新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

リストラなう!その40 センチメンタル銀座なう

 今日は先週に続き二回目の有休消化。朝から事務的な書きもの。好き勝手書けるエントリと違って事務連絡は書きにくい。お昼までに書き上げてなんとかメール。お昼は時間がもったいないので外に出ずにカップうどんにあおさを大量に入れて食す。カップうどんもスチロール容器のまま食べるのじゃなくて、丼に移して食べれば意外に気持ちが豊かになる。葱を刻むのも良い……ってどういうブログなんだこれは! 日記かよ。ああ、日記だったか。
 午後はエントリを書こうと思っていた。これまで僕は勤務時間中にエントリを書いたことは一回もない。これはちょっと自慢だ。サボってないぞ俺は、っていうか、サボってこっそり何かできるような暇な職場じゃないんだよ営業は。
 話が逸れた。だから明るいうちにエントリ書くのは始めてなのでちょっと楽しみだったが、PC開いて白いウインドウを見てるうちに、足がむずむずしてきた。


■営業の花道?とは
 一昨日、会社から担当書店さん宛に最後の「重版の案内」を送り、ついでに「さよならのご挨拶」を書いたら、昨日今日といっぱいお返事をいただいた。どのメールからも送り手の顔が浮かび、かなーり感傷的になってしまう。なかにはついでに最後の僕宛の注文をくださる方もいて、これはウケた。
 もう一度、すべてのお店を臨店して挨拶したい。でも時間がない。この葛藤。
 どのお店、どの書店員さんにも思い入れがあってそれに軽重はつけられないが、どうしても、どうしてももう一度会っておきたい人たちがいた。それは、イベントでお世話になったお店の方々だ。
 イベントはお祭りだ。そして営業の花道というか檜舞台というか、ふだん地味な帳票作り・メンテナンス的仕事・在庫調整ばかりしている営業が、社内の花形である編集に「俺に従え!」と強引なイニシアチブを発揮できる唯一の機会でもある。
 何より、イベントは最終的なお客様である読者の顔を見る数少ない機会なのだ。
 イベントは読者サービスになるし、著者に刺激を与えることもできるし、何より最近は読者との交流に熱心な著者が多くなってきたのでその橋渡しとしても重要だ。実際のところ、イベント単体でペイできるほど売上を立てられる例は少ない。人手が取られたり休日出勤が増えたりして会社の管理職がやきもきするところでもある。そして書店さんへの負担も相当大きい。お客さんがたくさん集まってくることはお店の他の売り場、はなはだしい場合はお店の周辺にまでストレスになる。逆にお客さんが集まらないとまた大変。出版社でも書店さんでも八方手を尽くしてサクラを集めることになる。在庫もたくさん抱えてしまうし。
 僕はウソは止めたほうがいい、と強く思うが、イベントにおけるサクラは別だと思っている。イベントは祝祭だから、イベントにおける最大の目的は盛り上げること、これに尽きる。サクラも必要だ。
 先だってNHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」でも、調布の貸本屋さんでいきなりイベントをやる、というエピソードがあった。これは見てて何度ものけぞった。
 イベントを思いついて漫画家に頼んだのは貸本屋さんなのに、チラシは漫画家が作っている(逆だろ!)。当日になってお客が少ないので慌てて商店街にサクラを頼む(いきなり行列ができるほどよく集まったよな、ふつうこんなこと無理だよ)。そしてイベントの終盤に出版社の人間が鷹揚に現れる(知ってたんなら始めから来い!)。
 まあ昔はこんな風に牧歌的だったのかもしれないね。全部が手作りで。素敵だ。
 現代の書店イベントは、ジャンル・客層別に高度に細分化され、スタッフの技量は発達し、お客さんの要求水準も非常に高い。そして怖いことに、イベントが成功するかどうかは相変わらず昔と同じで水物だ。開けてみるまでわからない、ギャンブルだ。
 ここで苦楽をともにした書店さんとは、とりわけ特別な思い入れができてしまうのだ。“戦友”みたいな。なにしろ、修羅場みたいなイベントもあるからね。それを捌いてるとホント戦場にいるみたいな気になったよ。
 午後、まだ日は高い。ちょうどお昼が終わって書店さんの店頭も昼時ラッシュアワーが一段落したはずだ。僕はいてもたってもいられなくなって顔を洗って歯を磨き、スーツを羽織ると地下鉄に向かった。


■キビしいご指摘
