新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

今更ですが佐村河内守一件が僕は好きだ

3年前に書いていたFacebookの投稿を転載する。

ここで引用したなかに池田信夫のブログエントリ「『作家』の消失」があるが、音楽家にかぎらず小説家も最近は消失しているらしい。

商業作家が一堂に会してその場で競作、というイベントがあったそうだ(食い詰め作家のノベルジャム参戦記)。北斎が大きな紙に達磨を描いたりするやつなら見応えがあろうが、これは見世物になるのかどうか。連歌師とかのノリなのかなあ。

いずれにせよ、作家が作家先生でいられた時代は済んだのか。佐村河内守は、今風に云うと「交響曲作曲家」をセルフブランディングしたのだろう。もちろんセルフブラ云々には演出も許されるよね。僕は好きだ。

 

以下、2014年2月8日のFacebook投稿から−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

週刊文春」二月十三日号の佐村河内記事は読み応えがあった。詐欺事件に関してはもうネットにも情報が溢れているけど、ネットに転載されていない地の文が面白いのだ。
----------(以下、引用)
 私(筆者:記事を書いた神山典士のこと)は、一三年一月に『みっくん、光のヴァイオリン』という児童書を上梓した。そのオビには、みっくんの師とされた佐村河内の写真を掲載し、言われるままにそのコメントも書き込んでいる。当時、私は佐村河内の嘘にまったく気がつかなかった。言わば、善意の被害者だが、読者からすれば「共犯者」である。(同誌p026)
----------(引用ここまで)

率直だと思う。また、この一文は、佐村河内を絶賛ないし評価した文化人、NHKスペシャルや「金スマ」への批判になっている。

----------(以下、引用)
 この頃佐村河内は、シンセサイザーを駆使して簡単な作曲をしていた。
 対する新垣はこの頃、母校である桐朋学園大作曲専攻の非常勤講師として、初めて専門の音楽で定職を得たところだった。普段は町のピアノ教室やヴァイオリン教室の発表会の伴奏をしたり、レッスンの伴奏をしたりして糊口を凌いでいる。少年時代には、ピアノでプロのヴァイオリニストと共演し早熟の天才と呼ばれたこともあったが、音大の作曲科に進んだ時点で、「卒業したら失業者」を覚悟しなければならない。一般人には理解しがたい不協和音を駆使する現代音楽の作曲家である以上、その作品が日の目を見ることは本人ですら想像できないのが、日本のクラシック界の現実だ。(p027)

 むしろ、大学卒業後一年間研究室に残ることができ、二十五歳で非常勤講師の職を得られたことは、編曲家になったり音楽事務所に勤めたりする同級生たちとは違う、音楽の王道に踏み出せたことになる。たとえ大学から得られる報酬は月に数万円であったとしても、その環境をよしとしなければならない立場だった。(p027)

現代音楽の世界では、自作の曲を人に聴いてもらおうと思ったら、自分でホールを借り、演奏家を頼み、交通費を払って練習場も確保して、やっと一日だけ、親戚や仲間が集まってくれる市民会館程度のところで演奏するだけです。しかもその楽曲がCDになるとか、メディアで批評してもらえるとか、そういうことはほとんど想像できません。(p028)
----------(引用ここまで)

クラシック音楽というと、僕らはバッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブルックナーやらショスタコービチを連想するけれど、どうも日本のクラシック業界というのはそういうのと関係ないようだ。
いや、コンサートではこれら古典作家の作品でないと客が入らないから、〝演奏家の業界〟では大事にされている、と言うべきか。〝作曲の業界〟が不可思議なのだ。そもそも「卒業したら失業者」ってなんなんだ。
ここら辺の事情をコンパクトに説明したのが、下記の池田信夫ブログなのだろう。

ikedanobuo.livedoor.biz


クラシックは「古典」の意の筈だが、その業界で行われているのが「前衛音楽」だったり「現代音楽」だったりする奇妙さを、今までそんなに気にしたことがなかったのだが、実は物凄い矛盾が横たわっているような気がする。

