新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

自分のためのスノーケリング・マニュアル

【道具のチェック】
1.マスク、スノーケル、フィン
マスクはレンズの度が合ってること、バンドが頭を締め付けないこと、バンドが切れかけてないこと、シール(水密)が保たれてること。レンズが汚れてないこと(レンズが汚れてると曇る)。
スノーケルは、吸い口のシリコン噛み合わせが千切れてないこと、接合部や管に水漏れがないこと、弁が機能すること、管が太すぎないこと(管の容積が大きいと排水しにくい)。
フィンは、フルフットなら足入れが楽なこと、脱げないこと。フィンずれすることがあるのでフィンソックスや絆創膏の用意も。
ストラップフィンはストラップが切れかけてないこと。履いた時のテンションが適切なこと。ブーツやマリンシューズと適合すること。ブーツのファスナーがちゃんと締まること。

2.水着、ラッシュガード
水着は破れたりほつれたりしてないこと。
ラッシュガードは臭くないこと。砂を噛んでいないこと。ファスナーがきちんと締まること。ウエスト締め紐の両端がちゃんと出てること(片方を引っ張りすぎると片端がパンツに入ってしまう)。
ファスナーがちゃんと動作すること。ネオプレン生地に傷や裂け目がないこと。
着脱が容易なこと。体を締め付けすぎないこと。ゆるくないこと(ゆるいとエントリ時やカレントで脱げることも)。

3.カメラ、トーチ
カメラは電池の充電が十分なこと。ハウジングがきちんと閉まり、水密があること。中に入れるシリカゲルが湿ってないこと。水密Oリングが切れたり裂け目がないこと。水密グリスを塗ること。
カメラのメモリ空き容量が十分あること。本体のみできちんと動作すること。ハウジングに入れてきちんと動作すること。ハウジングのすべてのボタンが使えること。押した時浸水しないこと。
トーチは電池の充電が十分なこと。電池の液漏れがしてないこと。地上できちんと動作すること、水に入れてきちんと動作すること。

 

【エントリー】
エントリーする前にコースを決め、バディと共有すること。
潮位表(タイド・テーブル)を調べ、入水時間と上がる時間の潮位を知っておく。潮位がロー(干潮)の時は初めての場所は避ける。
男性は口髭を剃っておく。
イスラエル製の対日焼け・対プランクトンのクリーム「セイフ・シー」を露出部分に塗って伸ばす(入水10分前までに)。

エントリーポイントまでの移動が裸足だったら、きちんと足元を見て歩くこと。尖ったもの(ゴミ、金属、陶器、サンゴ、木の根など)を踏まない。足元が暗ければトーチで照らす。

1.ビーチからのエントリー
ポイントが砂浜なら、膝以上の水深まで歩いて入り、水の中でフィンを履く。砂地に膝や尻をつくと服が砂を噛むので避ける。シューズやブーツ併用なら、くつが砂を噛まないよう、予め靴を履いてフィンを装着して水に入る。
ラグーンにパス(ドロップオフへの道を)が切ってある時は、パスを示す黄色いブイ、白いブイ、発砲スチロールの箱、旗などを確認する。

2.ボートからのエントリー
混み合うのでなるべく急がず後から入る。バックロールは少なくジャイアンストライドが多いはずだが、バックロールの時は他人の巻き添えで水に落ちないように。
ジャイアンストライドではボートのエントリ口が混雑するので避ける。フィンを踏まれないようにする。カメラやトーチはストラップで自分の手首に固定しておく。

水に入った時の衝撃で道具が故障することがある。マスクと、スノーケルの弁に急な衝撃がかからないよう掌でカバーを。
マスクの曇り止め(洗剤またはツバ)はポイントに着く前に済ませておく。船上の共有バケツに洗った水を戻さない。バケツにマスクを漬けない。
イントラ(ガイド)の水着、マスク、スノーケル先端の蛍光塗料、フィンの模様などを見て覚えておく。
入水したら速やかにボートから離れる。後から飛び込む人に踏まれないように。他人の機材や体に接触しない距離を保つ。高価なカメラを持ってる人には近づかない。

 

【ボート・スノーケリング(ツアー)】
ボートの多くはツアーであり、個人でボートからエントリすることはほぼない。

入水後、マスク・スノーケル・フィンのいずれかに異常があれば、速やかにボートに戻る(イグジットする)。再点検で異常を解決して、再びエントリする。
基本、客の群れから離れすぎない。また客の群れの真ん中に入ってく身動きできなくならないように。
イントラの位置を確認する。顔でイントラを識別できない時は、水面下で水着やフィンを見る。
イントラの方向指示を厳守。目標物は常にイントラ。ボートを目標にしない(ボートは客と関連ない方向に動くことも多い。また、他のリゾートのボートを自分の船と間違えて追うことがある)。
気持ち悪いとか疲れたとかで勝手にボートに戻らない。イントラに訴えて、ボートを呼んでもらう。
イントラに従ってツアーについて行く。
イントラのブリーフィングで「フリーダイブは禁止」と言われたら潜らない。よく聞いとく。
イントラがフリーダイブしてもすぐに真似しない。カレントを見たりするためのダイブかもしれない。
ダイブから浮上する際は必ずと上方確認。後ろから水面を進んでくる人がいるので、空いた空間に向かってても油断しない。
マンタやジンベイが出たら、無闇にフィンキックしない。体を水平にすればキックせずに浮ける。
他の客が密集してきたら膝を抱えて小さくなる。自分から避けず、他人が去るのを待つ。
イントラが「次行くわよ」と切り上げることがあるので、観察に夢中になって置いてきぼり食わないように。

 

【ボートへのイグジット】
イントラがツアー終了を告げ、ボートを呼んだらマンタやカメがいても諦める。ボートに集中する。
疲れていなければ水面で待って、後から上がる。早い順番は混む。
ラダー(ボートへの梯子)と、介添えのクルーをよく見ておく。ラダーに滑り止めはあるか、足や指を挟みそうなとこはないか。クルーは右にいるか左にいるか、脱いだフィンを渡すのは右手がいいか左手か。カメラを渡してよいか(カメラを床に置くクルーもいるが、壊れるかもしれないので自分で持って上がるがベター)。
フィンは片足を脱いで水面待機、ラダーに取り付いて足をかけたらまず片方をクルーに渡す。手と足でラダーに確実に取り付いていることを確認して、残りの片方を脱いで渡す。両足が自由になったら体を持ち上げて水から上がる。ここで滑らないように。
ラダー最上段からボートに乗り込む時も足元が滑る。両足がちゃんとボートの床を踏んで立ったら、クルーからフィンを受け取って自席に移動。
バディもイグジットしてボート上にいることを確認する(案外忘れやすい)。

 

【ビーチ・スノーケリング(セルフ)】
エントリーし、パスからドロップオフに出たら、カレントを確認する。行きたい方向へフォローであること。アゲンストなら何度かキックしてみて、ストレスなく進めること。何らかストレスを感じるようならカレントは強いので、アゲンスト方向へ進むのを諦める。反対に行くか、再度水から上がってエントリーポイントを変える(面倒だが引き返す勇気を持つ)。

カレントがフォローなら、ゆっくり所定のイグジットポイントまで泳ぐ。
パス以外のラグーンは緊急時を除き泳がない。とくに干潮時は、珊瑚礁の浅瀬にハマって身動きできなくなることがある。どんなに浜が近くに見えても引き返す勇気を。
カレントの変化に気をつける。泳いでいて「もしかしてアゲンスト?」と思ったら、テーブル珊瑚の上に静止した大きい魚(ハタやタイの類)を探す。彼らはカレントが来る方向に頭を向けている。
彼らがバラバラな方向を向いてれば、カレントはない(なぎ)。

波はカレントと反対のこともある。波は目に見えるがカレントは見えないので波の向きを警戒しててカレントがお留守になって流されることがある。

 

珊瑚礁は浅瀬が危険】
波は十分な深さがある場所では単なる水面の上下動で支障はない(時々波に酔う人がいるが)。だが浅い場所では波は突然の水位上昇となって強いエネルギーを持つ。
浅い珊瑚礁のラグーンで強い波を受けると、意図せぬ浅瀬に流されたり、珊瑚に打ち付けられたりする。とくに水深が50cmを切る浅瀬では、緊急時に立って姿勢を立て直すこともできない。
波がブレイクしている浅いラグーンには近寄らない方が良い。

 

【バディシステム】
スノーケリングは必ずバディとする。
バディと離れず泳ぐ。透明度が低い時は時々水面から頭を出してバディのスノーケル先端を探す。ぶつからないよう、近づきすぎない。バディのフィンで蹴られないように。
判断(別れ道や方向転換、退却、そのまま進撃か)は必ずバディにはかり、バディが反対したり気が乗らなかったら安全な選択肢を選ぶ(行かずに諦める、イグジットするなど)。
体が冷えたり喉が渇いたり、誤って海水を飲んで気持ちが悪い、手を切ってしまった、など異常を感じたら必ずバディに伝える。
バディが動けなくなったら、2人とも遭難することになる。

バディとはハンドサインを決めておくと良い。方向、イエスノー、異常、発見した魚の種類など。ダイビングのハンドサインが流用できる。

自分の位置は海底の地形で判断しない。時々海上から陸地を見て、90度の方角で二点を見定める。
海洋生物の位置は頻繁に動くので目印にはならない。ウニやシャコガイでも信用ならない。イソギンチャクとクマノミは盗まれて消えることがある。

 

【離岸流について】
離岸流は流れなので波のように目には見えない。
袋状の入江で、湾の口の中央部から外の海水が流入すると、湾の両端から潮が流れ出て、離岸流になる。流れに捕まると絶対アゲンストには進めないので、冷静になり、流れに対して90度の方向へ泳いで脱出する。アゲンストには向かってキックを続けるのは体力の無駄。

潮流は天候・潮位・月齢などで変わる。朝・昼・午後でも変わる。
透明度も変わる。いったん悪くなると数日では回復しない。諦めること。

 

【マスクが曇る時】
水面でマスクを脱いで拭きたくなるが、マスクを脱ぐのは危険でお勧めできない。
マスクは脱がず、少し隙間を作って海水を入れ、レンズの曇りを濡らして取り、鼻息で排水する(マスククリア)。
隙間から指を突っ込んでレンズを拭くのはアリ。スノーケルは咥えたまま。

