新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

リストラなう!最終回 リストラじゃすとなう!

 月曜日。最後に出勤する月曜日が来た。月曜は嬉しいもんじゃなかったけど、この日は違った。
 天気は上々、通勤路の路地には気持ちよさげに猫たちが寝そべっている。もう明日からこの道を通って会社に行くことはない、と思うと一歩一歩がいとおしい。大学病院跡地の空が広い。坂道を下って通りを横切ると、もう会社に着いてしまう。もう着いちゃうのか、ちょっともったいないぞ。


■朝
 僕の机には端末以外、空っぽのブックエンドしかもう載っていない。引き出しも空だ。
 四月分の売上帳票、まだ作り残しがあったので続きに取りかかる。検算が合わない。うう。最後の日なのに。
 時折、担当店から電話注文が入るので受ける。最後に「本日付で退職します。これまで本当にお世話になりました」と申し添える。なかなか電話を切れない。担当店からのファクス注文を渡されて入力しようと見てみると、欄外に「今日でおしまいですね。お世話になりました」と書き込みがある。こちらこそ。いつもご注文ありがとうございました。以後も会社をよろしくお願いします、と心中で頭を下げる。
 ファクスのタイムスタンプは日曜深夜だ。着荷のない日曜の晩に夜なべして補充注文を送ってくれる書店さんは多い。売り場の真ん中に大量に本を積んでタワーを建てるような大仕掛けの売り方がよく話題になるが、僕もそれを認めないわけじゃないが、僕はやはり二冊、三冊といった地味な補充注文を受けるのが好きだ。注文欄に「2」と書くのも「150」と書くのも書店さんの労力はいっしょだけど、結果はだいぶ違う。もちろん百五十冊の注文には在庫リスクと売り場面積を割くリスクを負うよ、という迫力があってこれもすごいのだけど。わずかな数の補充注文からは、店頭をメンテナンスし、お客さんのための心地よい空間を維持していこう、という地道な努力が伝わってくるようで僕は好きなんだ。
 辞める直前になってやっと確信が持てた。販売営業というのは一種のメンテナンス業務なんじゃないか。地味な努力を要するとともに、若干のクリエイティビティも必要だったりして。僕はけっこうこの仕事が好きだったんだな。


■昼前
 フロア全体の部員を集めてのミーティングのため、上層階の会議室に移動する。ふだんは郊外の倉庫に詰めている物流チームも今日は全員いる。セクション全体のなかで今日希望退職するのは僕を含めて四人。入社年度順にかんたんな挨拶をする。みんな会社にいた年月、これからの抱負とかどうするかとかに触れている。僕の順番は最後だった。どうする。抱負なんてないぞ。
 そうだ、あれ言おう。
「▽▽です。二十一年と二か月お世話になりました。最後にというか、こないだ“秘密結社”書店の現場の方から聞いたのですが、ネットでの本の発注システム、あれで新刊書目が注文できないのは加盟社中うちだけになったそうです。電話が使えない夜中でもネットは使えるから書店さんはあれ愛用してます。新刊の注文ができるようにご検討いただければ。それから、社内文書にカラーコピー使うのやめましょうよ。何度もお触れが出てますがデフォルト設定を直してない人がまだいるみたいなので。コーヒー飲むときに来客用のディスポーザブルのプラスチックカップ使うのもやめませんか。前から気になってて」
 我ながらせこいというか重箱の隅だと思うけど、もう言う機会がないので言ってみた。空気なんか読まないぞ最後まで。
 明日の人事で他部署に異動する仲間、他から来るというか戻ってくる仲間の挨拶があって、営業部内での配置換え・担当替えに話題が移る。ここで僕たち退職組は退席した。
 その上のフロアの総務へ顔を出し、社員証と保険証を返す。返す相手も今日で辞められる方々だ。お世話になりました。
 席に戻って帳票の続きをやる。どうしても数字が合わない。売上の年度累計が前月より減っている。累計が減るってなによ!? もしかしたら今月の粗データがおかしいのかも。元データは…MRDBを使える先輩が作ってくれている。彼も僕と同じく希望退職する。ふだんは郊外の倉庫に詰めているのだが今日は本社に来ている。すみませんがもう一度作り直してみてくれませんか。そうか、本社の端末にはMRDBがないからインストールするまで待ってな。


