているのだが、どうも「借金なんて返さなくていいよ」と言いたそうなのが可笑しかった。でもそんなもんだ。博奕の借金は、返さなくていい。

 だから、会社の金であるとか、団体の金であるとか、親戚の金であるとか、赤の他人の金とかを張れる人は、やるといい。増えると喜ばれると思います。負けても「時の運です。次は勝ちます」と言えばいいし。

 自分の金だと、冷静な勝負はできない。だから、自分の金を張ってる世間の「億り人」たちは物凄く難しいチャレンジをしている、と僕は思う。それだけ難しいことができるなら、もっと自分の人生のための自分だけの勝負を張れる、その方がその人にとって有意義だと僕は思う。

 もちろん、その熱くなれる瞬間、張っている時間が好きでたまらない、というなら、止めない。ご武運を祈ります、ドサ健さん

 

西部邁に熱海へ拉致られた件など、二、三の思い出

 西部邁が死んだ、しかも自死だった。なるほど、と思った。
 僕は西部の熱心な読者ではなかったし、彼の思想も好きだけど詳しくは知らない。ちゃんと読んで供養しなければ、と思うので図書館で『大衆への反逆』を予約したとこだ。
 実は、僕は西部と少しだけ縁があった。会社員時代、一冊だけ担当したのだ。
 その時いろいろ面白い体験をしたので、書き残しておこうと思う。なお敬称は略す。西部さん、というほど親しくないし、歴史上の人物に敬称を付けるのは却って失礼だと思うので。
    ※  ※  ※
 当時西部邁は東大を辞して浪人中で、「朝生」ではスター論客だったが、財政的には不安定だったと思われる。だから思想言論に強くない光文社にまで声が懸かったのだろう。1990年の早春、彼の周辺の誰かの紹介でカッパ・ビジネス編集部と縁が出来た。テレビで人気だったので彼の本を出すことに問題はなかった。
 だが西部という人そのものが問題だった。非常に癖の強い人で、編集部からすると癇癖が強いように見えた(今考えると西部が怒るのはもっともなことばかりで、癇癖というより単に真っ直ぐ、おもねるのが嫌いなだけだった)。
 まず、僕の先輩(京谷六二氏・現在は志木電子書籍主宰)が担当したが、何度目かの打合せの酒席で衝突し、飲み代数千円を叩きつけて退席、決裂、という武勇伝を残してしまった。
 どうも西部は、ちょっと面白そうな若者を酒の席でツツくのが好きだったようだ。先輩はそれに見事にノッてあげたようなものだ。
 その証拠に仕事においては決裂せず、二人はその後直接会うことこそなかったが、原稿とゲラのやり取りは至極きちんと、丁寧に行われた。二人の間に入ったのは編集部の明渡真理さんで、すらっとした長身の美人だから西部もさぞご機嫌だったろうと思われる。それは1990年4月にカッパ・ブックス『マスコミ亡国論―日本はなぜ〝卑しい国〟になったのか』として世に出た。素早い仕事だった。かなり売れて、3刷以上になったと思う。
    ※  ※  ※
 西部とカッパ・ビジネスの間にはもう1冊出す約束ができていた。だが1990年4月にビジネス編集部が再編に入ってしまい、編集長交替などがあってしばらくペンディングになった。
 この間に隣のカッパ・サイエンス編集部から西部と栗本慎一郎の共著『立ち腐れる日本―その病毒は、どこから来たのか』が出ている(1991.9)。これも売れたと思う。
 だがビジネス編集部と西部との約束はまだ果たされていない。というのも、西部は、自分と同郷のライター(新野哲也氏)をビジネス編集部に売り込もうとしていたのだ。ビジネス編集部での企画は西部と新野氏の対論ということで進行していた。