現代美術も、便器を「作品」としたり「梱包芸術」とか田圃に傘を並べたりしてるのを冷静になって見れば、何だか失敗したギャグみたいにしか見えない。モンティパイソンのスケッチと現代美術の違いを正確に述べることは可能なのだろうか?
音楽にも美術にも、こうなってしまった事情とか蓄積の歴史はあるのだが、鬼面人を驚かす類いの現代芸術は、それそのものをじっくり見るとまったくナンダカナなものばかりだ。

ハーモニーを持った古典音楽風の曲は、映画音楽など伴奏音楽としてなら広い市場がある。フィリップ・グラスはタクシーの運転手もしていたが、たくさんの映画音楽を作っており、それらのCDはたぶん「イクナトン」「海辺のアインシュタイン」よりずっと売れている。武満も伊福部も映画の人、というのが普通の人の認識だろう。僕だって伊福部の作品はサントラしか知らない。

「調性音楽」には市場があるのに、クラシック業界の本業の人たちは「現代」だとか「前衛」しかやらないので、昔風の「交響楽」の新作市場はぽっかりと空洞になっていた。松本清張は『砂の器』には「交響曲“宿命”」を書いていない。そんなもの作る作曲家はいないし、そんなコンサートはあり得ないからだ。
そこに佐村河内が「交響曲第1番」を〝売り出す〟チャンスがあったというか。


ネットでやりとりされる不確かな情報に、「佐村河内は創価学会とつながりがある」というものがあった。彼がメジャーになる機会を得られたのは創価学会の人脈のおかげだろう、というのだ。池田大作の口利きを無視できる大手メディアはあまりないのは確かだ。

僕は、それがカルト宗教だろうと、口利きやごり押しは全部いけない、とは思わない。素晴らしいものであれば、誰が口利きをしたって価値はあるし、ゴリ押しで世に出ることもあって良いと思う。創価学会のお墨付き、けっこうじゃないですか。
しかしそれは、「この作品には価値がありますよ」という保証、裏書きになっていればこそ、の話だ。世の多くの「口利き」「ゴリ押し」「コネ」は、価値がないのに機会が与えられ、価値がないのに「大舞台に登場したのだから価値がある」という本末転倒が起きているから、問題なのだと僕は思う。

タッキー主演の大河ドラマが実現したのとか、〝創価学会の威力〟なのだろうが、それは結果的に〝創価学会のゴリ押し物件は屑〟という評判にしかならなかったわけで、自身の推薦力・品質保証力を大きく毀損してしまった。残念なことである。
山本リンダとか素晴らしい歌手なのだから、リンダに匹敵する才能だけを推薦してくれればよいのに。

佐村河内を賞賛したとして五木寛之許光俊のコメントが晒し者にされている。五木寛之は、古謝美佐子とかいろんなアーティストを自分の講演会で歌わせてメジャーにしてきた。鑑定眼、品質保証力があると思っていたのだが、残念なことである。

僕は〝キュレーション〟という言葉があまり好きでない。本当に鑑定力のある人はTwitterでキュレーションなんてやらないと思うし。佐村河内という〝地雷〟を仕掛けたのは一人か二人の黒幕かもしれないが、それを〝大きな爆弾〟にまで育てたのは、日本全国のアキメクラどもなのだ。自伝を読んで面白いと思った僕もその一人だ。佐村河内氏の人生、自伝ほど面白くないのが残念だ。

 

以上、転載終わり−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

などと3年前は暢気に書いていたわけだが、これだけ噓ニュースとパクリが増殖すると、目利きにもいちいち峻別はできない。最近は新刊書籍もWikipediaの間違いをそのまま載せたりして信用できないわけで、ネット以前、ざっと1999年以前の本ならまあまあまともかな、と思ったりします。