新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ「ボーダーライン」(Sicario)2015の感想(前)

 遅まきながら「ブレードランナー2049」を見て、改めてヴィルヌーヴにハマっている。前に「灼熱の魂」を見た時やっぱり心を奪われたのだが、あの時はこんなにネットのレビューが気にならなかった。だが「ボーダーライン」を見ると気になって仕方がない。
 なぜかというと、ネットのレビュワーたち(僕自身も含む)は、ヴィルヌーヴの問い掛けをきちんと受け止めているか?ということが問われているのではないか、と思うからだ。
 この映画は丁寧な説明が多いが、それでもわかりにくい。


登場人物◎アレハンドロはコロンビア人ではない!

人物を整理しておこう。断っておくが、ここからすでに【ネタバレ】なので注意を。

ケイト・メイサー(主人公。FBI特別捜査官)
FBIの誘拐即応部隊指揮官。アリゾナ州フェニックス支部勤務らしい。冒頭に武装して装甲車ごと敵アジトに突入する。アリゾナでの主敵はマヌエル・ディアスという名だと判明しているが、彼女にはほとんど情報がない。
特別捜査官になってすぐにQRFになり、指揮官歴は3年。5回の突入をすべて成功させている。だが直近の作戦では仕掛け爆弾で2名のチームメイトが死んでいる。離婚歴あり、子はなし。

ジー(主人公の同僚)
ケイトのバディで、黒人の特別捜査官。奨学金ROTCを受け、イラク派遣(たぶん海兵隊)の後、法学の学位取得。たぶんロースクールを出て弁護士資格があるということだろう。『ヒルビリー・エレジー』の主人公のような苦学生で、現在のFBI特別捜査官という地位は彼にとって通過点、もっと上を目指しているのではないか。

マット・グレイヴァー(CIAオペレーション・オフィサー)
現場指揮官より上のクラスの会合にサンダル履きで来る男。またFBIなども彼のだらしなさを許容している。それは、身ぎれいなデスクワークや会議に彼が割ける時間は少ない、現場歴が長く今も現役であることを意味している。命が懸かった現場に身を置く者特有の横着さ(「葉隠」)のようだ。
現場担当者と「それは淋病だ」「フィジーの謀略、俺にやらせたら」といった軽口を叩く。安い売春婦を抱くような田舎国や熱帯の経験が長いのだろう。

アレハンドロ(国防省顧問)
国籍不明でスペイン語母語とする男。マットは彼に大きな権限を与えており、作戦の立案・実行に大きく関与させている。マットの仕事は、アレハンドロをハンドリングすること、なのであろう。CIAのケースオフィサーとは本来、実行者を飼い、自分は動かないものだ。
序盤に「フアレスで仕事していた」「私はメキシコのために働く検察官だった」と明言している。外国人が検察官になることは少ないだろうから、元はメキシコ人だったと考えるのが自然だ。
ネットには必ず「コロンビア人アレハンドロ」と書いてあるが、作品中ではコロンビア人であるとは一度も明言されていない。「ここ(マットの顧問)の前はカルタヘナにいた(コロンビアのために働いていた)」と言っているだけだ。「コロンビア人アレハンドロ」というのは日本の映画輸入業者のミスであろうと思われる。

シルビオ(メキシコ人警察官)
妻、息子あり。夜勤が多く、寝ているところを息子に起こされてサッカーを付き合う。スキンヘッドだが30代くらいではないか。住居地は、アリゾナと国境を接する街ノガレス。
後にわかるが、彼は麻薬密輸出を手伝っている。麻薬倉庫から国境のトンネルまで麻薬のパッケージ(5kgくらいのパック)を何十個も、パトカーのトランクに詰めて運んでいるのだ。腐敗警官ということになるが、組織のために殺人や脅迫までしてたかどうかは不明。
制服警官は薄給で危険なので、麻薬組織に通じた方が安全で収入も増える、という矛盾がある。

テッド(アメリカ人警察官)
FBI捜査官レジーの知り合い。どこかのアカデミーで一緒だったのか(FBIアカデミーに警官が研修に来ることはある)。今はアリゾナ州フェニックスで警察に奉職。
組織に買収されており、組織の資金洗浄担当(女性)が所持していたと同じ札束用ゴムバンドを持っていたのをケイトに気付かれる。