 ビジネス編集部は1990春に新編集長(山梨氏)を迎え、多くの新企画に挑んでいたが、その山梨氏が秋口に急死するという不幸があり、企画が全部ストップしてしまった。残ったビジネス編集部を引き受けたのは加藤寛一編集長だった。加藤氏はもともとカッパ・ビジネス生え抜きで、もともと昨年西部からの話を受けたのも彼だ。加藤氏は1990春の人事では会社のアクロバット的な人事で新企画室を任され、ビジネス編集部は「月刊宝石」から転じてきた加藤氏の同期・山梨氏に託されていたため、西部の企画は宙に浮いていた、ということもあった。だから加藤ビジネス編集長〝復帰〟でペンディングしていた企画も再起動した。
 ビジネス編集部の実働戦力は、先述した先輩と僕の二人きりだった。先輩は西部とは一応決裂している。僕はまだペーペーで、とても西部のような大物の相手はできない。西部の処遇は編集長直轄ということになったが、実際はフリーライターの新野氏が社外スタッフとして西部の担当編集となった。ということになった、と加藤編集長は理解していたのだと思われる。
 だが、西部の認識は違った。カッパ・ビジネスとの仕事は、あくまで西部と〝これから作家になる新野〟との対論で、西部は新野氏も作家として遇しろ、と思っていたのだ。
 こういう、カッパ編集部の粗雑なところが西部にはカチンと来ていたのかも、と今は思う。
    ※  ※  ※
 いつ頃だったか、盛夏や厳冬期ではなかったと思うが、1991年のいつか、西部と新野氏は熱海の温泉ホテルに一泊こもり、喋ってテープを取ろう、ということになったらしい。らしい、というのは僕なんかみそっかすで蚊帳の外だから、詳しい事情なんて知らないのだ。
 僕が言いつかったのは、その日加藤編集長ははずせない別件があるので「すみませんがご一緒できません、熱海では存分に語らってくださいませ」ということを東京駅まで謝りに行け、上等の駅弁など買って差し上げろ、とのことだった。
 僕は一期下の小原美千代さん(現在は扶桑社)と一緒に東京駅の新幹線ホームへ行った。大丸で買った穴子弁当を二人前持って。
 弁当を渡して上記の口上を伝えるだけだと思っていた。だが西部は激怒して、ふざけるな、もう行かない、帰る、と言い出した。え? こうした事態を想定していなかった僕は慌てふためき、ベンチに座り込んで動かない西部のそばに小原さんを残し、公衆電話で会社に連絡を取った。
 加藤編集長は留守なので京谷さんが出た。「あはは。今やってる仕事はいいから、熱海に行ってきな。君が行けばすぐ機嫌は直るよ」なるほど。着の身着のまま、財布にも少額しか入ってないが、カードがあるからなんとかなるはずだ。
 僕も行きます、と言うと京谷さんが言った通り、西部の機嫌はすぐ直った。熱海までは「こだま」だから空いている。弁当が無駄にならないよう、走り出したらすぐ使っていただき、僕は不器用に飲み物などサーブした。
 熱海の宿は大きなホテル型旅館だった。たぶん新野氏が手配したものだろう。3人での予約になっていたから、彼らは加藤編集長が同席するのが当然と思っていたはずだ。今なら僕もそう思う。書き手だけ放り出して合宿させるなんてあり得ない。だが、カッパ・ビジネス編集部というか加藤編集長は良い意味でも悪い意味でも粗雑だったので、そうしたことに思い至らなかったのだ。
    ※  ※  ※
 旅館の部屋に着くと、西部は案内してくれた仲居さんに「これはわずかですが」とポチ袋を渡した。当時は「ふうん、そんなことするんだ」としか思わなかったが、今考えるとこれは偉いと思う。本来は缶詰にする版元がやるべきだろう。だが版元の社員なんて、領収証の出ない出費は死んでもしない。
 仲居さんが淹れてくれたお茶で、さっそく対論のテープ録りが始まった。新野氏がメモを作っており、それに従って二人が掛け合いで話す。なかなかうまいことを言う、わからない名詞がいくつも出てくるけど、それでも面白い、と僕は傍観者的に思った。僕は黙ってお茶を注ぎ足したり、テープをひっくり返すだけだ。
 途中、休憩で感想を求められたので「は、はい。も、蒙が啓かれる思いです」などとマヌケなことを口走った。