■昼休み
 そうこうするうちに昼のチャイムが鳴り、会議室から他の面々が降りてきた。最後の昼飯に出る。昔ラグビーをやっていた巨漢の同僚と、最近愛用している野菜カレーの店へ。この二か月、彼とはずっと昼飯をともにしてきた。辞めるかどうかともに悩み、僕は辞める、彼は残ると決めた。毎日話をするうちに、大きな身体やぶっきらぼうな態度に似合わず、じつはきめ細かい性格で、傍目には小心に見えるくらい責任感が強い、ということがわかってきて、僕は彼に愛着を感じ始めていた。
「担当替えがあったよ。俺はこうなった……」
 ぽつぽつと話してくれる言葉の端から、残ったみんなでどう業務をシェアし再構築していくか、部員全員が苦闘している様子が伝わってくる。そうか、みんなが苦しいときに一緒にやれないんだな僕は。
 正直、僕は彼にも辞めてほしい、辞めようよ、と何度も言った。だが高校生が連れだって部活を辞めるようにはいかないわけで、こんなのは僕の勝手な片思いに過ぎない。
 全然関係ないけど、会社のある通りには二軒カレー屋さんがあり、どちらも美味い。僕たちはどちらにも行ったし、二人、三人と中年男ばかりで連れ立って丘を越えて隣の駅前や、神田川近辺のカレー屋にもよく遠征した。カレー食べるときは電話してくれよな。すぐ行くから。
 昼休みを終えて再び帳票の続き。先輩の端末にMRDBが入り、その場で問題の生データを作り直してもらう。それをエクセルに取り込み、実行。やっぱり合わない。データに問題はなかったんだ。ではなぜだ? 前年データが4月−3月締めになっているのを6月−4月に作り直したのが悪いのか。あ、たしかに前年実績が多すぎる。なんでこんなとこに気がつかなかったんだ。どこかでSUMを二重に取ってるから増えてるんだな。どこが悪いんだ。各セルの関数をチェックするが、こんがらがってわけがわからない。いろんなシートへの参照が多すぎる…。ちょっと休憩だ。


■午後
 午後、今日で退職する人たちがちらほらと挨拶回りに現れるようになった。そうだ、僕も行こう。会いたい人たちがいるし。
 上のフロアに行く。ノンフィクション書籍のフロアは僕も以前いたので愛着がある。懐かしい面々。言葉を交わそうとしても今何を言うべきか、迷ってうまく出てこない。「……いろいろお騒がせしちゃって……お世話になりました。ほんとにありがとう」。結局紋切り型の挨拶になってしまって、紋切り型って便利だな、と実感する。
 僕が配本と出庫を担当していたセクション、ここは少人数だったのがばらばらになり、他のセクションと統合されることになった。ジンクスにすぎないが、営業の担当者が替わった瞬間にベストセラーが出ることがある。そう、ツキを持った担当者というのがいるのだ。僕は残念ながら自分の担当セクションにツキをもたらすことができなかった。
「正直、すまんかった。力足らずで……でもビジネス系ノンフィクションは絶対に続けてよ。会社辞めてもずっと見てる」
「ええ、ギブアップはしません。短い間でしたがありがとうございました」
 僕より一つ若い編集長は物静かでしゃべり方もおとなしく見える。だが粘り強く諦めない、雪国生まれの土性骨がある男だってことを僕は知っている。
 隣のパーティションは新書のセクション。僕はここの連中が作る本のファンだ。自分が直接担当していないという気楽さもあるが、宣伝にいた頃いろんなことを面白くやれたのも連中が相手だったからだ。アート系や旅の本が得意で経済にも強い編集者、なかなか売れないけど中国・台湾関係に造詣の深い編集者、ただ一人でスポーツものを手がけ続けつつ社会学・人文系の若い書き手を掘り起こしている編集者。他にも精鋭多数。正直スポーツものは苦手だが、このチームの全員が好きだし、彼らの作る本が好きだ。いや、はじめは食わず嫌いだったジャンルも多い。“彼が担当なら”と読んでみて面白さに気づかされることが多かった。この「送り手の顔が見える」面白さを読者のとこまで冷まさずに持って行けたらいいのに、と思う。このチームは今年からメルマガとツイッターを始めた。会社公式アカウントだと難しいかもしれないけど、いいとこもダメなとこも含めて送り手たちの実像が読者に見えるツイートができたらきっと楽しいだろうな。
 一つ下のフロアはフィクション系書籍のセクションがある。ここには僕は足を踏み入れにくい。文芸書市場の現況に触れたエントリでは、僕はここの人たちに非常に批判的なことを書いた。とくに、何の断りもせずブログに登場させてしまった「□□さん」には、いくら厚顔無恥な僕でも負い目を感じる。
 だからこそ彼には挨拶しなきゃいけない。書きっぱなしで去ることはできない。
 ちょっと意を決してフロアに踏み込む。しばし探すと、□□さんが向こうから歩いてくるのを見つけた。魁偉な容貌、伸びた背筋。遠くからでも一目でわかる。
「……□□さん、ご挨拶に来ました。いろいろお騒がせしました」
「……うん」
「『群像』ご覧になりましたか?」
「見たよ」□□さんは立ち止まって、こっちに向き直った。
「勝手にあんなこと書いて、すみませんでした。お心苦しかったと思います…」
「うん……僕もあれ読んで考えたよ。いっぱいあるコメントになかにこういうのがあったでしょう」
 □□さんは「群像」に引用された件のエントリではなく、他のコメントについて思ったことを語り始めた。会社とそこで働く者たちの苦境、なぜ僕たちの働き方は変容してしまったのか。この会社・この仕事で働くとはどういうことだったのか、今それがどうなってしまったか。これからどう働くか、どう本を作り送り出すべきなのか。□□さんの言葉に僕は少なからぬ感銘を受けた。この人は変わってきた。いや、前からこうだったのに僕は気づかなかったのかもしれない。今初めて彼の話が僕に届いている。
「それ、すごいです。……書いていいですか?」
 ややあって□□さんは言った。
「いや、遠慮してもらおう。これは僕が、僕自身の働き方でみなに伝えていくよ」
 僕はうなずいて、彼と別れた。さよなら、ありがとう□□さん。


