新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

日本の電子書籍には未解決の問題がこんなにある。なんで誰も指摘しない? 言いたくないんだろうな

 先日のエントリKindleが上陸したけれど、本当に私たちを幸福にしてくれる電子書籍に気づいている人はやっぱり少ない」にずいぶんたくさんのブックマークが集まって、驚いた。みんな、電子書籍のことをこんなに気にしていたのか!? びっくりだ。
 それと、はてなブックマークにつけられたコメントを読んでて、会社を辞める前にブログ書いてた頃を思い出しましたよ。あの頃はコメント欄が炎上したものだけど、最近はコメント欄に人が集まるんじゃなくて、ブックマークに集まるんだろうか、とか。
 いろんなことを気づかせてもらったので、それをメモしておこうと思います。

◆批評家ではなく、消費者の一人として物を言う
 僕自身もそうなんだけど、ネットで何か書くとき、自分の立場を「消費者」「読者」ではなく、ついつい「分析者」「批評者」にしてしまいがちだ。これは良くないと思った。
 集まったブックマークの中には、たとえば「売れない本は電子で出してもダメでしょ」「出版社にメリットがない」といったコメントがある。こういうコメント主はたぶん出版関係者ではないと思われるが、なぜかこのようなスタンス。
 こういう人は、「世間の人は興味がないだろうけど、僕だけはこの本読みたいんだ」という本がないのかな? そんなことないだろう、誰もわかってくれないけど自分だけは大好きな本、もう売ってないけどもう一度読みたい本、図書館にもない本……が、誰の人生にも一冊や二冊はあるはずだ。僕は「そういう本を読めるようになるのが電子書籍の理想だ」と思う。

 これは、読者としての自分の希望だ。僕は市場の先行きを予測する立場などではないし、分析するのが仕事でもない。本好きの一人にすぎないし、たまたま前に出版社で働いていただけだ。
 ネットで書くとき、つい高飛車な物言いになってしまうのは、現実の自分の無力さを補償する心理が働くとか、いろんな動機があると思う。人間には、自分を認められたいという基礎的な欲求があるし、誰もが、自分は正しい、と思いたいはずだ。だからついつい発言が高飛車になり、自分の現実の立場を超えて、自分を一段高いところに置いた(聴衆・読者を見下ろした)物言いになりがちだ…。

 最近読んだ一冊に、文春新書『日本破滅論』(藤井聡中野剛志)がある。この本の中に「分析するだけのアナリストと、実際に金を動かすファンドマネージャーとでは、認識力や予測のシビアさが全然違う」という話が出てくる。ざっくり言うと、アナリストは自分の財布で勝負してない分、発言がテキトーになる、むしろ、奇矯でハデな物言いをしたほうがアナリストとしては目立ってよいので、その分析はますます現実離れする、と。
 これは金融とか経済に限らず、言論一般にも言えると思う。どんだけ奇矯なことを言い、人々の耳目を集められたか、注目を浴び続けられるかが価値にな(橋下氏や慎太郎閣下のやり方もそうかもね)。
 アナリストじゃない言い方があるとすると、一人の消費者として、あるいは末端の現場の人間として、分を守った発言、かなあ。それって地味だけど、もしかして現実的で地力があるかもなあ、と思う。僕は今後、何かを言うとき、アナリストではなく、一人の消費者、一人のユーザ、そして時には現場にコミットする末端の人間として振る舞いたい。たくさんのブックマークにつけられたコメントを読んで、なんとなくそう決めたのだった。ネットでは誰でも偉くなれる、という誘惑を封印するのは、けっこう骨が折れるけど。


◆実際に触ると感じる、電子書籍のイライラ
 実は僕は、在宅で電子書籍を作る仕事の手伝いをしている。だからたぶん、普通の人よりは電子書籍に触れる機会が多いと思う。PCだったり汎用端末だったり実機だったりで環境はまちまちだが、たとえば先週あなたが電子書籍に費やした時間よりずーっと長い時間、僕は電子書籍に触れてましたよ。

