ポール牧と牧伸二の区別がもともとついてなかった俺。
ポール牧(1941〜2005)
牧伸二(1934〜2013)
それにしても、自殺は日本人の死因として普通にランク入りするようになる予感。オルタナティブの一つになったというか。
デンマークは多いけど、スウェーデンは少ない、だったっけ? 理由忘れた。
昨日は近藤誠の本を読んでたんだけど、つまるところ「進行がんは絶対に治らないから治療なんてするな、QOLを保ってなるべくソフトランディングで死のう」という要旨だと気づいて戦慄した。意志を以って死を受け容れよ、となると医療業界の常識とは真っ向対立するし、一種宗教的な到達点かもしれない。
須原一秀という哲学者が好きだった。彼は2006に考え抜いた結論として自殺を決行し、遺稿は『自死という生き方』という本になった。享年66。『弱腰矯正読本』とかすごく面白い本を書いた人だった。
僕ももう死が縁遠い年ではない。あと40年のうちにほぼ確実に死ぬだろうし、もしかして20年以内かもしれない。10年以内にがんにかかる可能性だってある。
でも、死について考えるのは案外楽しい。漠然と毎日が続くよりも、終わりを意識して生きる方が僕は楽しい。
明日死ぬとわかっても、今日これをするか?と自問しているが、それでも案外つまらないことをしたい。仕事をこなし、廊下を掃除し、洗濯物を畳んで、料理を作る。漬物を漬け、鳥の胸肉でハムを作る(明日はまだ食べられない)。
明日死ぬなら、さんざ消費をしたいとか、どこかに行きたい、とは思わない。世界に好きな場所はあちこちあるが、この埃ぽい街で死んでも結構。ただ、哲学と芸術と宗教があると幸せかも、と思う。あと歴史ね。
スティーブは手術で治るがんをマクロビオティックで治そうとして失敗した、という説があるが、本当に本当だろうか? もっと危険な、死を体感しながら生きるという行為に夢中になってしまった、とかいうことはないのか。
自殺者3万人というが、これは日本人がいかに悲惨かというより、日本人は死すらも自分で選択するようになった、ということではないか。オプション、というか。
それでも自殺は残された人を深く傷つけるのでオススメできる選択ではない。死体を片付ける人も迷惑だろうし。死して屍拾う者なし(屍は拾えん、拾うのは骨だ、との指摘もある)。
では我々は、どう死ぬべきなのか? いやどう生きるべきなのか?
とりあえず、仕事でもするか。