新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか』(越智道雄) 読後メモ

 
 9月はこの本を読んでいた。『「終末思想」はなぜ生まれてくるのか―ハルマゲドンを待ち望む人々
 とくに難解な本ではないのだが、内容がおそろしく濃いので食中りしないようゆっくりゆっくり読むことになり、結果的に四週間ほどかかってしまった。それでもきちんと理解し得たとはいえない。
 ちなみに、1995年3月のオウム・サリンテロを承けて書かれ、その年の11月に刊行された本である。版元は大和書房(音羽通りの関口交差点にある)。

目次

◎序に代えて――オウム真理教団と死海教団
阪神大震災オウム真理教事件で見えてきたもの
遠ざけられていた「あっち」が「こっち」に突っこんでくる
「上祐書」や「井上記」は書かれるのか
「これは二千年前に書かれたイザヤ書じゃないか!」
イエスと同時代の終末待望型カルト、エッセネ派の拠点か?
オウム真理教団と初期キリスト教団がもたらした「分離」の衝撃
ともに終末預言に裏切られた「死海教団」とキリスト教

◎一章 終末思想の誘惑
終末思想とは何か
一八四〇年代に使われ始めた「エスカトロジー」という言葉
神の歴史こそが現実を透明にする
バイバルの手段としての「ハルマゲドン」
終末思想は必ず選民思想を招きよせる
現実の歴史は有理数、天啓史観は無理数
核兵器の天啓史観――終末と核兵器の全能と不能
「全能としての原爆」を実現したエノラ・ゲイ
和製エスカトロジーとしての原水禁運動

◎二章 旧約聖書時代初期の終末思想
「主の日」とメシアの概念が登場した「第一神殿」時代
絶望が深いほど「主の日」は近づく
バビロンで見た人間の女をレイプする獅子の石像
天啓史観のためなら敵さえメシアに仕立ててしまう倒錯
終末のヒト死者の復活というシナリオ

◎三章 旧約・新約間時代の終末思想
混乱の中から現れる無数のメシア
武闘派メシアと和平派メシアで違ってくる「終末」のイメージ
「メシアの陣痛」とヨハネの黙示録
死海文書」に残された終末希求教団の姿
光の子らと闇の子らとの戦い
旧約と新訳の間の時代に生じた応報の個人化と来世の階層化
一方には地獄のかまど、他方には喜びの楽園

◎四章 初期キリスト教から中世の「成就したエスカトロジー」へ
「受難」と「断罪」というキリストの二つの顔
迫害の中で獲得された「終末」のエロスとタナトス
「再臨」の不発への対照的な対処――モンタノスと東方キリスト教
「終末の遠近」から「完了形再臨と進行形再臨の共存」へ
「燃える十字架」に象徴されたローマ帝国キリスト教の利害の一致
アウグスティヌスの「成就されたエスカトロジー」
終末を待ち望む「黙示録思想」の非合法化
プロテスタントが終末思想を嫌った理由
アメリカ新大陸こそが廿世紀に完成する「千年王国」である

◎五章 ユダヤ教の終末思想がたどった歴史
キリスト教イスラム教に挟撃されたユダヤ教
碩学マイモニデスまでが贋メシアを信じた背景
スペイン追放、ポグロムで起こった神の撤退・収縮
最大の信奉者を集めた贋メシア、サバタイ・ツヴィ
「ユダヤ国際主義」と「宗教的ユダヤ民族主義
マルクス主義シオニズムに挟撃されたユダヤ教
「アウシュヴィツ以後」の神学的混迷
悲劇と神学的混迷に「ラビ回答書」はどう答えたか
エスカトロジー信仰がホロコースト報復の暴発を防いだ?
メシアとマーディがたがいにイスラエルを率いる日

◎六章 テレビ・メディア説教師の誕生
人類の原罪救済計画としてのハルマゲドン
ハルマゲドンの戦場であるイスラエルを支持するテレビ説教師たち
「五つの根本」を決定したナイアガラ聖書会議
「聖書無謬説」と進化論の鋭い対立
アメリカを二分し続ける聖書の吸引力
レーガンソ連核攻撃のボタンを押すのでは!?」
アメリカの国威低迷が福音派・聖書根本主義派の台頭を促す
宗教的下層土にテクノロジー指向上層土が乗るアメリカ精神地層
「みなさん、イエスにくるまって下さい!」
テレビ説教の間接性と「神聖言語」VS「数学的言語」
アメリカ成人の三人に一人がキリスト教右翼
アメリカ社会を映し出す福音派・聖書根本主義派の説教師たち

