新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

ゲゲゲ一周忌でしたね。ついでにいろんな方を追悼

昨日11月30日は水木しげる先生の一周忌であった。
僕は「妖怪忌」と呼んでいる。おばけは死なない、はずであったが。
本年1月末日に青山斎場で行われた水木先生お別れの会には、僕も歩いて行った。
会葬者?には先生の言葉が書かれた葉書をお土産にくださった。


あんまり恰好良すぎて、少し据わりが悪いような気がするのであった。
   *  *  *
11月28日は菅原文太の命日、今年は三回忌である。
僕は「仁義な忌」と呼んでいる。
亡くなる11月のアタマに、翁長雄志現沖縄県知事の選挙応援に入っている。その有名な動画がある(翁長氏本人のアカウントで公開されている)。

恰好良い。しかし、よくよく聞くと、言ってる事はメタメタである。
菅原文太は、ずっとリベラルな候補者を応援してきた。
僕が最初に知ったのは、中村敦夫サラリーマン新党)の応援だ。既存左翼とはちょっと違う人なので、「菅原文太らしいな」と感じた。
けど、現代に近づくにつれ、めちゃくちゃな政治情勢を反映してか、菅原文太の応援相手もめちゃくちゃになる。
ホリエモン亀井静香では亀井を応援。これは亀井がかつての典型的自民代議士からゲバラ主義者に変貌した後だから、まあ納得できる。反逆者が好きなんだよねきっと。
しかし2012衆院選での松本龍はどうか。解放同盟からの候補者だから応援したのかな? それはそれでいいんだけど、もっと候補者の人間を見てよ、と思う。2011の暴言騒動の後よ? いや、だからなのか。よくわからないけど、福岡在住で世話になったのかしら。頼まれたら厭とは言わないのか。
2014都知事選では細川護煕宇都宮健児じゃないんだ……共産党とは反りが合わないのかな。それもまあポリシーだけど、殿はないだろ、と思わないか。
2014沖縄県知事選では翁長。僕は翁長は非常な食わせ者ではないかと警戒感を持って見ている。ある意味、カーツ大佐(地獄の黙示録)のような人ではないかと。カーツ大佐のモデルはマッカーサーである(副島隆彦説)。それだけ実力はある政治家なのだが、マッカーサーと違ってカーツ大佐は狂っているのだ。翁長氏は狂っているわけではないが、言ってることと目指している処が違うのではないかという疑いを持って僕は見ている。
菅原のスタンスに一番近いのは実は喜納昌吉じゃないかと思うが、どうだったのだろうか。喜納昌吉は地元では大変評判が悪い。最悪である。それを本人も知ってて選挙に出るんだから凄いんだけど。彼の公約は、実は他の候補者よりもずっと筋が通っていた(篠原章氏の指摘を参照)。論理的一貫性があるということ。実は沖縄の反基地運動と振興・開発・独立論はなかなか論理的整合性が取れないものが多いのだ。翁長現県知事のやってる事も、実は非常に論理的でない。まあ運動というのは論理だけではないけれど…。
でもまあ、相手がメタクタでも仁義を忘れずきちんきちんと応援してきた菅原文太は、その当たり役・広能昌三らしさたっぷりだ。広能=美能幸三は、仁義も何もない組織と抗争のなかで、ひとり一所懸命仁義を通そうとして孤立し、裏切り者と呼ばれることになったのである。仁義を通すとメタクタにされてしまう、ということである。
だから、恰好良すぎて恰好悪い菅原文太は、実は恰好良い。
   *  *  *
その間の11月29日はジョージ・ハリスンの命日である。2001没。58歳。若い。
オール・シングス・マスト・パス、ということである。

