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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

『トイレの話をしよう』ええ、ぜひ!…いやもう勘弁

トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題
 トイレの話、というよりウンコの話が好きである。何しろ僕は精神年齢が幼児だから、ウンコの話は大喜びだ。シッコの話にはあまり興味がない。シッコは所詮水分なので、さらりと流れてしまうからだ。やっぱりウンコだろう、話すなら。

 というか、夏休みにインドツアーに行った人の話を聞いたのだ。ツアーといっても観光ツアーじゃなくて「人権ツアー」と名付けられた、ダリット(カーストカースト)の人たちとの交流ツアーである。そこで彼は「マニュアル・スカベンジャー」の人たちと話したのだという。
 ダリットとは「抑圧された人」の意で、差別撤廃運動の流れを汲む呼び名らしい。「バンギー」という呼び方もあるが、それは「ゴミ」「人糞を掃除する人」の意で、彼らは好まないという。
 マニュアル・スカベンジャーとは、素手で便所掃除をする人、のことだ。インドの伝統的な便所は便槽汲み取り式ではなく、床の上に足の幅にレンガが二つ並んだだけで、糞尿が溜まる穴がないという。ダリットの人びとは、素手またはブリキ缶で床に溜まった糞尿を掻きだし、容器に入れ、頭の上に抱えて運び、屎尿溜まりに捨てるのが仕事だという。
 冒頭に掲げた本によれば、インドには40万〜120万人の手作業掃除人がいるという。全員がダリット。掃除の報酬は、一軒につき月5ルピー、自治体の場合一日30ルピーという(ひどい!)。ダリットはインド全体で1億6600万人いるというが、職業は様々で、占い師・医師から皮革業者、屠畜業者、洗濯人、民俗芸能など。ダリット内でも差別はあり、穢れたものに触れるとされる職業が卑しめられる度合いが強い。だから便所掃除人はダリットのなかでももっとも賤視されるという。そしてカースト制度では職業は世襲である。

 糞便は、自分のものならまだしも、他人のものは非常に汚い。いやここでは「汚い」という主観的な言葉は避けた方がいいだろう。「危険」なのだ。
 自分の大便には自分由来の物質しか含まれていないので、自分の糞を触ってもあらたな感染症寄生虫に罹ることはない。だが他人の糞には、自分が持っていない病原菌・微生物・寄生虫・その卵、さらには有毒物質やガラスや針や金属の欠片などの危険物が入っている。素手で糞便に触っているとき、指先を怪我したら、そこから感染する。
 辛そうなのが、ダリットの人びとは他のカーストの人びとの井戸を使えないことだ。本書には明記されていないが、他のカースト集落の便所を掃除した後、汚れた手をどこで洗うのか。自分たちの住居区まで、汚れた手のまま帰るのか。糞尿が乾燥すると粉になって空気中を舞う。それを吸い込んだら、微生物や毒素も吸い込み、経口感染や呼吸器感染するのだ。同書には「下痢に悩まされ、ジアルディア(ランブル鞭毛虫症)に感染し、脳炎を患うのはいつものことだ」とある。蛆も湧くので、頭の上に持ち上げて運ぶ汚物入れから、這い上がった蛆がぽたぽた落ちてくる。

 どうです? 気持ち悪いでしょう。
 なぜ私たちは糞便を「汚い」「気持ち悪い」「穢れている」と感じるのか。どろどろした外観や悪臭だけではない、もっと古くて強烈な刷り込みが、私たちの脳にされていると思う。それは「観念」や「経験知」ではなく「感覚」としてある。その感覚を形成した物質的根拠があると思う。

 僕は唯物論者なので、どうしてもこう考えてしまう。日本の民俗学の人たちのように「ハレとケ、ケガレ」といったリリカルな思弁は僕にはできない。余談だが、「ハレとケ、ケガレ」理論はかつて一世を風靡して、今は全然流行っていないような気がするけど、どうなのかな?