 4時間近くテープを回して、夕食となった。部屋出しだったと思う。ビールを何本か追加した。仲居さんは非常にまめにお世話してくれた。さすがポチ袋。というか西部偉い。あとで「こういうのアレだけど、気持ち良く働いてもらって、僕らも気持ち良く過ごせれば、それでいいと思うんですよ」と言っていた。
 夕食を平らげると、西部は「カラオケに行こう」と言い出した。温泉ホテルにカラオケがないわけがないので、僕らは浴衣のまま階下のカラオケ店に行った。新野氏は何を歌ったか、吉田松陰とか正気の歌とかだったか、憶えていない。西部は「神田川」を歌った。これははっきりと憶えている。何しろ、店を出て3人で大浴場へ行ってもずっと口ずさんでいたからだ。
 自分が何を歌ったかは憶えてない。沢田研二を歌ったのではないかと今思い出すと冷や汗が出るが、まあ過ぎたことだから仕方ない。
 カラオケは数曲で切り上げ、温泉を使おうということになった。3人で大浴場へ入る。どうも屋上展望風呂だったようで、屋外のテラスにも大きな浴槽があった。西部の中年太りの尻を見ながら外の風呂に浸かった記憶がある。その時も西部はずーっと「二人で行った、横丁の風呂屋」などと口ずさんでいた。
 僕は「朝生」での保守の大物、という印象しかなかったので、彼が四畳半フォークに見せた執着がなかなかわからなかった。
 部屋に戻ると布団が敷いてあり、少しテープを回したが、もういいやということになって、布団のままビールの栓を開けてコップを回した。西部は「これ飲むと調子が良いんだ」と、黒いマコモバクテリアの粉末を取り出して、白湯で溶いて飲んでいた。ビールを飲むと、「いま同志を糾合して、自由に語れる場を作ろうと思っているんですよ」「僕はもう年なので、隠居したい、隠居したも同然でいい」などと語った。
 前者はその後、東日本ハウスをスポンサーに迎えて月刊媒体「発言者」となり、数多くの論客を輩出することになった。後者だが、当時の西部は52、3歳で今の僕と同じ年だ。まだ老け込むには早すぎる。当時の僕は、うちの父(昭和13年生まれ)よりも若いくせに何を言ってるんだ、と思った。
 今思うと、たしかに西部は年を取り過ぎていたのだ。それは、60年安保を闘ったブントの同志たちと比べて、だったのだ。だから「神田川」だったのだ。当時の僕はそんなことも気づかないボンクラだった。
 布団の上での語らいは長く、今思い出すと興味深い。西部は北海道の生まれで、育ったのは都市部(札幌)らしいが、記憶の中に茫漠たる原野があり、その何もなさに恐怖を覚えたこと、などを問わず語りに話してくれた。新野氏も小樽の出身で、二人は北海道の原風景を共有するという紐帯があったのだろう。
 西部というキャラはねちっこい性格のように思われていたかもしれないが、僕には、さっぱりとした、前のことを蒸し返すようなことは少ない人のように思われた。雪国の辛抱強さと北海道の広大さを感じた。
    ※  ※  ※
 翌朝、朝食の後も少しテープを回し、チェックアウト前に東京から西部夫人が合流した。僕はなぜ奥さんが来たのかよくわからなかったが、お世話をする人数が増えたのは少し憂鬱だった。
 記憶にないのだが切符を新たに買ったりした覚えがないので、切符と旅館の手配はすべて新野氏が済ませていて、奥さんは自費で来たのだと思う。新野氏が手配した分は最終的に編集部から経費が出ていたはずだ。
 熱海で新幹線に乗る前に、西部は駅前の寿司屋に誘ってくれた。回転寿司のボックス席だったように思う。
「僕はね、いっぱい御馳走してもらって、ちょっとだけお返しするのが好きなんですよ」と言った通り、ここは西部が払った。これも当時は何も思わなかったが、今考えると大したものだ。ほんとに、何の反応もできずに申し訳ありません、と思う。
 思い出した! 新幹線に乗る前に、我々一行はMOA美術館に行ったのだ。だから奥さんも来たのだ。熱海小旅行なのだ。美術館は面白かった。少しまとまりに欠けるが、一流の文物が揃っているし、西部はあまり語らなかったが、彼の後を付いて美術館を歩くのはとても楽しかった。ここはもしかすると僕が払って経費請求したかも。