 

【ビーチへのイグジット】
砂浜なら、まだ適度な深さがあるとこでフィンを脱ぐ。砂に尻餅をつかない、膝をつかない(砂の中に硬い物があって膝を傷つけることがある)。
フィンや道具、服が砂を噛んでないよう、洗い落としながら上がる。

岩場へのイグジットはおススメできない。とくに日本では岩に牡蠣・フジツボ・カメの手がついてて指を傷つける。
グローブを着用し、ブーツまたはマリンシューズを履いている時のみ、岩場にイグジットする。

ごろた石の浜は砂がつかないので理想的。石で足の指を挟んだり、足場が悪くて足をくじくのに気をつける。

ガンギや防潮堤など人工物へのイグジットは、海苔や海藻がついてて滑るのに気をつける。テトラポットなど消波構造物へのイグジットは不可。
両手をついて体を引き上げる場合、水中では支える必要なかった体重が邪魔になる。泳いだ後は疲れているので、普段ならできることもできない。無理すると滑って腹を打ったり擦りむいたりする。

 

【イグジットの後】
ボートならお茶の配給があるので必ず飲んで体温が下がるのを防ぐ。船上にシャワーがあれば体の塩を流すのも良い。
濡れた体は必ずビーチタオルで拭いて、濡れっぱなしにしない。航行中に体が冷える元になる。可能なら濡れた水着を脱いで着替える。

ビーチに上陸したら、シャワーがあれば使って体と機材を軽く洗う。シャワーがないポイントではペットボトルに水を入れ、車の屋根で温めておく。

 

【ナイト・スノーケリング】
日没後または薄明時の暗い海に入る時はトーチを使う。トーチは必ず1人1本。点灯することを地上で確かめておく。

夜は透明度が低いことが多い。バディを見失わないように。
LEDトーチの光線は拡散しないので光軸がよそを向いているとバディの位置を見失うことも。昼より一層相手の位置に注意する。
何か見つけてバディに知らせたい時は、相手が見ている海底に対して自分のトーチの光軸を当てて急に揺らす。夜はハンドサインでは見えない。

カレントと浅瀬に一層注意。
定期的に水面から顔を上げ、地上の明かりを確認して現在位置を知る。地上に目標となる明かりがない場所はナイトに適さない。
砂のラグーンには夜になるとエイが上がってきて、砂地に伏せて獲物を狙うことがある。うっかり踏まないよう気をつける(毒針がある)。

シン・ゴジラの続編はこうだ!──押井守『ひとまず、信じない』


amzn.to

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書影はAmazonより

 一昨年の本、語り下ろしをゴーストライターがまとめたものだろう。はじめはあまり面白くない。説教臭いし、話の焦点がなかなか合わない。語り下ろしの悪いとこだろう。監督、あまりノッてないようだ…そうささやくわけだ、押井のゴーストが。

【目次】
序論――虚構の中に真実を宿らせる
第1章 幸福論――幻想は人を不幸にする
第2章 仕事論――説得する努力を怠ってはいけない
第3章 ニセモノ論――つまり、初めからフェイクなのだ
第4章 政治論――覚悟を決めない政治家たち
第5章 人間論――人間以上に面白いものがあるはずがない
第6章 映画論――「良い夢を見た」でもいいじゃないか

  俄然面白くなるのは3章以降。4章は少しネトウヨっぽく読めてしまうので、旧型リベラルの人はこの辺で本を放り投げてしまうかもしれない。

 5章・6章は白眉。とくに6章の「シン・ゴジラ」論とリドリー・スコット論は本当に面白い。ここでブツッと終わってしまうのがまるで押井映画のようだ。

 

関係ないが「シン・ゴジラ」続編を企画してみた

 押井は、初代ゴジラは原爆ではなく英霊の暗喩である、とする。そしてシン・ゴジラは暴走する原子力発電所である。初代は科学者が立ち向かい、シン・では公務員や若手政治家がゴジラと戦った。

 では次のゴジラは何で、誰が戦うのか?

 原子力発電所の災厄が忘れられつつある今、みんなが一番怖いのは「不景気」ではなかろうか。とすると、次のゴジラは不景気の化身として日本を襲うのだ。

 戦うのは誰か。公務員・公僕であろう。不景気なゴジラが上陸する、不景気な地方自治体の町議会議員とか青年会議所会頭とか商店会長だ。

 西伊豆のさびれた温泉町が破綻寸前である、何とかして観光客を呼び戻したいが施設は老朽化、旅館民宿は廃業、後継者難と良いとこなし。ひとり気を吐く若手の町議がゴジラの誘致を考え出す。東京駅前の凍結ゴジラは今や日本を代表する観光スポットである(いちおうシン・ゴジラの続編なので)。わが町にもゴジラを! しかし誰に陳情すればいいのか。東京都庁で小池知事にバカにされたり、西にガメラの誘致に成功した自治体があると聞いて視察団を派遣したり、ゴジラを呼べるという霊能者に騙され(町の財産を担保に借金する)、巨大広告代理店がからんでき…。するうちになんでか、駿河湾の海底に巨大な動くものの影が魚探に! ゴジラ西伊豆に上陸するのか!?

 いかん、《僕はかつて熱海に怪獣が現れるという馬鹿映画を作ったことがあるが》という押井の言葉に引き摺られてしまった。しかもゴジラが出てこない。ダメだこりゃ。

 じゃあ映像的に不可能っぽい企画を立てて、誰かに挑戦してもらおう。

 時は慶応四年、江戸へ進軍せんとする官軍と、迎え撃つか江戸を焦土にするかはたまた降参かで悩む幕府陸軍総裁勝海舟。勝の密使として幕臣山岡鉄舟が征夷大総督府参謀西郷隆盛のもとへ向かう途中、相模湾から姿を現すゴジラ! ゴジラはもちろん江戸をめざす。迎え撃つ官幕連合軍! 西郷、勝、山岡、大村益次郎桐野利秋江藤新平新選組彰義隊。アームストロング砲は火を噴くのか? 

 以上、浪士慶応報國故事というか、ただでさえ金のかかる時代劇・合戦シーン・怪獣ものをいっぺんに見せてください、という企画でした。

《あらゆる知識を総動員して、虚構が虚構として成立する世界を緻密に再構成するしかない》という押井の言葉が重たくのしかかってくるのである。ああ俺、才能ないわ。

天皇に忠節を尽くそうとしたら、天皇制に疑義を挟まざるを得ない──大塚英志『感情天皇論』

大塚英志『感情天皇論』ちくま新書、2019

感情天皇論 (ちくま新書)感情天皇論 Amazon

 改元のタイミングで刊行された本だが、いくつも驚きがあり、単なる便乗商品ではない。迫力があった。
 基本的には2016に太田出版から出した『感情化する社会』で述べたことを詳述展開しているのではないかと思う。思う、というのは『感情化する社会』は未読で、そのプロモとして書かれたコラム「感情天皇制論」が今回のちくま新書とそっくりだからだ。

www.ohtabooks.com

文芸とサブカル天皇をどう捉えようとしたか

内容をかいつまんで紹介しよう。

『感情天皇論』目次
序 章 私たちは明仁天皇の「ことば」をいかにして見失ったか
第一章 他者としての天皇──投石少年論
第二章 セカイ系としての「純粋天皇」──大江健三郎を平成の終わりに読む
第三章 押入れの中の「美智子さんの写真」と「女子」教養小説という問題
第四章 シン・ゴジラの帰還と素晴らしき天皇なき世界
第五章 平成三〇年小説論──「工学化した世界」の片隅で
短い終章 天皇のいない国をつくる

 

  序章は、明仁天皇が2016に発表した「譲位の仕組み作りを提言した動画」が、いつの間にか「お気持ち」とされて形骸化してしまい、それでもというかそれゆえにというか国民の大多数に支持されていった過程を告発している。

 一章は、1959のご成婚パレードで馬車に投石して拘束された少年の挿話と、それを三島由紀夫石原慎太郎らがどう記したか語る。三島は『裸体と衣装─日記』でエロス的に称揚して書いた。石原は実際にその少年が自分を訪ねてきて「きちんと話したい」と語ったにもかかわらず、文藝春秋に「あれをした少年」という半小説みたいな文を発表し、少年に成り代わった文体で矮小化した。大塚は、石原にはこの事態を受け止める度量がなかった、と言いたげだ。

 二章三章はその後文壇で流行った「不敬小説」の系譜を記す。大江健三郎「セヴンティーン」は実は山口二矢だけでなく投石少年がフィーチュアされている。『芽むしり仔撃ち』や石原の『太陽の季節』も実は不敬がテーマなのだ、とする。
「不敬小説」というジャンルができるほど文壇人は天皇というか明仁皇太子に夢中だった。その極致はもちろん深沢七郎『風流夢譚』1960である。

kappa-man.net

 三章では重要な〝忘れられた不敬小説〟が語られる。小山いと子美智子さま」がそれで、同作は実際に宮内庁から連載中止の要請があり、「平凡」での連載は打ち切られたという。抗議理由は《「私生活に対する侵害」、つまり「人権」であったとされ》、天皇個人の人権を圧殺する天皇制の本質に頬被りして宮内庁が人権を言う、興味深い事例である。
 大塚は、《この小説はむしろ皇太子妃の人権擁護小説》と明快に擁護する。男性純文学作家たちが天皇事象をオナニーや性的暗喩やスッテンコロコロと弄ぶしかできなかったのに対し、大衆向け作家の小山が啓蒙的ビルドゥングスロマンを書いて、しかもそれが宮内庁から抗議されたというのだから。《つまり小山は美智子を皇室を離脱して自立し得ることさえ選択する、自分の意志のある「近代」女性だと書くのだ》。性的暗喩や明白な嘲弄が無視され、通俗的な人権感覚での描写がむしろ逆鱗に触れる、宮内庁の逆鱗に触れなければその小説は現実のエッジに触ったとはとても言えないと僕は思うので、文学史的には小山大勝利であろう。