 有楽町で地下鉄を降り、地下通路で直結したビルの階段を上がる。ここにある書店は最高の立地を活かして強力なディスプレイ、本のピラミッドみたいな仕掛け台で有名だ。また人通りがあるので雑誌創刊のときは必ずデモ販売をお願いしていた。残念ながら僕が担当していた二年半の間はデモ販は一回やったきりで、しかも出張とかちあって僕は参加できなかったのだが。
 このお店のもう一つの特徴は文芸書に強いことだ。文芸書コーナーの面積自体は大きくないのだが、有楽町の膨大な乗降客のうちかなりの数の文芸書好きがここで買っていると思う。だから作家が新刊のプロモーションで臨店したい、というときはこのお店ははずせない。そしてこの店の文芸担当の方がまたいーんだ、これが。どんな修羅場でも笑顔を絶やさないお姉さんで、僕たち出版社の営業マンはたぶん全員彼女のファンだと思う。
 彼女が出勤してるかどうか訊いて、バックヤードへの階段を降りる。以前このテナントは銀行の支店だったらしく、バックヤードはその昔の金庫室だったという噂。いかにもそんな感じの重厚な壁に囲まれた階段だ。
 ロッカーの前に、彼女はいた。
「すいません、突然おじゃまして。今月末で退職するのでご挨拶に…」
「あ、来たね。ブログ読んでるよ」
「うへっ」
 にやりと微笑んで彼女は続けた。
「…逃げ出すんだね?」
 うっわー、それを言わないで! こういう、本質を衝いたことをさらりと言える人なのだ。マイるなー。
 お店の偉い人、雑誌担当の人、次々出てこられるので挨拶する。このお店はファッション誌もものすごい数を売ってもらっている。発売翌日に品切れしそうになって「何とかならない?」の一言で何度も直納した。倉庫から取次に出庫するのではなく、倉庫から会社に取り寄せ、それを電車で持って行くのだ。分厚いファッション誌を詰めた紙バッグは重い。両手で最大二十キロくらいになったときもあった。これを宅配便で送るとさらに金がかかるので、電車で持ってくのだ。そのほうが速いし安い。地下鉄とお店が直結してるからできたことでもある。僕は腰痛持ちだけど、不思議と直納で腰を痛めたことはなかったな。直納は気分が高揚するからか?
 辞して地上に戻り、新橋方向に向かう。アパートを出るときぱらついていた雨が上がり、風が吹いている。だが湿度が猛烈に高く、蒸す。このエリアを営業するときは基本、徒歩移動だったからよく汗を掻いた。今日もシャツが汗染みてきた。最後まで汗まみれだったな。


■アイドル・芸能人イベントのメッカ
 数寄屋橋交差点をすぎる。この地下に、狭小だけどすごい数の文庫を売る、銀座OL御用達のお店があった。残念ながら先日閉店した。もう少し歩くと阪急デパートのビルの一階に空き店舗がある。ここにも書店が入っていたのだが二年前に閉店した。人文書の品揃えがすごいお店だった。
 どちらも老舗で、惜しまれながらの閉店だった。僕も営業で頻繁にお世話になった。前者の閉店は僕らの会社のリストラ開始とちょうど同時期で、バタついていた僕はついに臨店できなかった。それが心残りなのだ(もっとも閉店の理由は消防法改正での施設変更で、営業不振などではない)。
 西へ西へと歩きやや南下すると銀座通りのはずれに出る。ここにある書店は、アイドル・芸能人系にめっぽう強い。芸能人本イベントのメッカといえる。そう、このお店でイベントをやると、全国の熱心なアイドルファンが、文字通り巡礼のごとく押し寄せるのだ。
 二階に上がると、イベントで何度も何度もお世話になった担当者の方と会えた。偶然店長さんも通りかかってくれた。
「あの時も、あの時も、お世話になりました」
「そうですねー。ぜひまた」
 この担当者さんは小柄な女性なのだが、イベントとなるとタフでスピーディで、場内を野生の鹿のように動き回って設営・撤収を指揮する。折衝でもタフ・ネゴシエイターぶりを発揮してくれ、問題点を次々解決してくれた。
「アイドルの本出したら、まずこちらへ、またいつか、ビシバシ売上が立つイベントやれよと言い置いておきます」
 このお店での過去の戦績、最大のものは、今をときめく“会いに行けるアイドル”集団のエース、M田A子ちゃんの第一写真集発刊記念握手会だった。
 今や大河ドラマにも出演するようになったAっちゃんだが、当時の僕たち営業チームはまだその実力・ファンの支持を知らなかった。写真集を見ても「普通の女の子じゃね?」というくらい自然体の、素のティーンエイジャーにしか見えなかった。この娘のイベントに、いったい何人のファンが来るのか?