ダークツーリズム、記憶の風化に抗う旅と、被差別部落のフィールドワーク

前に、こういう本を読んだ。

僕はチェルノブイリには行きたくない(寒いの嫌い)けど、福島第一には行ってみたい。周辺の海で泳いでみたい。もしかして、漁業権が設定されていないのではないか、とすると、スピアフィッシングだってやり放題なのではないか?と思ったり。
というのはまあ実現可能性が低いけど、僕もここ数年、ダークツーリズムに参加している。
   *  *  *
北関東某県の某被差別部落のフィールドワーク。正式な呼称は「フィールドワーク」とか「スタディツアー」になっているが、僕ら歴史部会のはぐれメンバーの間では「ダークツーリズム」と呼んでいる。
ふつう観光しないような処を見に行く観光だから、ダーク、だと思っていた。
   *  *  *
田舎の路地や新興住宅地を見て回る。ここが百五十年前何だったか、その痕跡を探す。
古い墓碑や神社に詣でる。石造物や神社は大昔の痕跡を留めていることが多いので。
地味な地味な活動なのだけど、これが滅法面白い。
ただ、Facebookやブログに書いて自慢することは躊躇される。
なぜなら、地名を出したり写真を出したりすれば、「あそこは被差別部落なのか」とわかってしまうからだ。
検索すれば、各地の白山神社に参拝したブログが出てきたりするが、これなんかも微妙なとこだ。
リンクはしないけど、「部落探訪記」をwebで連載している「鳥取ループ」という有名人もいる。かれは『部落地名総鑑』事件を現代に再現していて、部落解放同盟との間で裁判になっている。
   *  *  *
解放同盟系シンクタンクのサイトに、こういう読書案内・リストがある。
  人権フィールドワークに役立つ本(関西編)
しかしよく見ると、戦争・在日・障害者・食肉といったテーマの方が多く、被差別部落そのものにフォーカスした本は案外少ない。
「部落」の「地名」を明示することは非常に難しい。
周囲の一般地区と完全に格差がなくなり、混住も進み、差別が事実上なくなっていたとしても、地名を指して「ここが被差別部落だ」と云うことは、新たな差別を生みかねない。
当事者たちが「オープンにして=カミングアウトして議論をしよう」と云ったとしても、当事者全員の意思統一ができるわけではないので、誰かが「それはやめてほしい」と思っていたとすると、「望まれぬ暴露=アウティング」になってしまう。
ネットは発信者情報を隠すことができるので、「アウティング」もやり放題だ。これは非常に苦しい問題だ。
   *  *  *
僕は、基本的には情報はすべての人にオープンにされるべきだ、と考えている。
だけど、「人を傷つける情報まで無制限にオープンにできるのか、その責任は誰が取れるのか」という問題がある。
このことで、ごく親しい同志のような友人とも、よく議論になる。
簡単には解決できない。
   *  *  *
でもね、面白いんだよ。前に行ったとこは、関八州でも上から三番目とかに位置する由緒正しい有力小頭が支配していたとこで、歴史も古い。織物や手工芸が発達していた北関東らしく貨幣経済でも豊かな小頭だったらしい。つい廿年前まで、堀と長屋門をめぐらした大きな屋敷があったという。
今は町が買い取って更地にして分譲してしまい、古井戸が公園の隅に残っているだけだ。小さな墓地と白山神社しか、その地区の歴史を刻んだものは残っていない。ちなみに白山神社はそのすべてが被差別部落と関連しているわけではないので、これもまた難しい。
同和対策事業のおかげで各地の部落の道路は整備され、厳しい環境は緩和された。同時に神社の氏子は流出して減り、高齢化が進んで地域の伝承も消滅しつつある。
中には、白山神社であることを隠した処もある。扁額が裏返しになっていたり、神社名の石碑をくるりと裏向きにしていたり。残念なことだと思うけど、その地の人たちが受けた苦しみを思うと、誰も責めることはできない。誰が好き好んで、自分たちの力で建てた、誇りである神社の名前を隠そうとするか。好きでやるものか。泣く泣く隠すのだ。
   *  *  *
ダークツーリズムとは、記憶の風化に抵抗する旅、ではないかと思う。
神社に生えていた柚子の実を一つ分けて貰った。大根の煮物に添えて食べた。売っているものと違って表面が汚れていたが、香りはことのほか高かった。汁を搾って醤油にたらしても美味かった。
豊かな歴史を持つ世界があるのだが、なかなかアクセスできない。そして、これらも高齢化と過疎で消滅しようとしている。あと半世紀経つと、完全になくなる地区が相当数だと思う。それは「差別がなくなる」ということなのだろうか?

