シャルリエブド事件の頃、こんなことを考えていた(2015記す)
以下は、2年前ににFacebookに書いていたことだ。すっかり忘れていたが、再掲する。イスラムへの幻想的期待は相変わらずあるみたいだし、こちら側の頭も硬直化して、状況は余り良くない。
−−−−−−−以下、2015/2/11記す−−−−−−−−−−−−
ある人がブログで「イスラム教は、身分差別を許さない一神教の世界宗教」としてこの本を薦めていた。
本書は近代の世俗主義国家システムを批判して、諸問題の出口はイスラム主義にある、という。タイトルの通り、イスラムに帰依することで「癒やし」を得られ、それが問題を解決する、という。
今起きている問題は、西欧的な近代(日本ももちろん含む)とイスラム主義には、決定的に相容れない核心部分がある、ということなのだが、この著者は、日本的な曖昧さならイスラムの良いとこ取りができる、みたいに読める(たぶん誤読だが意図的かもしれない)ような本になっている。
こういうのや、「利子を取ってはならない」イスラム金融とか、他宗教に寛容だとかの言説が称揚され、行き詰まった西欧的近代をイスラムなら超克できる、みたいな言い方がされているが……。
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「身分差別を許さない」というのは、もしかすると、絶対的な権威者が存在せず、「原理的には、あらゆる信者が『コーラン』とハディースに立ち帰って宗教的規範を判断できる」(池内恵『イスラーム世界の論じ方』p093)といったことを指しているのかも知れない。でもこのせいで、ISやアルカイダの経典解釈は間違ってる、ときちんと言うことが出来ない、彼等にも一定の理がある、ということになってしまっているのだ。
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イスラム教は、構造的に暴走を抑止できないようになっている。
『コーラン』2章256節に「宗教に強制なし」と書かれているそうだが、ここより後ろに「異教徒との聖戦を命ずる」と書いてあるという。神学解釈では、後ろの方が新しく、前の文言は更新されて無効になるらしいのだが、聖戦を批判する異教徒に対してイスラム教徒は前の文言を提示して「イスラム教について無知だ」と論難し逆襲する、別の時には後ろを根拠にして聖戦を主張する。論点ずらしの論法が常なのだという(池内『中東 危機の震源を読む』p158)。
こういう二枚舌は神学にはありがちで、他の経典宗教や仏教にもないわけではないと思う。だけど、近代世俗国家の中で認められた宗教は、いずれも世俗の人間が批判することが許されている。というか批判を許容することで、世俗社会の中に宗教の居場所が認められている。
ところが、イスラム教は無謬であり、神の言葉を訂正することは許されず、世俗からの批判も受け容れない。ここが問題なのだ。
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無謬なものはない、システムそれ自体を疑え、というのが近代的な世俗主義の原則なので、批判することによってシステムを点検強化していく。批判とかパロディが言論表現の自由として許されるのは、自我の発露や放埒の自由ではなくて、システム(社会)をより良くするため、悪くしないためのフェイルセイフ機構なのだ。
無謬なものがある、それは侵してはならない、とする社会は、ダメになる。北朝鮮もそうだし、イスラム主義も例外ではない。
(だから朝鮮高校にあの国の指導者を批判する自由があると認められない場合、日本の公金を与えることは原理的にできないのではないか)
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他宗教に寛容、という触れ込みも実は、一神教であるユダヤ教キリスト教は、イスラム教社会の中で二級市民的存在として認める、もちろんイスラム教に改宗する自由はある(なんと寛容なことか)、だけど当たり前だけどイスラム教から抜ける自由はないからね、それは人間をやめることと同義だから、というものにすぎない。もちろんここに多神教やアニミズム信者の居場所はない。改宗するかこの地から立ち去るかしなくてはならない、というのが経典的な原則だ。
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シャルリエブドの下らないパロディ画は僕だって嫌いだが、あれはフランスにいるイスラム教徒に向けたものなのだから、僕が口を挟むもんでもない。まして「あれは言論の自由の濫用だ、あれはダメだ」というのはお門違いだ。フランス人にしてみれば、ああやってフランスのイスラム教徒に対して「一緒に共和国を作ろう」と呼びかけているのかもしれないし。
(だとしたら失敗した呼び掛けになるわけだが。だけど議論のチャンネルを力で破壊したテロはもっと失敗だし「言論の自由にも限度がある」なんて日和見は言語道断だ)
「日本人はイスラム教にも寛容な多神教の文化を持っている」なんて暢気な言説がある(ように僕には見える)けど、これなんか当のイスラム教徒にしてみれば大矛盾の夜郎自大もいいとこ、なんではなかろうか。
−−−−−−−−−−(以上、再録終わり)−−−−−−−−−
この頃は池内恵など読んで一所懸命勉強していた。今は守貞漫稿なぞ読んでいる。耄碌したものだ。