 たぶん、その日は土曜だった。僕は会社に戻らず、そのまま家に帰って、月曜まで寝てたのではないか。
    ※  ※  ※
 西部邁と新野哲也の対論は『正気の保ち方―「繁栄の空虚」からいかに脱するか』としてカッパ・ビジネスの新書判で出た。西部はあるときこの本を「こんどパンフレットのようなものを出して」と言ったのが、僕には少しカチンときた。単行本でなく、小さなソフトカバーだから舐められたのか?と思った。今なら、パンフレットでも歴史を動かした例はいろいろあるし、危険な革命分子のパンフレットなら上等ではないか、と思うから全然オッケーなのだが。
 この本のタイトルは西部が付けた。あとで献本するときにちょっと困った。「正気の保ち方」を贈るということは、相手の正気が怪しいとでも思ってるようではないか。西部に言わせると、いや、世間の狂気を退けて如何に身を処すかだから、これを贈られたということは正気である証拠、と屁理屈言うかも知れないが。
 熱海合宿の後、テープ起こしを原稿にして、スムースに本ができるものと思っていたが、そうはいかなかった。新野氏は「テープ起こしができたら、何もせずに、触らずに送ってください」と何度も言った。そんなに編集部との信頼関係がないのか、と僕は呆れた。どうも、先輩が衝突したのは西部と直接ではなく、この新野氏とだったかもしれない。新野氏は1945年生まれだから当時まだ40代、週に何度か柔道場に通うという肉体派で、左翼の頭でっかちが大嫌い、という人だった。
 新野氏が何度かテキストに手を入れ、それを何度もワープロ屋さんに直してもらい(当時はそういう時代だった。テキストファイルを支給して貰って自分で直すようになったのは96年くらいからだ)、原稿はゆっくりと本の形をとりつつあったが、読んでもあまり面白くなかった。
 東京でも何度か打合せした。
 六本木の全日空ホテルのバーには「朝生」の出番待ちの時間潰しで呼ばれた。ここは華やかな店で、朝生の日下雄一Pが客の間を回って出演者に声を掛けていた。西部のそばにはたいてい、実業之日本社でひとりで「ザ・ビッグマン」を作っていた東谷暁さんが同席していた。
 新宿にもよく呼び出された。末廣亭の近くの「石の花」、二丁目の「風花」。前者はこじんまりとして落ち着いた店だったが、後者は論壇バーだったのでカウンターにはいつも錚々たる面々が並んでいて、ここに呼ばれると僕は憂鬱だった。西部と仲が良さそうだったのは当時千葉大教授だった加藤尚武、忙しいのでめったに会わないが栗本慎一郎スガ秀実、めったに出て来ないが出てくると大いに盛り上がる呉智英など。呉智英は当時池袋近傍に住んでおり、忘年会の後タクシーで送ったことがある。「池袋西口のマンションに住んでいた諸星大二郎東武線の端っこのほうに家を買ったそうだ。日本を代表する天才漫画家があんな田舎にしか家を買えないとは!」と強く憤っていた。
 風花では、一度、夜が更けて各社の西部担当編集ばかりになり、店の中で車座になり、流しのギター弾きを招き入れ、「みんなで一曲ずつ美空ひばりを歌おう」ということになった。僕は困った。僕が知ってるのは「リンゴ追分」だけだ。諸先輩を措いてこんな名曲を若輩が歌うなんてできない。さあ困った。
 僕に順番が来たとき、僕は大いに困ってダダをこねたのだけど、西部は僕をあやすように取りなして、「一緒にお祭りマンボを歌おう」と言ってくれた。そして僕の横でほとんどひとりで一曲歌ってしまった。
「みんなで一曲ずつひばり」とか言い出した時は「なんて面倒くさいおっさんなんだろう」と思ったが、率先垂範というかフォローはしっかりしており、そこはやさしい人だった。
    ※  ※  ※