「反戦イデオロギーがないから良い映画」ということについて

この世界の片隅に」についてもっと読みたくて、2ちゃんねるを漁っていたらこういうポストがあった。誰かのFacebookを引用したものらしい。

(FBより転載)
今回、『この世界の片隅に』をめぐっていちばん愕然とさせられたのは、この映画に「反戦じゃない」という評価が与えられたことではない。
反戦イデオロギーがないから良い作品」という意見がまるで当たり前のように語られていることだ。

 戦争に反対することがなぜ「イデオロギー」になってしまうのか、戦争に反対していないことがなぜプライオリティをもってしまうのか。
まったく理解に苦しむが、しかし、戦争のほんとうの残酷さや自分たちの加害性から目をそらしたがっている人たちにとって、この倒錯状況こそが常識になっているらしい。

 そして、『この世界の片隅に』はそういう人たちにとって、格好の逃げ場所になってしまったということだろう。
彼らは、戦時下の人たちの日常の暮らしを丹念に描いたこの映画の、その暮らしの描写だけをクローズアップし、「戦時下でもふつうに暮らす人たち」という物語に読み替えて、消費しようとしている。

 だが、それでも、『この世界の片隅に』のような映画が登場したことは、大きな意味があると思う。
この映画はたしかに、戦時下の日常の暮らしを描くことで、戦争の本質から目をそらしたがっている人たちを惹きつけているが、しかし、同時に戦争が日常をどのように変えてしまうのか、そのことに気付かせる力をもっているからだ。

反戦じゃないからいい」とうそぶいている人たちにも、この映画は、確実に戦争への恐怖を刻み込んでいるだろう。

いやあ、僕も「生半可な反戦イデオロギーを排した、良い作品」と思っていたので、このポストには、何か言いたい、当たってないとも言えないが、当たっているとは言えないぞ、ちょっと違うゾ、と云いたいのだった。
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生半可な「反戦イデオロギー」を入れ込んだ作品の代表は、妹尾河童の『少年H』だと思うんだよね。
後からわかったことや、当時は絶対になかったことを、戦中の少年に語らせた、という有名なアレ。
そして「大人も新聞も嘘つきや」と啖呵を切ったのだから、「お前も嘘つきやん」と言い返されてももしょうがない。
嘘は、たとえほんの少しだったとしても、それまで積み上げた信用を全部毀損してしまうよね、と。
   *  *  *
「片隅」のファンにも、「朝鮮人の強制連行はなかった」「大東亜戦争は欧米の侵略からアジアを解放した」と信じたい人もいる。だけど、「従来の戦争コンテンツに含まれていた、後付けの反戦平和イデオロギーが嫌い」と云ってるのはそういう人だけではない。
本当だったら、反戦平和イデオロギーの側の人が、都合よく事実と後付け思想をパッチワークした作品に対して、「それは思想や作品の信頼を失わせるから、よせ」と言うべきなんだがね。
自分らの思想や主張を安売りせず、大事に扱おうよ、と思うのだ。

