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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「ヒアアフター」、みんなの感想に異議あり

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◆ぶり返す映画熱
 先日二番館で映画「善き人」「灼熱の魂」を見た。「善き人」(2008)はヴィゴ・モーテンセンナチスに扮するというのでそれがお目当てだったのだが、作品は小品で役どころも小っちゃくて、むしろ併映の「灼熱の魂」(2010)にグッと来たのだった。こちらはカナダ映画(カナダのフランス語圏制作みたい)なのだが、舞台のほとんどはレバノン(と思しき中東の国。劇中では明示されない)、主人公たちも中東系で、エキゾチックな作品だった。ただし、登場人物たちは中東系でもキリスト教徒なので“アラブ映画”ではない。
 いや、この「灼熱の魂」はなかなか凄い作品でした。中東人が演じてるけど韓国映画、それもポン・ジュノ監督作品みたいな業の深さが良かった。

 なんてのを観たせいでしばらく冷めていた映画熱に火が点いてしまい、手元にあったDVDなどを連続鑑賞。イタリア映画「やがて来たる者へ」「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」「ブロンクス物語」、そしてクリント・イーストウッド監督作品「ヒアアフター」などなどをパソコンやらiPhoneやらを使って寝たまま鑑賞しました。

「やがて来たる者へ」(2009)は北イタリアで実際に起きた独軍による地元民虐殺の話。これとフォルカー・シュレンドルフの小品「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」(2004)は「善き人」が食い足りなかったのを補うため?に観た。しかし正直、最新の映像技術で撮られたナチ映画は3本も見ればお腹いっぱい、どころか腹を下しそうになる。とくに「善き人」と「9日目」は強制収容所のシーンが短いけど強烈で、真に迫ってて気持ちが悪くなる。遠景が霞むまで続く鉄条網、絶えることない囚人の列、なんかはCGだろう。手間の掛かるエキストラを節約しつつ膨大なモブシーンを描ける、だから最近また収容所とか戦前の街頭描写をする映画(「ラスト、コーション」とか?)が増えてるのかな、と思った。そして一昔ふた昔前までは避けられていた残酷描写も躊躇なく展開される。汚物にまみれ痩せ衰え、ばたばた斃れる囚人、両腕を後ろ手に縛り上げて十字架に掛け放置して殺すなどの人体破壊描写。スピルバーグを筆頭とする残酷リアリストの影響がなきゃ、こんなこと流行らなかったろう、と思うのだ。こういう“めったに見られない光景”は、怖いけど好きです。映画の存在意義の一つだと思います。気持ちが悪くなるけど。

ブロンクス物語」(1993)はロバート・デ・ニーロ監督作品で、俳優チャズ・パルミンテリ(大好きこの人)の一人芝居を映画化した、60年代NY下町グラフィティ。前から気になっていた作品で、デニーロはもう一本「グッド・シェパード」(2006)を撮っているが、本作はNYの下町ブロンクスで育つイタリア系少年の話で、原作のパルミンテリのみならずデニーロ自身のルーツを描いたであろう作品。懐かしい風景、寓話風の描写がなされているが、筋はかなり荒々しい、「グッドフェローズ」(1990)とすごく似たハードコア暴力映画なのだった。イタリア移民と暴力とか社会の軋轢とかって話は「ゴッドファーザー」を観る度に繰り返し考えているので、いつか書こうと思う。ちなみに「グッド・シェパード」は大物俳優の余技感がぷんぷん匂う、上質だけど軽い作品でした。

◆奇妙な映画「ヒアアフター
 で、「ヒアアフター」(2010)なのだが。
 ここに列記した作品たちと比べると、一番見やすい作品だった。変なひっかかりやグロシーンがなくて(冒頭の津波のシーンは確かに凄かったけど…)、地味で落ち着いた筋運びは本当に観る者に優しいのだ。さすが、この中では一番メジャーな作品。
 しかしこの映画は、観た者に数々の疑問を残し、認知的不協和を感じさせる、つまり後味が変な映画なのだった。
 昨年2月に公開されたが、翌月の地震津波の被害に配慮して公開中止となった、と聞いている。たしかに津波シーンは3.11を思い返すとショッキングな描写で、被災地で、被災を免れた劇場がこれを上映していたら、ちょっとふさわしくないな、と思わないでもない。しかし全国で上映を止めちゃうっていうのもどうか。各々の劇場主が判断すべきことではないのか。などと思ったが上映当時は僕も見に行こうとは思ってなかったので言えた義理じゃないな。
ヒアアフター」が奇妙な作品なのは、“死後の世界”を思わせるビジョンをかなり確信的に描いて見せていることだ。これは、怪談映画や恋人幽霊映画(「ゴースト NYのなんちゃら」とか)ではない、欧米のシリアスな映画では珍しいことだと思うのだ。
 あらすじを瞥見してみよう。wikipediaから引用します。

