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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

「反戦イデオロギーがないから良い映画」ということについて

この世界の片隅に」についてもっと読みたくて、2ちゃんねるを漁っていたらこういうポストがあった。誰かのFacebookを引用したものらしい。

(FBより転載)
今回、『この世界の片隅に』をめぐっていちばん愕然とさせられたのは、この映画に「反戦じゃない」という評価が与えられたことではない。
反戦イデオロギーがないから良い作品」という意見がまるで当たり前のように語られていることだ。

 戦争に反対することがなぜ「イデオロギー」になってしまうのか、戦争に反対していないことがなぜプライオリティをもってしまうのか。
まったく理解に苦しむが、しかし、戦争のほんとうの残酷さや自分たちの加害性から目をそらしたがっている人たちにとって、この倒錯状況こそが常識になっているらしい。

 そして、『この世界の片隅に』はそういう人たちにとって、格好の逃げ場所になってしまったということだろう。
彼らは、戦時下の人たちの日常の暮らしを丹念に描いたこの映画の、その暮らしの描写だけをクローズアップし、「戦時下でもふつうに暮らす人たち」という物語に読み替えて、消費しようとしている。

 だが、それでも、『この世界の片隅に』のような映画が登場したことは、大きな意味があると思う。
この映画はたしかに、戦時下の日常の暮らしを描くことで、戦争の本質から目をそらしたがっている人たちを惹きつけているが、しかし、同時に戦争が日常をどのように変えてしまうのか、そのことに気付かせる力をもっているからだ。

反戦じゃないからいい」とうそぶいている人たちにも、この映画は、確実に戦争への恐怖を刻み込んでいるだろう。

いやあ、僕も「生半可な反戦イデオロギーを排した、良い作品」と思っていたので、このポストには、何か言いたい、当たってないとも言えないが、当たっているとは言えないぞ、ちょっと違うゾ、と云いたいのだった。
   *  *  *
生半可な「反戦イデオロギー」を入れ込んだ作品の代表は、妹尾河童の『少年H』だと思うんだよね。
後からわかったことや、当時は絶対になかったことを、戦中の少年に語らせた、という有名なアレ。
そして「大人も新聞も嘘つきや」と啖呵を切ったのだから、「お前も嘘つきやん」と言い返されてももしょうがない。
嘘は、たとえほんの少しだったとしても、それまで積み上げた信用を全部毀損してしまうよね、と。
   *  *  *
「片隅」のファンにも、「朝鮮人の強制連行はなかった」「大東亜戦争は欧米の侵略からアジアを解放した」と信じたい人もいる。だけど、「従来の戦争コンテンツに含まれていた、後付けの反戦平和イデオロギーが嫌い」と云ってるのはそういう人だけではない。
本当だったら、反戦平和イデオロギーの側の人が、都合よく事実と後付け思想をパッチワークした作品に対して、「それは思想や作品の信頼を失わせるから、よせ」と言うべきなんだがね。
自分らの思想や主張を安売りせず、大事に扱おうよ、と思うのだ。

  Amazonはユーザーレビューが面白い。
こっちはそれほどレビュー面白いわけじゃない。本編をぜひ。

こっから「この世界の片隅に」(以下「片隅」)の【ネタバレ】があります。ご注意を。
「片隅」でそういう論争が起こるのは、後半どんづまり、玉音放送の直後に、呉の街に太極旗が立っているシーンだ。
勘違いする人は、「あの国旗は戦後に作られたものだから、あのシーンは嘘」と云う。
それは単純な間違いで、大韓帝国の国旗なので戦前からちゃんとあった、日本への抵抗運動の象徴でもあった、ということ。
「呉に朝鮮人が居たかわからない、強制連行だったかどうかもわからない、なのに旗のシーンを入れるのはどうか」という意見。
さらに「原作ではここに『暴力で従えとったいう事か』『じゃけえ暴力に屈するいう事かね』という独白が入る、朝鮮を暴力で侵略していた、という見解は当時の人の見方というより、後付けの思想じゃないのか」という批判がある。
前者にかんしては、この映画の監督さんはものすごいリサーチを重ねているので、この一瞬だけ映る太極旗のシーンも、この日この時間に呉で太極旗が掲げられたのを覚えている人がいて、その証言がある、だから描いたのだ、と信頼できる。掲げた人がどんな人かは描かれていないので、強制連行かどうかはわからないが、この作品については「嘘つかない」という信用がある。僕はそれを信じたい。
後者にかんしては、うーん、薄々わかってたんじゃないかなあ、と思う。同邦で同じ日本人で融和しないと、と思っていた人でも、「やっぱり元々違うから融和せんといけんのんじゃない?」という気持ちは気付くでしょ。それに、やっぱり異民族で、経済的に恵まれた人は少なくて、社会の下積みの少数派なんだから、そこに差別がなかったわけがない。当時の公式見解だけに依拠して「差別はなかったはずだ」と云うのも、嘘がある、後知恵なのではないか、と思う。
   *  *  *
はだしのゲン」は小学校段階でトラウマになった忘れられない作品で、好きじゃないけど偉大な作品だと思ってる。
だけど、ほんの幾つか、後付けの思想を当時の人物が口にするシーンがある。少ないけどある。それがどれだけ「ゲン」の価値を損なっているか、ということだ。
尤も、「ゲン」の本質は反戦平和の広宣流布ではなく怨念の表明なので、本質的価値はあんまり毀損されてないとも思うが。
   *  *  *
テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」は、ジェイムズ・ジョーンズの原作の冒頭に、ウィット二等兵の脱走シーンとか入れたりして、改変してる。ここに何か、当時の感覚とは違う今風の反戦厭戦思想が覗いているようで、大好きな映画だけど僕は一部好きになれない。長い原作を3時間に押し込めるためにかなり無理した結果だと思うが、日本兵光石研の呪詛「お前も死ぬんだ」なども、うーん、どうかなあと思った。
ペキンパー「戦争のはらわた」は最後のシーン、シュタイナー軍曹の戦場での哄笑、虚無の笑いに、それまで積み上げてきたドラマのリアリティを吹き飛ばす不愉快な何かを感じた。明白な反戦メッセージではないけれど、当時の戦場でこれあり得るか、と思うとどうも腑に落ちない(萬屋錦之介の「夢じゃ夢じゃ』みたいな)。
でもまあ、両作ともものすごい価値のある、歴史に残る映画なんだけどね。
   *  *  *
反戦メッセージは、悪いとは云わないけど、それを昔の人に言わせるのは、ルール違反だし、昔の人に失礼じゃろ、と思うのだった。
そういう意味で「片隅」は、昔の人に極力失礼せぬよう、一所懸命尊重して、消えゆくものを化粧せずに素のままとどめておこう、と努力して作られた作品ではないかと思います。
人は、真実によってのみ、癒やされる、ということではないかと。

 こんな神の手が作ったような作品に文句付けるなよ俺