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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

同僚Oさんを悼む

 40代も半ばになると結婚式のお呼びはほとんどかからない。子どもはいないし、同世代は結婚してしまっているかもう一生しないかだし。その代わりしばしばお呼びがかかるのがお葬式だ。去年の暮れ、かつての上司が亡くなったので池袋西口のお寺に行った。先週また同じお寺にかつての会社仲間が集合することになった。


■先輩・Oさんの煌煌(きらきら)しい戦歴について
「Oさんが亡くなった」と聞いたのは火曜だった。え?と思った。定年してからまだ二年くらい、最近はTシャツ屋を開いて楽しくやってる、と噂に聞いていたのだが。
 翌々日、副都心線で要町に降り、久しぶりなので交差点の反対側に出てしまい、ぼやぼやしながら西口バス通りの祥雲寺の門前にたどり着いた。山門に立派な看板が出てて「――儀」とOさんの名前が大書してある。ああ、Oさんほんとに死んじゃったんだ、マジかよ。それでもまだちょっと信じられない。受付を済ませて会場外に並べられた椅子の最後列に座ると、遙か遠く祭壇でOさんの写真が笑っている。ああ、髭が不自然なくらいきれいに整えられてて、髪は左右から頭頂部を上手くカバリングしてあるな……実物のOさんとだいぶ違う写真だぜ、なんて思った。


 僕が会社に入った1989年、Oさんは同じフロア、作業机を挟んだ隣の編集部で働いていた。40歳くらいだったと思う(今の僕よりずっと若い)。当時からロンゲで立派に禿げ上がっており、粗いドロボー髭、ニコッと笑った眼、良い恰幅……要するにハクション大魔王そっくりだった。ブルージーンズとかボヘミアンぽいセーター、ごく稀にイタリアぽいスーツを着ていた。お洒落だった。
 外見も突出していたけどOさんの実績というのが凄かった。80年代末だからニューアカブームはもう終わっていたけど、僕らの世代は在学中になんとかニューアカに間に合ったくちだ。岸田秀浅田彰中沢新一柄谷行人……とニューアカの人はいろいろいたけど、誰もが読んでいたのは栗本慎一郎『パンツをはいたサル』だろう。その『パンサル』を作ったのがOさんなのだ。いま調べてみたら『パンサル』は1981年だというから、まさしくニューアカブームの起爆剤だったわけだ。
 小松和彦『鬼がつくった国・日本』もOさんの手になる。もっと言えば上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』もOさんが担当した、と聞く(手元に底本がないので正確なところがわからないんだけど、きっとそうだ)。人類学、民俗学社会学…が広く読まれ隆盛するきっかけになった本はことごとくOさんが作ったと言っていい、と思う。
 当時の僕はそれらの本をミーハー的に好きで、Oさんのことも瞳キラキラさせて見ていたわけだ。


■もう一つの組合、断絶のある日常
 Oさんは「カッパ・サイエンス」編集部のエースだった。カッパ・サイエンスはベストセラーを輩出するために作られたカッパ・ブックスシリーズの異端児で、実用っぽいタイトルはなく、科学、それも人文科学に特化したラインナップだった。キンアカのロゴが格好良くて、カッパの他のシリーズがちょっと垢抜けないのもあって、去年まで学生だった僕のような新人社員には憧れの的だった。
 あんな風な突き抜けた本を作りたい。圧倒的な知的刺激を持ちつつ、誰もに読まれるくらいポピュラーな本を。とは思ったものの、山出しの小僧にそんな本が作れるはずもない。見習い編集者としてシコシコやってるうちに、段々と状況が見えてきた。
 サイエンス編集部の本はたしかに面白い。だけど、なかなか売れないのだ。そして刊行ペースも遅い。対して僕が配属されたビジネス編集部やブックス編集部は、ダサいけど売れる本を量産していた。僕が半人前編集者から仮免許くらいになって一人で本を作るようになると、サイエンス編集部との違いがますます見えてきた。僕らも残業する。Oさんたちも残業する。夜が更けるまで原稿をいじり、時たま雑談したりする。だけど、彼らがやってる原稿はなかなか本にならないのだ。仕事のペースが違いすぎる? ノルマが違う? なんでだ?
 編集部の人員構成も特異だった。僕らの部署は編集長が五十代、四十代の人が数人、三十代の僕らの兄貴分がいて、僕ら二十代が数人。対してOさんの部署は全員がほぼ同じ四十代。一人、役員待遇のものすごく偉そうな寡黙なおじさんがいたけれど、彼はなんだったのかよくわからない。編集長のNさんは「僕はもう編集長在位二十五年だよ」と笑っていたが、彼にしてもやっと五十というとこだった。ほぼ同一の世代の人だけでできた編集部なのだ。
 なんでこんな変な人員構成なのか、それはすぐにわかった。入社した年の六月、新人社員は見習い期間が終了したとして組合に入るのだが、この会社には組合が二つあったのだ。僕らが自動的に入ることになったのは第二組合。対して、サイエンス編集部の人たちが属しているのは第一組合だった。Oさんたちの編集部は、第一組合の成員だけでできた、実質的な“隔離”編集部だったのだ。