■午後2
 営業のフロアに戻り、ぶっ壊れたエクセルの帳票に再び取り組む。どこかの式がおかしいのはわかった。それがどこかわからない。ええい、始めから作り直せ。前年度の6月から4月までの実績を別ファイルで作り、それを帳票の別シートに貼り付ける。帳票の先頭行の関数をもう一度組みたて直し、最終行までペーストする。意外に簡単だ。おお!正しい値が出た! 4月の実売値がこれで全部そろった。僕が担当している地方の書店チェーンに、これで報告を送れる。
 メール用に関数を取り除いたエクセルファイルを作る。取り急ぎメール、そして電話。めったに会えないだけに、何度か出張で行った本社のある埋立地、その周りの大きな市場の景色を懐かしく思い出す。市場に新しくできた食堂街の寿司屋、きれいだし美味かったな。
 やっと肩の荷が下りたので、コーヒーサーバから一杯汲んで会社の隅っこにある喫煙所に行く。この二か月、人目につきにくいこの場所は、束の間サボったり一人になったりする貴重な避難所だった。
 先客がいる。僕よりやや年若だが同じく希望退職する人。これまで僕は彼と話したことがほとんどなかったが、今日はものすごくリラックスしているのがわかる。彼も、僕も。
「改めて思ったんだけど、今回辞める人で自分の意に反してとか、泣く泣くって人、いるのかな?」
 彼はくつろいだ表情で答えた。
「…いないんじゃないすか? いないと思いますよ」
「そうだよな。うん」
 そこへもう一人現れた。僕の古くからの同僚でいまは広告営業、そして僕の背中を推した男。
「○○社はうちと同じくノー残業デーを設けたんだけど、うちはお触れを出しただけで有名無実じゃん? あそこの広告は残業しない日ってのをきちんと実行できてるんだってよ」
「へえ、よく業務回せますね」
「やればできるんだよ。やる方法もあるんだ」
 広告営業たちの一体感は販売営業の比ではない。また、他社との横のつながりも強いようだ。正直羨ましい。広告営業の経験者が言っていたが、これは、広告の担当はみな、額は違えど目標となる金額を持たされている。そのハードルを越えるための努力、力一杯働くことが一体感を生み出しているのではないか。それはただ単に拘束時間・時間外労働が多いということではない。働く密度の濃さ、互いをカバーし合う仕組み。そして、隣で力一杯働いている同僚の姿を見ていれば、業務役割を超えた何かが生じてくる。これがどの職場にも生まれたら。
「お前、今夜の神楽坂には行くのか?」
「出版クラブ? 行くよ。来ないの」
参院選候補者の事実上の出馬宣言激励会、みたいのがあってな。俺あいつ応援してっから」。彼は昨夏の衆院選でもその候補者に熱心にコミットしていた。最高惜敗率で敗れたノンフィクション作家の候補だ。僕もその人のことは知ってるし、少なからず興味を持っている。
「○○さんにさ、言っといてよ。“編集部おん出されたときはブー垂れてたけど、今は感謝してます、広告営業を体験できてほんっとに良かった”って」
「そんなこと自分で言えよ」
 飲み終えたステンレスのコーヒーカップを洗って、ふと考えて不燃物のくずかごに入れた。十年くらい使ったかな。でももう使うことはない。そうだ、僕にはもう一人、挨拶しなきゃいけない人がいる。