 だが蓋を開けると、そのイベントは壮絶なものになった。押し寄せたファンの正確な人数は覚えていないが、店内から溢れたお客さんの行列は歩行者天国にまで延々と続いて隣のブロックに達した。そして彼らはほとんどが一回で帰ったりしない。複数の整理券を購入しているので、何度も何度も彼女と握手しに現れる。だから売上は実人数×数倍。整理券を受け取って誘導する役をやってた僕は、「君はもう八度目だね?」などと心中で数えていた。そんだけ周回するとお客さんも僕もお互いの顔を覚えてしまい、「ようこそいらっしゃいました、こんちまたまた」「いえいえ、そちらこそお疲れさまです」なんて会話を交わしたりした。
 朝から午後遅くまで、Aっちゃんは素晴らしいがんばりを見せた。たった一回の休憩を挟んだだけ、立ちっぱなしでお客さんを迎え、強引にハグしようとするファンにも嫌な顔は見せず。どうやらファンの顔を覚えているらしい。「大親分になるようなやくざは人の顔を忘れないし、電話番号も全部暗記している」という話を読んだことがあるが、Aっちゃんにもそんな鬼気迫る集中力を感じた。執拗にAっちゃんに抱きつこうとするファンを、やんわりと、だが確実に引っぺがすマネジャーのワザにも感心したw。
 芸能人というのは凄い。それは、ふだんから無数の人たちの視線を浴びて生きている凄みだ。これは、本を書くのを専業にしている人たちの迫力とはまったく違うものだ。内面は全然知らないけど、つねに見られていることで彼ら・彼女らの容姿は確実に磨かれていく。輝きを増してゆく。まだ世間一般でブレイクする少し前だったと思うが、Aっちゃんのプロ根性、努力、そして身についてゆくカリスマ性を垣間見た気がした。この娘は凄いことになるかもなー、と思ったら、いま実際にそうなっている。大したもんだ。
 このお店では他にロック☆スターの自伝、聴覚障がいを持つ女性の自伝的コミックのサイン会などもやらせてもらった。聴覚障がいの著者さんのときは、お客さんのなかにもかなりの数、同じ障がいを持つ方々がいらっしゃった。外見ではわからないから、つい言葉で誘導したりして僕は何度も失敗した。だがイベントスペースで著者と目が合うと、お客さんと著者の間にビビッと無言のコミュニケーションが生まれるのがわかる。それは感動的だった。同じハンディを持つ者同士が勇気と共感を与え合う。
 イベントは本当に疲れる仕事だが、こういう感動的な場に遭遇すると「またやってもいいかな」と思えるのだ。


■小と大、二つの老舗
 銀座通りを今度は東に進む。四丁目の交差点を過ぎると夏の暑い日にここを汗を拭き拭き歩いたことを思い出す。東京の気温がその年最高を記録した日で、僕はNHKの昼のニュースのクルーに捕まった。スーツ着て汗をふいてる姿が、彼らが欲しい画にぴったりだったようだ。僕はむしろ、炎天下で欲しい画をハンティングしている彼らに同情した。ぶっ倒れるんじゃないか、と。会社に戻ると、その日の正午のニュースで僕の画が使われたのを見たらしく、何人かに冷やかされた。
 アップルストアの手前にある書店。間口は小さいが戦前からの由緒あるビルで、キリスト教系のこれまた由緒と情緒たっぷりのお店だ。店内、とくに二階から上の売り場は銀座通りの喧噪がうそのような、静かで落ち着いた雰囲気だ。じっくり本を選ぶ、上品に年取ったお客さんが多い。
 冬は暖かく、夏は涼しい感じの店内。僕は営業の先輩とこの店あたりを境界にエリアを分け合っていたのだが、いつもこの店は「俺がやる」「いや僕が」と取り合いになった。そういうお店なのだ。
 このビルの上層階に百名以上収容できるホールがある。ここをお借りして、自己啓発・能力開発の女王のトークイベントをやらせてもらった。そう、自分をグーグル化するあの人だ。