 新宿だったか池袋だったか、新野氏と三人でいたとき、一度だけ、わざと西部を困らせたことがある。西部の物言いがあんまり自信に溢れ、傲岸不遜なマウンティングに聞こえたので、くやしくて、何とか一矢報いたくて、言ってやったのだ。「そんなこと仰ってても、僕のような被爆者の子が置かれた気持ちなんかわからないでしょう」
 僕の母方の祖父は実際広島で被爆している。ただし8月7日以降の入市被曝であり、母はもう生まれていたので遺伝云々ということもない。その後祖父は体調不良に苦しみ、他人の証人になったので本人は被爆者手帳を交付されず、苦労した挙げ句にがんで死んだ。
 僕はこういう出自に加え、被爆者差別のようなものが存在し、それに苦しんでいる者がいるんだ、というような印象を西部に示唆した。
 実際のところは、被爆者差別なんて僕は知らなかった。〝血筋が汚れる〟といった類の差別的言辞がまったくなかったとも思わないが、少なくとも僕はそんな経験はない。自分が経験してない差別を、さもそれに苦しんだかのように言い募るとは、〝えせ同和〟行為と同じ卑劣なことだ。だから僕はその後とても反省した。
 だがその時は、西部と新野氏が困ったように黙ってしまったのが痛快だった。
 西部も新野氏も北海道の生まれで、部落差別にも原爆にも不慣れだ。突然に〝当事者〟から聖痕を見せつけられ、「足を踏まれた痛みは、踏んだ者にはわからない」と言われたら、そりゃぎょっとするだろう。
 西部は、いかにも自分はそういうことに疎い、知らぬ間に君を傷つけたとしたら済まなかった、謝りたい、と丁寧に言葉を選んで言った。僕は少しだけどあの西部邁をやり込めた、と思うと溜飲が下がった。
 だが、おそらく西部は僕の狭量な意図くらい見抜いていたのではないか。賢しらな、度しがたい、ポリティカル・コレクトネスのはしりのようなことを若僧が言っている、その度しがたさは、西部が本来叛旗を翻した相手と同じ種類の権威だったり、虎の威を借る狐だったりするはずだ。それを百も承知で、目の前の若僧が拗ねているのを、膝を屈してなだめてくれた、のが真相なんじゃないかと思う。
 僕は、自分が今時のポリコレ野郎と同じようなことをしてマウンティングを取ったことを、今は深く恥じる。こんなことをしたのは生涯一度切りだし、二度とする気はない。こういうウソは相手に失礼なだけでなく、本当の被爆者にも失礼だし、原爆という歴史的事象へも失礼だと思う。
 だから逆に、西部が相手だったのは不幸中の幸いというか、西部さんでよかった、と思うのだ。これが他の誰かに対してだったら、僕は今でもこのひと言を恥じ続けて、自分を責め続けなければならなかったろう。
    ※  ※  ※
 1992年5月に本は出たが、あまり売れなかった。初速は良かったが、早々に息切れしたようだった。対談は書き下ろしに比べると不利だし、テーマもわかりにくかったし。
 僕の力不足、に尽きる。申し訳ない。今なら、このテーマのもっと面白く読みやすい切り口を提案できるだろう。本当に申し訳なかった、と思う。
 小平だったか、当時の家に行ったこともある。その頃西部は「月刊宝石」と関係が良く、とくに実力派編集者の神戸(かんべ)さんが西部に食い込んでいた。その彼と一緒だった。ダイニングのテーブルで長々と話しながら酒を飲み、猫用ドアから猫が出入りするのを見ていた。
 この小平の家はあれからすぐに手放し、都内に越したと聞いた。
 結局、あの一冊きりでビジネス編集部と西部との縁は切れた。残念だが、それが分相応だったと思う。
 初めに会った頃、西部はヒゲを剃っていた。だがある時期から顎髭を伸ばし始めた。「薔薇の名前ショーン・コネリーを意識しててネ」などと言っていた。お茶目な人ではあった。
 僕は自殺を責めない。積極的に認めるのには少し抵抗があるが、もはや若くない人が自分の手で自分の命を決することを人は責められないと思う。西部に映画の感想をいろいろ聞きたかった、と思う。例えばイーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」とか。