 僕は↑の本を読んで以来、人類学者マーヴィン・ハリスの提唱する唯物論に取り憑かれた(マルクス主義は知らないんで。ごめん)。糞尿の他に、死穢という考え方があるが、それも民俗学の人が言うような「死への恐怖」「死霊への畏れ」とかより、まず「死体は危険な感染源だから、遠ざける」と反射的に考えてしまう。

 そういうわけで、『トイレの話をしよう』は、僕のような唯物論者にはとっても心地好い読みでの本だった。内容を紹介したい。

第1章 ロボトイレット革命
 ウォッシュレット開発の経緯。ホンワカした楽しい話なのでツカミとして良い。著者は世田谷のTOTO研究所まで訪れたらしい。
第2章 下水道ツアー
 ロンドンの下水道を、プロに案内してもらって歩く。大量の水で薄まっているので汚水はあまり臭くない。だがいろんな危険物が流れており(手榴弾!)、下水道システムに対して享受者たちはあまり尊敬の念を抱いていないことが窺われる。
第3章 26億人と“トイレ大臣”
 トイレがない、野糞するしかない人びとが世界には26億人いる、という話。天然痘が絶滅した今、マラリアと並んで「野糞による感染症」は巨大な政治的イシューになった。
第4章 カースト制と闘う人々
 ダリットについて触れた章。
第5章 中国のバイオガスブーム
 インドと打って変わって、陽気に糞便と付き合う中国人たち。豚の餌にするし、便槽から出てくるガスを調理につかえば僻地だって近代化できる。
第6章 世界の公衆トイレ
 公衆トイレは意外にも世界ではマイナーな存在で、英米のような先進国でも公衆トイレが激減したことがあったという。プライバシー観念もそうだが、予算や防犯の面からも公衆トイレは虐げられる存在だという。
第7章 下水から生まれた肥料
 アメリカでは下水の汚泥を乾燥させて肥料にする試みがなされている。汚泥は危険物なのだが、きちんと無毒化するのが難しく、肥料を撒布した農地周辺では寄生虫や微生物感染、謎の頭痛や障害、死亡例がある。しかしダイオキシンなどと比べると非常に毒性は低い、という報告も。ゼロリスクではいられない、という話か。
第8章 野外排泄ゼロをめざすインド
 手作業掃除人や野外排泄が多いのは、インドの伝統的な便所の形に問題がある、という視点。堀込式(汲み取り式)の近代的便所を普及させる熱烈なボランティア「グラム・ヴィカス(村の発展)」の話。良いトイレを設置し、人々に快適さを体験させたところから、変わってきている、という報告。もちろんまだ道のりは遠いのだが。
第9章 スラムの片隅で
 インドとアフリカの話。アフリカ支援で「井戸を掘る」というのが多いが、「野糞をやめさせる」ことができなければ感染症は減らないし子どもの死亡率も下がらない。
第10章 宇宙、経済、リサイクル
 スペースシャトルでは糞尿も処理して飲料水にする。地球全体でそのようなことは可能か? あるいは、飲める水を水洗トイレに使うことは正しいか?

 僕の要約ではいろんなものが落ちてて著者さんに申し訳ないのだが、こんな具合に非常に面白い本です。この著者さんも唯物論者的な人らしく、眼の前のウンコが持つものを直視し、ウンコの背後にある人々の先入観や偏見を鋭くあぶり出していく。

 ウンコに対する偏見はやはりぬぐい去れず、差別が起きているのはインドだけではない。イギリスでも「下水掃除人からはバーで奢られたくない」と嫌悪する女性が出てくる。失礼な話だ。
 だがそれは表面的な話なのだ。本当に切実な問題は、人々が下水道システムを尊敬しないことだ。下水に危険物を捨てる、セメントを流す、油を未処理のまま流す(ほとんどすべてのレストランがそうしている。日本もそうではないか?)、強力な酸やアルカリを中和せずに捨てる。下水になら、危険物を流したって平気。目の前から消えればオッケー。そう考える人があまりにも多い。いや僕にもそういう傾向はもちろんあるんだけど。

 排泄せずに生きられる人間は一人もいない。どんな金持ちも、どんな美人も、ウンコをする。しかもウンコはほぼ毎日、シッコは数時間おきに。本書は「人は一生のうち3年間をトイレで過ごす」と計算している。
 なのに、トイレは、糞尿は、尊敬されない。死体のように敬して遠ざけるということすら、されない。捨てられ、忘れ去られる。アフリカではビニール袋に排泄して路地や窪地にポイ捨てするので、袋の中で腐るものの、土に還ることのない糞が大量に溜まった場所がいっぱいあるという。誰が掃除するんだ?
 野糞された糞は乾燥し、粉になって吹き飛ばされるが、すぐに分解して無害になるわけでは全然ない。微生物や寄生虫の卵を抱えたまま空中を舞い、埃となって人々の衣服につく。履物の裏につく。それは自宅まで運ばれ、自宅の床に落ち、何かの拍子にまた舞い上がって食卓や台所を汚し、人の口に入る。こうして人は一日数グラム(ちなみにパチンコ玉は5グラム)の糞を口に入れてて気づかないという。