ギレルモ(メキシコ人)
組織の大幹部。フアレスで官憲に拘束されていた。マットたちの最初の作戦はその身柄を受け取って米国側のエルパソに移送することだった。組織の大幹部マヌエル・ディアスの実兄。
アレハンドロの拷問に屈し、ノガレスのトンネルを自白する(ということは、ギレルモのレベルでは大ボス・アラルコンの居場所は知らないのだ)。

マヌエル・ディアス(アリゾナ在住メキシコ人)
麻薬組織を統括する実力者。普段は米国内のアリゾナでプール付きの邸宅に住み、子どもたちと暮らしている。しかし問題が生じたらメキシコ側に戻って大ボスと協議しなければならないので、現地法人社長くらいの地位か。

ファウスト・アラルコン(メキシコ人)
ソノラ・カルテルの支配者。麻薬王。所在不明の大きな屋敷に住む。妻と息子二人あり。
彼の屋敷の警備は、外郭が1名、内陣が3名、邸内が1名らしい。他に料理人の女性が1名。


構 造◎ケイトは名ばかり主人公ではない!

 この作品には二つの対立構造がある。一つは大きな対決の構図で、米国官憲vsメキシコ犯罪組織。もう一つは共存ないし協働すべきなのに対立してしまう、遵法主義vs現場主義。ここでは便宜的に現場主義としたが“脱法もやむなし主義”でもよい。
 そして前者の官憲vs犯罪者の対立は作品中では後景に退いていて、我々観客に突き付けられるのは後者の対立である。すなわちヒロイン・ケイトと同僚レジーの連合vsマットとアレハンドロ組。

 ケイトたちが体現しているのは我々と同じ価値観だ。法を守り、人権を守り、正しい手続きを踏む。人は差別されるべきでなく、固有の文化や個性は尊重されねばならない。だからケイトとレジーは白人・黒人、女性・男性、エリート・苦学生といった差異を越えて信頼しあっている。二人とも遵法精神があり、FBIが守るべき法を熟知し、違法捜査ならやらないほうがマシだ、と思っている。違法だと公判を維持できないからだと思われる。レジーは法律の学位保持者なのでその意識が強く、マットたちの違法な作戦を「邪魔してやるか」とはっきり言う。違法な作戦は彼らにとって有害無益なのだ。
 対して、マットはそういった意識が希薄というか、意識的に無視している。彼は登場時、会議の他のメンバーがスーツにジャケットなのに、彼だけ半ズボン・サンダルである。これは会議の他のメンバー、FBIや警察、軍だと思うが、それらに対して敬意を持たない、そうした秩序に背を向けるよ俺は、と言っている。
 ちなみに彼のサンダルは親指の股で鼻緒をはさむビーチサンダル型だ。アメリカで一般的なサンダルはビルケンシュトックなど革サンダルやGTホーキンスのような旅行者サンダルだろう。ビーチサンダルはサーファーか熱帯経験者に多い印象。CIAで熱帯経験者といえば、自然に「バナナリパブリックに謀略を仕掛ける者」というイメージになる。
 マットはケイトをリクルートする面接で、「夫はいるのか」「子どもは」と問うた。これは採用面接では政府民間問わずタブーのはずだ。本人の能力ではなく周辺状況で合否を判断するのは性差別と同じで、雇用法違反だからだ。だから問われたケイトも「なんで訊くか?」という表情になる。だが傲岸に、自信たっぷりに訊くマットに気圧されて、しぶしぶ答える。ケイトなりに、この質問には根拠と必然性があるのかもしれない、と思ったからだろう。
 そう、重要な質問なのだ。この作戦に携わる者は、誰でもこの質問を経ているはずだ。それは作品の後半大詰めでアレハンドロの家族背景が語られるときに判明する。