フランスの女性ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、津波にのまれた時に臨死体験を経験。その時に見た不思議な光景を忘れることができずにいた。イギリスの少年マーカス(フランキー・マクラレン&ジョージ・マクラレン)は、愛する双子の兄を亡くしてしまった悲しみから立ち直れず、兄と再会することを望んでいた。アメリカ人ジョージ(マット・デイモン)は、かつて霊能者として知られた人物だが、次第に自らの才能を嫌悪、その才能を用いずに生きていた。
死という謎にとりつかれたこの3人が、ある日ロンドンで出会うことになる。

 この中で、死にかけたフランス人女性マリーと、霊能者(サイキック)であるアメリカ人男性ジョージの二人は、明示的に同じようなビジョンを見る。影の薄い人たちがぼうっと広がって佇んでる、なかで時々特定の人物がクロースアップされフラッシュする(文字通り閃く)、この世ならぬ光景である。それは「死者の魂がある場所に集っているような風景」を思わせる。
 これが、どちらか登場人物一人だけに起きるビジョンなら納得しやすい。「特殊な性向を持つ人の特殊な視覚描写」と思えるから。しかし複数の人がこれを目にする描写を見ると、「これはこの作品内では、ある人たちにとっては普通に起きる感覚、作品内ではお約束なんだ」と思ってしまう。
 そのせいなのか、日本の観客の感想の中には、作品の筋に大きく切り込んだ推測をしている人たちがいるのだ。僕には到底容認しがたい方向に切り込んで。

 その感想の代表が、「三角絞めでつかまえて」さんだ。また、彼が挙げている「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル・シネマハスラー」も「そうも言える」と限定しながら同様の推測をしている。この2例はラジオ番組「ウィーエンドシャッフル」で人気のコーナーで放送されているので、影響が大きかったと思う。
 彼らと関係ない人も同様の感想を提示している。たとえば「エミの気紛れ日記」である。
 これらの感想は何を主張しているか?
 ここから先は【ネタバレ全開】でお送りしますので、ご容赦下さい。


【ネタバレ】3人が出会い、物語が動くクライマックス
 映画のクライマックスに言及します。
 98分過ぎ、人間関係に傷ついた霊能者ジョージはサンフランシスコを逃げ出し、ロンドン旅行に来た。大好きなディケンズの史跡を廻るツアーなどに参加している。そこで「ロンドン国際ブックフェア」で大好きな俳優によるディケンズ朗読会がある、と知る。
 ブックフェアにはフランス人マリーも自著プロモーションのため参加している。マリーは臨死体験が忘れられず、ミッテランの評伝を書くと約束したのに臨死体験と来世の原稿を書いてしまった。結果、大出版社に袖にされ、ニュースショーで築き上げたキャリアをも棒に振った。幸いイギリスとアメリカの出版社から英語で出版できたので、ブックフェアに来たのである。
 ここをもう一人の主要人物、イギリス人少年マーカスが訪れる。一卵性双生児の兄ジェイソンを亡くしたマーカスは、薬物中毒の母親とも離され、ひとり里子に出される。心を開かないマーカスに里親たちも匙を投げ気味。今日は前の里子が立派に警備員の仕事をしてるよ、とマーカスに見せるため、彼は里親とソシアルワーカーによってブックフェア会場に連れて来られた。里子の先輩なんかに興味ないマーカスは、彼らと別れて会場を散策する。
 ディケンズ朗読会の後、ジョージはマリーの著者イベントに気づく。本の題名は『ヒアアフター』(来世)である。ジョージは霊能者としてかなり優秀なのだが、霊視(リーディング)に伴う様々なストレスに耐えかねて霊能者を廃業した。このロンドン旅行も、商売としての霊視を再開しろ、と迫る兄を裏切っての逃避行だ。彼は霊能力が嫌いだ。でも彼は霊的なものに惹かれるのだ。美人のマリーにも目が釘付けになり、彼はその場で本を買い、著者サインの列に並ぶ。