■夕方
 渡り廊下で接続された隣のビルに行き、ファッション誌のフロアに上がる。午後も遅くなると雑誌の編集部に人が集まり、活気が出てくる。外から戻ってくるスタッフ、前夜徹夜したスタッフもこの時間ならいるはずだ。広い部屋の一番奥にその人はいた。よく通る声で電話している。
 魁偉な容貌、よく焼けた肌。この会社には僕が容貌魁偉とつい形容してしまう人が何人もいるが、この人ははっきりした声やアスリートのような身のこなしもあって、外見だけでも十分以上のインパクトがある。話してみるともっと。
「◇◇さん、お忙しいところすみません。お世話になりました」
「ええー、辞めちゃうの? なんてね。こちらこそ、お世話になりました」
「いえ、十年前に宣伝に配属されたばっかりのとき、初めて担当させてもらって。あのとき喝を入れてもらったこと、ほんとお礼言いたくて」
「何言うの。それよりブログはどうするの? 続けるの」
「え? ええ…あれは終わりですけど、書きたいことはなくならないので」
「そう。元気で!」
「はい。◇◇さんも」
 ◇◇さんは十年前にうつ病あがりでヨレヨレだった僕に、厳しく、きちんと接してくれた。病気だからといって腫れ物に触るようにではなく、あくまで普通に。要求水準も高かった。彼の目指すものが何か、彼が求める水準はどれほどか、僕は懸命について行こうとし、その結果、仕事の面白さを再発見できた。病気でくよくよしていた頃を忘れることができた。彼にしてみればごく普通に接してくれただけかもしれないし、手加減してくれてたのかもしれない。治る過程でたまたま彼と出会っただけかもしれない。でも僕には忘れがたい人なのだ。片思いかもしれないけれど。
 このセクションにはもう僕が知ってる人は◇◇さんしかいない。若い人のうち何人かは新人研修で会ったと思うが、向こうもこっちも忘れてるかも。若い編集者たち、キラッとした身なりのスタッフたちが忙しく打合せしてる間を縫って部屋を出る。相変わらず現場は忙しそうだ。ファッション誌市場は、広告・景気といった外部の環境が劇的に悪化している。だがチャレンジングな◇◇さんが元気でいるかぎり、僕は期待し続ける。もしかすると、全然予想もしなかった方角から蘇るんじゃないか、と思ったり。