 お焼香が始まる前に誰かが弔辞を読んでいる。PAが悪くてほとんど聞こえない。そのうちに弔問客たちは椅子から立ち上がって進み始めた。会場内は花で埋まっているが、僧侶がいない。お寺なのに。どうも無宗教っぽいお通夜だ。そうか読経がないから弔辞だったのか。係の女性から白いカーネーションを渡された。焼香じゃなくて献花らしい。ということは……柩の窓が開いており、Oさんの顔が見える。僕が知ってるOさんはよく肥えていたのだが、柩に横たわる人はツルツルに痩せてて頬がこけていた。ニット帽をかぶっている。チャームポイントだったドロボー髭は真っ白になってしまっている。Oさん……しんどかったんだね。
 俯いて会場を出ると、受付をしていたOさんの仲間たち、つまり第一組合の人たちが「お清めあっちだから。みんな行ってるから」と促してくれた。見ると、受付とその周辺は第一組合の人たちで固められている。お清めの会場にも懐かしい顔がいっぱい見える。彼らの顔を見ると僕は初めてホッとした。


 サイエンス編集部以外にも第一組合の人だけで固められた編集部があった。食文化のグラビア誌「EATS」、中綴じの月刊コミック誌「Be」とか。コミックはその昔、大友克洋吾妻ひでおも描いていた「ジャストコミック」の流れを汲むマニア的にはちょっとした名門だった。
 あと第一組合の人たちは、雑誌や書籍の編集部や管理部門に一人二人とばらばらに配置されていたけれど、皆すごく仲が良かった。残業しての食事をいつも一緒に摂っていたり、仕事が終わったら池袋や江古田の飲み屋に集合して呑んでいたり、お前ら学生か?というくらいいつもツルんでた。
 僕は知らなかったけれど、1970年代に組合が分裂するに至った激しい労働争議があった。そのとき会社の御用組合である第二組合が生まれたのだが、本来の組合に残った人たちは長いこと会社からロックアウトをくらい、社外に設けた拠点に集まっていたそうだ。雑司ヶ谷墓地を歩いて横切り、会社にデモをかけに行ってた、とか。
 第二組合に集まった人たちは、会社と協力し、会社を大きくしていった。何年も何年も経って会社が第一組合と和解し、一組の人たちが会社に帰参したとき、以前のように元居た部署に戻るというふうにはいかなかったろう。一組の人だけで固めた部署があるなんて不自然な人事になった事情はいろいろだろう。そこらへんは僕は詳しく知らないので書かない。
 でも、横から見ていただけの僕にもよくわかったことがある。なぜ一組の人たちはみな年が、世代が近いのか。なぜあんなに仲が良いのか。なぜスーツネクタイじゃなくてブルージーンズだったりカーディガンだったりなのか。なぜ僕のようなペーペーの若造にも対等に話してくれたのか。二十も年が違うのに僕がタメ口をきくのを許してくれたのか。
 第一組合の人たちは、ぜんたいに、会社員っぽくなかったんだよね。そもそも出版社は会社員ぽくない社員に寛容だけど、なかでも一組の人たちは破天荒だった。それはつまり、一組の組合員だと出世しないし、御前会議なんて出なくていいし、スーツ着る必要もない、ってことだったり。毎朝定時に来る必要はないし、定時に帰るわけでもないので楽な格好になるし。夏はアロハだし。会社員ぽくするインセンティブがまったくなかったんだ、当時は。
 そして今さら気づいたんだけど、少なくとも僕が知ってる第一組合の人は、誰一人として「官僚的な人」はいなかった。ただ破天荒、会社員らしくないって人なら第二組合にだっていたけれど、どこか窮屈そうだった。知らず知らず自分を曲げているところがあった。そういう人はどこかしら「官僚的」になる。たとえば僕が心ならずも副島隆彦さんに「盗作とは思えません」と言ってしまったように、本当には信じていないことを言うようになる。
 田舎から出てきて会社員になったばかりの僕が「この人たちは面白いなあ」と第一組合の人たちに惹かれたのは、こういうことだったんじゃないか、と今になって思う。