 だからこそ思うのだ。電子書籍は不便なことだらけだ、と。
 かさばらない、というのは電子書籍の最大のメリットだが、大きなトレードオフがある。一覧性はものすごく低くなるし(背表紙がずらっと見えているだけでも大分違う)、検索性の低下(語句による検索しかできないなんて)、専用端末では同時に2冊を起動することができない、ハードコピーが取れない……などなど。

 要するに、楽しみのために(暇つぶしに)読む本は電子書籍でもいいけど、仕事や研究で参照する本が電子書籍だと困りもの、なのだ。
 たとえば、ほとんど多くの書籍愛好家とは関係なく、医学書という一ジャンルが存在している。お医者さんは、現役でいる間、最新の情報をキャッチアップするために、分厚く高価な医学書を買い続けなければならない。値段はバカにならないし、書斎はどんどん狭くなる。これが電子化すればどんなに良いか、と素人は思ってしまうが、同時に2冊以上を開いて比べ読みできないってだけで、たぶんお医者さんは電子医学書なんて見向きもしないだろう。

 一読者としての感覚では、書店の店頭で「当店のベスト10」とか言われて平積みになってる本が、リアル店頭と同様に電子書籍ストアに並んでいれば、これでOK、と思ってしまう。けど、書店というシステムはそんな単純じゃなくて、いろんな小さなジャンル/マーケットが集合した複雑な宇宙だ。そのごく一部、暇つぶし系商品だけが電子書籍化されることが、そんなにインパクトなのかなあ?というのが、僕の感想だ。

◆“誰も指摘しない”電子書籍最大の問題を最末端から指摘してみる
 電子書籍を作っている、といっても僕は請負の非正規労働者だから、権限は何もない。だから「お前みたいなアナクロが日本の電子書籍を遅らせたんだ!」なんて言われても困ります。むしろ僕は、仕事はテキパキ正確に、をモットーとして、締切墨守で日本の電子書籍化を推進しております(笑)。どういう本かどういうプラットホーム向けかは言えませんが。

 自分でやっててナニだが、奇妙な仕事だよなあ、と思う。
 すでに一度本になったものを、テキストデータにバラして、再び“本のように見えるように”組み直しているのである。
 今のところ、まだ国産フォーマットであるXMDFが主流だが、おそらく来年には国際共通規格EPUB3に統一されるだろう。EPUB3は国際規格なのに縦書き表示やルビ表示が可能で、これまでの国際規格より日本語の再現性が高い、とのことだ(おそらく世界中の2バイト系言語にやっと対応した形式なんだろう)。

 ブロゴスでこういうエントリを見た(電子書籍なのに縦書きで本を売る日本の出版社の前近代性)。思わず、笑ってしまった。横書きでいいのなら、誰も苦労しないって。ていうか、僕らの仕事がなくなってしまうな。それは困る。

 はからずもバレてしまったが、「電子書籍化の作業」というのは本来不要な、無駄なものなのである。公共事業なら蓮舫に仕分けられてしまいそうだ。
 このエントリでは「編集なきまま紙の本をスキャンするような、バカげた電子書籍」と書かれているが、実は、表現力・再現性がいちばん高いのはこの方法だと、業界人はみんなわかっている。貧弱な電子書籍ビューワで、縦書きの美しい本を再現しようとするのは、ある意味蟷螂の斧。2段組みもできないし、書体だって明朝体とゴシックの2つくらいしかない。ルビ一つとっても、美しく表示できない(楽天koboはルビの表示が良いんですよ。これは褒めるべき)。

 日本の電子書籍は、事実上、シャープのZaurusが牽引車となって始まった。そうじゃないという人もいらっしゃるでしょうが、今日はこの史観を採用させて下さいごめんなさい。XMDFZaurusのための規格である。ガラケーで読む電子書籍もこの規格があったればこそだった。
 当時はプロセッサも表示デバイスもストレージも貧弱だった。XMDFは低速・低解像度・低容量のデバイスに最適化された規格なのである。それが今でもXMDFは第一線で使われてるんだから、信頼性が高いすぐれた規格なんだと言ってよいと思う。
 だが、当今は高速・ハイレゾ・大容量のデバイスが登場し、通信速度も大変なことになった。電話回線がイーサネットを上回るなんて想像もしなかったよ。
 こんな時代に、コンパクトが身上のXMDFを作り続けることは、どうなのだろうか。現に、最近では「他のフォーマットにコンバートする」ためにまずXMDFを作る、というのが現場の流れだ(汎用性も高いということで、XMDFはここでも優れてるわけです)。

