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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

為末大がアウシュビッツ訪ねて「自由って難しい」と言っていて、なかなか納得。

為末大のことは知らない。元アスリートで今は何? ブロガー兼実業家かしら。僕は運動には興味がない。
だが彼のブログは面白いようだ。BLOGOSに転載されて知ったのだが、アウシュビッツを訪れて感じたことを書いておられた。

  自由の難しさ(第九回メルマガより抜粋)  2016年12月12日

印象的な処を抜き出してみる。

見事に仕事が分断されていました。私は連れてこられた人を運ぶ役。私は点呼を取る役。私はドアを閉める役。一人一人の仕事が細かく決められていました。戦後様々なところで裁判が行われたそうですが、私は命令に従っただけだと答えた人がとても多かったそうです。指導的役割を担ったアイヒマンですらそうでした。ハンナ・アレントが言うように、ひたすらに凡庸に命令に従うことで罪の意識を持たなかったのかもしれません。(為末HPより)

古くから言われることだけど、現地で思い出すとかなりの迫力だろうな。

私自身は自由というのを非常に重んじていて、会社への出勤も出来る限り無くしていきたいと思っていますが、一方で実は人間自身が自由から遠ざかろうとしているのではないかと思う時があります。(為末HPより)

フロム「自由からの逃走」だよなあ、と。
おっと、僕はフロムとフランクルをちょっと混同していたぞ。「逃走」は1941の本で、フロムは強制収容所に入ってたわけではない。収容所に入ってたのはフランクルだ。

自分で選んでいるようでいて、実のところ自分の人生に自分の意志はあったのかと言われると、少しどきっとしてしまいます。(為末HPより)

為末の直観は鋭い。彼は競技で世界レベルの闘いをしてきたのだから、そこに自分の意志がなかったかもしれない、などということはけっしてないはずだ。それでもこの問いかけができるのは凄い。
   *  *  *
「自由からの逃走」については池田信夫が書いていたことが興味深い。近代的倫理の基本にあるブロテスタンティズムがそもそも全体主義、個の否定を内包していたという。

多くの人々がカルヴァンに従って戦い、結果的に近代社会を生み出した。それはカルヴァン教団の軍事的な規律が強かっただけでなく、人々に孤独からの救済を与えたからである。

この点でカルヴィニズムはナチズムと同根である、とフロムは言う。(池田信夫blog 2013/11/10)

為末は、「不自由からの解放が自由なのかもしれない」と書く。

アウシュビッツの鉄のゲートを出た時に、ものすごく全身が自由に解放された気分になりました。不自由からの解放が自由なのかもしれないなと思えてなんとも考えさせられました。(為末HPより)

しかし、これは片翼が欠落した議論で、wikipediaは「自由からの逃走」の項をこう結んでいる。

自由を2種類に分類している。〜からの自由と、〜への自由という2種類。 〜からの自由は第一次的絆、たとえば親子関係で言えば子供を親と結び付けている絆や、中世で言えば封建制社会など社会的な制度的な絆などで、そこからの自由などを意味する。〜への自由は個人が個人的な自我を喪失することなく個人的な自我を確立していて、思考や感情や感覚などの表現ができるような状態を意味する。(wikipedia「自由からの逃走」)

為末が結論しているのは「〜からの自由」だけだ。

   *  *  *
では、もう一つの「〜への自由」とは何か。
僕が最近考えるのは、「葉隠」の「死ぬこととみつけたり」というか、まったく選択肢がない状態ででも、断固として主体的にそれを行うこと、が最後に残された「自由」なのではないか、ということだ。
アウシュビッツのような環境で言うと、コルベ神父のような。
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ナチの絶滅収容所は人類学や行動学にさまざまなサンプルを残した。その一つ「カポ」は現代社会でも大変重要な現象だと思う。カポとは、囚人の中から選抜された看守である。囚人が囚人を管理し、囚人の間に意図的に格差が設けられ、囚人の間から連帯や同情を奪うシステムだ。元犯罪者や非ユダヤ人だけが選ばれたという説もあるが、どうだろうか。カポについてはネットで検索してもなかなか出てこないのだ。
僕はDeath In Juneという、オルタナ? ネオ・フォーク? 絶滅収容所を唄う? 音楽家が好きなのだが、そのアルバムに「KAPO!」というのがある。歌詞が分からないのだが、タイトルは紛れもない「カポ」である。

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実は、私たちが生きている現代社会こそが、強制収容所なのではないか、ということだ。
たとえば、ネット炎上という現象がある。これは、ネットを見ながら暮らしている私たちが、熱心に相互監視をしているから起きる現象ではないか? 私たちは、自由のためと称して、互いの自由を制限することに血道を上げているのだ。
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極限状況で、少しでも他人を抜き去ろう(他を抜く…たぬき!)、他より賢くあろう、生命に執着しよう、美味しいものを食べて温かい蒲団で眠ろう、とすると、私たちはカポになるしかない。権力に自分を売って、飢餓や不慮死から少しでも遠ざかろう(飢餓や死から自由になろう)とするのである。
だけど、それは本当に自由なのか? という設問が生まれるだろう。
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僕は、コルベ神父のような生き方しか、最後に残された自由、自分で自分を完全に統御する自由、峻厳な、他の何者からも侵されない自由を生きる方法はない、と思う。
それは、極限状況でなくても、ハンナ・アレントのように生きることでも実現できる。
もちろん、このネットの片隅でも、そういう生き方は可能なのではないだろうか。
などと考えてしまいました。ヒントを呉れた為末大に感謝したい。