 ここでちょっと言いたいのだが、僕はブックフェアにはあれこれ思ってしまうんだよね。以前、出版社で営業をやってて、フェアに出展する側として関わったこともあった。しかしブックフェアというのは、基本的にはまだ出てない本、大衆が知らない本の宣伝を行うものなので、知名度がなくて、なかなか人が集まらない、辛い思いをする場なのだ。だから著者マリーの気持ちが少しわかる。彼女は(おそらくあとがきの)朗読を終えて、やや及び腰の言い方で「本を購入した方にはサインをします」と言う。ここ、リアルで好きなシーンだ。まだ海のものとも山のものともわからない本だし、フランスでは著名なキャスターだった彼女もここロンドンでは無名に近い。高価なハードカバーを買って、サインをしてもらおうというお客さんがどれだけいるか、不安なのだ。
 幸い、彼女の周りには何人もの客が本を手に集まる。ああ良かった、と思う。美人だったのも幸いしたね。これがスーザン・ボイルみたいな外見の著者だと本当お客さん集まらないんだよ。
 サイン本を受け渡す際、ジョージとマリーの指が触れ、死にかけたマリーのビジョンをジョージは見てしまう。水中を漂う虚ろな目のマリー。
 ここで一つ疑問がある。ジョージは普段、不用意に他人を霊視してしまわないよう、手袋をしている。でもここでは手袋を取っている。どうも、わざとマリーの指に触れようとした気配があるのだ。
 僕は邪推してしまうのだけど、ジョージは彼女の本に興味を持ち、彼女を試そうとしたのかもしれない。彼女が本当に死にかけたのか、普段霊能者としての自分が見ている“あの世界”を彼女も本当に見たのか。それを確かめたい衝動に駆られた、のだと僕は思う。
 その結果、彼女の体験は本物だ、と彼は確信した。彼は彼女に対して抑えきれない興味を抱くに至った。
 そこにマーカスが現れる。何とか亡兄とコミュニケートしたい一心で、里親の金を盗んでまで霊能者を尋ね歩いた彼は、ジョージのウェブサイトも見ており、顔を知っていた。「あんた、ジョージ・ロネガンだ。サイキックの」。これまで残念な霊能者にばかり会ってきたマーカスは、本物の霊能者、本当に自分と亡兄の仲立ちをしてくれる人を希求していた。彼は執拗にジョージに付き纏う。ジョージは自分の霊能力を疎ましく思い、その軛から逃れるためにロンドンに逃げてきたのだから、当然マーカスが邪魔だ。しかも今は、美人で霊的体験もあるという女性との千載一遇の出会いの真っ最中だ。
 ジョージは必死でマーカスから逃げ出すが、マリーを見失ってしまう(イベントが終わるとさっさと退場して次の著者に場を譲らねばならないのだ)。しかも結局マーカスに投宿先を突き止められ、窓の外に立ちっぱなしで待たれてしまう。こういう忠犬ハチ公みたいなプレッシャーに弱いジョージは、根負けしてマーカスのリーディングを引きうける。