 電子書籍のメリットとして、「フォントの大きさを変えられる」「その都度、ページレイアウトがフレキシブルに変わる」というのがある。レイアウトが変わることを「リフロー」と称する。
 いま電子書籍を作るということは、つまり「フォーマット間を移動する(可搬性を高める)」ためと、「文字をリフローさせる」ために、本のデータを再構成している、ということにほかならない。まあ他にも写真の修正とか細々したことはあるけど、主な仕事の目的は、この二つ。そしてやってることは、データのXMDF化。
 日本語の場合、ここにどうしてもマンパワーが必要なので、時間とお金がかかり、全体の電子書籍化が遅遅として進まない、というふうに見えてしまうんだな。

 英語圏のAmazonはその点楽だった。たぶん、Amazon電子書籍は、マンパワーなんてほとんど使ってなくて、紙の本をスキャンして光学的文字読み取り(OCR)でテキストに変換しただけだと思うよ。もしかして校正もしてないんじゃないかと僕は思う。英語OCRはかなり精度が高いみたいだから。
 電子書籍化は、ともかく校正がネックなのだ(この辺を鋭く指摘した記事を以前読んだ。コメントでURLを教えてもらいました)

 もし読者が「リフローなんて不要」と言うなら、たぶん日本の本の電子書籍化はもっと猛スピードで進むと思う。PDFなどの優秀な固定フォーマットがあるし、なんなら全ページ画像でもよい。その場合検索とかできなくなるけど別にかまわないよね? 暇つぶしの本なんだから。現にいま流通してる電子書籍コミックはほとんどが“画像”だよね。(ブロゴスの件の記事の人は、コミック電子書籍のことを言ったんだよね? 少なくともリフローする電子書籍には当てはまらないもの)

 そして、PDFや画像の方が再現性も高い。当たり前だよね。これ、業界の人はみんなわかってるけど、言わない真実。固定フォーマットで良いんなら、電子書籍業界の仕事がなくなるからね。
 だけど、デバイスがこんだけ高性能になってきたら、逆にリフローなんて要らないと思うんだ。10インチ級の高解像度タブレットなら、ほとんどの判型の画像を適宜拡大しつつ快適に読めるはずだから。

◆他にもこんなにある、電子書籍の問題点
 僕は最初、電子書籍と音楽MP3を同じようなアナロジーで考えていた。だから「自分の手元にデータがないのは問題だ」と頑固に思い込んでいたのだ。
 だが、どうやら事態は僕なんかの常識を置き去りにして猛スピードで進行してるみたいだ。

 Appleの音楽サービス、iTunesMusicStoreでは、音楽を購入するとAACデータ(MP3に相当する音のサンプリングデータ)を手元のPC(またはMac)にダウンロードする。それをiTunesを使ってiPodなり、手近なスピーカなりに送り込んで鑑賞する。
 iBooksはどうなるんだろうな? 同じように手元にデータが来るのか。それとも本のデータは軽いのでクラウドで全部管理するのか。

 AmazonKindleでは、手元にデータは保管されない。いま現在読む分だけをKindleなりスマートフォンKindleアプリに溜められるだけだ。ユーザはAmazonのサーバに溜まった「自分のライブラリ」を、読みたいときに手元の端末に呼び出すだけだ。
 僕らは、Kindleで買った本を“所有”することができない(Kindleで購入した電子書籍は、実はユーザーのものではない)。Amazonの規約に違反すると、一方的にライブラリを消去されても、文句を言えない。華氏442かよ。

 iTMSの音楽データは、最近はもうDRMなしが主流みたいだ。ユーザは自由にコピー・複製できる。以前は「同じ曲順でCDに書き出すのは7回が限度」とかだった。今はもう、オリジナルのアルバムと同じCDを何枚でも作れる。面倒なので誰も作らないけどね。そしてiTMSも、レコード屋というより個人向けに先鋭化させたラジオシステムに変化しようとしているらしい。これだとユーザの手元にデータが云々なんて関係ない。
 電子書籍はその登場した最初から、たとえ1頁たりといえども、ハードコピーを作れなかった。そういう意味で音楽データ配信ビジネスとはちょっと違う。
 もしかするとE-inkの画面はコピー機にかけることができるかもしれないが(笑)。誰かやってみてよ。