 四章では皇居直前の東京駅で停止、という劇終を迎えた「シン・ゴジラ」を語っている。エヴァンゲリオンや『絶歌』、折口信夫、「崖の上のポニョ」、「ゆきゆきて、神軍」「小栗判官車街道」とかも語られるが……正直あまり面白くなかった。サブカルの話題なのに。

 五章が本書の白眉かもしれない。古市憲壽『平成くん、さようなら』と田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』が語られるのだが、ここで大塚は両作品に対して驚くべき審判を下すのだ。ここはあまりにも面白いのでみなさんご自分で読まれた方が良いので詳細は伏せるが、本当に驚いた。
 ところで僕は田中康夫が33年後に相変わらず消費しまくるプチセレブたちを描きながら、ボランティアや〝ゆるいつながり〟、マルチチュードみたいなものに救いを暗示させていることに、すごく田中らしいなあと思い、そしてすごくつまらないと思った。そんな甘いもんで現実が救われるわけねーよ、という地方出身者のニヒリズム・上から(下から)目線で思った。
 田中とともに本書では鶴見済が取り上げられている。鶴見も『完全自殺マニュアル』の頃の突き抜けた立場から一転、シェアリングエコノミーやユイ・モヤイ社会が我々を救う、といった安易な着地をしてしまった。僕に言わせれば、これらは都会人の無知なエゴだ。大塚は取り上げていないが『そして、暮らしは共同体になる』の佐々木俊尚もそうだ。こういう議論は失格だ。人は共同体に居るのが苦痛でしかたがなく、共同体から逃げ出すために勉強したり出世しようとするのだ。そうして少子化孤独死すら選べる自由を手に入れたのだから、二度と共同体には戻らないのだ。「きずな」とか言ってるのは時代錯誤なのだ。
 ジャ・ジャンクーは現代中国を描写する映画作家だが、「山河ノスタルジア」はSF的でぶっ飛んでいた。改革開放・先富起来でリッチになった中国人は、宗族共同体から脱してオーストラリアに移住し、子供からも見放されてたった一人で老いて死ぬ自由を謳歌するのだ。中国人ですらそうなのだ。日本人が「きずな」に戻るわけ、ないのだ。
 まあ、注記しておくと、大塚はけっしてこんなこと言っていないのだが、まあこういう連想してしまうくらい僕には衝撃的な結論だったわけだ。

 終章、大塚は永年の持論に立ち戻る。『感情化する社会』のプロモエッセイで、《天皇制は断念されるべきだ、というぼくの立場はとうに表明済みである》と書いているとおり、本書でも《ぼくの結論は至ってシンプルだ。天皇制を断念しよう》とはっきり言い切っている。
 これは前々から彼の持論なのでネタバレにはならないだろうから、肝心の部分全部引用しておこう。その前段には、《いいかげんに私たちは近代を担保し民主主義を運用し得る「個人」となるため、私たちの怠惰を許してくれている天皇制を断念すべきである。そして天皇家の人々に私たちが奪い続けた「個人となる権利」を返すべきである》とあるのだ。そのために、《天皇制を断念しよう》と。

天皇への共感〟は実は〝甘え・依存〟では?

 実は僕も、前からほぼ同じことを考えていた。
 僕は外山恒一(1970生、九州のファシズム思想家。元は高校生左翼活動家)の影響で「ファシズムを現代に実現するには」を考え続けているのだが、天皇制については「あってもなくてもいいが、現在のように祭り上げて依存するのはよくない」と考えていた。保守(ネトウヨ含む)や民族主義国家主義の限界を突破してファシズムに糾合するには、どうしても「国民みなが天皇制に依存している現状を棄てねばならない」のだ。
 そして「もし存続させるなら天皇に忠義を尽くすべきで、忠義を尽くすなら民主国家が保証する人権を彼らにも与えるべきだ」、だから「天皇天皇制から解放せねばならない」と結論していた。

 天皇に対して「それは不敬だ」とか、遠慮したり、敬して遠ざけるのは、天皇を支える国民として正しい態度ではない。〝不敬〟よりも〝不忠〟をこそ恐れろ。
 つまり、「天皇に忠義を尽くすなら、天皇制を覆さねばならない」。

 これは大塚の「天皇制を断念しよう」とほぼ同じだ。

 あっぱれ、大塚英志は忠義者であった、と思った。
 それ以降の「皇太子の水の文化論」とか「天皇家バチカン化計画」とかはとくに僕は感銘受けなかった。まあ、いろんな考えがあっていいよね、ということだ。
 とにかく「天皇制に依存し、甘えている現状に無自覚でいてはならない」という大塚の結論は唯一無二のもので、スケールの大きいものだ。既存左翼の天皇制反対論とも違う。天皇制を認めるからこそ、そこから卒業せねばならない、からだ。

 憲法十三〜十四条には国民を個人として尊重し、人種や生まれで差別しない、と謳ってある。だが新天皇は還暦間近で登板し、八十過ぎまで激務を務め続けることが義務づけられる。人権もなく、ひたすら国民統合と国土の平穏を祈念し続ける、って持衰(じさい)とか『一目小僧その他』かということだ。野蛮な話である。
 とすると天皇は国民ではないのだな。この家に男子として生まれただけでこんな目に遭うとは。天皇を非人間的な天皇制から解放する闘争が必要なんじゃないのか? それとも民族派の志士や人権運動の闘士諸兄は、天皇にだけは人権を認めないのだろうか。

 今のとこ、きちんと「天皇制を諦めよう」と言っている言論人は大塚英志だけだ。尊敬に値する。もしもあなたの信条が大塚とまったく沿わなかったとしても、読む意義があると思う。

 大塚には巧言令色がないからだ。ことさら〝不敬〟を言い募り、天皇制に甘えるのをやめない輩こそ不忠者、君側の奸だ。

 巧言令色鮮し仁、君子は和して同ぜず。

 

付録。〝著者・大塚英志〟さんの思い出
 僕は昭和末年に大学卒業の見込みが立ち、東京の出版社に就職した。上京したのは平成初年の春だ。
 会社では軽装版ノンフィクション書籍の部署に配属された。隣の編集部のある人の机上に『物語消費論』があった。大塚英志の三冊目の著書だ。僕は田舎にいる時から『「まんが」の構造』『システムと儀式』は大好きで読んでいた。机の主が出社してきたので昼休みに声を掛けた。「この著者、好きなんです。面白いんで」その人は「へえ、知り合いから送られてきたんだけど、だったら読んでみようかな」。
 後日、「面白かったから著者に連絡したんだ。書いてくれるって」。
 こうして、光文社カッパ・サイエンスから『少女民俗学』が出ることになったのだ。
 担当編集は白石厚郎さんといった。本来はカッパ・サイエンスの理系っぽいタイトルを主にやっておられた。
 傍から見るとサクサクと進行して、あっという間に発売された(記録では5月刊らしい。4月頭に厚郎さんと雑談してからアッという間だった)。ささやかな打ち上げを、会社近くの穴蔵のような小さなビストロでやった。僕も呼ばれてお相伴に与った。
 ところがその夏、宮崎勤事件が発覚した。7月に捕まり、8月には自供が報道され、6千本のビデオとか、ロリコンアニメやホラー映画の影響が云々されだした。大塚さんはそれを我がことのように敏感に受け取り、裁判に関わることになってしまった。厚郎さんは「ぜひ続きを」と頼んでいたが、大塚さんの繊細な心に事件は重荷となるだろう、と心配した。不安は的中し、大塚さんは事件に忙殺されて続編は形にならなかった。
 あの時は本当に残念だった。せっかく脂が乗ってきた若い著者なのに、不毛な事件に関わって貴重な若い時間を棒に振るとは、と思った。だが、あの時ご苦労なさったのが、今の大塚英志の思想を鍛え上げたのかもしれない、という気が、今はしている。
 今回『感情天皇論』では、あの昭和末期に大塚が書いた『少女たちの「かわいい」天皇』という論考を、《ほとんどこれはセカイ系としての「天皇」に同一化する人間をただ甘美に描いているだけだ》と自身、完全に否定した。見事だ。そして《昭和のある時期までは盛んだった天皇制否定の議論は平成に入ると消え、逆に天皇制が「必要」であるならいかにあるべきかを考えることを怠った》と、非常に大きな議論を鮮やかにスパッと切って見せた。ここに本書のキモがある、と僕は思った。
 正直、昭和末年に僕が好きだった大塚英志は、明解でよく腑に落ちる文章を書いてくれる、やさしい著者だったが、世に出て以降の大塚の文章はやや読みにくい、韜晦もあるような、僕の苦手な文章を書く人になっていた。だが『感情天皇論』は、かなり明解だ。読みにくいところもまだあるけど、こんなにハッキリしている。三十年前の青年・大塚英志が帰ってきた、いや、ずっと健在だったのだ、ということがよくわかりました。
 ありがとうございます。なお、僕は本書をNet Galleyのゲラ配布・先行読みサービスで読ませていただきました。

『評伝 小室直樹』上下巻、村上篤直著、ミネルヴァ書房より発刊

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大変な本をご恵贈いただきました。
著者は東大法学部卒(小室先生の後輩ということか)の弁護士さんで、小室先生の著作目録や年譜を作ってこられた人。
今回、ものすごい大勢の人にインタビューして、小室直樹伝をものされました。僕もインタビューを受けて、ファミレスでコーヒー奢ってもらっただけでなく、和菓子のお土産までいただいて超恐縮でした。そのうえこの総額五千円を超える本を謹呈いただき、恐れ入ることおびただしいです。
(インタビューした方全員に献本したとしたら、印税じゃ足らないと思います。これはもはや社会貢献活動かと)
    ※  ※  ※
評伝 小室直樹(上):学問と酒と猫を愛した過激な天才
https://amzn.to/2N9I7QP
評伝 小室直樹(下):現実はやがて私に追いつくであろう
https://amzn.to/2QrmwkX

著者:村上篤直
昭和四七(一九七二)年、愛媛県生まれ。平成三(一九九一)年、愛光学園高等部卒業。
平成四(一九九二)年、東京大学教養学部理科II類中退。平成九(一九九七)年、東京大学法学部卒業。
平成一一(一九九九)年、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程中退。弁護士(新六四期)。
橋爪大三郎編著『小室直樹の世界』(ミネルヴァ書房、平成二五(二〇一三)年)にて「小室直樹博士著作目録/略年譜」を執筆。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ「ボーダーライン」(Sicario)(2015)の感想(後)