ジョージは愛ある嘘をついたのか??
 ここからである。大事なので、ちょっとディテールに踏み込んで書き写す。
 リーディング・セッションにおいて、ジョージはこう言っている。
「死んだのは身近な人?」
「男性?」
「若くして死んだ…君の兄弟?」
「お兄さん?」
「生まれたのが……数分だけ早い」
「残念だった」
「集中力がいる。よくしゃべる子だ」
「早口で……変な笑い方だ」
「彼はこう言っている。“話すことが山ほどある”“ここはすごいぞ”“何にでもなれる”“思い通りに”“浮いてる感じが……イケてる”」
「笑ってるよ。変な笑い方で」
「“お前はいつも僕を頼ってた”“何をするのも僕の言う通り”“失敗すると僕のせいにした”そうかい?」
「“もうやめろ”って。“独り立ちしろ”」
「待って。帽子について言いたいそうだ。野球帽? ああそれだ。今すぐ脱げと言ってる。“もう二度とかぶるな”“それは僕のだ”“だから地下鉄で脱がした”何の話かわかる?」
「“僕はいいことをした”“でも助けるのはあれが最後だ”」
「すまない。声が遠のいてきた。もう行きたいそうだ」
 ここまでがリーディング前段である。
 マーカスが涙を流して「ジェイス…行かないで」と言ってから後段が始まる。
「今戻ってきた。こう言ってる」
「“独り立ちのことなら……心配ない”“僕がいる”“いいか、僕はお前でお前は僕なんだ”“一卵性は…二人で一人だ”“いつまでも”待て。もう行くそうだ」
 マーカスに「どこへ?」と問われ、ジョージは「わからない」と正直に答える。「死者と話せるのに?」と言われても「ああ、分からない」と。これでリーディングは完全に終わる。

 この後段の霊視に関して、先に挙げた3つの感想は、こう記す。
ジョージはマーカス少年を励まそうとしてウソをついたんだと思う」(三角絞め氏)。
「最後にジョージはマーカスに優しい嘘をついたんだと思います」(エミ氏)。
「彼の霊視場面というのはふわーんとしたものが映るけど、彼が実際に何を見て聞いているかはわからないわけです。ここは、ジョージが優しい嘘をついてあげた、というようにも見えるな、と。今生きている者のために霊能力を使おう、と思いきった瞬間なのではないかと。そう思って見ても感動的だなと。明示はされませんけど。そう思えたからジョージは他者と繋がることを恐れなくなったと」(宇多丸氏)。

 そ、そうか?? 世間の人は、ここ、そういう風に見るのか?
 僕はけっこう衝撃を受けた。初めてブログを読んだエミ氏の感想は置いても、三角絞め氏と宇多丸氏の二人は映画レビュアーとして僕は好きだった。二人は数多くの映画を見ているし、作品について自分の自由な言葉で闊達に語ることができる、いろいろ新しい視点を気づかせてくれる人たちだ。
 でも、この解釈はないんじゃないの? 僕は激しく反発した。反発したあまり、だいぶ前の映画にもかかわらずこんなエントリを書こうと思ったのだ。

◆人間は誰でも「やる気になったらなんとかなる」ものなのか
 3つの感想は、いずれも「こう解釈すれば、もっと感動的ではないですか」という、一種の“見方の提案”である。「こうに違いない」「この映画の真意はこうだ」という決めつけではないので、あんまり厳しく批判すべきではないのかもしれない。
 だが僕は、この“提案”の背景に、見過ごせない、傲慢な思想を見てしまうのだ。
 それは、「人間は誰でも、やる気になったら困難を克服できる」「自分の力で困難を打破するのは素晴らしい」という思想である。
 それをなぜ僕が“傲慢”と弾劾するかというと、それは本作「ヒアアフター」が丹念に積み上げてきた描写、そのバックグラウンドとなる思想の真逆じゃないか、と思うからだ。