 これはもう、「買う」というより「無期限レンタル」だよね。そう考えると腑に落ちることが多い。

 電子書籍では、元になる紙の本を「底本」と呼ぶ。これは「複写元の本」という意味の旧い言い方だ。
 これはつまり、電子書籍業界には「電子書籍は複写にすぎないのだ」という無言のコンセンサスがあるのだ。複写、劣化コピーに過ぎないんだから、新しいコンテンツを盛り込むとかあり得ないし、底本より劣化しててもしかたがない、というスタンスだ。
 底本にあった写真が欠落する、というのはよくある話だ。新聞社やデータベースから借りた報道写真は異なる媒体への流用ができないので、有名な報道写真が電子書籍版に載ってないことは実によくある。

 また、凝った造本は再現できない。たとえば、表紙の見返し(雑誌でいう表2・表3)・裏表紙(表4)に面白い情報が載っていても、電子書籍には収録されないことが多い。表紙回りで電子書籍に収録されるのは表1(表紙のこと)だけ、という方針がほとんどだからだ。
 小説では著者略歴がカバー見返しに載っていることが多いが、これはほとんどの電子書籍で欠落している。

 3種類以上のフォントで組まれた本は、明朝体とゴシックの2種類に無理矢理変更される。あとはビューワによって異なるが、ボールド処理などで強弱をつけられるかどうか。このへんの表現力が電子書籍には手薄だ。

 これらの劣った部分も、「劣化コピーなんだからしょうがない」というスタンスが続く限り、見直されることはないだろう。全面的にEPUB3に移行すれば、表現力は向上するし、複雑なレイアウトも可能になるかもしれないが、それはまた電子化のマンパワーを必要とするので、可能だけど実行するかはまた別、と微妙なところだ。

 動画や音声を組み込んで、静的な紙の本とは違う魅力を出す、という考えもあるだろう。
 僕はこれ、全然否定的なんだけど(読むという行為と視聴する行為は、時間の使い方がまったく違うので、同一コンテンツに盛り合わせにくい)、わざわざ僕が否定しなくても、こういうハイブリッドなコンテンツはめったに現れないはずだ。

 なぜかというと、メジャー出版社で電子書籍を担当している人が、そのような権限を持っていないから、と僕は睨んでいる。

 出版社の人で、ものを作る才能がある人は、真っ先に編集現場に配属される。ゼロから当たらしいコンテンツを作る現場だ。
 電子書籍は残念ながらゼロからではなく「コンテンツの二次使用」という位置づけになっている。だから、物作りの才能においてはちょっと劣った人(たいへん失礼な表現をお許しください!)がこのセクションに就くことが多い。
 電子書籍担当者が要求されるのも、「スムースな事務処理」「利益の最大化」「固定費の圧縮」といった仕事であり、「新しいコンテンツの魅力開発」ではない。
 また、電子書籍の著者とも面識がなく、著者とコンタクトする権限もない。紙の本の担当者を通してしか、著者とコンタクトできないと思われる。

 だもんで、電子書籍化の過程で、変更すべき点などが見つかっても、電子書籍担当者は自分ひとりではどうしようもないのだ。
 小さな事だが、「産駒」に「さんこま」とルビが振ってあったとしよう。この語は競馬サークルや馬の生産者だけの専門用語なので辞書にない。通常「さんく」と読まれるが、「さんこま」と読むのは誤りだ、とする根拠もない。だが、たぶん日本の関係者で「さんこま」と読む人はあんまりいないだろう。
 電子書籍を作る過程で「これ、変ですよ」と気づいても、電子書籍の担当→紙の本の担当→著者という経路のめんどくささを思うと、「ルビの一つくらい、少々いいんじゃない? とりあえず、底本通りで」とスルーされる、いやされかねない土壌がある。