 冷たい雨が降る冬の日で、銀座通りはマラソン大会のコースになっているので一時封鎖されていた。PowerPointを投影するプロジェクタを設置し、ホワイトボードを用意すると、なんだかイベントじゃなくて講義の準備のようだ。これらの機器や音響がちゃんと機能するかどうかのチェックが大変なんだ。だがこのお店では場内の設備は完璧に整備されていた。
 天気が悪いので客足が懸念されたが、開けてみるとほぼ満席。著者も気持ちよくトークを終え、質疑応答に移ると熱心なお客さんが次から次へと質問の嵐。その後のサイン会も含めて気持ちよく盛り上がったイベントだった。
 今日はあの日とは対照的に湿っぽく蒸している。一階で雑誌のレジに立っている店長さん、二階で書籍・文庫を担当されているみなさんに会うことができた。みなさん静かで柔らかな物腰。お店の雰囲気を作るのはハードじゃなくてスタッフなんだ、といつもここに来ると思う。
 店を出るとアップルストアの前にテレビのクルーがいる。ここは本当に街撮りのクルーが多い。画になるし、歩いてる人の雰囲気も他の街と違うし。と思ったら、アップルストアの前にデッキチェアを据えてお泊まりセットを広げている人を取材しているのだった。明日はiPadの発売日なのだ。その取材か。
 銀座通りをさらにずんずん東進して京橋を過ぎ、老舗デパートと向かい合って建つ老舗の大書店に至る。この店も思い出深い。イベントはビジネス書系の著者サイン会を何度かやったくらいだが、それよりもお店の方針転換の瞬間を目撃できたのが興味深かった。
 大書店では道路に面したフロアに雑誌を大きく展開するところが多い。だがここでは、雑誌の面積を大胆に縮小して、一番良いスペースにずらりと既刊書籍を並べた。いくつものテーマを設定し、その文脈を形作るよう、一冊一冊違う本が背表紙を見せて並んでいる。
「文脈棚」に取り組む書店は今でこそ増えたが、こうした地価の高い一等地でそれをやるのは相当な勇気が必要だったろう。従来通り雑誌を置いていれば、ある程度の売上は見込めるのだ。そこであえてリスクを取った決断。また既刊の書籍をテーマごとに揃えるのは発注・管理も大変だ。さらにこのお店がすごいのは、お客さんに飽きが来ないようにテーマを時々変えているのだ。テーマを企画する苦労、その度に発生する膨大な作業を考えたら、本当に頭が下がる。
 突然行くんだから誰にも会えないかもしれないな、と思ったら、偶然向こうから意中の人が歩いてくるのに出会った。書籍売り場の若いリーダーで、各社から大量の新刊ゲラを「ぜひ読んで」と託される人だ。イベントの時はお店のスタッフの総指揮も執る。責任も仕事量も半端ない忙しい彼とばったり会えて挨拶できたのは幸運だった。今日はツイている。


■元祖・軍艦書店とその艦長
 最後に東京駅方向に戻る。高級ドイツ車のショウルーム向かいにあるランドマーク的な巨大書店。今や都市型書店といえば膨大な在庫量を誇る巨大書店が花盛りだが、そのハシリ、元祖とも言うべきお店だ。
 ここでも何度もイベントをやらせてもらった。上層階の芸術書売り場にギャラリー的なスペースがあり、そこをお借りした。人気イラストレーターの原画展をやったときは設営にまる一日かかったこともあった。自分をグーグル化する著者のトークイベントをここでもやった。あの時は他社からも新刊が出てたので共催でやったんだっけか。ここでもイベントは盛況だった。
 各フロアを回って親しい人に挨拶した後、店長が来てくれた。
 店長はギョロっとした大きな眼に刈り込んだ頭髪がよく似合う、タバコの吸い方なんかもちょっといなせな、江戸っ子の職人を思わせる人だ。お店の内外に人望が篤く、僕たち出版社の営業マンからの人気も高い。というのも、人柄や、場を盛り上げるキャラクターもさることながら、業界が抱えている問題点や課題を言葉にするのがうまく、たとえ居酒屋でわいわいやっている時でも彼と話していると自然と問題意識を共有できるようになるのだ。