  Amazonはユーザーレビューが面白い。
こっちはそれほどレビュー面白いわけじゃない。本編をぜひ。

こっから「この世界の片隅に」(以下「片隅」)の【ネタバレ】があります。ご注意を。
「片隅」でそういう論争が起こるのは、後半どんづまり、玉音放送の直後に、呉の街に太極旗が立っているシーンだ。
勘違いする人は、「あの国旗は戦後に作られたものだから、あのシーンは嘘」と云う。
それは単純な間違いで、大韓帝国の国旗なので戦前からちゃんとあった、日本への抵抗運動の象徴でもあった、ということ。
「呉に朝鮮人が居たかわからない、強制連行だったかどうかもわからない、なのに旗のシーンを入れるのはどうか」という意見。
さらに「原作ではここに『暴力で従えとったいう事か』『じゃけえ暴力に屈するいう事かね』という独白が入る、朝鮮を暴力で侵略していた、という見解は当時の人の見方というより、後付けの思想じゃないのか」という批判がある。
前者にかんしては、この映画の監督さんはものすごいリサーチを重ねているので、この一瞬だけ映る太極旗のシーンも、この日この時間に呉で太極旗が掲げられたのを覚えている人がいて、その証言がある、だから描いたのだ、と信頼できる。掲げた人がどんな人かは描かれていないので、強制連行かどうかはわからないが、この作品については「嘘つかない」という信用がある。僕はそれを信じたい。
後者にかんしては、うーん、薄々わかってたんじゃないかなあ、と思う。同邦で同じ日本人で融和しないと、と思っていた人でも、「やっぱり元々違うから融和せんといけんのんじゃない?」という気持ちは気付くでしょ。それに、やっぱり異民族で、経済的に恵まれた人は少なくて、社会の下積みの少数派なんだから、そこに差別がなかったわけがない。当時の公式見解だけに依拠して「差別はなかったはずだ」と云うのも、嘘がある、後知恵なのではないか、と思う。
   *  *  *
はだしのゲン」は小学校段階でトラウマになった忘れられない作品で、好きじゃないけど偉大な作品だと思ってる。
だけど、ほんの幾つか、後付けの思想を当時の人物が口にするシーンがある。少ないけどある。それがどれだけ「ゲン」の価値を損なっているか、ということだ。
尤も、「ゲン」の本質は反戦平和の広宣流布ではなく怨念の表明なので、本質的価値はあんまり毀損されてないとも思うが。
   *  *  *
テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」は、ジェイムズ・ジョーンズの原作の冒頭に、ウィット二等兵の脱走シーンとか入れたりして、改変してる。ここに何か、当時の感覚とは違う今風の反戦厭戦思想が覗いているようで、大好きな映画だけど僕は一部好きになれない。長い原作を3時間に押し込めるためにかなり無理した結果だと思うが、日本兵光石研の呪詛「お前も死ぬんだ」なども、うーん、どうかなあと思った。
ペキンパー「戦争のはらわた」は最後のシーン、シュタイナー軍曹の戦場での哄笑、虚無の笑いに、それまで積み上げてきたドラマのリアリティを吹き飛ばす不愉快な何かを感じた。明白な反戦メッセージではないけれど、当時の戦場でこれあり得るか、と思うとどうも腑に落ちない(萬屋錦之介の「夢じゃ夢じゃ』みたいな)。
でもまあ、両作ともものすごい価値のある、歴史に残る映画なんだけどね。
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反戦メッセージは、悪いとは云わないけど、それを昔の人に言わせるのは、ルール違反だし、昔の人に失礼じゃろ、と思うのだった。
そういう意味で「片隅」は、昔の人に極力失礼せぬよう、一所懸命尊重して、消えゆくものを化粧せずに素のままとどめておこう、と努力して作られた作品ではないかと思います。
人は、真実によってのみ、癒やされる、ということではないかと。