 作品を見返してみよう。
 マリーは津波に遭って九死に一生を得、臨死を体験する。この体験は彼女の何かを変えてしまい、「画期的なミッテランの再評価」を書くと言っていたのに、自分が書くべきはこれじゃない、と思い返し、とうとう臨死体験の原稿を書いて出版プロデューサーに渡してしまった。結果、彼女は出版の機会を失い、信用を失墜させ、キャスターに返り咲くこともかなわなくなった。
 ジョージはかなり強力な霊能力を持っているらしい。そして彼のもう一つの特徴は、嘘やハッタリを言わないことである。
 無理に頼み込まれた霊視のセッション中、「ジューン」という言葉が聞こえたらしい。彼は「6月」と解釈し、続きを聞き取ろうとしたが果たせない。依頼人には「だけど日付はわからない」と正直に伝える。ところが真相は、依頼人には亡妻の他に愛する女性がいて、その名が「ジューン」だったのだ。依頼人しか知らない“秘密の暴露”である。亡妻の霊がその人物に言及していた、ということで、むしろ依頼人はジョージの霊能力が確かなこと、そして嘘をつかないことにより信頼感を深める結果となる。
 別のケース。ジョージの能力を漏れ聞いた女性が、ジョージを訪ねて霊視するよう迫る。だがジョージは「辞めたんだ」と頑なに断る。女性は近親者の死に深く傷ついている様子だったが、ジョージは心を鬼にして断った。
 料理教室で知り合った女性、メラニー。彼女といい雰囲気になったのだが、ジョージの前職が霊媒だと知った彼女は、固辞するジョージに無理矢理自分を霊視するよう迫った。ジョージは亡母の存在を的中させたが、「もっとあるでしょう」と迫られ、去年亡くなったメラニーの父の言葉を伝える。「“お父さんは何度も何度も言っている”“許してくれ”と。“昔君にひどいことをした”“いつの日か許してほしい”と」。たったこれだけなのに、メラニーは深く傷つき、彼の元を立ち去ってしまった。その後料理教室にも姿を見せない。
 ジョージのリーディングは、作品全体でこの3回しかない(他に一度、マリーと指が触れあった時ビジョンを見るが、それに関してジョージは何も述べていない)。
 最後のマーカスに対する霊視、その後段を解釈する材料は、この2つの前例で十分だろう。
 補助線となるのは、マーカスが訪ね歩いた霊能者たちの例である。
 霊能者が集うホール(創設1825年!)を訪れ、人気のサイキックにはすぐに会えないので、女性霊能者の公開交霊会に出てみる。「Jの名前に心当たりある人は?」と問われ、名乗り出るが、霊能者は「ジョー…ジャック?」「パパかしら」などと見当違いのことばかり言う。男性の近親者、という以外は何一つ当たっていない。ましてパパの霊から「ママのことを頼む」などと言われては、マーカスは大ショックだろう。この人は“上級霊能者”なんていうけど、大嘘つきだ!と一目瞭然だからだ(マーカスたちの実父は映画に登場しないし明示もされないが、おそらく生きている。薬物中毒の母を捨てて去ったと思われる)。
 髭の霊能者は大袈裟に芝居がかったイタコの口寄せをして見せる。多くの音響機器を配置した男性はいろんな理屈を言うが、亡兄は顕れないようだ。老女の霊能者は鏡を使ってマーカスに何かを見せようとするが、何も見えない。
 このシーンでは二つのことが分かる。ロンドンには霊媒がいて、小さな産業になっていること。しかも彼らは不正確で、マーカスの期待になかなか応えてくれない。公開交霊会の霊能者は、マーカスを誘導尋問しようとした。「最近誰か亡くなったのね」という質問は、見慣れない客がおずおずとこうしたイベントを訪れてくれば誰でも考えつくことだ。「身近な人?」「家族?」という質問もそう。身近でない人の死が気になるので霊媒を訪ねる人はいないだろう。なかには疎遠な人の安否を訊くケースもあろうが、小さな子どもが客ならば、彼の家族、たぶん父母が死んだ、と推測するのが普通だ。
 コールド・リーディングという話術をご存じだろう。外見を監察したり、相手に察せられることなく情報を引き出して、相手のことを言い当てる話術である。霊能者、超能力者、占い師、宗教家、最近だと投資顧問とか様々な個人顧客相手の仕事をする人が、この話術を使うようだ。
 マーカスが訪ねた霊能者は、どれもそのような、不確かでインチキな話をする人たちだった。
 ジョージは違う。
 前2例からわかる通り、ジョージは霊視の結果、見えたり聞こえたりしたことだけを依頼者に伝える。そのため人名を月の名前と間違えたりするが、推測などしないので、その場では不完全な霊視に見えたとしても、最終的には依頼者に「大正解」という強い印象を与える。
 またジョージは嘘がつけない。メラニーの霊視では、男性と女性ふたりの霊を感じたが、女性(心臓発作で亡くなったメアリーの母)の存在だけを伝えた。だがメラニーはそれに満足せず、他にもあるはずだ、と男性の霊(去年亡くなった父)についてジョージの口を割らせた。だがそれは、メラニーの不幸な生い立ちを暴露するもので(おそらく父から虐待されていたか、修復できない不和の原因となった出来事)、自身の古く深い傷をジョージに知られた彼女はジョージの前から姿を消してしまった。この霊視はおそらく依頼者を傷つけるだろう、とわかっていても、ジョージははぐらかすことができないのである。嘘がつけない。そのためにかつて何度も辛い目に遭ってきた、とジョージ自身が悔いながら言う。
 このジョージの基本姿勢、ジョージの限界が、どこかで変容した描写はない。霊能者としての仕事を再開させようとする兄の期待に耐えかねて逃亡した姿は、ジョージがそれまでの姿勢を改めることができないあまり、進退窮まった様子を表している。