完全ネタバレ◎アレハンドロの秘密と作品の謎を全部書く

 夜、テキサス州エルパソからアリゾナ州フェニックスに戻る。ここでレジーが呼び出され、彼の運転で160キロ離れたツーソンへ移動。ツーソンでは深夜2時なのに煌煌と明かりが付いた施設に行く。大勢のメキシコ人が座り込んでおり、銃を持った警備兵がいる。ボーダーパトロール国境警備隊である。

 メキシコ人たちはバスで連れて来られており、「彼らの夜食代に8000ドルかかる」という台詞もある。おそらく入管のような、不法移民として摘発された人びとが収容される施設から連れて来られているのだ。
 スペイン語で彼らに問いかけるアレハンドロ。米国人官吏のように強権的ではなく、彼らの間に分け入って腰を屈め、視線の高さを同じくらいにして、近づき、「結婚は?」「子どもは」「手を見せろ、入れ墨はないな」と尋ねていく。
 すぐ後で判明するが、これは、ノガレスにあるという秘密トンネルの位置を探し当てるための、不法移民たちからのデブリーフィング、そのためのリクルートメントなのだ。訊問ではなく、自由に話させる。その方がリラックスして正確な情報になる、といったノウハウがアレハンドロにはあるのだろう。
 貧しい移民たちの間に分け入るアレハンドロの姿は、優しさに満ちている。移民たちに寄り添う姿勢がある。彼を見ているケイトたちには、それはない。アレハンドロは移民たちを“同胞”として遇しているのだ。
 ケイトにはそれがわからないから、このリクルートの意味もわからず、ここにいること自体に苛立ってしまう。もう深夜2時なのに引っ張り回され、自分が何をさせられてるかもわからない。あげく、「もう帰っていいよ」と片道2時間のフェニックスに帰れと言われる。着いたら明け方だろう。
 対照的にアレハンドロは主体的に行動し、精力的だ。とくにこのシーンは生き生きしていた。
 アレハンドロがメキシコでずっと検察官をやっていたら、こうして民衆と接し、庶民派の検事として人気になっていただろう。やがて選挙に出て、大物政治家になったかもしれない。
 すべてがカルテルによって狂わされたのだ。

 翌朝、ケイトはあまり眠れなかったようで、フェニックスの自宅で悶々とメキシコの犯罪写真などを検索して見ていた。朝、レジーが訪れて例の「新しいブラを買え」議論を仕掛けるパートだ。
 二人が“本部”になっているモーテルを訪れると、朝から(?)アレハンドロと移民たちは地図を前に熱心に議論している。
 移民たちはアレハンドロに積極的に協力している。もしかすると見返りを約束したのかもしれないが、それ以上に、アレハンドロの態度が彼ら移民を正しく遇しているから、移民たちのモチベーションも上がっている。

 マットの発案で、マヌエル・ディアスの資金洗浄係を拘束、口座を凍結する作戦に出る。資金洗浄係の金髪・白バッグの女性は特定済み。地元フェニックスのSWATに拘束を頼む。ここでゴムバンドで丸く留めた札束が出てくる。一束1万ドルくらいだと思う。こういう風に丸い札束を作るのはアングラな博奕打ちが多いと聞いたが、正規の銀行でもやるのかな?(これは洗浄済みの、銀行からおろした金だと思う)

 ここでケイトとレジーボーンヘッドをする。銀行の店内に入り、支店長に掛け合ったのだ。マットは「銀行に入るな」と注意したのだが。
 ケイトの目論見は、合法的にディアスを逮捕拘束し起訴すること。マットたちに任せているといずれ非合法(超法規的)にディアスを処分してしまうかもしれない。それは許せない。だからマットの制止を振り切ってでもここは突破しなければならない。
 マットとしては、そのくらい敵も想定内で、不正資金くらいでの裁判は打撃にもならない、たぶん起訴もできないだろう、それより泡食らってメキシコに戻るのを待つべきだ(国外で超法規的措置に出る)。これはケイトとしては絶対に賛同できない。メキシコでFBIが活動するのは違法だからだ。

 ケイトとレジーは銀行の監視カメラにはっきり顔を撮られてしまった。組織は、口座を凍結した連中の一人、とケイトを認識したはずだ。
 
 一瞬、プール付き邸宅の男が映る。札束のゴムバンドをいじっている。

 自分の上司に掛け合うケイト。ケイトは正規の手続きで立件・逮捕・裁判に持っていきたい。だが上司はすでに投げやりで「去年の立件数はその前の二年分より多い。でも街は安全にならなかった(立件しても仕方がない)」と言う。すでに正規の手続きを放棄しているかのようだ。少なくともマットたちの作戦を支持し、ケイトに自重を求めている。
 そして、この作戦は高いレベルで決定されたもので「超法規的行動をしてもいいんだよ」とケイトを説得する。そう言われてもケイトとしては容認しがたい。違法な捜査はしてはいけない、法を遵守して執行せよ、というのはFBIの金科玉条、ケイトとレジーの信奉する主義でもあるからだ。上司の命令で個人の信条を曲げることはできない、というのが米国的な倫理観だ。

 気晴らしに地元のバーへ飲みに行くケイトとレジー。ここでレジーはケイトに気分転換させようとする。うまい具合に以前知り合った地元警官テッドがいた。テッドはケイトが店に入ってきたときから気付いてチラチラ見ていた。
 この映画は説明が丁寧だ。このチラチラ見透かすシーンも、当然伏線になっている。
 ケイトは彼を自分の部屋に伴う。愛撫を交わし、いい雰囲気になったとこで、テッドはジーンズのポケットから邪魔な鍵束を出してテーブルに置く。そこに色鮮やかなゴムバンドがある。
 ケイトはゴムバンドが目に入ってしまう。一瞬で気付く。テッドから身体を離し、距離を取ろうとする。追いすがるテッド。だがもうケイトは怖くてテッドを許容できない。自分の拳銃を取って自分を守ろうとする。これが失敗だった。
 テッドは自分がディアスの金を受け取っている汚職警官だと気付かれた、と悟る。ケイトが激しい抵抗をやめないのでテッドはやむなく首を絞める。殺そうとしたのか、それともただ抵抗をやめさせようとしたのか。どちらにせよ、当初はここまでやるつもりはなかったと思われる。寝て、捜査状況がどうなっているかを聞き出せば上々、くらいのことだったかもしれない。ここまでエスカレートしたのはケイトが発砲するほど激しく抵抗したからだ。ケイトの反応も理解できるが、これは不幸なエスカレートだった。

 ケイトの意識が薄くなろうとしたとき、部屋に侵入してきたアレハンドロがテッドに拳銃を向ける。ケイトのグロックを拾ったのだろう。

 シーンが切り替わり、マットも来ている。だから銀行に入るなと言ったのに、I told you と言いつつ、ディアスの息の掛かった汚職警官を挙げることができたのは上等だった、とうれしそうだ。外には地元警察が大勢駆けつけているのに、テッドを拘束しているのはマットとアレハンドロの車だ。そしてテッドは首から上が血まみれだ。暴力を振るった訊問を受けているのだ。
 マットはテッドに言葉で訊問するだけだが、横からアレハンドロが出てくると必ずテッドに痛みを与える。顔の皮膚を捻り上げ、耳に深く指を突っ込む。的確にテッドの心を折る。ためらいもない。
 マットはさらに、「娘を安全に身辺警護をつけるか、元女房の住所をネットに晒すか」「まともな刑務所に送るか(ミズーリワークキャンプ)、屠畜場か」、ここ“屠畜場”とは原語では加州コーコラン刑務所のようなキルハウス、と言われている。チャールズ・マンソンやフアン・コロナのような殺人鬼が収監されていた州刑務所だが、ここでは治安の悪い、組織の手が内部に入っている危険な刑務所のことだろう。

 しかしこの比喩の翻訳はいただけない。今時の屠場はこういう比喩にふさわしくないからだ。キルハウスの訳は“処刑場”くらいが適当なのではないか。

 アレハンドロの駄目押しの虐待でテッドは完落ちする。携帯電話の住所録を見ながら、カルテルに買収された警官の名前を全部挙げる。これでテッドは終生カルテルから追われることになる。

 落ち込んだケイトを慰めに行くアレハンドロ。ここで彼は「奴は殺し屋じゃない。捜査状況を探っただけ。奴らの標的は我々(自分とマット)で君じゃない」とはっきり言う。ケイトはカルテルにとっても小者で、捜査状況を洩らす壊れた水道管くらいの存在なのだ。「ありがとう」と応えるが、ケイトは自分があくまで蚊帳の外であることに傷ついたはずだ。

「明日ディアスはメキシコに呼ばれる」とアレハンドロは予言する。ものすごく展開が早い。ケイトをチームに入れて作戦を始めてからまだ数日のはずだ。
 そこまで練り上げていたのを、ケイトたちFBIを噛ませてから一気にカードを切っているのだ。

 翌日、本部になっているモーテルに顔を出すと、昨日までいたメキシコ人移民たちは一人もいない。代わりにむさ苦しい私服兵たちがいる。マットの手足となる陸軍デルタフォースか。デルタは髪形や服装を偽装して偵察したり作戦したりするらしい。便衣兵である。

 空撮画像の監視員がいる。無人機でディアスの邸宅と自動車を見張っている。

 今日これからトンネル突入作戦をする、と告げられ驚くケイトとレジー。初耳だ。一応装備はつねに車に積んではいるが。突入時は後ろから付いて来い、とマットは強圧的に言う。戦力にならないのになぜ自分たちが帯同しなければならないのか、ケイトたちは不審だ。マットはあけすけに言う。「CIAは単独での国内活動を禁じられているから、君らFBIとの共同作戦ということにすれば合法になるのだ」つまり、名目上のパートナーとして、役に立たなくてもいいからついてこい、と言っている。これほど屈辱的なことはないだろう。

