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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

佐々木俊尚氏の予言的中?2012年、少なくとも新聞は自壊を始めたみたいだ

週刊朝日」および朝日新聞社の「ハシシタ」の件、讀賣新聞(と共同・産経も?)のiPS実用化の誤報等のこと、つらつら思うに、“新聞”“マスコミュニケーション”というシステムが壊れ始めてるんじゃないかと。それも、自重を支えきれなくなってベキベキと内側に崩落しているような印象。
 これにもう一つ、日経新聞に“釣り”記事が多くなってる件も加えたい(ちょと古いけどこの記事――日経新聞を変えた「フィードバック」という化け物 - 岩崎夏海――とか見て。って、もう見れないけど)。

 佐々木俊尚氏の『2011年新聞・テレビ消滅』は、ざっくり言うと、「新聞やテレビのビジネスモデルが、インターネットのせいで通用しなくなる」という内容だった。一口に新聞テレビというが、華やかな表舞台の話ではなく、お金を調達する裏方さんたち(あえて言うなら下部構造?というか体力?)の仕事がうまくいかなくなる、という論。
 そして実際のところ、2011年に新聞テレビが消滅したかというとそんなことまったくないし、ビジネスモデルは(青息吐息かもしれないが)まだ通用している。

 だが、崩壊は違う方向からやってきた。それも、裏方さんたちがまだまだ頑張ってシステムを支えているのに、表舞台の“報道”の人たちが勝手にコケ始めたのだ。下部構造というか土台というか、お金儲けシステムのほうじゃなくて、光が当たる、華やかな、競って多くの人材が集まる、上部構造(?)というか、知力(?)の仕事で、失敗が噴出してきた。

 朝日新聞社の「ハシシタ」の件、何もかも残念なことだ。佐野眞一の新作ルポルタージュが読めるかと楽しみにしていたが、それも頓挫してしまったし、そもそも腹を括って“千万人と雖も我往かん”の覚悟で始めた企画じゃなかったんだなー、とバレてしまったのが残念だった。
 讀賣新聞の誤報の件だけど、“特オチ”(特ダネ落ち?)とか、“他社を抜いた・他社に抜かれた”といった、我々読者とはあまり関係のない新聞業界特有の内向き競争文化・風土が遠因にあるんじゃないか。はっきり言って、新聞にはもう速報性なんかないしそんなの誰も期待していないから、せめて、しっかりした内容で、我々が世界を理解するのに役立つ報道をしてくれたらよいのに。でも新聞の人はそんなことあまり考えてないっぽい。

 日経新聞の記事に「釣り」や「飛ばし」が増えている、ごめん、「明らかな飛ばし」となると算えてないけど、電子版の冒頭数行やメールニュースのヘッドラインが魅力的なのに、電子版本体の記事が羊頭狗肉の尻すぼみになっててガッカリ、というのは最近実に多い。先に挙げた岩崎夏海のエントリは「電子版によって、どの記事が読まれている、読まれていないということが可視化されてしまったので、記事を書く記者たちは、なんとか自分の記事がクリックされるように苦心している、その結果、羊頭狗肉の見出しと記事が増えてしまう」と指摘していた。これなんか、朝日や讀賣の派手な失敗ほどじゃないが、地味な分、実に難儀な問題を孕んでいると言えないか。

 新聞の速報性は、ラジオに抜かれ、テレビに抜かれ、そしてネットのスピードによってほとんど無意味化された。
 新聞同士の“抜いた・抜かれた”競争は「誰トク」の無意味なものになった、ということだが、もっと言えば、これ以上速報性を追求しても読者には得がないとこまで来たのだ。なのに、「何時までなら1面に載せられる」なんてことに拘っている。
 新聞に正確さとわかりやすさも期待できないこともバレてしまった。記事を書く記者は、自分が書いているコトの中身をあまり知らないことが多いようだ。
「公正」「公益」といった価値も期待できないことが最近バレた。新聞社は、「新聞には消費税増税を適用するな」と主張している。国政の記事を書かせても、政局(党首選挙とか政党の合従連衡とか)の話は書けるけど、何が本質的な問題なのかはちゃんと指摘できない。それどころか、特定政党・勢力にコミットして、不偏不党のふりをして偏った論陣を張る(讀賣新聞はずーっとこういうことをやってきたことが、普通に暴露されたね。朝日も同様だけど)。悪質だ。
 フジテレビの凋落が著しい、らしい。むしろ旅番組や街角番組ばかりのテレ東のほうが価値がある、とまで。テレビも栄枯盛衰ですね。
 この夏、ニュースでさんざん言ってきた「中国の反日デモ・暴動」だけど、日本のメディアは「日中開戦間近!」と思えるほどの煽りようだったけれども、ネットで現地に住んでいる日本人が「そんなわけ、あらへん」と書いて、平和で長閑な日常ももちろん中国にはある、と教えてくれる。
 メディアには、煽動システムや、欲望加速システム、認識力拡張システム、記憶拡張システム、見たことないものを見せてくれるシステム、などの機能がある。
 不景気のせいで欲望刺激力はずいぶん衰えている。なにせ、テレビ広告が貧しい商品ばかりになってしまったほどだし。
 認識力はもうボロボロ。記憶はコンピュータであるインターネットにはかなわない。
 あとは「見たことないものを見せてくれる力」だが、「世界の果てまでイッテQ!」は頑張ってるけど、他の多くの番組は遠くにロケに行けないので、しばしば近所の映像がテレビに登場するようになった。モヤモヤなんとかとかブラなんとかとか、街角を見せる番組ばかりで、アラスカの大自然とかクジラとダイオウイカの格闘、なんて映像はBBCから買ってきたものしかない。

 じゃあ、新聞・テレビの価値とは何なのか。何が残っているのか。
 地方紙のほうが、まだそれはリアルだ。地方の政界・財界と地方の民衆を繋ぐ媒体として、苦しいながらも機能し続けようとしている。
 全国紙の存在価値というのがほんとよくわからない。
 もしかすると、テレビの全国ネットワークを所有している、ということが最大の強みなのではないか。
 とすると、「ニッポン放送がフジテレビを所有していた」というねじれ現象を笑えないんじゃーないか。


 僕は佐々木俊尚さんに“発見”してもらったので恩義を感じているけど、ここ数年の彼の主張にはなかなか素直に頷けなかった。「キュレーション」とかよくわかんないし、というか目利きなんてそうそう居ない。「当事者」とか言うけど、そもそもほとんどの人間は傍観者として生きさせられるのが高度管理社会だし。
 と思っていたが、今回の件で、「やっぱ佐々木さんの予測は当たったかもなあ」と思い直したのだった。
 それも、金回りが悪くなって倒れたんだったらまだマシだった。メディアの“伝える”という働きそのものが衰えてしまい、必要とされなくなっているかもしれない、という局面が訪れた。
 今は2012年。新聞・テレビはまだ消滅していないけど、いま在るソレらは、形ばかりの骸なのではないか。