「ご指摘ありがたいけど、諸般の事情により底本通りで」ということはほんとによくある。それほど、電子書籍制作過程において、底本からの乖離は嫌われる。そういう心理的傾向が業界にはあるのだ。
 電子書籍が、紙の本にはない可能性を探ろうとしても、メジャーな出版社であればあるほど、冒険的な試みはなされないことになる。

 一昨年だっけ? 村上龍京極夏彦電子書籍に意欲的な取り組みを見せて話題になったけど、後に続く人・会社はいなかったよね。動画や音を入れたハイブリッドでデラックスでリッチなコンテンツは、しょせん客寄せパンダ、何頭も要らないのだ。そんなものより、もっと地味に使い勝手の良い電子書籍を見極めて、僕たち消費者は、そのフォーマットを支持していくことが、電子書籍の未来を拓いていくのだと思う。

TSUTAYAっぽいやり方が出てくると、イイんじゃないか
 AmazonKindleは英語圏では不動の地位を確立したが、非英語圏では実はそんなに一般的ではない、と聞く。スペイン語圏とアラビア語はものすごい人口があるけど、そこをまだ押さえていないらしい。
 だから、大成功してるAmazonも、けっして世界のデファクトスタンダードにはなり得ていない、ということかも。

 ただし、Amazonはこれまでの海外でのKindleサービスで、大きな信用を築いた。簡単にAmazonのサーバは落ちないし、サービス停止して撤退なんてしない、Amazonならちゃんと面倒みてくれるだろう、と思わせる信用がある。
 電子書籍はまだ完全なものじゃないんだし、品揃えだって決定的な差があるわけじゃない。だけど、Amazonの信用は、他の電子書籍サービスを凌駕してると思う。

 楽天koboは、ほんとに読書革命を起こしたいのなら、タイトル数も大事だろうけど、一冊とか二冊でも安心して買えるような信用を築くことから始めてほしいと思う。
 ソニーリーダー紀伊國屋BookWeb(キノッピー)Amazonに負けないでほしい。というより、むしろAmazonと提携してほしい。互いのフォーマットが読めるようにならんかなと思う。

 現状、koboKindleも、それと未上陸だがAppleiBooksも、制作する規格はEPUB3だけど、微妙に方言があるみたいで、完全な互換性がないらしい。これは、作る側にとってはその都度仕事が生まれるわけでありがたいのだが、全体では手間が増えて利益を損なってるわけです。

 それと、電子書籍が市民権を得るには、「所有」ではなく「レンタル」に近いものだ、という認識が一般化しないといけないような気が、すごいする。たとえば、ブックマークで指摘してた人がいたけど、「定額料金・読み放題」みたいな。
 DVDではTSUTAYAディスカスが定額・借り放題をやってる。これ、僕もちょっと利用してみた(入会1カ月は無料なのだ。僕は2カ月使った)。
 これは「郵便で見たいDVDが届く」というものなので、物理的なDVDの盤が郵便で行ったり来たりする時間が無駄になる、ちょっと残念なビジネスモデルだ。だけど、かなりマイナーなものも在庫にあるので、マイナーな映画好きは使う価値が十分にあると思う。DVD盤を遣り取りするんじゃなくて、ダウンロードになればブレイクするかも、と思う。

 まあ、「定額料金・読み放題」になると、最大の問題がクロースアップされるだろうな。
「そこまでして読みたい本が、ないんだよ」という、誰も言わないけど最大の問題(笑)。

 僕が一貫して思ってるのは、本の世界が豊かになるなら、紙だろうが電子だろうが別に関係ない、ということだ。僕の場合、何か高い志があって電子書籍に関わってるわけじゃないんで。もちろん、仕事は面白いので満足してます。
 ただ、電子書籍を作ってて、「この会社はすごく面白い本があるのに、古いってだけで電子書籍にせずにおくのは勿体ないよな」と思うことがしばしばある。そういうフラストレーションが、こういう駄文を書かせるんでしょうかね。