 レジーは激怒する。「俺たちは利用されてた。同行する必要はない。むしろ作戦をしくじらせてやれ」
 しかしケイトはそれに同意できない。「見届ける。知りたいのよ」
 二人のコミットの深さには差がある。レジーはあくまでFBIからの出向で、FBI的価値観を棄てるつもりはないし、FBIがコケにされたならメンツを取り戻すために相手(CIA)をハメることも厭わない。非常に狭量だと思うが、通常の組織間の付き合いではこれが普通だ。組織・党派の価値観を蔑ろにすることは許さない。
 だがケイトは、FBIの価値観を棄てるつもりもないが、この作戦を邪魔するのもためらわれる。この作戦はアレハンドロが立案・主導している。アレハンドロにはテッドから救ってくれた借りもあるし、その後「君は私の大切な人に似てる」と慰めの言葉をかけられている。いや、そうしたエモーショナルな部分よりも、ケイトは純粋にアレハンドロの実力に興味を持ち始めている。ディアスと、その先の大ボスを「ついに始末できる」とは、具体的にどうするのか。国境の向こう側の人間を「始末する」とは、米国法では違法に決まっている。その尻尾を捉まえて、コケにされた借りを返すか。それともアレハンドロの正体を知り、彼を理解したいのか(ここはわれわれ観客と同じなのだ)。

 作戦が始まる。武装したデルタを満載したシボレーのSUVが、フェニックスから国境のノガレス方面へとひた走る。サバーバンかタホかわからないが最大サイズのSUVだ。全車黒なので車列は異様に見える。フアレスでの移送作戦といい、この映画を象徴するものだ。

 国境の向こう側が少し描写される。これまで息子や妻とのふれ合いのみが描写されていたメキシコ人警官は、実はコカイン倉庫から安全に商品を運ぶ副業をやっていた。国境のこちら側ではマットが「メキシコ警察も車で運ぶ。制服警官を見たら敵と思え」と言っていた通りだ。この映画は説明が自然で丁寧だ。

 国境を越えたディアスを無人機が常時監視している。トンネル入口近くで全員シボレーを降りると、無造作に装備を付けて作戦が始まる。
 みそっかすのFBIはデルタのリーダーから「安全装置オン、銃身は下に向けろ。後ろにいろ。俺の仲間を撃つな」と素人相手のような注意を受ける。屈辱がいや増す。
 ヘルメットには光増幅型の暗視装置と熱感知型サーマルビジュアルセンサーが付いている。トンネル内は完全に光がない場所も多いので、光増幅型ノクトビジョンだけではダメなのだ。

 坑内に突入する。敵地だ。暗視装置でこちらからは敵が見えるが敵はこちらが見えない。サーマルセンサーには足跡まで映る。ナイフで音を立てずに見張りを倒す。
 鉱山のトンネルではなく、国境をパスする通路に過ぎないのでトンネルの構造は一本道のはずだ。少し分岐があるようだが、基本的には一本道をデルタが火力で押し、カルテル側を排除してゆく。
 トンネルのメキシコ側入口にも銃声が聞こえてくる。パトカーからの荷下ろしがまだ済んでいないが、カルテルの人間はヤバいことに気付いている。警官が律儀にすべての荷を降ろそうとするのを、「逃げよう。キーを寄越せ」と銃を突き付ける。
 そこに黒ずくめのアレハンドロが登場し、銃を持つ方を射殺する。すぐ撃てる銃を手にした者は問答無用に制圧(殺す)する、厳しすぎる作戦だ。
 生かしておいた警官をアレハンドロは拘束する。だが逮捕ではない。
 そこにトンネルからケイトが現れ、両者に「動くな」と通告、武装解除と逮捕を目論む。メキシコ側での殺人を目撃したから、ケイトにとってはアレハンドロを逮捕拘束する大義名分は十分なのだ。

 だがアレハンドロは予想外の行動に出る。ためらいなくケイトを撃ったのだ。ボディアーマー(出撃前に金属の防弾板も入れていた)を着ているので死にはしないが、相当痛いはずだ。しかも二発。古い型の防弾着だと、一発目で気密が破れると二発目は弾を通してしまう。二連発は必殺の撃ち方だ。アレハンドロが本気であることがわかる。本気の峰打ち?というと変だが、実はとても危険な男である。

 ケイトを撃ったアレハンドロの「二度と俺に銃を向けるな」も、最後まで見ると一種の伏線であることがわかる。

 アレハンドロはメキシコ警官のパトカーをハイジャックし、警官に銃を突き付けて走り去る。ケイトは言われたとおり米国側の出口に戻る。
 ここからの展開が少しご都合主義で奇妙だ。アレハンドロがメキシコ側に出た時、たまたま警官がパトカーで来てたからよかったが、車両が何もなければどうするつもりだったのだろう。
 また、無人機オペレータからの指示も奇妙だ。「標的は東北方向」というが、ノガレスの国境線は正確に東西一直線なので、東北方向は米国領で、アレハンドロより後ろになる。
「標的が17号線を行くなら56号線から回り込める。2号線から56号線を東へ」も変だ。17号線はノガレスの東の町アグアプリエタから南下する道路だ。しかしノガレスとアグアプリエタは直線距離で130キロもある。ノガレス近郊のトンネルから出たアレハンドロが追いつける距離ではない。そもそもノガレスから2号線に出るまでも40キロ以上あるのだ。1時間はかかるだろう。
 ちょっとここの位置関係は無茶苦茶で、せっかく良い映画なのに瑕疵だと思う。

 米国側。「20分後、標的に接近」とオペレータから報告が上がる。これはもちろんアレハンドロがディアスを捕捉することで、こう考えると全然ノガレスではない。むしろトンネルはアグアプリエタ近郊にあると考えた方が楽だ。

 デルタやマットは作戦が成功裏に終わりそうなので軽口を叩く。「あの二人はまったく手が掛かる」等。そこへケイトが遅れて現れる。いきなりマットを殴りつけ、返り討ちに遭って組み伏せられる。レジーも拘束される。
 マットはケイトを離れた場処に連れてゆき、落ち着け、と言う。マットは、ケイトに釘を刺さねばならない。
「君は違う通路に入り、見るべきでないものを見た」アレハンドロの単独作戦は目撃されてはならないものだったのだ。
メデジンとは?」とケイトは問う。警官シルビオがアレハンドロを見て叫んだ「メデジン」を覚えていたのだ。それに対してマットは驚くべきことを言う。
メデジンはかつて、すべてのドラッグを支配していた。我々(CIAなど米政府機関)に把握できる量が流通していた。やがて他の連中が“こっちの粉にしろ”と国民の20%を奪うまでは、理想的な秩序だった」
 コロンビアのメデジンカルテルが麻薬を入れていた頃は、米国政府機関は事実上のお目こぼしをしていた、ということだろう。流通量を把握していたら、それを国内の誰が扱い、どこへ卸しているか、誰が使っているかまである程度わかる。リスクを管理できていた、ということだろう。
 それがメキシコのカルテルが参入して流通量が爆発的に殖えると、管理不能な量になり、麻薬の使用者も国民の2割に及び、米国内の犯罪も殖えすぎてしまった。「その秩序を、アレハンドロが取り戻そうとしている」メキシコカルテルを潰して、コロンビアのカルテルに主導権を渡す、という手打ちが、米国内の高レベルで判断され、その作戦をCIAのマットが行い、アレハンドロを雇ってやらせているのだ。

 ここからのマットの言葉はアレハンドロ本人の重要なプロファイルになる。
「彼は誰の仕事でもする。人生を破壊した者を倒すためなら。我々でも、奴らでも。復讐を果たすために、彼は追いつめる。妻の首を切断し、娘を酸に投げ込んだ男を。敵はそういう奴らだ」

 ケイトは「私は都合のいいように黙りはしない。暴露してやる。何もかもすべて喋る」と言う。怒りに駆られている。だがそれは、FBIの流儀を無視された怒り、自分が依って立つ正義・公正さを踏みにじられた怒り、自分がコケにされた怒りにすぎない。
 マットは静かに「もっと気を楽に。やめておけ。それは大きな過ちだ」とだけ言う。ケイトたちが銀行に入ろうとしたとき消極的に制止した、それと同じような態度だ。言ってもどうせ聞かないだろう。だが“I told you”とはっきり言っておかねばならない。

 マットが口にしたアレハンドロの過去。それはすさまじいものだ。メキシコで人望のある腕利き検事だったのが、カルテルに手を出したため、妻子を殺されたのだ。妻の首を切り、というのはカルテルの常套手段なので詳しいシチュエーションはわからない。だが、娘を酸に投げ込んだ、というのはおそろしい。アレハンドロは娘が溶けていくのを見ているに違いないからだ。
 酸に入れた死体は溶ける。溶けてなくなる。濁った酸の液は、誰かの死体が溶けていることくらいはわかるが、DNA鑑定で個人が特定できるかどうか。それを“娘を酸に投げ入れ”と断言しているということは、溶けてなくなる直前の娘の姿を、娘が溶けていく過程を見せられた、という意味に間違いないのだ。しかも、それはたぶん生きたまま、だ。娘の死体を酸に投げ入れ、ではない。アレハンドロに最大限の恐怖を与えるには、死体では意味がない。おそらく妻も、生きたまま首を切られたに違いない。
 おそらくアレハンドロ本人も苛酷な拷問を受けている。彼がギレルモやテッドに対して容赦ない拷問をできるのは、すべて自分がされたと同じことをしているのではないか。ギレルモにぎゅうぎゅう下半身を押しつけて威圧したのも、水責めも、テッドの顔を捻り、耳に指を突っ込んだのも、すべて彼自身が経験したことではないのか。

 ここから先は逐語的に作品を追わない。クライマックスについて書くのは無粋だし。ただここでアレハンドロはかなりの掟破りをする、とだけ書いておきたい。それもこれも、彼の背負った修羅の大きさによるのだ、とマットの説明を聞いていれば納得できる。
 アレハンドロがメキシコの元同僚から「幽霊」と呼ばれた理由もわかるだろう。彼は一度ならず死んだのだ。抜け殻が歩いているのだ。


大テーマ◎正義とは、単に汚れてないことか?