 はっきり書くと、ケイトたちはフェミニズムの価値観を体現している。
 なぜフェミニズムと断定するかというと、レジーの行動でわかる。レジーは男性だが「そのブラをなんとかしろ」と同性の友達のようにケイトに接する。けっして男性視線からの言葉ではない。レジーが妻帯者かどうかは描かれないが、レジーは異性のケイトを性的対象ではなく一個の人間・同僚・尊敬すべき相手として見ている。性的な枠組みから自由なのはフェミニストの特徴だ。
 マットはフェミニズムなんて糞食らえと思っていそうな、前時代的な背景を持っていそうだ。一応政府機関職員だから紋切り型のマチスモ的発言は控えているし、ケイトを差別せず男性同様に厳しく遇するようにしている。が、動作の端々から“お上品なフェミニスト”への軽侮がうかがえる、というのは僕の考えすぎだろうか。
 マットとアレハンドロがアンチフェミニストなのは、作戦についての説明を意図的にサボっていることからも明らかだ。「見て覚えろ」というのは「余計なことを訊くな」「お前に質問する権利はない」と無言のメッセージを発している。「共有する」という発想がない。
 フェミニズムの特長というか主張には「公正さ」がある。メンバー間で情報の量が同じでない、作戦目標すら知らされないで従事させられるのは明らかに公正でない。レジーはそれを我慢できなくて、不法入国メキシコ人たちを面接している最中に「作戦について説明しろ」と食ってかかった。対するマットは「OKか? なんかシリアスだな」とレジーの態度を嘲笑う。
 マットにはマットの理屈がある。作戦の全体像をケイトとレジーに知らせるのは、かえって二人の安全を損なう、くらいの認識がある。付いて来るというやる気を見せてくれるなら教えてもいいが、今のまま杓子定規にFBIのやり方を振り回す彼らに情報を与えるのは良くない。作戦を危険にさらすし、彼ら自身も危険になる。
「俺たちを“暗闇”に残すな」と言うレジーに「暗闇が怖いか」と返すのはマットかアレハンドロか。それは「自力で暗闇から這い出てこい」というメッセージでもあるはずだ。だが、システムとしての公正さを要求するケイトとレジーには、マットの論理は届かないし、届いたとしても無視される。

 ネットの感想文では「主人公は無力だ」と繰り返し書かれている。そして後半はっきりとアレハンドロが真の主人公であることが明かされるので、ケイトは狂言回し以下、優等生が引っかけられてコケるのを嘲笑うような作品に見えかねない。名ばかり主人公というか。
 だが、ケイトはそれでも立派に主人公なのだ。なぜなら、我々大衆は彼女の側でしかあり得ないからだ。
 ケイトがふりかざすフェミニズムは比較的穏健なもので、我々の常識とさほど乖離してない。彼女は明らかに我々の側だ。彼女が関わろうとし、それでも無視や拒否される世界とは何なのか。謎の男アレハンドロの正体とは何かを彼女の目を通して明らかにする。それがこの作品の構造だ。彼女が主人公でないと成立しない作品なのだ。
 なぜアレハンドロという男を理解するのに彼女が必要なのか、それは彼が物言わぬ“幽霊”だからだ。

 

謎と答え◎この映画はアレハンドロという男を理解することがすべてだ

 本作の真の主役はアレハンドロだ。これは誰でもわかると思う。だが、アレハンドロ自身に自分を語らせることはできない。彼が持っている数々の謎こそがこの映画の推進力だからだ。
 だから構成上の主役ケイトが存在する。彼女が我々の代わりに謎を体験し、苦しみ、そして理解する。我々は彼女の五感を通して、アレハンドロとこの作品の世界を体感する。

 彼の謎・彼の行動を具体的に見ていこう。
 ケイトが彼を認めたのはフェニックス郊外のルーク空軍基地からエル・パソに移動するガルフストリームの機内だった。寝穢く寝こけているマットを後目に、ジャケット姿で乗り込んできたアレハンドロはきちんと座席に腰掛けている。うとうとし、悪夢を見たのか大きな音を立てて目覚めた。
 目覚めたアレハンドロの顔には驚きと恐怖の余韻があった。何の悪夢を見たのか。少なくとも“彼はしばしば悪夢を見ているに違いない”ということがここからわかる。

 次に、移送作戦のブリーフィング後にアレハンドロはケイトに問われて答えている。
「フアレスで仕事していた」「メキシコのために」「私は検察官だった」「(今はどこだろうと)命じられた地に行く」「(ここの前はコロンビアの)カルタヘナにいた」
 これだけでかなり濃いプロフィールがわかる。メキシコの検察官で、フアレスが任地だった。今は検察官ではなく、メキシコのために働いてもいない。コロンビアのために働いている。専門が麻薬犯罪だとすると、フアレスの麻薬組織を立件するために働いていたが、それができなくなった、だから流れ者になり、コロンビアを経て、今はCIAのマットに雇われている、ということだ。
 最後に彼はこう言い置く。「米国人の君には理解できまい。すべてを疑うだろう。だが最後には、君も理解する」これは、本作の構造全体を指す台詞であると同時に、いちいち説明を求めるケイトに対して「説明してもどうせわからない。経験すれば理解できるはずだ」と釘を刺している。