 

【追記】

もう一つ思い出した。

西部の愛唱歌に「舟歌」(八代亜紀)もあるのだが、自分では歌わないのだ。周りの者にリクエストさせ、普通のパートを歌わせる。そして、「ダンチョネ節のとこだけ歌うから」とマイクを奪うのである。歌詞は「沖のカモメに深酒させてよ−」だったり、「俺が死んだらよー三途の川でよー鬼を集めてよ、相撲取る、ダンチョネ」だったりした。わがままなジジイであった。

民謡の素養がないと、ロックなんてできない

レナード・コーエンを聴くと、どろっとした澱のような感触がある。たぶんそれはユダヤの旋律なのだ。
ボブ・ディランはコーエンほど濃くはないが、それでも「コーヒーもう一杯」など古風でミステリアスな音を感じる。フィドルユダヤ、ジプシー、東欧などを想起させるからか。
U2とかアイルランドのミュージシャンも民謡ぽさを色濃く残している。
愛蘭に限らず、英国ロックは、実はケルト民謡に黒人音楽を継ぎ接ぎしたものではないか、という疑惑を感じる。ビートルズがそうなのだ。とくにマカートニーの楽曲は民謡の素養が濃厚なような。
米国に行くと、黒人音楽よりもカントリーの濃度を感じる。サザン・ロックは田舎くさい、そのくささというのはカントリー度に比例するのではないかと。
で、カントリーというのは実はアイリッシュ民謡だ。ケルトに新大陸の荒々しい風土が加わったもの。この風合いは西海岸音楽に近づくと薄れる。
ニューヨークに行った人から「ジャズの店は無数にあったが、カントリーの店は一軒もなかった」と聞いたが、NYという街がカントリーを拒むのにも理由があるような気がする。
第三世界が生んだ最大のロック・スターはボブ・マーリーだと思うけど、彼にはアフリカのイントネーションが強烈に残っている。ちなみにマーリーはケニヤなどアフリカは勿論、モルジブの若者にも人気だった。人種・宗教が違っても「俺たちの大先輩」という感じなのかな。
   *  *  *
僕が日本のロックに不満なのは、自分が根ざした民謡の背景、拭いがたい刻印のような、呪われた背後関係がない、キレイに断絶した音楽になってしまってる、ということ。70年代のフォークブームはフォーク(民族)と言いながら米国のフォーク音楽の模倣をしていて、邦楽の民謡とはあまり関係がない。
例外は沖縄のロックで、ここの歌い手は明白に民謡に根ざしている。民謡に育まれ、民謡との相克、民謡への反発があることで、良い音楽への推進力になっている。石垣島からわらわらと音楽家が出てくるのは、石垣で民謡教室が盛んなことと関係ないわけはなかろう。
   *  *  *
僕が最近横笛を練習してるのは、ディランの曲やアイリッシュな曲に使われているフィドルのような、そういうフレーズを僕もやってみたい(でもバイオリンはできないから笛だ)、という理由がある。横笛は縦笛よりもずっとずっとエモーショナルな音が出せるので、そこら辺痺れる。

『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を読みました

戸川純全歌詞解説集――疾風怒濤ときどき晴れ (ele-king books)

戸川純全歌詞解説集――疾風怒濤ときどき晴れ (ele-king books)

 

昨日三省堂神保町本店で購入。驚いたのだが、歌詞の解説の本だが、歌詞が全部載っているわけではないこと。全部の歌詞が読める歌は、2割くらい。8割は、歌詞の引用は2行。
   *  *  *
内容は、語り下ろしで、「玉姫様」以降の自作の詞を語る、というもの。「大天使のように」が実はヤプーズ初期の作でまだ方向性が定まっていない頃だった、というのは初めて知った。僕はヤプーズはリアルタイムに追いかけてなかったので、時系列に混乱があったのだ。
語り下ろしなので喋り口調。でも非常に論理的。そして時々エモーションが交じる。耳元で囁かれながら、時々ドキッとする感じ。これはなかなか良いです。
   *  *  *
残念なのが、「自作を語る」ということなので当たり前なのだが、カバー曲については言及がない。「昆虫群」「電車でGO」「レーダーマン」「母子受精」はハルメンズだし、「隣りの印度人」も佐伯&比賀江だから、これらについてはひと言もなし。しかしどんな気持ちで歌ってたか知りたいよね〜。また、「星の流れに」とかの「昭和享年」で選ばれた曲を、どう選んだのか、も知りたかった。
彼女は天才なので、「何を作ったか」も凄いのだが、「何を引用したか」も凄いのだ。
   *  *  *
ハルメンズ戸川純の関係は、ポール・ウィリアムズカーペンターズを連想する。苦しい青春を送っていた戸川をハルメンズが救い、後に戸川がハルメンズの曲を永遠に残る傑作に歌い上げた、という連環というか縁起というか因果に思い至る。
本書ではかなりまとまって、戸川が父親から受けていた虐待について触れられている。以前の自伝『樹液すする私は虫の女』では、子どもの頃強制的に演技をやめさせられた、門限その他が異常に厳しかった、としか書かれていなかった。本書では、DVも受けていた、母と妹はそれを看過していた、とか読むのがつらいこともサラサラと語っている。
この家族の問題はページを追うごとに濃厚さが増してゆき、あとがきの直前のページでピークに達する。それは献辞なのだが、こんなに恐ろしい、かつ切ない献辞を読んだのは生まれて初めてだ。これ以上のものは後にも先にもないだろう。
   *  *  *
ネタバレになるが、書いてしまおう。どうせ皆、この本買って読まないでしょ。図書館にも入らないだろうし。

 

 

 

 

そこには 「母、父、京子へ   皆愛」 と書いてあるのだ。

 

 

95年に自殺未遂した時、首を切った血で彼女は自室の壁に「皆憎」と書いた、という。それへの20年越しのアンサーなのだった。
   *  *  *
「諦念プシガンガ」の項で、彼女はこう言っている。

 