◎七章 福音派・聖書根本主義派の「千年期前再臨説」
民主主義を最適の再臨要員とみた「千年期後再臨派」
大惨事大覚醒期最大のスター説教師ビリー・サンデイ
「千年期前再臨派」VS「千年期後再臨派」
「赤」と「原爆」がアメリカの家庭を破壊する
一九二〇年代は進化論、五〇年代は「赤」が最大の標的
黒人差別をめぐるW・A・クリスウエルの変節
世界キリスト教化の挫折とアメリカのイスラエル
今日のアメリカで白昼堂々と行われる異端審問
イスラム教に敗れ、イスラエル護持に固執するキリスト教右翼
「愛を説くキリスト」と「再臨のキリスト」の矛盾
なぜパウロは超能力を封じ込めたのか
ハリケーン上陸を食い止めたパット・ロバートスン
「九百フィートのイエスが私を見下ろしておられた」

◎八章 ハルマゲドンを待ち望む人々
カルトとは何か
各種宗教の最高神格を簒奪し混淆するカルト教祖
政教分離における「教>政」VS「政>教」
七〇年代のカルト隆盛はなぜ起こったか
カルトが提供する精神変革の道筋と「精神的脱線」
カルト離脱の最終兵器「逆洗脳」の限界
絶望的に奇跡を求めてカルトに分裂していく現代宗教

◎九章 自ら「局地ハルマゲドン」を引き起こしたカルト教団
ジム・ジョーンズ教祖と「人民寺院
支配という形でしか人間関係を結べない教祖
「見えない敵」への恐怖に信者等を巻き込む真理
「私の中の神としての社会主義を理解せよ」
セックスにまで及ぶ支配の構図
新左翼が駆使したエロスとタナトスを受け継いだオウム真理教
繰りかえされる「革命的自殺」のリハーサル
終末への序曲となる「架空の包囲戦」
「生きるということを当たり前だと考えることは許されなかった」
「寺院は、私が最善と思ったものの反映だ」
「全て終わった。なんてすばらしい結末なんだ」
「贋終末」と「伝統的終末像」の間に横たわる距離
デーヴィッド・コレシュ教祖と「ブランチ・デヴィディアン」
「局地ハルマゲドン」としての集団自決
神の精子を持つ罪にまみれたキリスト
キリストを演じることに疲れた男の呟き
生き残り信者が語るハルマゲドンの光景
デヴィディアンと武装民兵隊との奇妙な繋がり
「再臨のキリスト」なきハルマゲドン
巨大な影の政府「新世界秩序」が引き起こす終末
リュック・ジュレ教祖と「太陽寺院

◎十章 テクストから見たオウム真理教団の終末思想
科学者高弟をはべらせての劇化された解読作業
キリスト教徒登用宗教の終末論をドッキング
「オウムのシヴァ神ヒンズー教シヴァ神ではない!」
麻原「宗教編集長」主宰による編集会議
神は人工的な火を使ってカルマ落としをさせるだろう
「宗教DJ」麻原彰晃のハルマゲドン・サバイバル番組
オウムは最終戦争を生き残るためのシェルター
必要とされる高度管理社会への自律的カウンターゲーム開発

◎あとがきに代えて――オウム真理教団訪問記
霊魂の肉体遊離を引き起こす実験的ヨガ
道場の内と外のギャップの間を往復した怪しい初老の男
今となってはヨガと迷走だけでは吸引力に欠ける
「彼岸の本建築」をめざす仮設宿舎サティアン
「なぜこの魂は障害の体に入ったのか?」
「素直な優等生としてまんまとそだてあげられた」
オウム真理教団の才媛信者と秀才信者
村井秀夫と井上嘉浩が兄弟子、麻原彰晃には畏怖の念
「いきなり異質な世界に放り込まれた感じはしなかった」
新幹線は目的地に向かっていればいい
「ハルマゲドンはどうでもいいですよ」
教団が解散してもプログラムは続く
参考文献

 束は254ページ、それほど厚い本ではないのだが、内容は濃い。とくに原始キリスト教ユダヤ教のあたりと、現代アメリカのキリスト教右翼のあたりは濃すぎてげっぷが出る。しかしここらへんを理解すると、たとえば欧米の映画理解の度合いが段違いに変わってくる。アメリカ映画は無党派に見えて実は宗教的に偏った人々を描いていることがある。たとえば僕の好きな「ブロークバック・マウンテン」は、中西部の原理主義的教会やペンテコステ派(異言崇拝)などセクトホモセクシュアル嫌悪(恐怖)が招来した悲劇、と取ることもできる。