 こんな神の手が作ったような作品に文句付けるなよ俺

ちょい古だけど重要作「裏切りのサーカス(ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ)」について

裏切りのサーカス』(原題: Tinker Tailor Soldier Spy)、2011の英国映画(ワーキングタイトル。仏独も製作に参加してるらしいが)。監督 トーマス・アルフレッドソン(「ぼくのエリ 200歳の少女」未見)、原作 ジョン・ル・カレ(「寒い国から帰ってきたスパイ」「リトル・ドラマー・ガール」他沢山)。
 僕は旧訳で読んだが、もう手に入らないのでこちらは新訳。
長い原作を比較的忠実に映画化しており、映画自体も十分な強度があって、名作と思います。
本作については語るべきことが沢山ありますが、今日はその一部を。
   *  *  *
本作には隠されたテーマがあって、登場人物たちは激しい女性不信なのである。
描かれる女性は浮気者、不貞を働く、あるいは権力の走狗となってこちらを監視する、取引を仕掛けてくるなど、決して男を安心させない。同志的繋がりを持てる女性は、老いて性的魅力を放棄した人だけ。原作にすでにこのテーマはあるのだが映画はそこをさらに掘り下げてて、登場人物たちは同性愛的信頼でのみ繋がる。
東欧に派遣されて撃たれ、挙句にサーカスから放逐されるジム・プリドーは、サーカス(SISの所在地ピカデリーサーカスから。警視庁を桜田門と呼ぶようなものか)の実力者ビル・ヘイドンと大学同級生でクリケット仲間、精神的に深く繋がっている。
スマイリーの片腕となるピーター・ギラムは映画では中年の男性教師と同棲していたが、スマイリーから「もぐら」炙り出しを命じられ、危険な任務だから身辺を整理しろと言われて彼と泣く泣く別れる。そして任務をこなすうちスマイリーへの信頼を深めていく。
他にも大臣と次官がスカッシュで汗を流し、ロッカールームの背景に全裸でシャワーを浴びる男性がいたり、なんだか中年男の魅力爆発BL映画なのだ。
だからハンサムな「首斬り人」リッキー・ターがソ連の女情報部員と情を通じて彼女を亡命させたがる部分がものすごく不自然に浮いている。すごく重要なエピソードなんだけど、男女の間柄がうまくいくわけないのがこの作品の決まり事。なので、ここの座りが悪いことが却って作品の魅力になってるという、ものすごい技巧が使われている。
原作を読んだとき、ル・カレって凄い、人類の至宝のような文学を書いたんだなと思った。
グレアム・グリーンも近親相姦的で不気味な話を書いてるけど、英国のこういう文学伝統は凄いと思う。英国には「諜報部員が小説家になる」という伝統があるのだ。ル・カレ、グレアム・グリーンイアン・フレミングサマセット・モーム、ラドャード・キプリングなど。
原作の骨肉をうまく掬い上げた映画化はとても素晴らしい。
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で、2014(日本では2015公開)の映画「キングスマン」は、「キック・アス」2010の脚本家が書いた話で、ぼんくら少年がスーパースパイになる、というジェイムズ・ボンドもののパロディのような話だそうですが、これ実際に見てみると007のというより、「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」の続編のように見えちゃうんですね。
先輩のスーパースパイがコリン・ファースで、選抜養成課程の教官がマーク・ストロング。この組み合わせは「裏切りのサーカス」で情報部の大物ビル・ヘイドンとその同性愛的親友ジム・プリドーを演じたコンビではないか! 雰囲気めちゃめちゃ良い。このキャスト偶然ですかね。絶対意識してませんか?
というのも、「裏切りの」のジム・プリドーは、ハンガリーでの作戦に失敗して撃たれ、ソ連に訊問されて東欧のスパイ網をずたずたにされ、ヘイドンの交渉でなんとか英国に送還されたが涙金とともに情報部を放逐され、挙げ句に私立中学に臨時教師として流れ着く、というエピソードがあるのだ。中学では異色の臨時教師として子供たちから支持され、とくに太っちょで引っ込み思案な少年ビル・ローチとの交流が美しい。ローチ少年は初めて自分を褒めてくれた大人として、元スパイのプリドーは自分が愛した男ビルと同じ名前だから、双方が互いを特別な存在と思うのだ。そして「君の取り柄は何だ。誰にでも取り柄はある。君は学校一優れた観察者だろう。とくに孤独な者は観察者に向いている」などと、我知らずローチ少年に情報工作員としての教育を施してしまう。業が深い。
この、「情報部員は情報部員特有の行動パターンがある」というのが重要。日本には公には情報機関はないことになっているが、内閣調査室、外務省、公安警察など伝統ある情報機関が実はある。だけでなく、新聞・雑誌・テレビの取材部門というのは一種の情報機関なのだ、という自覚が求められる。情報工作員の生き方、というのはグローバリズム社会ではとても重要なのだ。これは別件で詳しく論じたいほどだが。
さてプリドーとローチ少年の交流は、英国情報部内のもぐら(二重スパイ)をスマイリーがまんまと炙り出してしまったせいで突然断たれる。プリドーは悲嘆に暮れ、「もうここへは来るな。みんなと遊べ」とローチ少年を拒む。プリドーの若い工作員養成は突然終わってしまうのだ。
それが、「キングスマン」での教官役にマーク・ストロングが再任し、キャストが若干変わってしまったが、スパイ養成が続くのである。こちらはぼんくら少年をきちんと立派なスパイに育て上げ、お話は完結する。うれしいことです。