 さて、そんなジョージが、ホテルの前で凍えて立ちつくしていたマーカスのために、「優しい嘘をついた」と判断して良いのだろうか。
 マーカスは、霊能者がしばしば嘘をつくことを知っている。それでも亡兄の便り聞きたさに霊能者にすがるマーカス。
 ジョージは、嘘がつけない。おそらく、過去に霊能力がもっと盛んだった頃、不幸な霊視をしたときなど依頼者のためを思って取り繕うとしたこともあったのだろう。だが、そういう努力は何一つ実を結ばなかった。むしろ何かしら有害だった、ジョージ自身が傷つく結果に終わった、ということが暗示されていると思う。ジョージが霊視をしたがらない、職業としての霊能者でいるより、月収2千ドルの工場労働者でいる方がよっぽど幸せだ、という逸話からは、ジョージの清廉さ、融通の利かなさ、生真面目さ、そしてこの能力の厳しさが伝わってくる。
 もう一つの補助線は、マリーが書いた原稿である。マリーは周囲から政治的な著作を期待され、ミッテランの評伝を約束したが、実際に書き上げたのは「ヒアアフター」と題する臨死体験についての原稿だった。彼女は、自分が売れっ子キャスターであることに驕っていたかもしれない。自分なら、当初の打合せと違うテーマでの原稿を書いても受け容れられるだろう、と高をくくっていたのかも。後に「大恥をかいた」「大作家扱いだったのに」と自分の浅はかさを反省するシーンがある。このシーンがあるから、彼女の暴走がやや浅はかに見えてしまうのだが、この挿話にはもっと大事なこと、作品の根幹に関わる思想が入っている。
 それは、人間はいま自分にできることしかできない、ということ厳然たる事実である。
 作品内では明示されないが、マリーは何度もミッテランの原稿を書こうと苦闘したはずだ(作品で描かれるのは、ミッテランの原稿に向かいながら、つい“死後の世界”みたいな言葉でGoogle検索してしまうシーンだけだが)。結局、彼女にはミッテランの原稿は書けなかったのである。
 普通の人なら思うだろう。ミッテランの原稿に目鼻がついたら、落ち着いて死後の世界の原稿を書けばいいじゃん、と。
 僕も出版社で働いていたとき、よくそう思った。なぜ著者は、こちらが望まぬ原稿を書いてくるんだろう、と。著者はしばしば暴走し、打合せとは違う原稿を書いてしまう。一緒に取材し、資料も揃えたのに、なぜこんな方向へ話が行ってしまうのか、これでは売れないではないか、と頭を抱えることが何度もあった。
 だが今はわかる。人間は、そんなに器用ではない。また、器用にできる人には、結局のところパワーがない。
 また、表現の可否や出版の条件を巡って揉める著者がいた。そういう時僕は、こんなこと妥協すればいいのに、そうしたらビジネスはどんどん前進できるのに、こんなことに拘るから本が出せなくなるかもしれないじゃないか、と思った。
 だがそれも間違いなのだ。著者には、今はこれしか書けない、こういう表現しかできない、他の表現に変えることは自分の著作の意味を大きく損なうのだ、だから強硬な態度を崩せないのだ、というぎりぎりの線がある。この線は決して譲れない。譲れる人がいたら、そいつは偽物だ。あるいは小器用なだけの二流だ。
 マリーにとって、書くべき真実はミッテランではなかった。まったく違った。それは周囲におだてられ、乗せられた結果の偽りの自分だった。本当の自分、書くべき真実は、臨死体験しかないのだ。だから、書いた。当然、自信作になった。
 だが周囲の人間には、彼女が掴んだ真実の迫力は伝わらない。それどころか、死後の世界などの不確かなトピックを正面から取り上げた彼女は、ジャーナリストとしての生命がほぼ断たれた。どうもフランスのメディア界には、オカルトを軽蔑する文化風土があるのかもしれない。「この手の本は英語で書いてアメリカで売れ」と言われた。
 僕はこの出版プロデューサーの台詞で、なぜ彼女がフランス人としてこの映画に登場するか、わかった。霊媒が職業として成立するイギリスや、シャーリー・マクレーンがベストセラーになるアメリカは、フランスとは土壌が違うということだろう。彼女は、霊的なものを体験し、それを表現したことによって社会的な地位から異邦人へと転落する役として、この映画の重要な柱である。だがその役はアメリカ人ではダメだった。アメリカだと、大人気のキャスターが霊的な本を書いた、となると『アウト・オン・ア・リム』の再来として社会に受け容れられてしまう。
 彼女は、地位や成功と引き替えにしてでも、自分が掴んだ真実を書かねばならなかった。周囲の理解者がすべて去ってしまっても、自分の原稿を引っ込めなかった。