「諦念プシガンガ」とは、そういうことがあれもこれもあった中で出て来た歌詞なんです。それでも「許す」と。いえ、「許す」のは相手のためだけではないんです。許さないと自分がつらい。どんなに酷い仕打ちをされても、許すことだけが自分を救う方法のように思えました。(p015)

 

超弩級の結論が、冒頭に書かれているという、恐ろしい本なのだった。
まこと、天才はつねにデビュー作が最高傑作である。

私は誕生日というかお誕生会が嫌いだ。裕福な子の誕生会にマイケルやジェイソンを召喚したい

www.ele-king.net

ブレイディみかこ氏はどうも同い年らしいのだが、先方はいろいろと尖った人生を歩んでおられるので、僕のようにぼんやりと生きてきた人間とはてんでモノが違う。

僕は彼女と違い、この年になるまで、自分がどんな階層に生まれ、どういう風に育ってきたか、まるで意識していなかった。
いま冷静に考えると、僕が生まれ育った家は周囲と比べると貧しかった。それは、両親が山奥の小さな町から山陽地方工業都市へ出てきたという事情に由来する、と思い至った。

   *  *  *

両親は引越の際、人的物的資産をほとんど持たずに都市部に来た。古い家を買い取り、母屋や離れを順次建て替えていったのでその支払と子供たち(僕ら)の教育費を優先したため可処分所得はごく少なかった。若くてまだ経験もない夫婦には苛酷なことだったろうと思う。

うちの周囲は新開地ではなく古くからの農家や自営が多い地区で、地区の行事も多かったが、うちの両親は電話局員と郵便局員つまり下級公務員、地区の行事参加もなかなかできず、周囲から浮いてたようだ。
公務員は若いうちは非常に薄給で、反対に農家や自営は日銭なので可処分所得は多いのである。同年代の子どもたちの親は、うちの家と違って裕福そうだった。

その代わり長期にわたる厚生資金だと、自営は手薄で、年々給与が上がる公務員・会社員(電話局は後に民営化された)は子供たちが手を離れた頃かなり厚い所得を得る。つまり、ある時点で月給取りと自営の所得や余裕は逆転する。いま両親は手厚い年金を受けて悠悠暮らしているが、周囲の家は没落したり余所へ行ってしまったところも多い。

   *  *  *
僕の小学生時代は、無理して習い事や塾にも行かせて貰ったが、その他は赤貧洗うが如しだった。だから僕は、小僧ずし以外のお寿司は就職するまで食べたことがなかったし、焼き肉も大学に入って先輩に連れて行かれたのが初めてだったからモツばかり食べ、上カルビを食べたのは就職してからだ。その他の文化資産についての怨みは書ききれない。

   *  *  *

小さい頃、近所の裕福な家の子が誕生会を開くときも、店で誕生祝いの贈り物を買って持っていくことができなかった。他の子たちは数百円から千円ほどの玩具や文具を買って持ち寄っていたが、僕は鉛筆とフェルトペンで雑誌に載っていたパズルのような絵を模写し、方眼紙を組み立てて作った箱に入れて持っていった。受け取った彼は何もコメントしなかった。が、その後のお茶会で「なんでお前はここにいるの?」という雰囲気を感じたのは気のせいではないと思う。

お誕生会に招かれないのはとても淋しいが、招かれても同じように淋しい思いをする、という、どっちに転んでも淋しいのが“貧乏”なのだ。

正直、子供のお誕生会に他の子が贈り物を持ち寄る、なんて、なんと愚劣な習慣だろうと思う。それだからか、僕は今でも誕生日が嫌いだ。毎日毎日執拗に誰かの誕生日を報せてくるFacebookは氏ねと思う。

完結させることが良い、とは限らない。鑑賞「凄ノ王」永井豪ほか

某日、『凄ノ王 超完全完結版』(講談社)を読んだ。全6巻。
「凄ノ王」は少年マガジン連載時はあまりにも唐突な未完で終わっており、僕の漫画鑑賞の師匠・珠樹さんは、それが如何に衝撃だったかを熱心に語ってくれた。僕は貧乏だったので週刊漫画雑誌は買ってなくて、知らなかった。後に岡山・奉還町のマンガ喫茶「馬酔木」で読んで、その凄さにおののいた。