■退勤時間
 僕の机はもう端末とデスクマット、空のブックエンドしか載ってない。次にここに来る人の真新しい名刺が一箱置いてあった。すまん、早く机空けなきゃ。
 周囲では、明日からの人事異動と担当替えに備えて、各自が机を動かしている。デスクから引っ張り出して別のデスクに引き出しを入れようとしているのがなかなか入らない。僕も何度も経験したけど、この引き出しにはコツがあるんだよ。右端にあるフックをちょっと持ち上げてね……。あ、もうお呼びではない、ですね。
 端末をシャットダウンしようとしたら、ブルースクリーンになってしまって動かなくなった。あれ、これは困った。社内の端末を管理するセクションのお助けダイヤルに電話する。すみません、最後までご面倒をおかけします。
 五時半になった。退勤時刻だ。帰る前に声かけてくれって偉い人が言ってたな。
「はい、お世話になりました。それでは失礼…」
「ちょっと待って。おーいみんな注目。ではー!」。フロアのみんなが立ってこっちを向いた。向こうの隅から花束を持った女子が登場。おお、これが噂に聞いた退職する人への花束か! 拍手とともに花束贈呈。深々と頭を下げました。しかし、こりゃどこから見ても「リストラ」って感じじゃないな。この日記、最後の最後になって悪いけど、看板に偽りあり、でした。「ほんとのリストラはこんなじゃない!」とおっしゃりたい方、よーくわかりました重々承知いたしましたゆえ、苦情ならびにJAROへのご連絡はご遠慮くださいませ。
「じゃあ、お先に失礼します!」花束と普段より小さい鞄を持って外に出た。五時三十数分。もう社員証を出退勤チェックのスロットに通すこともない。返したし。
 

■日没後
 きれいな花束を持ったまま盛り場に行くのが恥ずかしかったので、いったんアパートに戻る。台所のバットに水を張って、ラッピングをほどいた花束を浸ける。赤いバラ、白い蘭、青紫のふわっとした名前を知らない花。いい感じだ。会社のお花クラブでもらった花器がどっかにあったはずだ、帰ったら活けよう。
 身軽になってアパートを出、地下鉄で神楽坂へ向かう。前に書いた、退職者が自分たちで主催する小さなパーティが、日本出版クラブ会館で行われる。そこへ。
 神楽坂の込み入った通りからちょっと寂しい道へ一本曲がり、丘を上がったところに出版クラブはある。この業界の催しに使われることが多い施設だが、こういうのは初めてなんじゃないか? 三階の、小さめとはいえけっこう広々した部屋へ通された。
 何脚もあるソファ周辺が喫煙エリアで、中央には円卓が三つ、その一つを十人くらいが囲んで立ったまま酒を酌み交わしている。おお、一昨年定年退職された先輩も、僕より一つ下だけどずいぶん前に辞めて装幀家として一本独鈷でやっている彼もいる。うれしいね。
 退職された先輩は、Macintoshをはじめとするガジェット趣味では僕の大師匠だ。二十年前に池袋西口にあったキヤノン販売ゼロワンショップを教えてくれて以来の。今日も買ったばかりのiPadを持ってきていた。やるな!
 先輩は大病を患ってて、ちょっと前に会ったときは薬の副作用で頭髪がなかった。だが今日は、白髪交じりの髪が前と同じにふさふさとある! どうしたんですか?いったい。
「投薬治療を止めたら、病気が治ったの」。そんなことあるんスかほんとに?
「いやー、僕の場合は、あったみたいね。調子いいよ」
 不思議なことがあるもんだ。でもめでたい。乾杯する。三々五々、退職者が姿を見せるたびに乾杯が続き、いい感じに部屋も埋まってきた。先輩による乾杯、続いてまた歓談。というか同じ会社の人とだけ立食パーティやってるのが奇妙に思える。
 会は進み、退職する各人がちょっとだけスピーチをすることになった。座って順番を待つ。なかなか来ない。辞めてく人はみんなそれぞれに社歴が長く、携わってきた仕事も多い。それを数分で回顧して伝えるのは大変だ。「長くなります」と前置きする人もいる。茶々が入る。みなリラックスしている。
 退職後どうするか、みんながなんとなくそれに触れている。起業する人、再就職支援会社の面談を受けた人、悠々自適の人、書道ガールズ?になる人、資格を取る人、NPO法人を立ち上げる人……。僕は全然予定がないよ。
 やっと僕の番が回ってきた。「たぬきち!」と声がかかる。その名で呼ばないで! ていうか、ブログ弁慶の僕が何か面白いこと、言えるわけないじゃないか。期待しないで。
 手元のiPhoneに、つい一時間前についたコメントがある。それを読もう。
「某ブログに、つい先ほど“社員”とおっしゃる方がコメントを寄せられました。
 “いまごろ神楽坂で飲んでますね。辞めるべき人間が残って、なんで?って人がたくさん辞めている印象が強いです。今回の特別早期退職四十四人をみて。第二の人生、頑張ってください”。
 これは某ブロガーに寄せられただけのものではなく、この場にいる方々、今日いらっしゃらなかった方々全員へ向けられた言葉だと思います。リストラ、じゃすとなう!」
 まばらな拍手。恥ずかしいから急いで退場する。
 会場の後方へ向かいながら考えた。“社員”さんの言葉は嬉しい。だけど実際は、どうだろうか、“辞めるべき人間”っていたのだろうか?
 会社にとってぜがひでも残ってほしい人間はごくごく少数いるかもしれないが、あとは全員同じじゃないか? いや、若い人たちにはぜがひでも残ってほしかっただろうが。職種問わず四十歳以上の全員が選択権を与えられ、ある者は辞める、ある者は残ると決めただけ。そうじゃないか? そこにはほんのちょっとの違いしかないんじゃないだろうか。