「ちょっと出る?」
 と、近所の喫茶店に向かう。喫茶店と言ってもドトールやスタバじゃない、もう最近ではほとんど見かけない純喫茶だ。僕が会社に入った頃は会社周辺に何軒もこうした喫茶店があったが、今は一軒しか残っていない。それがこの街では、まだまだニーズがあるらしく何軒かが健在だ。銀座からそんなに離れていないのに、ちょっと庶民的な佇まいの店が多いオフィス街。
「メール読んだよ。で、会社のリストラってどうなの?」
 今回、四十数名が希望退職すること、残った社員の給与を下げて再構築すること、などを話す。
「そうか、書店はどこも数年前にリストラを一巡させたけど、君んとこみたいな出版社にはいま波及してるんだな」
 そうだ。ちょっと前に、大規模チェーンが相次いで店舗を閉鎖し、また希望退職を募って正社員をアルバイトにリプレースしていった。担当していたエリアで新聞に取り上げられるような閉店が相次いだのもその頃だ。このお店も麾下のチェーン店含めてリストラをやっていたんだ。
「俺は、一人の社員が担当できるのは五十坪が限度だと思ってる。その中でどんだけ勝負できるか、書店員の質を上げていかなきゃなあ…」
 もちろん店長のお店もスタッフの士気は高い。モラルもモラールも、モチベーションも。だけど激務のなか、スタッフ個々の努力だけでそれを維持するのは大変だ。こういう適切な示唆ができるマネジャーが必要なのだ。
 実を言えば、僕が働いてる会社からもマネジメントに関する書籍は何冊も出ていて世評も高い。だが社内の人事で本に書かれたようなマネジメントが実現できているかというと、それはとても疑わしい。何しろ管理職になったときもとくだん研修もなく、明確なミッションが与えられることもない。部下を指導し育てるということに関しても、方法論を共有しているわけでなく場当たり的だ。
 紺屋の白袴。というか、好景気で儲かっていて、問題意識を持つ必要がなかった頃の悪習が今でも直っていないのだ。
 話は業界の噂ばかりではなく、「今度から休みの日はなるべく出かけようと思っててね。手始めに友人といっしょに月島なんか訪ねたりして、銭湯入って、風呂上がりにレバカツでビール呑んで、帰ってくるとか。こんな風にあちこち行ってみるんだ」などとくだけた話題にも飛ぶ。だが僕には、こういう小さな体験を積み上げていって、自分のお店をどう活性化させようか、どうソーシャル化させるか、そのヒントを毎日探しているように聞こえる。
 東京駅の前に建つ書店ビルは、落成した当初は他に例のない巨大書店だった。当時はその威容が軍艦に喩えられたと聞く。いま巨大書店は当たり前、とくに珍しい存在ではない。そしてどの店も時代の荒波に直面している。それはiPadKindleといったキャッチーなガジェットのことではない。もっと本質的な何かが大きく変わろうとしている。店長は、部下たちを叱咤激励してその荒波に立ち向かい、艦の舵を離さない艦長のように見える。
 外に出るともう夕暮れ、雨は上がり、湿気も去って冷涼な風が吹き始めていた。オフィスを後にして東京駅に向かう人の群れ。先導する旗に従って駐車場へ向かう修学旅行生たち。何度も何度も見た光景だ。
 やっぱり書店営業は楽しい。そりゃ今日はセールスじゃないから超楽だった、ていうこともあるが。それより何より、現場の人たちの空気に触れること、彼らからもらう様々なストロークが自分を変えていくという体験が楽しいのだ。
 書店営業でいられるのもあと二日。野良犬になる前にもう一度、大勢の人にかまってもらえて嬉しかった。もしも尻尾があったらたぶん千切れるくらいびゅんびゅん振りながら、僕は地下鉄の駅に向かった。(つづく)