 ちなみに越智道雄は映画・文明批評もたくさんしており、人気の映画評論家・町山智浩は越智を師と仰いでいる(宝島時代に担当編集だったそうだ)。町山の映画批評は越智の方法論に非常に似ているので、町山ファンは越智の本も読んだが良いと思います。

〈終末思想〉は現代を理解するキーワード、というより最早、人類を理解するための必須のキーワードかもしれない。
 ユダヤ教キリスト教イスラム教はその中核に終末思想を持っている。また、これは僕の理解だが、日本の浄土宗系阿弥陀信仰も終末思想である。仏教の形式を取っているが、仏陀の教えとは異なった宗教であり、むしろキリスト教などに近い。日本は「仏教徒が多い」というが、最大派閥は浄土真宗なので、日本は実質的には仏教国ではない。肉食・妻帯・葬式仏教という問題も、この視点で再考してはどうかと思う。(ただし僕は「仏教ではないからダメだ」とは思わない)
 キリスト教イスラム教という世界のメジャーどころ2つが終末宗教であるため、世界人類の歴史観も終末思想に引きずられる。政治も、終末思想の影響下で振幅を繰りかえしてきた。
 終末思想の歴史観とは、「いつか終わりが来る」というものである。歴史に終わりがあるのか?というのは大きな問題だが、終末宗教の影響下で育った人は、そう考えることに躊躇がない。また、終わりが来るという前提で人生を設計したり、政策を判断したりする。

 ちなみに、これも僕の半端な理解だが、仏教ヒンズー教にはどうやら終末思想はないようだ。仏教(釈迦が創始した本来の仏教)では死後の世界も否定されているほどで、「今をどう生きるか」だけがひたすら追究されている。世界が終末を迎えるとかいうことは本質的なこととされていないようだ。またヒンズー教の世界・歴史観はぐるっとサークル状で、ひたすら繰りかえす輪廻とかのイメージである。終わりが前提にある宗教とは違うようだ。そのためか、インド文明では歴史の役割が低い。終わりを予測しない文明では、すべてが途中経過で、ずーっと途中経過なので、その間の歴史を書くことの意味が薄いようだ。
 ヒンズーの神話に終末戦争のようなものがあったり、仏教に五十六億七千万年後に弥勒が到来し…といった信仰があるが、これらはいずれもその宗教の本質ではないと僕は判断している。
 では中国の道教はどうかというと、どうも終末思想と馴染みやすいようだ。民衆反乱は宗教的な背景が必ずあるものだが、黄巾・白蓮教・太平天国とかは動機が非常に終末思想くさい。道教は現世利益的な宗教のはずだが、教義のないアナーキー多神教なので、終末的な神がそのとき人気になれば一気に終末思想に転化するみたいだ。
 ちなみに日本でも最大の農民反乱である一向一揆島原の乱、どちらも終末宗教を背景としている。島原の乱はブランチ・デヴィディアンそっくりに思える。

 終末思想の「終わりが来る」という考えは、僕たち弱い人間に「恐怖」をもたらす。不確かな未来に不安や恐怖を感じて、心の平安を乱されるわけだが、奇妙なことにこれが人間には不可欠なものらしい。つまり、ヒトとは退屈する動物であり、生きていくうえで最大の敵が退屈なので、退屈をまぎらわすために終末を発明したんじゃないか…というのが僕の仮説だ。ヒトのハードウェア的な限界が、どうしようもなく終末思想に惹かれるのだ。

 最終戦争という考え方は、もろに終末思想である。ハルマゲドン=ハル・メギド(メギドの丘)を戦場とする最終戦争という妄念は、実際のところ、世界史のかなりの原動力となってきた。キリスト教布教の原動力であり、勤勉革命産業革命を起こし、人口国家アメリカ合衆国を作った。メインカルチャーに対する反対思想やサブカルチャーとしてマルクス主義やナチズムが生まれ、第二次大戦、冷戦が起きた。

 エンタテインメント分野では、ゾンビ映画が終末思想の強い影響下にある。ロメロは何度もはっきりと、ゾンビは宗教的なモノであると劇中で明言している。
 ポスト最終戦争もの、「北斗の拳」とか「マッド・マックス」ももちろん終末思想の産物だ。数年前米映画で「ザ・ウォーカー(原題ブック・オブ・イーライ)」と「ザ・ロード」というそっくりな終末世界ものの映画が公開されたが、前者がわかりやすい金儲け映画で後者が文芸映画だったにもかかわらず、内容がまったく同じという奇妙な事態が起きた。なんというか、終末思想に忠実に作品を作ると、結局同じになるのだと思った。
 