■真夜中
 パーティは散会し、僕らは昔なじみの三人で池袋の沖縄料理屋へ移動した。いつも誰かが客席の隅で三線を爪弾いてる、気の置けない店だ。僕はもう飲めないのでうっちん茶にした。
「今だから言うけど、あの真相はこうなんだよ…」
「アテはない、アテはないけどこういうことしたいんだ…」
「ああ腰が痛い。もう書くのは疲れた。でも楽しかった…」
 三人はそれぞれ勝手に喋っているのだが、話はなんだかきれいにかみ合い、リラックスした時間が流れていく。シリアスな話になっても気持ちが重くなることはない。なにより、これが解放感なのか?という、身体のこわばりが消えたような感覚がある。いや実際は疲れてるし、腰も痛いのだけど。
 日付が替わる頃、電車で帰る二人とともに店を出て駅へ向かう。
「じゃあな!」
「また!」
 と改札口で別れ、構内を通って反対口へと向かう。まだ終電には少し間があるけれど、街を歩く人たちの数は僕がよく飲んでた頃と比べるとずいぶん少ない。月曜の夜だってこともあるだろうが、タクシーを待つ客は皆無で、みながゆっくりと駅へ向かっている。歩道が空いてて歩きやすい。遠くに奇声を発している酔った背広の集団がいる。珍しい。
 僕は人の流れと反対方向へ歩きながら、iPhoneでお気に入りの曲を選んで耳元で鳴らした。この夜聴こうと前から思っていた曲だ。いや、いつも出勤前とかに聴いてたし、マラソンに出たときはiPodにPowerSongとして登録していた曲だけど。マラソンでは途中で失速したので使わずじまいだったので、いま鳴らす。大好きな曲だ。
 真夜中の冷え冷えとした空気が空から降りてくる。
 これからどうする? どこへ向かう?
 わからないけど、歩き続けることだけは決めた。たった二か月だけど、ブログを続けたのは素晴らしい経験だった。僕はたぶん、ブログを書いてみんなに読んでもらえたことで以前とちょっと違う人間に変わることができた。叩かれ励まされたことが、人間をどれだけ変えるか、それがよくわかった。
 読んでくださってありがとうございました。またきっと、お会いしましょう。(終わり)



街を飛び出せ muscle!muscle!
空に向かって muscle!muscle!
星の彼方へ muscle!muscle!
車に乗って船に乗って電車に乗って飛行機に乗っても
世界はmuscle! 超、無限大!


この道の先には何があるんだろう muscle!
この海の向こうに この空の彼方には何があるんだろう muscle!
君が知りたいとき 乗り物に乗ればわかるはず
さあ一緒に 僕らと飛びだそう


街を飛び出せ muscle!muscle!
空に向かって muscle!muscle!
星の彼方へ muscle!muscle!
車に乗って船に乗って電車に乗って飛行機に乗っても
世界はmuscle! 超、無限大!


このドアの向こうで 誰に会うんだろう muscle!
見たこともないけど どんなに素敵な人たちに会うんだろう muscle!
君が知りたいとき 乗り物に乗ればわかるはず
さあ一緒に 僕らと飛びだそう


街を飛び出せ muscle!muscle!
空に向かって muscle!muscle!
星の彼方へ muscle!muscle!
車に乗って船に乗って電車に乗って飛行機に乗っても
ア・タ・シはmuscle! 超、無限大!


(「のりものスタジオ」裏主題歌?「世界はマッソー!」)