 これ、アフリカとかの未開国だけの話じゃない。たとえば富士山。標高三千メートルにもなるとウンコを微生物が分解してくれないので、登山客の垂れた糞は新鮮なままずーっと保存されている。紙ももちろん分解されないので、大量の糞とトイレットペーパーが堆積した場所があるという。多くの古いトイレがバイオトイレにリプレースされたというが、根本的な解決になったのか!?
 都内から手軽に行ける奥多摩もそうで、御前山避難小屋にはきれいな水が流れる水場があるが、大腸菌が検出されたため飲用不可になっていた(僕が見たのは1996年)。実際のところ、奥多摩や丹沢では登山道より下の水場はナマでは飲まない方がいいようだ。野生動物が泥をかぶって寄生虫を落とす「ぬた場」のせいもあるが、登山客の野糞で汚染される例もすごく多い。ヒトは野生動物より絶対的に数が多いしね…。

 こういう山地に人々が垂れる糞は、登山客がコスト負担して処理されるべきだと思うが、ヒトは自分が垂れる糞にあまり関心が無い。機械で物を運べない山奥で糞するのだから、一回500円くらい払ってもおかしくないと思うのだが。ヒトは登山ウェアには金を惜しまないが、入山料や有料トイレには金を惜しむ。

 本書では、「糞便恐怖症の国と、糞便嗜好の国があり、インドは前者(ただし雌牛の糞は除く)、中国は後者」と書く。日本も間違いなく糞便嗜好型だろう。差別の原因となる「穢れ」観念だが、研究者は「死穢」を取り上げることは多いが、糞便の穢れを取り上げた研究は僕は知らない。近世の人口増によって農地の生産力はぎりぎりになったが、それを解決したのは鰊や干鰯、牛馬の糞にくわえ、人糞の肥料だった。江戸の便所はすべて契約農家が金品を払って汲み取っていたそうだ。肥溜めで発酵させ、無毒化させて肥料にするのだ。

 余談だが、僕は野壺(肥溜め)に落ちたことがある。高校1年の初夏、中間テストが終わって友達と田圃の畦道を散歩してて、ふと踏み出したらドブン、と左足が野壺に嵌まった。ひどい臭いだった。友達に笑われ、農業用水路でさんざん足を洗って寄宿舎に帰った。

 これがインドだったら、僕は強烈なエンガチョをされたのかな? これは余談ではないのだが、ダリットの人々は不可触賤民、アンタッチャブルと言われながら、暴行やレイプの被害が後を絶たない。「カーストでは触ってはいけない、とされていますが、膣だけは別のようですね」と解放運動家は嘆くという。不思議なことである。レイプ、というかセックスには多かれ少なかれ“侮蔑”のニュアンスが含まれてしまうのだろうか。兵士が老婆をレイプする、といった事例も多い。誰か僕に代わって考えてほしい。

 本書が執筆されたのは2007年くらいで、野外排泄の問題などについては「2010年くらいには解決しますよ、と関係者は語った」などと書かれている。うまくいったんだろうか? 野糞は、やってみると非常に気持ちが良い。大久保彦左衛門が将軍(家光?)に「一番気持ち良かったことは?」と尋ねられ、「野糞に御座います」と答えて怒られたが、後に鷹狩りの際将軍自ら野糞を経験し、謝った、という挿話を聞いたことがある。それくらい気持ち良いことではあるが、それは普段きちんとした家のトイレでやっているからだ。野糞しか垂れることができない暮らし、なんて考えたくないでしょ。それって野生の暮らしでしょ。人間らしさがない。さらに、野糞のせいで衛生状態が悪くなり、赤ん坊が感染し、子どもが発育不良になり、不健康と貧困が連鎖するなんて、やりきれない。
 僕たちは、誰か特定の人に「お前は糞を手で掻き集めて掃除しろ」などと恐ろしい命令をすることなく生きてくることができた。だが、本質的にはそれに似たことをやってはいないか。自分が見たくないものを誰かに押しつける、誰かがやってくれるからと期待して、自分の義務を放棄する。下水に油を流す、酸を流す、割れたガラスを流す……。

 まことにとりとめのないエントリになってしまったが、ごめん、仕方ないんだ。ウンコの話は大好きだから、やり始めると止まらないんだよね。