 世間では蛇足だと思われている、最後のケイトとアレハンドロの対峙。僕はここが真のクライマックスだと感じて震えた。
 作戦が終わり、休日、ぼうっとベランダで喫煙するケイト。ストレスのあまり禁煙をやぶり、不安は去らないので煙草を常用するようになった。
 屋内に人の気配がする。「しばらくはバルコニーに立たないほうがいい。OK?」
 アレハンドロが室内に侵入している。暗い部屋にケイトを坐らせ、「怯えると少女のようだな。殺された娘を思い出す」と語り掛ける。アレハンドロに感じていた、ケイトを何か特別視している感触が、ここで説明される。前にも一度、「大切な人に似ている」とぼんやり伝えていたことだ。
 だがここで重要なのは「俺の大切な人は殺された」ということだ。

 アレハンドロは書類とボールペンを投げ渡す。「“作戦はすべて法規に準じたものだ”という書類にサインしてくれ」宣誓供述書のような意味の書類なのだろう。
「サインできない」とケイトは泣きながら拒否する。「大丈夫だ」とアレハンドロ。
 ここ、多くの人が読み違えているのだが、アレハンドロは自分の保身のためにケイトにサインをさせようとしたのか? 僕は違うと思う。
 アレハンドロという人物をよく思い出してほしい。彼は保身を欲するような人物か。
 米国に居られなくなったらコロンビアでもどこでも行ってしまえばいいのだから、彼に保身は不要だ。
 では誰のためか。マットなどCIAほかの政府機関をスキャンダルから守ろうとしたのか。それはあり得る。だが主筋ではない。

 サインを拒否するケイトの顎に彼は銃口を突き付け、「君は自殺することになる、ケイト」と宣告する。それほどまでに彼がケイトのサインを必要としたのは。
 もう結論は一つしかない。「ケイトを殺させないように、ケイトの偽証供述書が必要」なのだ。

 ケイトの主義では、公正さ・正義が非常に重要になる。そのために勇気があり、個人の強さがある、という思想だ。このままほっとけば、ケイトは必ず内部告発をし、作戦の全容を、米政府が違法な作戦を認可していたことを世間に暴露する。
 各方面が打撃を受けるだろう。ケイトを出向させたFBIの上司から、CIA、陸軍、警察、DEA、その上の政府機関だから司法省や国防総省、大統領府まで。大スキャンダルになる。
 ケイトは命を狙われる。それでなくともすでにソノラカルテルからは仇と目されている。メデジンカルテルにしてみれば内部告発者=裏切り者だからやはり消すべき存在となる。米国の利害関係者も彼女を消したがるかもしれない。
 それをさせないために、信念を曲げろ、命を守れ、偽証をしろ、とアレハンドロは迫っているのである。俺の娘のようにしたくない。酸で溶かされるくらいなら俺が射殺して自殺に見せかけたほうがまだましだ、というアレハンドロの確信。
 暴力で信念を曲げさせられるのはケイトにとっては初めての体験だ。レイプに匹敵する。

 銃を突き付けられたままサインしたケイトに、「小さな町へ行け。法秩序が今も残る場所へ。君にここは無理だ」とアレハンドロは諭す。ここは具体的にはフェニックスのケイトの部屋だが、広義にはフアレスやノガレスなどメキシコのカルテルと接する場所すべてを指す。「君は狼ではない。ここは狼の地だから」とはそういうことだ。

 アレハンドロはケイトのグロックを分解して捨て置いてくる。ケイトはそれを素早く組み立て、ベランダからアレハンドロの背中に狙いを付ける。気配を感じて振り向くアレハンドロ。
 しかし、ケイトは自分が狼ではないことに改めて気付き、絶望して銃口を下げる。ケイトは完全にアレハンドロを理解した。そして、自分はそうはなれないこと、彼との断絶の深さを改めて知ったのだ。その絶望だ。

 ケイトという個人が屁垂れなのではない。彼女はよくやった。彼女が負けたのではなく、彼女が信じた正義、公正、フェミニズム的自由と解放の思想、相互に信頼し合う思想が、アレハンドロの背負った修羅に負けたのだ。

 アレハンドロは、進んで悪を引き受けた男だ。それも大きな悪だ。これほど大きな悪でなければ、対抗できない悪、邪悪さが満ちているのが“狼の地”なのだった。
 アレハンドロにはそれまで口にしていた、「大ボスを始末することはワクチンの発明に匹敵する、大勢の命を救える」という大目的があり、それは終始変わらない。ただ、その目的を、キレイキレイな手段でのみ実現しようとする気はない。障害を何もかもなぎはらって一直線に目標に向かう。アレハンドロにとって法は些細な障害にすぎない。自分にはもう守るべきものは何もないからだ。この身も命も惜しくない。

 おそらく彼が最大に惜しむのは、自分が「カルテルを挙げる」と決意したために流された妻や娘の血が無駄になることだろう。すべては自分の選択のせいだったのだ。警官シルビオのように組織に内通すれば、今でも妻と娘は無事で、自分も豊富な資金を得て政治家への転身だって可能だったはずだ。
 だが、正義を選んだためにアレハンドロは何もかも失って、幽霊となった。
 彼がケイトに発したのは「俺のようになる覚悟はあるのか」という問いだと思う。その覚悟があるなら、俺に銃を向けて撃つがいい、と。

 この修羅の深さが「ボーダーライン」を見る者を圧倒するのだ。
 この作品のレビューに「善悪では割り切れない」「悪に対しては一定の悪も必要」といった言葉が使われているのを目にする。だけど、そういう小さな話か? と僕は思う。
 考え得るかぎり大きな悪を引き受ける、と覚悟した者を、誰が裁けるのか。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ「ボーダーライン」(Sicario)2015の感想(前)

 遅まきながら「ブレードランナー2049」を見て、改めてヴィルヌーヴにハマっている。前に「灼熱の魂」を見た時やっぱり心を奪われたのだが、あの時はこんなにネットのレビューが気にならなかった。だが「ボーダーライン」を見ると気になって仕方がない。
 なぜかというと、ネットのレビュワーたち(僕自身も含む)は、ヴィルヌーヴの問い掛けをきちんと受け止めているか?ということが問われているのではないか、と思うからだ。
 この映画は丁寧な説明が多いが、それでもわかりにくい。


登場人物◎アレハンドロはコロンビア人ではない!

人物を整理しておこう。断っておくが、ここからすでに【ネタバレ】なので注意を。

ケイト・メイサー(主人公。FBI特別捜査官)
FBIの誘拐即応部隊指揮官。アリゾナ州フェニックス支部勤務らしい。冒頭に武装して装甲車ごと敵アジトに突入する。アリゾナでの主敵はマヌエル・ディアスという名だと判明しているが、彼女にはほとんど情報がない。
特別捜査官になってすぐにQRFになり、指揮官歴は3年。5回の突入をすべて成功させている。だが直近の作戦では仕掛け爆弾で2名のチームメイトが死んでいる。離婚歴あり、子はなし。

ジー(主人公の同僚)
ケイトのバディで、黒人の特別捜査官。奨学金ROTCを受け、イラク派遣(たぶん海兵隊)の後、法学の学位取得。たぶんロースクールを出て弁護士資格があるということだろう。『ヒルビリー・エレジー』の主人公のような苦学生で、現在のFBI特別捜査官という地位は彼にとって通過点、もっと上を目指しているのではないか。

マット・グレイヴァー(CIAオペレーション・オフィサー)
現場指揮官より上のクラスの会合にサンダル履きで来る男。またFBIなども彼のだらしなさを許容している。それは、身ぎれいなデスクワークや会議に彼が割ける時間は少ない、現場歴が長く今も現役であることを意味している。命が懸かった現場に身を置く者特有の横着さ(「葉隠」)のようだ。
現場担当者と「それは淋病だ」「フィジーの謀略、俺にやらせたら」といった軽口を叩く。安い売春婦を抱くような田舎国や熱帯の経験が長いのだろう。

アレハンドロ(国防省顧問)
国籍不明でスペイン語母語とする男。マットは彼に大きな権限を与えており、作戦の立案・実行に大きく関与させている。マットの仕事は、アレハンドロをハンドリングすること、なのであろう。CIAのケースオフィサーとは本来、実行者を飼い、自分は動かないものだ。
序盤に「フアレスで仕事していた」「私はメキシコのために働く検察官だった」と明言している。外国人が検察官になることは少ないだろうから、元はメキシコ人だったと考えるのが自然だ。
ネットには必ず「コロンビア人アレハンドロ」と書いてあるが、作品中ではコロンビア人であるとは一度も明言されていない。「ここ(マットの顧問)の前はカルタヘナにいた(コロンビアのために働いていた)」と言っているだけだ。「コロンビア人アレハンドロ」というのは日本の映画輸入業者のミスであろうと思われる。

シルビオ(メキシコ人警察官)
妻、息子あり。夜勤が多く、寝ているところを息子に起こされてサッカーを付き合う。スキンヘッドだが30代くらいではないか。住居地は、アリゾナと国境を接する街ノガレス。
後にわかるが、彼は麻薬密輸出を手伝っている。麻薬倉庫から国境のトンネルまで麻薬のパッケージ(5kgくらいのパック)を何十個も、パトカーのトランクに詰めて運んでいるのだ。腐敗警官ということになるが、組織のために殺人や脅迫までしてたかどうかは不明。
制服警官は薄給で危険なので、麻薬組織に通じた方が安全で収入も増える、という矛盾がある。

テッド(アメリカ人警察官)
FBI捜査官レジーの知り合い。どこかのアカデミーで一緒だったのか(FBIアカデミーに警官が研修に来ることはある)。今はアリゾナ州フェニックスで警察に奉職。
組織に買収されており、組織の資金洗浄担当(女性)が所持していたと同じ札束用ゴムバンドを持っていたのをケイトに気付かれる。

ギレルモ(メキシコ人)
組織の大幹部。フアレスで官憲に拘束されていた。マットたちの最初の作戦はその身柄を受け取って米国側のエルパソに移送することだった。組織の大幹部マヌエル・ディアスの実兄。
アレハンドロの拷問に屈し、ノガレスのトンネルを自白する(ということは、ギレルモのレベルでは大ボス・アラルコンの居場所は知らないのだ)。

マヌエル・ディアス(アリゾナ在住メキシコ人)
麻薬組織を統括する実力者。普段は米国内のアリゾナでプール付きの邸宅に住み、子どもたちと暮らしている。しかし問題が生じたらメキシコ側に戻って大ボスと協議しなければならないので、現地法人社長くらいの地位か。

ファウスト・アラルコン(メキシコ人)
ソノラ・カルテルの支配者。麻薬王。所在不明の大きな屋敷に住む。妻と息子二人あり。
彼の屋敷の警備は、外郭が1名、内陣が3名、邸内が1名らしい。他に料理人の女性が1名。


構 造◎ケイトは名ばかり主人公ではない!