ただし、本作の設定は「国営ではない情報機関」なんだよね。少し理解しにくい。日本だと宗教団体か政治結社の情報機関、くらいしか想像できない。あるいは、総合商社か。あと、飛行機会社というのは情報機関としての側面がある。ナショナル・フラッグ・キャリアのCAは国家の情報部員が務めている、という国は多い。イスラエルとか)

「この世界の片隅に」は大傑作戦争映画だ。戦争映画マニア必見。


(画像は公式サイトTwitter応援キャンペーンより借用)

「この世界の片隅で」、平日昼間の二子玉川ライズで見たのだが、ものすごい作品で、打ちのめされてしまって、立ち上がるのが大変だった。
これ見てよかった〜〜〜!!!
と思ったよ久しぶりに。
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本作とは関係ないが、僕は二子玉川ライズ109シネマズがあまり好きではない。明るく健全な家族が楽しむシネコン、が嫌いだ。僕の映画館ホームグラウンドは池袋ロサ会館であり、文芸坐(旧)なので、ごみごみしていかがわしい場所でないと映画を見た気になれない。
というノスタルジックな話だけじゃなくて、予告編が始まる前のCMが気にくわない。子供が東急の改札を通過したらメールが来るシステムとか、IMAXシアターの宣伝とか、シネマポイントカードでエグゼクティブシートが云々とか…無性に腹が立つ。映画の予告編が始まったが、そのラインナップも気に食わない! 「109シネマズにお越しのお客様、阿部寛です」とかって劇場向けの宣伝もきらいだ!
Jポップと今風アニメの予告編連打にほんと帰ろうかと思ってしまったのだが、本編が始まってすぐに全部忘れた。
   *  *  *
僕の好きな時代劇だったからだ。昭和初期の日本の都市風景は、江戸時代の瓦屋根の雰囲気を強く遺している。それを水彩画タッチで再現した本作の背景は、時代劇好きにはぐさぐさ刺さるものだった。あそこまでは江戸時代が息づいていたのだ、というノスタルジーと喪失感を強烈に感じた。
そして中盤から僕の大好きな戦争映画になる。
この映画の評判では、呉港の軍艦遠景の描写、艦載機の空襲と高射砲での迎撃、爆弾での爆撃と焼夷弾での爆撃などの描写がすごい、という。アニメなのにというかアニメだから可能になったというか、たしかに最近の虚仮威しCGよりかずっとリアルに響く音と映像だった。
それもいいんだけど、舞台は呉と広島という軍都なのだ。軍都とは軍人の町だ。
この映画の素晴らしい戦争描写は、軍人を描いたことだ。
主人公の夫は軍法会議の録時(書記官)で、お舅さんは広の海軍工廠で飛行機を開発している技師。リアルな控えめ感でそれらが物語に顔を出す。
そして、幼なじみが海軍に志願し、水兵となって再登場する。これが良い。
僕は海軍の階級章を読めないので彼の階級がわからないのだが、入湯上陸で幼なじみの婚家を訪れる、という超微妙な挿話が本当に素晴らしい。何が素晴らしいかというと、当時の一般人が軍人を遇した感じ、尊敬と敬遠と愛着と忌まわしさなどがちゃーんと、後知恵とかではなく当時の感覚を再現する方向で描かれているからだ。
夫は軍の関係者だが文官で、ひ弱な人だ。幼なじみの水兵は頑健で躰も大きい。軍隊は暴力装置で、兵士は暴力を遂行できる肉体を持っている、という単純だけど見過ごされやすい事実が、きちーんと丁寧に描かれる。これ、なかなか他の映画ではやれてないこと多いのよ。
戦争は良くない、軍隊は人殺しの組織だ、核兵器は良くない、なんて戦争やってる最中の登場人物は云ってはいけない。そんなこと思わないし、思っても口に出してはいけないから。
まったく、こんなに手応えのある、ちゃんとした戦争映画は何以来だろうか?
ペキンパー「戦争のはらわた」か、テレンス・マリックシン・レッド・ライン」か。実はこれらの名作でも、どうしても後知恵が入ってしまってて、当時の人らしからぬ言動があったりするのよ。それを、鬼のような考証を積み重ね、徹底的に後知恵を排除して「当時の人びとの感覚・言動」を再現した「この世界の片隅に」は、これが良い戦争映画でなくていったいなんでしょうか。
   *  *  *
能年玲奈は歴史に残る作品に主演できて本当に幸運だったと思う。もちろん彼女は作品に全身全霊捧げる貢献をしている。
呉市広島市も、歴史に残る作品を得て本当に幸せだと思う。あの戦で亡くなった人たちの供養になったと思う。
エンドロールの後にクラウドファンディング支援者リストが出るのだが、これ支援できた人は本当に幸せだと思う。歴史に残る作品に自分の名を刻めたのだから。
これほんと凄い作品で、アニメ史というより映画史に残ると思う。
いやこれほんと凄い。一分の隙も無い。
   *  *  *
見終わって、悲しくないのに涙が止まらないのである。切なくて、いとおしくて、涙が出てくる。というか。
これはある種トラウマを植え付けられたようなもので、心の傷が深くて深くて、泣けてしまうのだ。
そんなことしていいのか娯楽映画が、とまで思う。衝撃だったです。
まあ仕方ない。
百年後も語られる名作を封切りで見てしまったのだから。
映画はトラウマになる作品ほど素晴らしい。というのは誰が言ってたのかな。ああ彼か。