   *  *  *

永井豪は「手天童子」できれいに、本当にきれいに着地を決めて物語を終わらせたので、まさか次の「凄ノ王」がこんな終わりになるとは誰も思わなかったのではないか。『超完全完結版』1巻には作者あとがきがついてて、「はじめから未完に終わらせるつもりだった」と書いてあるが、ほんとかどうかはよくわからない。

しかし、今回「完結」したバージョンを読むと(といっても少年マガジン版凄ノ王を完結させた、という触れ込みで、後の角川「凄ノ王伝説」とは違う作品、ということになっている)、なんというか、「やっぱこれも未完じゃん」というか、「最初の未完の終わり方がいちばん良かったよ!」と強く言いたくなるのである。

「超完全完結版」6巻のうち、少年マガジン連載部分は5巻までで、最終6巻は一部「凄ノ王伝説」からの使い回し、他は書き下ろし、ということだが、書き下ろし部分は絵が上手くなっていて(これ褒めてないから!)、あるいはアシスタント?が描いてて、つまらないのである。
さらに、物語が東京都下M市の耳宇高校から宇宙へと飛び出し、ものすごくスケールアップしていく。しかし、物語のスケールが大きくなるにつれ、物語は失速停滞していく。はっきり言うと、宇宙に飛び出して宇宙戦艦と邪神凄ノ王が戦う描写は全然おもしろくない。

   *  *  *

それよりも面白かったのは、耳宇高校の帰宅部少年・朱紗真吾が徐々に超能力に目覚め、学園を陰から支配する部団連合や不死団と順々に対決する、少年ジャンプ的展開部分。とくにボクシング部主将・合田との対決は素晴らしい。
合田がまた良いキャラなんだよね、試合で相手を殺したことがある、今回も部団連合が真吾を制裁する尖兵として登場したというのに、実はフェアで思いやりもある、殺すはずの真吾の身を真剣に心配したり、非常に複雑なキャラになっている。「あいつがもう少し弱かったら、殺さずに済んだ……俺が本気を出さねばならないほど強かったのが命取りだった」だったかな? かっこえ~! このへん作者はノリノリで描いてて、それが読者にも判るので嬉しい。ほんとにもうワクワクしてしまうのだ。

それが、完結させるためのパートになると、精彩を欠くんだよね。
少年マガジンの終盤、邪神が街を破壊し、人々が鬼へと変貌していき、宇宙の彼方から八岐大蛇が地球に向かってくる、絶望的な破局の予感が充ちてきたなか、かつての雑魚キャラ・モヒカン不良の青沼が鬼に変貌して閉鎖病棟から瓦礫の街にさまよい出て、灰燼のなか、復活した真吾と邂逅する場面はほんとうに素晴らしい。ここで未完のまま連載終了となるのだが、それがどんなに素晴らしいことか、「超完全完結版」を読むとよくわかるのだ。完結させることは蛇足なんだ!ということがわかる! 永井豪先生、素晴らしいです。

   *  *  *

世界史に残る名作「デビルマン」は超ウルトラCの着地で完結してるけど、よくよく読むと物語の大きな部分は全部端折ってあるんだよね。だから良いんだというか。

名作になり損ねた問題作「バイオレンスジャック」は、週刊・月刊マガジン連載部分だけだと間違いなく名作だと思う。漫画ゴラク版は壮大な蛇足を続けた挙げ句、まあやっぱりあってもいいかな、と思わないでもない。
僕はゴラク版単行本全31巻のうち、30巻までを買って持っていた。1994年当時池袋芳林堂では最終刊を売ってなかったのですよ、なぜか。
で30巻の終わり方はというと、決起軍の包囲攻勢に遭ったスラムキングが何もかも棄てて脱出し、「東で待つ者のもとへ」という予言に導かれていくと、遠くに佇むジャックのシルエット、キングは斬馬刀を抜く(二度と鞘に納めぬ決意で)というシーンで終わってるんだよね。それがいかに素晴らしい余韻を残したか!

数年後、完結31巻を読んで、たしかにあの謎解きはすげーっ!と思ったけど、正直30巻で終わってる方が幸せでした。とくに老人になった逞馬の回想でページを閉じる、という終わり方は最悪でした。

昨今の、何十巻にもなる長期連載ばかりの漫画は、永井豪先生の足の爪の垢を煎じて飲むべきだろう。あの至高のテンションの一瞬をめがけて突っ走り、最後は投げっぱなしにする永井豪先生はやっぱり天才でした。

デビルマン 全5巻セット 講談社漫画文庫

デビルマン 全5巻セット 講談社漫画文庫