 この作品には二つの対立構造がある。一つは大きな対決の構図で、米国官憲vsメキシコ犯罪組織。もう一つは共存ないし協働すべきなのに対立してしまう、遵法主義vs現場主義。ここでは便宜的に現場主義としたが“脱法もやむなし主義”でもよい。
 そして前者の官憲vs犯罪者の対立は作品中では後景に退いていて、我々観客に突き付けられるのは後者の対立である。すなわちヒロイン・ケイトと同僚レジーの連合vsマットとアレハンドロ組。

 ケイトたちが体現しているのは我々と同じ価値観だ。法を守り、人権を守り、正しい手続きを踏む。人は差別されるべきでなく、固有の文化や個性は尊重されねばならない。だからケイトとレジーは白人・黒人、女性・男性、エリート・苦学生といった差異を越えて信頼しあっている。二人とも遵法精神があり、FBIが守るべき法を熟知し、違法捜査ならやらないほうがマシだ、と思っている。違法だと公判を維持できないからだと思われる。レジーは法律の学位保持者なのでその意識が強く、マットたちの違法な作戦を「邪魔してやるか」とはっきり言う。違法な作戦は彼らにとって有害無益なのだ。
 対して、マットはそういった意識が希薄というか、意識的に無視している。彼は登場時、会議の他のメンバーがスーツにジャケットなのに、彼だけ半ズボン・サンダルである。これは会議の他のメンバー、FBIや警察、軍だと思うが、それらに対して敬意を持たない、そうした秩序に背を向けるよ俺は、と言っている。
 ちなみに彼のサンダルは親指の股で鼻緒をはさむビーチサンダル型だ。アメリカで一般的なサンダルはビルケンシュトックなど革サンダルやGTホーキンスのような旅行者サンダルだろう。ビーチサンダルはサーファーか熱帯経験者に多い印象。CIAで熱帯経験者といえば、自然に「バナナリパブリックに謀略を仕掛ける者」というイメージになる。
 マットはケイトをリクルートする面接で、「夫はいるのか」「子どもは」と問うた。これは採用面接では政府民間問わずタブーのはずだ。本人の能力ではなく周辺状況で合否を判断するのは性差別と同じで、雇用法違反だからだ。だから問われたケイトも「なんで訊くか?」という表情になる。だが傲岸に、自信たっぷりに訊くマットに気圧されて、しぶしぶ答える。ケイトなりに、この質問には根拠と必然性があるのかもしれない、と思ったからだろう。
 そう、重要な質問なのだ。この作戦に携わる者は、誰でもこの質問を経ているはずだ。それは作品の後半大詰めでアレハンドロの家族背景が語られるときに判明する。

 はっきり書くと、ケイトたちはフェミニズムの価値観を体現している。
 なぜフェミニズムと断定するかというと、レジーの行動でわかる。レジーは男性だが「そのブラをなんとかしろ」と同性の友達のようにケイトに接する。けっして男性視線からの言葉ではない。レジーが妻帯者かどうかは描かれないが、レジーは異性のケイトを性的対象ではなく一個の人間・同僚・尊敬すべき相手として見ている。性的な枠組みから自由なのはフェミニストの特徴だ。
 マットはフェミニズムなんて糞食らえと思っていそうな、前時代的な背景を持っていそうだ。一応政府機関職員だから紋切り型のマチスモ的発言は控えているし、ケイトを差別せず男性同様に厳しく遇するようにしている。が、動作の端々から“お上品なフェミニスト”への軽侮がうかがえる、というのは僕の考えすぎだろうか。
 マットとアレハンドロがアンチフェミニストなのは、作戦についての説明を意図的にサボっていることからも明らかだ。「見て覚えろ」というのは「余計なことを訊くな」「お前に質問する権利はない」と無言のメッセージを発している。「共有する」という発想がない。
 フェミニズムの特長というか主張には「公正さ」がある。メンバー間で情報の量が同じでない、作戦目標すら知らされないで従事させられるのは明らかに公正でない。レジーはそれを我慢できなくて、不法入国メキシコ人たちを面接している最中に「作戦について説明しろ」と食ってかかった。対するマットは「OKか? なんかシリアスだな」とレジーの態度を嘲笑う。
 マットにはマットの理屈がある。作戦の全体像をケイトとレジーに知らせるのは、かえって二人の安全を損なう、くらいの認識がある。付いて来るというやる気を見せてくれるなら教えてもいいが、今のまま杓子定規にFBIのやり方を振り回す彼らに情報を与えるのは良くない。作戦を危険にさらすし、彼ら自身も危険になる。
「俺たちを“暗闇”に残すな」と言うレジーに「暗闇が怖いか」と返すのはマットかアレハンドロか。それは「自力で暗闇から這い出てこい」というメッセージでもあるはずだ。だが、システムとしての公正さを要求するケイトとレジーには、マットの論理は届かないし、届いたとしても無視される。

 ネットの感想文では「主人公は無力だ」と繰り返し書かれている。そして後半はっきりとアレハンドロが真の主人公であることが明かされるので、ケイトは狂言回し以下、優等生が引っかけられてコケるのを嘲笑うような作品に見えかねない。名ばかり主人公というか。
 だが、ケイトはそれでも立派に主人公なのだ。なぜなら、我々大衆は彼女の側でしかあり得ないからだ。
 ケイトがふりかざすフェミニズムは比較的穏健なもので、我々の常識とさほど乖離してない。彼女は明らかに我々の側だ。彼女が関わろうとし、それでも無視や拒否される世界とは何なのか。謎の男アレハンドロの正体とは何かを彼女の目を通して明らかにする。それがこの作品の構造だ。彼女が主人公でないと成立しない作品なのだ。
 なぜアレハンドロという男を理解するのに彼女が必要なのか、それは彼が物言わぬ“幽霊”だからだ。

 

謎と答え◎この映画はアレハンドロという男を理解することがすべてだ

 本作の真の主役はアレハンドロだ。これは誰でもわかると思う。だが、アレハンドロ自身に自分を語らせることはできない。彼が持っている数々の謎こそがこの映画の推進力だからだ。
 だから構成上の主役ケイトが存在する。彼女が我々の代わりに謎を体験し、苦しみ、そして理解する。我々は彼女の五感を通して、アレハンドロとこの作品の世界を体感する。

 彼の謎・彼の行動を具体的に見ていこう。
 ケイトが彼を認めたのはフェニックス郊外のルーク空軍基地からエル・パソに移動するガルフストリームの機内だった。寝穢く寝こけているマットを後目に、ジャケット姿で乗り込んできたアレハンドロはきちんと座席に腰掛けている。うとうとし、悪夢を見たのか大きな音を立てて目覚めた。
 目覚めたアレハンドロの顔には驚きと恐怖の余韻があった。何の悪夢を見たのか。少なくとも“彼はしばしば悪夢を見ているに違いない”ということがここからわかる。

 次に、移送作戦のブリーフィング後にアレハンドロはケイトに問われて答えている。
「フアレスで仕事していた」「メキシコのために」「私は検察官だった」「(今はどこだろうと)命じられた地に行く」「(ここの前はコロンビアの)カルタヘナにいた」
 これだけでかなり濃いプロフィールがわかる。メキシコの検察官で、フアレスが任地だった。今は検察官ではなく、メキシコのために働いてもいない。コロンビアのために働いている。専門が麻薬犯罪だとすると、フアレスの麻薬組織を立件するために働いていたが、それができなくなった、だから流れ者になり、コロンビアを経て、今はCIAのマットに雇われている、ということだ。
 最後に彼はこう言い置く。「米国人の君には理解できまい。すべてを疑うだろう。だが最後には、君も理解する」これは、本作の構造全体を指す台詞であると同時に、いちいち説明を求めるケイトに対して「説明してもどうせわからない。経験すれば理解できるはずだ」と釘を刺している。

 移送作戦出撃前、アレハンドロは白いジャケットを脱ぎ、背中側を折って丁寧に畳み、丸めてバッグに入れた。身なりに雑なマットと好対照だ。アレハンドロはジャケットを着慣れており、こうしたことをきちんきちんとやってきた几帳面な人なのだ、ということだ。

 移送作戦。フアレスの裁判所?で停車して待つ間、彼はケイトに「ここでは何も起きない。危険なのは国境だ。メキシコ警察に気をつけろ。買収されてる奴が多い」と言った。事態は彼が言った通りになるのだが、そのメキシコ警察のテクニカル(重武装車両)が移送作戦部隊の前後左右を固めているのだから、とても安心できない。国境のゲートで地元警察部隊と別れたときかえってホッとするくらいだ。

 渋滞で停車を余儀なくされたのは米国側のゲートに入る前か。ここでアレハンドロは目聡く襲撃者とおぼしき車両を特定する。「銃を持て。赤のインパラ、10時の方向」さらに他の車両から「3車線左、7時の方向、緑のシビック」と続報が入る。
 アレハンドロはHKの短いカービン銃を、手慣れた様子でストックを出し、構える。
 襲撃者たちが車のドアを開けるや、移送部隊は銃を構えて飛び出す。アレハンドロは赤の車両に近づき、「ノーノーノー、平和的にいこうぜ。銃を捨てろ」とスペイン語で語り掛ける。威圧的ではない。
 だが一瞬で均衡が崩れ、襲撃者が銃を目の高さにまで挙げるやいなやアレハンドロらは即座に射殺した。また、彼の予告通り、黒ずくめの警察のかっこをした襲撃者が車内に残ったケイトを襲い、ケイトは一瞬早く身を伏せて回避、反撃して射殺した。
 移送部隊の護衛は米陸軍のデルタフォースらしいが、もちろん軍服ではなく、私服にボディアーマー、顔は覆面と、ギャングっぽい。正規の出撃ではないか、出撃そのものを秘匿したいか。
 渋滞がハケて脱出路ができると、アレハンドロは後席に戻るのではなく、ハッチバックを開けて後ろ向きに座り込んだ。デルタが一人並んで、二人で後方を警戒しながら離脱する。すごくプロっぽい。