ヒマネタ妄想シリーズ。好きな人をクルマに喩えると

好きな異性(人によっては同性でもいいが)のタイプって、好きな車のタイプとどっか似てくるのではないでしょうか。なんてことを思い。

今乗ってる車と、付き合ってる人が似たタイプになるというわけではないけれど。
(ベンツに乗ってるから付き合う彼女もベンツみたいな女、というケースはどうかな、あるかな。むしろメルセデスを目ざしてクラウンマジェスタ改造版になってしまった、というひとが助手席にいるケースの方が多いか?)

フェラーリのような女(ひと)、憧れますよね。なかなかいないけど。
実際付き合うとアクセル全開なんてできないわけですが。

ポルシェのような女(ひと)、アニメ「カーズ」に出てきた弁護士の彼女は車体がポルシェだったけど、あれは感じ良かった。たとえばアストンマーチンでは弁護士という仕事は似合わない。ましてGT-Rじゃね。

ドイツっぽい良妻賢母といえばBMWでもオペルでもアウディでもなく、VWでしょう?
ただし、ずっとウソついてたことが最近バレました。

スバルのような女(ひと)、独身時代はインプレッサのような、結婚して家庭を持ったらR2のようになるかフォレスターのようになるか分岐するかも。
スズキのような女(ひと)、スケール感には乏しいかもしれませんが、生涯の山あり谷ありをともにするには最良の伴侶かもしれません。

日産のようにな女(ひと)、若い頃はシルビア(古いか)を目ざしていたかもですが、スカイラインのような貫禄が出る頃結婚し、子どもができた頃はセドリックというかフーガになるか、あるいはエルグランドのようななんでもござれのひとになるか。これが旦那には終始「うちの奥さんはモコみたいなひと」と見えているから可笑しい。日産型奥さんは最終的にリーフになるのでしょうか。