■僕が知り得たOさんの二、三の事柄
 Oさんは決して饒舌なほうではなかった。ふと鋭い言葉を漏らすことがあったけど、普段は寡黙というか。取っつきやすい人ではない。だけど、ハクション大魔王とこっそり僕らは呼んでいたけど、愛嬌のある容貌とちょっと笑った目元が示すように冷たい人ではなかった。管理職のみなさんが引き上げて下っ端編集者ばかりが残業してる晩方とか、みんなが食事を取る中華屋とか、何となく言葉を交わすようになった。
 Oさんは脳科学とかも守備範囲だったので当時まだ目新しかったドーパミン理論とか、向精神物質やドラッグカルチャーにも造詣が深かった。生意気盛りだった僕もそういう話が大好きなのでいろいろ聞いた。
 初校戻しか何かで半徹夜になりそうなある日、向かいの薬局で買ったエスタロンモカ錠剤を飲もうとしてた僕に、通りかかったOさんが言った。「それ、乳鉢で砕いて鼻の奥に吸う、ってのもいけるよ」。えー、それって何かヤバくね? 当時まだウブだった僕はちょっと引いた。ビビってる僕にいたずらっぽい微笑を残してOさんは去った。
 Oさんが実際にそーゆーことをやってたかどうかは知らない。けど僕は後に鬱病で安定剤やら眠剤を処方され、鬱病カルチャーをいろいろ知るにつれ、やっとスニッフィングの意味とかがわかった。今思うのは、彼はそういうことの意味をちゃんと知っていて、卒業した人だったんだな、ということだ。
 後に書籍の編集部は解体・再編が行われ、Oさんたちのサイエンス編集部も解散した。そして僕らは同じ編集部で働くようになった。二十世紀も終わりの数年だ。
 この頃を境に仕事の強度が格段に上がったような気がする。一つには印刷所の技術革新で、入稿から出校までの間隔がすごく短くなった。昔は入校したら一週間はゲラが出ないのでその間ゆっくり他の仕事をできた。ところがこの頃からフロッピー入稿したら翌日には出校してしまう。編集はなるたけ締め切りを遅く設定しようとするが、結局それは追い込まれてシャカリキにならなきゃいけない期間を先送り・集中させるだけだ。技術の進歩が、余裕を生み出すんじゃなくて、職場をギスギスさせていくような気がしていた。
 刊行スパンは徐々に短くなり、昔のように三カ月に一冊出してりゃいい、という状況ではなくなった。Oさんはサイエンスの頃からじっくり時間をかけて本を作る人だったので、納期の短縮はかなり堪えたようだ。有望な企画だが著者がなかなか脱稿しないということが続き、刊行月延期、進行会議で苦しい説明を余儀なくされることがあった。
 僕はこの頃けっこう打順が回ってきてて、張り切って働いていた。失敗も多かったが全体に楽しく働けていた。迫り来る納期を次々やり過ごす、タイトな綱渡りが楽しかった。だけど働いて働いて迎えた2001年の夏、僕は鬱病にかかってパンクしてしまった。しばらく会社を休んで復帰した後、違うフロアに異動した。
 それからずいぶん経って、なんとかかんとかやれるようになった頃、昼休みに元いた編集部フロアの喫煙所で一服していた時。Oさんが同じテーブルに来て、タバコに火を点けて言った。「どう? 落ち着いた?」。
 さりげなく、低い静かな声だった。まだ病気を引きずってピリピリひりひりしていた僕も、思わず油断した。
「ええ、うん。薬が効いてるから…」
「何飲んでるの?」
トレドミンデパス、夜はロヒプノール
「ふうん。慣れた?」
「うん、最初は副作用がしんどかったけど」
「そうだよなあ。オレはセントジョーンズワートにしたら調子いいよ」
 へ? それってOさんも薬飲んでたってこと? で、今はハーブ療法に換えたと。僕はちょっとびっくりしてOさんを見た。
 Oさんは眼だけで、そうだよ、と応えたように見えた。そしてタバコをもみ消すと「お大事に、な」とだけ言って席に戻っていった。