 僕たち日本の戦後世代も終末思想と無縁ではない。というかキリスト教原理主義に劣らぬ、強烈な終末思想に被曝しながら育ってきた世代だ。「ノストラダムスの大予言」である。サブカルチャーにすぎないのだが、この刷り込み力は無視しがたく、1999年をとうに過ぎた今も現在の四十代を中心に猛威を振るっている。
 さいとうたかお「サバイバル」、大友克洋AKIRA」、望月峯太郎ドラゴンヘッド」、現在では花沢健吾アイアムアヒーロー」等、日本の少年マンガには時折、終末思想に基づいた名作が現れる。僕なんかは「サバイバル」に直撃された世代だ。「ザ・ロード」なんかを崇め奉る米国人を笑えない。
   

 終末思想の恐ろしいところは、いつの間にか自分の考えに忍びこみ、それが当たり前かのように感じさせるところである。もともとヒトは終末思想に惹かれるというか、延々と続く日常に耐えられないようになっており、しかも他の動物と違って未来を予測したり想像する能力があるので、退屈な日常がなくなる日を夢想してしまう。それが積み重なって終末思想になったんじゃないか(ヒト・ハードウェア欠陥説、とでも言おうか)と思うが、それって恐ろしいことなのである。

 昨日のエントリで書き忘れたけど、僕らはものすごい異常な日常を送っている。温かい便座に座ってウンコをし、糞の姿を見ることもなく水を流して消し去る。水道からいつでも飲める水が供給され、流水で手や体を洗うことができる(流水の洗浄力は溜めた水とは比較にならないほど大きい)。また、冷蔵庫があるので肉や魚を翌々日まで新鮮に取っておける。腐敗や感染の心配をすることもない。こんなの、世界史・世界誌的に考えると実に異常な事態なのだ。こんなクレンジングされた日常が実現して、やっと十数年。しかも地球上にはまだ26億人もトイレを使えない人たちがいるのに! この清潔な日常に身を置いて、流水がなく冷蔵庫もない他の地域・時代を想像することは非常に難しい。感覚的にわからないことが多い。

 終末思想も同じなのだ。終末思想に感染した僕たちには、インドの「終わらない歴史」観が理解できない。だが、「終わる歴史」観と「終わらない歴史」観との間に、価値や正当性の違いはない。どちらも間違ってるかもしれないし、正しいかもしれない可能性がある。
 なのに僕たちは、自然に終末思想を選んでしまっている。刷り込まれているからだ。

 共産主義恐怖は終末思想だった。ベトナム戦争はその結果の一つだが、さらにフランシス・コッポラは「地獄の黙示録」という映画を作って、ベトナム戦争に「黙示録」や「ジ・エンド」という強烈なイメージをひっつけた。ありふれた、熱帯の植民地戦争の一つに過ぎなかったベトナム戦争に、こうして強烈な意味や価値が付与された。このようなイメージでベトナム戦争を語ることは、知らず知らず終末思想に加担していることになりはしないか。(もちろん大好きな映画ですけど!)

 イスラエルを本当に千年王国だと信じ、世界を崩壊させ、キリストに空中携挙(ラプチャー)されることを堅く信じている人たちが、アメリカには何千万人もいる。ファンダメンタリストとはちょっと違うかもしれないが、「ボーンアゲイン」を宣言したキリスト教徒も多い。僕の好きなボブ・ディランや、理知的な名優デンゼル・ワシントンなどもボーンアゲインの代表格らしい。彼らのアートには感動するが、彼らと価値を共有できるかと言われると、どうかわからない。
 世界を崩壊させたい人は多い。たとえば世界経済が崩壊する、という予測をする人は全員終末思想にかぶれている。日本が財政破綻してオシマイになる、と主張する人はその亜流だ。そうそう都合良くオシマイになんかならない。破綻してもまだまだその先があり、僕たちの生活も続く。
 本書は、終末思想につきものなのが選民思想だ、と指摘する。選民思想は、人と人とを分断させる思想である。ジョン・レノンが「想像せよ、宗教のない世界を」と歌ったのは、このためだ。

 現今、またぞろ終末思想が盛んになっているように思う。一つは世界経済崩壊説、もう一つが反原発運動に、こっそりと終末思想が忍びこんでいるのではないかと僕は警戒している。
 本書『〈終末思想〉はなぜ生まれてくるのか』は実に名著だが、残念なことに版元は品切れのようだ。電子書籍で蘇ってほしいと切に願う。