新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

「億り人」についての感想

 夜のNHKニュース(ラジオ)で、暗号通貨仲介業へのハッキングの件で「億り人とも言われる…」と流行語が出てきた。ふうん、こんなに普通の言葉になったのか。

 多量を意味する「がっつり」や2ちゃん語の「キター」などが説明抜きで雑誌の見出しになり始めた頃(2004年くらいか)もへーと思ったが、今夜の「億り人」には少なからず感心した。なぜって、これは投機で儲けている人がこう呼ばれています、ということでしょ。射幸心を煽ってる流行語が、一応日本で一番堅い公共放送の報道(バラエティじゃなく)に出る、って今がバブル状況だって証拠だなあ、と。だから感心した。

    ※  ※  ※

 ちょい前に友人が「僕もビットコインやるべきかと……リアルな知り合いが〝億り人〟になってたりするんで」と言っていた。

 僕はその時は深く考えず、反射的に「やめといた方がいいんじゃ?」と答えといた。

 あれからしばらく考えていたのだが、僕がなぜ否定したか、理由が二つ思い当たった。それをここにメモしておきます。

 

【理由その1】毎日を仮想通貨に捧げられるか?

 投機を始めたら、日々の意識が投機のこと以外に向けられなくなる。これは相当辛いのだが、始める前はたぶん絶対にわからない。投機に振り回される自分、を想像できる人はあまりいないと思う。

 僕のつたない経験だけど、退職金で投機をしたことがある。結局大敗したのだが、少し勝ったこともある。当時は投機ではなくちょっとリスクとリターンの大きい投資、だと思っていた。だが間違いなく投機=博奕だった。自分に何の関係もない海外の金融商品なんて、世界のどこかでサイコロが転がっているようなものなのだ。そのサイコロが、「最近良い目が出てるんですよ、あなたも張りませんか?」と言ってくるのが金融商品のセールスマンだ。

 当時の金融商品は一日一回しか基準価格が発表にならなかった。だけど、僕は毎日の価格のチェックで相当エネルギーを取られた。仮想通貨は価格の変動が激しいからデイトレードになるんじゃないか? 一日何時間をトレードや監視に費やす予定か知らないが、どのくらいの労力を予定しているか?

 また、何か他に本当にやりたいことがあって、その資金稼ぎに仮想通貨投機をやろうという人もいるだろう。そういう人にはもっと言いたい。先に本当にやりたいことをやれ!と。それでも時間がすごく余るなら、投機もいいだろう。でも、それって本当にやりたいことをやってるのか? やりたいこと、人生でやるべきことを始めたら、他のことなんてやってる暇ないはずなんだが。創作でも身体的なことでも勉強でも。

 好きでもないギャンブルに時間を費やすより、やりたいこと、やるべきことをやる方がいいと思う。

 

【理由その2】いつやめるのか?

 投機=ギャンブルを始めるのは割と簡単だ。だがやめるのはとても難しい。

 実は、古今東西の博奕小説というのはたった一つのテーマで書かれている。それは「いつやめるのか?」だ。ドストエフスキー『賭博者』や阿佐田哲也『ドサ健ばくち地獄』が一応名作とされる、前者は世界的な評価、後者は僕をはじめ日本の好事家の評価だが、僕的には圧倒的に後者の方が名作で、前者は間延びしててつまらない、ドストエフスキーにしては短い作品だけど、それでもテーマが伝わりにくいので、読むなら阿佐田哲也がオススメだ。

 ドストエフスキーで唯一良いのは、歴史的背景、当時の貴族のギャンブル事情がわかることだ。博奕は貴族のたしなみでもあった。どういうことかというと、〝負ける〟ことを学ぶためなのだ。〝死〟をシミュレートするようなものだと思う。若い貴族は博奕場で負けること、いかに負けるか、どうやって負けを認めて去るか、を学び、本業(領主・軍人・政治家)へと戻っていく。

 阿佐田哲也の場合は貴族ではない、下賤な民衆の中のアウトローがやる博奕を描いている。ドサ健の部屋の押し入れには、輪ゴムで束ねた札束が山のように入っている。ドサ健は大金持ちなのだ。だが彼は金持ちらしい消費はしないしステイタスとも無縁だ。なぜなら彼の札束は、使うための金ではなく、博奕をする資金、チップにすぎないからだ。

 凡人が仮想通貨の投機をすると、貴族ではなくドサ健のような毎日になる。いつか足を洗って本業に復帰する、のではなく、どんなに儲かってもそれは次の勝負の種銭、チップにすぎなくなる。

「1億円勝ったらやめよう」と決めていて、本当にやめられるならいい。けど、大きな上昇トレンドの中で「もう1億円分上がった。換金するぞ」ってできると思う? できないよ。上がってる間は勝負を降りられないし、下がり始めたらなおさら降りられない。大負けしてやっと「もういい、降りよう」と決心できる(僕のように)。

 

 もし、この二つに当てはまらない、私は時間をきっちり守って、いくらいくら勝ったらやめますよ、と断言できる人なら、止めない。ご武運を、と思う。

 

【ではどんな人がやるべきなのか】

 それはもう簡単だ。自分の金を張る人は、やるべきではない。

 プロのギャンブラーは自分の金を張らない。張るのは他人の金だけだ。

 少し反社会的なことを書いてしまうけど、事実だから仕方がない。世界で名をなしている投資家・投機家は、自分の金では勝負してない。他人から預かった金を張っている。結果が出ない=負けても、自分は責めを負わなくていい。預けたやつが悪いだけだ。そう言える立場の人間だけが、プロの博奕打ちの資格がある。

 ドサ健の札束(専門用語で〝ズク〟という)も、実は全部借金で作ったものだ。当然、ドサ健は借金は返さない。踏み倒すはずだ。

 最近デヴィッド・グレーバー『負債論』をちらっと読んだのだが、長い長い〝世界の借金の歴史〟が書かれているのだが、どうも「借金なんて返さなくていいよ」と言いたそうなのが可笑しかった。でもそんなもんだ。博奕の借金は、返さなくていい。

 だから、会社の金であるとか、団体の金であるとか、親戚の金であるとか、赤の他人の金とかを張れる人は、やるといい。増えると喜ばれると思います。負けても「時の運です。次は勝ちます」と言えばいいし。

 自分の金だと、冷静な勝負はできない。だから、自分の金を張ってる世間の「億り人」たちは物凄く難しいチャレンジをしている、と僕は思う。それだけ難しいことができるなら、もっと自分の人生のための自分だけの勝負を張れる、その方がその人にとって有意義だと僕は思う。

 もちろん、その熱くなれる瞬間、張っている時間が好きでたまらない、というなら、止めない。ご武運を祈ります、ドサ健さん