 Oさんもしんどかったんだ、と思い、そうか僕は一人じゃないんだ、と思った。当時はまだ社員の間でも鬱病はそう多くなく、カミングアウトする者も少なかった。飄々としてて、ちょっとワルな服装が好きな、万年反抗期な感じのOさんにもそういう苦しみがあったのか、と意外に思い、また妙に納得できたのだった。
 それから編集部の再編と会社全体の人事異動はいろいろ続き、僕は販売営業へ、Oさんは定年前の数年を校閲部で過ごした。
 販売へ移る前にちょっとだけ編集部にいた時、僕が担当していた校了紙をOさんが校閲してくれたことがあった。夕方喫煙所ですれ違ったら、「おう、すぐだからもうちょっと待っててな」と声をかけてくれた。それだけのことだったけど僕は嬉しかった。それだけのことだったけれど。


■元会社員にとって「あの世」とは何か
 やがてOさんは定年で、次の年僕はリストラで会社を去った。OさんがTシャツ屋を開いて楽しくやってる、という噂を聞いたとき、ああ見えてお洒落だったし、アートのセンスもあったからなあ、なるほどね、と思った。それがたったの一年か二年で、柩に横たわるOさんと対面することになるとは。そりゃないだろOさん、これからが楽しいときじゃんかよ、可愛い奥さん残してどうするんだよ……。などと思ってちょっと天井を見上げてしまった。
 お清めの間では、受付や誘導に回っていた一組の人たちも三々五々集まって、ビールで寿司を摘んでいる。みんなそれなりに老けたけど(そりゃそうだ、みんな定年して何年も経つんだから)、相変わらず元気そうだ。僕も何人かと言葉を交わすことができて嬉しかった。この中にOさんだけがいないのがとても不自然で、変だな−、と思いつつ。
 かつて古い本社ビル三階で机を並べていた編集者たちは、なぜだか定年後しばらくして亡くなる人が多いのだ。僕らと同じ部署だったFさん、Cさん、Hさん。Oさんの上司だったNさんも早くに亡くなった。ただのジンクスかもしれない。あるいは、好き放題やってきたように見えてみんなそれぞれ多大なストレスを溜めていたのかもしれない。あるいは、良くない生活習慣が身についてしまったのかもしれない。なぜだか知らないけど亡くなる人が多い。残念だ。とりわけOさんには僕は勝手に親近感を抱いてたので、なんだかそそくさと逝かれたようで心残りだ。
 でも、Oさんの仲間である第一組合の人たち、その相変わらずの仲の良さを見ていると、これはこれで、とも思うのだ。人間はいつまでもいつまでもこうやって仲良く楽しくやっているわけにはいかない。段々と、一人二人とあっち側に移っていくわけで。そして、自分があっちに行くときは先に行った人が迎えてくれるというか、古典的なあの世のイメージに仲の良い知り合いの顔がダブるとき、ちょっぴり安心するのだ、それもいいかも、と。
 Oさん、ちょっと早かったけど、安らかに。いずれまた、お会いしましょう。しばらく先になるけどね。