ぼかぁ、フィアットパンダ(初代ではないやつ)か、ミニ(2002年くらい型)のようなタイプが好きだな。国産ならデミオのような。
(あるいは、消防車のような奥さん、救急車のようなお母さん、ゴミ収集車のようなおねいさん、街宣車のような隣のおばさん、というのもあるか。ゴミ収集車は好きだな、新明和だし)
(これって性的偏見にもとづく妄想だね、全部。政治的正しさに欠ける)

   *  *  *
全然関係ないけど、地震のちょっと前に僕、尻がむずむずするのでわかるんです。
座ってると、微細な震動を感じる。
今の長い揺れは震度2くらいかなあ。震源は福島沖か。

今年ももうすぐ「アイランダー」だ。サンシャインに行かねば

毎年、池袋サンシャインのイベント催事場で開かれているアイランダーフェスティバル。
今年は11月26日(土)と27日(日)だ。

アイランダー2016ホームページ

毎年、同じ日程で1フロア上では「全国物産展」がやってて、こちらは美味やスイーツがてんこ盛りなので大盛況だ。
しかしアイランダーは、「離島の展示会」であって、美味ばかりとは言い難く、観光客誘致も主眼。あるいは移住の相談とかになると、実際の移住者の体験談など聞けてかなりシリアス。
もちろん美味も売ってるんだけど、だいたい地酒か、海産物で、どこも変わり映えがしない。海産物はどこもイワシかトビウオが多い。日本近海に普遍的にいるんだなあ、ということがわかるが、どこで取れても味は同じなので「この島の名産」という感じがしないんだよなあ。
   *  *  *
アイランダーは離島=限界集落の必死の村おこしなのだ。
もう10年以上フェス見に行ってるけど、出展島の顔ぶれが変わっていくんだよね。竹富町は出ているけど石垣島はいないとか。宮古島も5年くらい前に離脱。つまり、メジャーになった島は広報しなくていいから、来なくなるんだよね。
となると、ここに出続けている島は、メジャーになりきれない島ばかり、ということになる。必死さが滲み出てくる。
これは大盛況のメジャーイベント「全国物産展」でも同じことが言えて、たとえば昨年の京都府は食べ物の出展がなく、刃物・陶磁器・宝飾が来てた。京都のお土産屋さんはこんな展示会で広報しなくてもいいから来ないんだろーなー。毎年、熊本の「山うにとうふ(チーズのような豆腐の味噌漬け)」を買ってたのだけど、去年は来てなかった。メジャーになったのかしら。
自治体や商工会議所で出展者の調整するんだろうけど、正直、「今年はこんなんだけ?」っていうことがある。
   *  *  *
寒い地方の島は広報に必死だ。南の島はのんびりゆったり、のイメージで攻めてくるが、北の島は魚が美味いとはいえ、観光シーズンは南よりぐっと短く、進んで移住しようという人も少ない。
僕の故郷、瀬戸内海からもけっこう来てる。家島、犬島、佐木島、阿多田島、江田島(離島じゃないだろ!と思ったが)、大崎上島、大津島、周防大島祝島、そして笠岡諸島
そう、白石島や北木島からも来てる。近くても離島なんだよなーと。

   *  *  *
以下、オマケ。
以前、春休みに沖縄本島に遊びに行ったら、帰りの便で巨漢が乗ってきて、前席に坐ったら、何もしてないのに座席がリクライニングした。
迷惑なデブだな、と思って見たら目が合った。松村邦洋だった(野球のキャンプを見に来てたそうだ)。
羽田まで座席はリクライニング?したままだった。
飛行機の旅というのは拘束度が高いというか、列車などと全然違うよな、と思う。
スネーク・フライト」という映画を見たときは、蛇がいっぱいの便より、サミュエル・L・ジャクソンと一緒の便ってのが嫌だ、と思った。