 エルパソの基地(フォート・ブリス防空基地かと思われる)に引きあげると、「違法行為だ」と詰め寄るケイトに対してマットは、レジーには無理だからはずしたが、彼を早く慣れさせろと言った。完全に見捨てていないのだ。そして「見るものすべてから学べ。君は学ぶためここにいる」と言い置く。ここすごく米国的だと思う。
 未熟である、と切り捨てるのではなく、このような言い方をする。もうベテランのケイトですら、まだ学んで成長する余地がある、としているのだ。マットはけっして根っからのアンチフェミニストではない。マットの傲岸不遜な態度には、それなりの理屈と理由がある、ということだ。

 基地内でのシーケンスは重要だ。拘束され、水を飲まされているギレルモに対しマットは「お前の旧友を連れてきたぜ」と言う。アレハンドロのことだ。アレハンドロはギレルモと面識があるのだ。
 廊下のアレハンドロ。白いジャケットを再び着ている。給水器にかがみこむと、「“幽霊”ものどが渇くとは」と語り掛ける背広の人物が。英語話者だがメキシコ人のようだ。
 アレハンドロは「よく奴の命を守れたな。大変だったはずだ」と応える。相手はおそらくフアレスの裁判所か警察のトップなのだ。家族はどうか、と挨拶する。男は妻と幼い子どもが二人いるという。フアレスではなくモンテレイに、と言うとアレハンドロは「それはいい(安全だ)」と応じる。フアレスはベターではないのだ。それはかつてアレハンドロが実際に体験したことに裏打ちされた言葉なのだ、という実感がこもっている。
 背広の男から「トンネルがある。ファウストの“アリゾナへの道”だ」と情報がもたらされる。彼は「君の目的のためにも便利だろう」と念を押す。アレハンドロとは旧知の仲で、今は疎遠だがけっして完全に縁が切れたわけではない、むしろ陰ながら見守っているぞ、というニュアンスが伺える。
 背広の男はギレルモの部屋に入ろうとするが、アレハンドロは「あんたはよせ。まずいことが起きる。見ない方がいい」と制止する。これから起きることとは、アレハンドロがギレルモにやる行為だ、それは違法で危険で、「今も戦っているとはさすがだ」つまり現役の法執行官が少しでも関与すると身の破滅になるようなことだ、ということだ。背広の男はメキシコの警察か検察、おそらく検察でアレハンドロの昔の同僚なのだ。「君の身に起きたことは残念だ」とは、アレハンドロを襲った悲劇を指すのか、メキシコ法曹界を去って浪々の身になったことを指すのか、両方か。
 背広の彼を見送るアレハンドロは、廊下に置いてあった予備の水タンクを持っている。18.9リットル(5ガロン)の水タンクだ。ギレルモが拘置された部屋に入るが、ここにはウォーターサーバーはない。

 ギレルモのベージュのシャツには少し血が付いている。移送の時手荒くされ出血したのか、いやその前のマットと会うシーンでは血が付いてないから、あれからマットか黒縁眼鏡の手で出血させられたのだ。ギレルモはさっきより汗を掻いている。脂汗だ。入ってくるアレハンドロを見て緊張が増す。
 アレハンドロは、椅子に後ろ手で縛られたギレルモの脚を、乱暴に蹴って開かせ、股間深くに自分のスタンスを入れてごく近づいて立つ。パーソナルスペースを侵すことで「お前に人権はない」と威圧しているのだろう。
 黒縁眼鏡のマットの同僚は「俺は出とく」と退出する。これから始まることを見たくないのだ。
「ヤンキーランドは地獄だぞ」「いやメデジンこそ」との応酬。アメリカ式拷問をするぞ、との宣告に、いやメデジンつまりコロンビア組織式だろ、と混ぜっ返す。お前はコロンビアの犬だ、とギレルモは強がるのだ。
 より詰め寄るアレハンドロ。傍観するマットを見やるギレルモ。「なぜ俺を見る? 英語できないんだろ」とあくまで傍観を決め込むマット。
 ここから先は台詞がない。代わりに、床に置かれた水タンクと、床の排水穴が俯瞰でアップになる。背後にギレルモの苦しそうなうめきがかぶさる。
 ここは明らかに拷問のシーンを代替する象徴カットだ。本当なら、排水穴に水がちょろちょろと流れ込む画だったのだろうが、それすら審査基準を通らなかったので、水は完全カットになったのではないか。

 水を使った拷問とは、俗にwaterboarding clubといわれるものだ。
 詳しいやり方はケン・ローチ作品「ルート・アイリッシュ」やキャスリン・ビグローゼロ・ダーク・サーティ」に出てくる。
 容疑者の身体を板などに固定し(boarding)、寝かせ、やや足側を高くする。こうすると逆立ちしたのと同じになるのだ。容疑者の顔を手拭いなどで覆い、その上からコップ一杯の水を徐々にかける。逆立ちしていると水は重力に従って鼻の穴から入ってくる。息で吹き戻すことはできない。たったコップ一杯でも、気管に入るとそれは溺死するのに十分な量だ。
 殴ったり出血させたりせずに、命を危険にさらし、細かな制御も可能、非常によく練られた拷問方法なのだった。
 ケン・ローチ作品は英国映画なので審査基準が違うはずだ。ビグロー作品はCIAが拷問をした、とはっきり描いたため論争になったという。本作は水タンクを出すのがぎりぎりだったのだろう、と僕は推測する。
(あれ? ゼロ・ダーク・サーティPG12、シカリオはR15+だ。シカリオは他の要素ですでにレイティングがめちゃ悪かったんだな。それにしてもあの拷問描写でPG12とは、ゼロ・ダーク・サーティよくわからん。しかもルート・アイリッシュはGだ。まったく基準が分からん)

 ちょっと映画をベタに叙述しすぎた。これでは丸コピーになってしまう。
 序盤のこの流れだけでも、アレハンドロには明白に語られない謎が多いことがわかる。これらの謎を解読していくことがこの映画を理解することになる。この映画はとっつきにくいようで実は親切なので、見終わってもアレハンドロについて謎が残っていると、それは理解が足りないことになる。もう一度注意して見れば、必ず答えは判明する。
 こうした「答え合わせ」のような映画の見方はくだらない、とも思う。だが、作り手が仕掛けたことをせめて理解してやりたいではないか、とも思う。
 僕はこの映画はフェミニストであるヴィルヌーヴが観客に鋭い問いを突き付けた映画だ、と思っている。その問いがどんなものか、ヴィルヌーヴはどのように我々に突き付けてきたのかを書き記すには、少なくとも焦点の人物アレハンドロの解読は必要なのだ。
 ここから先は駆け足でアレハンドロの謎を解いてゆき、ヴィルヌーヴの設問に近づいてゆこうと思う。

(後編に続く)

イエスの高弟・ペテロ(シモン・ペトロ)に関する想像

 ペテロは十二使徒の筆頭、イエスの一番弟子で、もっとも高弟とされる。位の高い使徒、ということだ。年もイエスより上で、三十代で青年期の終わりだったイエスと比べると、おそらく四十代の中年期、青年らしい潑剌さはなく中年の落ち着きや分別があった、だからイエスはペテロを重用したのだろう。
    ※  ※  ※
 ペテロはガリラヤ湖の畔で漁師をしていた。漁を終えて舟を着けたところか、舟の手入れをしているところをイエスに声を掛けられ、最初の弟子になった。このとき兄弟のアンデレ──おそらく弟だろう──も一緒に弟子になっている。ペテロは既に結婚していた。家族がいて仕事もあるのに、イエスに帰依し、放浪するイエスに付いて南方のエルサレムまで行った。序列では教祖イエスに次ぐ地位だが、一を聞いて十を知るタイプなどではなく、どちらかと言うと物わかりが悪い、また眠気に負けて眠り込んでしまい、イエスに叱咤されるなど、ピリッとしないところもある。
だが、そこが良かったのだ。
    ※  ※  ※
 十二使徒は、その筆頭が中年で、あまり聡明とはいえない、どちらかというと鈍くさい元漁師のペテロだったことで、他の十一人がまとまりよくイエスに付き従った、とも言える。
 使徒たちにはいろんなタイプがいた。若くて才気煥発な、イエスに愛されたヨハネ。ガリラヤの有力者のせがれで、堂々としてリーダーシップもあるヨハネの兄ヤコブ。教団の会計を引き受け、頭が切れて仕事もできるユダ。過激派である熱心党《ゼロテ》から弟子入りし、他党派の影響を強く引き摺っているシモン。などなど、敬虔な宗教者、つまり大人しい羊のようなイメージからはかけ離れた、曲者揃いの寄り合い所帯だった。

 だが長男にあたる高弟ペテロが凡庸で鈍くさい、別の言い方をすればどっしりとして落ち着いた男だったので、他の弟子たちの重石になっただろう。
 ペテロ自身にも筆頭の弟子である自覚があった。イエスが弟子たちに問うと、ペテロが答えることが多かった。おそらく、聡明なユダやヨハネは、自分ならもっと気の効いたことを言えるのに、と内心思っても、兄弟子の面目を立てて言わずにいただろう。だからこそペテロにお鉢が回ってくるというのもある。
 もっとお調子者で軽い弟子はいなかったのか。
 一番年少のヨハネがもっとも賢く、イエスにも愛されていたから、彼より年上の弟子があえて道化になろうとはしなかったのではないか。また、イエスの問い掛けは引っかけやダブルバインドが多く、素直に答えた者はたいてい恥をかく。イエスの問いに答えるということは、この、恥をかく役回りを進んで引き受ける、という意味だった。だからユダやヨハネが黙っているなか、どうせ正解ではないと知りながら、ペテロはイエスの問いに果敢に答えていたのだ。
 おそらくペテロ本人も、ああ俺はまた間抜けなことを言ってしまった、といった後悔がいつもあったに違いない。年長者が年下の教祖にいいようにあしらわれる、そのみじめな姿を取り繕わず、さらけ出すことに、イエスの高弟ペテロの誇りや意地が有ったのではないか。