 移送作戦出撃前、アレハンドロは白いジャケットを脱ぎ、背中側を折って丁寧に畳み、丸めてバッグに入れた。身なりに雑なマットと好対照だ。アレハンドロはジャケットを着慣れており、こうしたことをきちんきちんとやってきた几帳面な人なのだ、ということだ。

 移送作戦。フアレスの裁判所?で停車して待つ間、彼はケイトに「ここでは何も起きない。危険なのは国境だ。メキシコ警察に気をつけろ。買収されてる奴が多い」と言った。事態は彼が言った通りになるのだが、そのメキシコ警察のテクニカル(重武装車両)が移送作戦部隊の前後左右を固めているのだから、とても安心できない。国境のゲートで地元警察部隊と別れたときかえってホッとするくらいだ。

 渋滞で停車を余儀なくされたのは米国側のゲートに入る前か。ここでアレハンドロは目聡く襲撃者とおぼしき車両を特定する。「銃を持て。赤のインパラ、10時の方向」さらに他の車両から「3車線左、7時の方向、緑のシビック」と続報が入る。
 アレハンドロはHKの短いカービン銃を、手慣れた様子でストックを出し、構える。
 襲撃者たちが車のドアを開けるや、移送部隊は銃を構えて飛び出す。アレハンドロは赤の車両に近づき、「ノーノーノー、平和的にいこうぜ。銃を捨てろ」とスペイン語で語り掛ける。威圧的ではない。
 だが一瞬で均衡が崩れ、襲撃者が銃を目の高さにまで挙げるやいなやアレハンドロらは即座に射殺した。また、彼の予告通り、黒ずくめの警察のかっこをした襲撃者が車内に残ったケイトを襲い、ケイトは一瞬早く身を伏せて回避、反撃して射殺した。
 移送部隊の護衛は米陸軍のデルタフォースらしいが、もちろん軍服ではなく、私服にボディアーマー、顔は覆面と、ギャングっぽい。正規の出撃ではないか、出撃そのものを秘匿したいか。
 渋滞がハケて脱出路ができると、アレハンドロは後席に戻るのではなく、ハッチバックを開けて後ろ向きに座り込んだ。デルタが一人並んで、二人で後方を警戒しながら離脱する。すごくプロっぽい。

 エルパソの基地(フォート・ブリス防空基地かと思われる)に引きあげると、「違法行為だ」と詰め寄るケイトに対してマットは、レジーには無理だからはずしたが、彼を早く慣れさせろと言った。完全に見捨てていないのだ。そして「見るものすべてから学べ。君は学ぶためここにいる」と言い置く。ここすごく米国的だと思う。
 未熟である、と切り捨てるのではなく、このような言い方をする。もうベテランのケイトですら、まだ学んで成長する余地がある、としているのだ。マットはけっして根っからのアンチフェミニストではない。マットの傲岸不遜な態度には、それなりの理屈と理由がある、ということだ。

 基地内でのシーケンスは重要だ。拘束され、水を飲まされているギレルモに対しマットは「お前の旧友を連れてきたぜ」と言う。アレハンドロのことだ。アレハンドロはギレルモと面識があるのだ。
 廊下のアレハンドロ。白いジャケットを再び着ている。給水器にかがみこむと、「“幽霊”ものどが渇くとは」と語り掛ける背広の人物が。英語話者だがメキシコ人のようだ。
 アレハンドロは「よく奴の命を守れたな。大変だったはずだ」と応える。相手はおそらくフアレスの裁判所か警察のトップなのだ。家族はどうか、と挨拶する。男は妻と幼い子どもが二人いるという。フアレスではなくモンテレイに、と言うとアレハンドロは「それはいい(安全だ)」と応じる。フアレスはベターではないのだ。それはかつてアレハンドロが実際に体験したことに裏打ちされた言葉なのだ、という実感がこもっている。
 背広の男から「トンネルがある。ファウストの“アリゾナへの道”だ」と情報がもたらされる。彼は「君の目的のためにも便利だろう」と念を押す。アレハンドロとは旧知の仲で、今は疎遠だがけっして完全に縁が切れたわけではない、むしろ陰ながら見守っているぞ、というニュアンスが伺える。
 背広の男はギレルモの部屋に入ろうとするが、アレハンドロは「あんたはよせ。まずいことが起きる。見ない方がいい」と制止する。これから起きることとは、アレハンドロがギレルモにやる行為だ、それは違法で危険で、「今も戦っているとはさすがだ」つまり現役の法執行官が少しでも関与すると身の破滅になるようなことだ、ということだ。背広の男はメキシコの警察か検察、おそらく検察でアレハンドロの昔の同僚なのだ。「君の身に起きたことは残念だ」とは、アレハンドロを襲った悲劇を指すのか、メキシコ法曹界を去って浪々の身になったことを指すのか、両方か。
 背広の彼を見送るアレハンドロは、廊下に置いてあった予備の水タンクを持っている。18.9リットル(5ガロン)の水タンクだ。ギレルモが拘置された部屋に入るが、ここにはウォーターサーバーはない。

 ギレルモのベージュのシャツには少し血が付いている。移送の時手荒くされ出血したのか、いやその前のマットと会うシーンでは血が付いてないから、あれからマットか黒縁眼鏡の手で出血させられたのだ。ギレルモはさっきより汗を掻いている。脂汗だ。入ってくるアレハンドロを見て緊張が増す。
 アレハンドロは、椅子に後ろ手で縛られたギレルモの脚を、乱暴に蹴って開かせ、股間深くに自分のスタンスを入れてごく近づいて立つ。パーソナルスペースを侵すことで「お前に人権はない」と威圧しているのだろう。
 黒縁眼鏡のマットの同僚は「俺は出とく」と退出する。これから始まることを見たくないのだ。
「ヤンキーランドは地獄だぞ」「いやメデジンこそ」との応酬。アメリカ式拷問をするぞ、との宣告に、いやメデジンつまりコロンビア組織式だろ、と混ぜっ返す。お前はコロンビアの犬だ、とギレルモは強がるのだ。
 より詰め寄るアレハンドロ。傍観するマットを見やるギレルモ。「なぜ俺を見る? 英語できないんだろ」とあくまで傍観を決め込むマット。
 ここから先は台詞がない。代わりに、床に置かれた水タンクと、床の排水穴が俯瞰でアップになる。背後にギレルモの苦しそうなうめきがかぶさる。
 ここは明らかに拷問のシーンを代替する象徴カットだ。本当なら、排水穴に水がちょろちょろと流れ込む画だったのだろうが、それすら審査基準を通らなかったので、水は完全カットになったのではないか。

 水を使った拷問とは、俗にwaterboarding clubといわれるものだ。
 詳しいやり方はケン・ローチ作品「ルート・アイリッシュ」やキャスリン・ビグローゼロ・ダーク・サーティ」に出てくる。
 容疑者の身体を板などに固定し(boarding)、寝かせ、やや足側を高くする。こうすると逆立ちしたのと同じになるのだ。容疑者の顔を手拭いなどで覆い、その上からコップ一杯の水を徐々にかける。逆立ちしていると水は重力に従って鼻の穴から入ってくる。息で吹き戻すことはできない。たったコップ一杯でも、気管に入るとそれは溺死するのに十分な量だ。
 殴ったり出血させたりせずに、命を危険にさらし、細かな制御も可能、非常によく練られた拷問方法なのだった。
 ケン・ローチ作品は英国映画なので審査基準が違うはずだ。ビグロー作品はCIAが拷問をした、とはっきり描いたため論争になったという。本作は水タンクを出すのがぎりぎりだったのだろう、と僕は推測する。
(あれ? ゼロ・ダーク・サーティPG12、シカリオはR15+だ。シカリオは他の要素ですでにレイティングがめちゃ悪かったんだな。それにしてもあの拷問描写でPG12とは、ゼロ・ダーク・サーティよくわからん。しかもルート・アイリッシュはGだ。まったく基準が分からん)

 ちょっと映画をベタに叙述しすぎた。これでは丸コピーになってしまう。
 序盤のこの流れだけでも、アレハンドロには明白に語られない謎が多いことがわかる。これらの謎を解読していくことがこの映画を理解することになる。この映画はとっつきにくいようで実は親切なので、見終わってもアレハンドロについて謎が残っていると、それは理解が足りないことになる。もう一度注意して見れば、必ず答えは判明する。
 こうした「答え合わせ」のような映画の見方はくだらない、とも思う。だが、作り手が仕掛けたことをせめて理解してやりたいではないか、とも思う。
 僕はこの映画はフェミニストであるヴィルヌーヴが観客に鋭い問いを突き付けた映画だ、と思っている。その問いがどんなものか、ヴィルヌーヴはどのように我々に突き付けてきたのかを書き記すには、少なくとも焦点の人物アレハンドロの解読は必要なのだ。
 ここから先は駆け足でアレハンドロの謎を解いてゆき、ヴィルヌーヴの設問に近づいてゆこうと思う。

(後編に続く)