 そういう流れの物語で、どうしてジョージだけが、「優しい嘘」をつけるのだろうか。
 ジョージは何らかの成長を遂げたおかげで、依頼者が傷つかないよう嘘をつける能力を身につけた、のだろうか。
 嘘がばれないよう、上手に嘘をつく能力がついて、霊能者としてもランクアップしたのだろうか。

 そんなバカな話はない。
 この作品は、そんなちまちました世知辛いことを描いたもんじゃない。イーストウッドが描こうとしたのは、真実ゆえに苦しむ人たちの物語だ。それが、たまたまうまく巡り会う、様々な不幸の中での小さな幸運の話だ。
 小さな嘘が人間関係の潤滑油になりますよ、なんて話をイーストウッドが撮ったと思うのか? ええ?

 僕は、今回マーカスの霊視はたまたまうまくいったのだと思う。ジョージは何一つ創作していない。ジェイソンの霊は、本当に「戻って」きたのだ。そして、何処へ立ち去ったかはジョージにはわからない。もしジョージに嘘がつけるなら、「天国だよ」とか何とかいくらでも取り繕うことができるはずだ。でも、霊能者らしくないと言われても、正直に「わからない」と答えるのだ。だから、ジョージの霊視は“本物(genuine)”なのだ。

 先に挙げた人たちの感想が、「こう解釈すれば、もっと感動的では」となっているのは、「やればできる(はず)」「努力すればかなう(はず)」という思想、盲目的な思い込み、信仰が前提にある。努力して成功する姿は感動的だ、だからジョージには、ぜひ、努力の成果を観客に見せるシーンが欲しい、とでも思ったのだろう。
 たしかにこの映画、食い足りないところがある。もう少し大きなカタルシスが欲しくなる、その気持ちはわかる。
 だが、無理矢理、作品の流れをぶった切って、自分好みの恣意的な解釈をして感動を得るのは、どうだろう。作品が持っている思想=人間には今できることしかできない、と、自分好みの思想=やればできる、をすり替えたら、この作品はどうなる? 僕は「ジョージは優しい嘘をついた」という解釈には、どうあっても頷けないのである。

 大事なことだから再度書いておく。
「人間、努力すれば誰でもなんとかなる」という考えは、マーカスのような成長期の子どもであれば励行してよいことだが、マリーやジョージのように成人して長い人間には当てはまらないことも多いのだ。とくに、マリーのように人生を変えるくらい激しい体験をした人や、ジョージのように昔から深い傷を負った人の場合、努力がまったく効果ないこともままある。それなのに「その気になればなんとかなる」「人間は自分次第でまだまだ変われる」などと言い募るのは、押しつけであり、当事者に対して傲慢・横柄だ。また、人生そのものに対しても謙虚でない。
 この世には、自分にはどうしようもないことがいろいろある、と諦めることはとても大事なのだ。何しろ、どんなに努力しても、過去、死を免れ得た人類は一人として存在しないのだから。
 なお、「努力すればなんとかなる」という考えが信仰に近い狭量な思い込みであることは、僕は小谷野敦帰ってきたもてない男』(2005)で学んだ。名作『もてない男』(1999)に対して上野千鶴子は「コミュニケーション・スキルを磨け」と返したらしいが、上野の撃った弾は射程不足・威力不足のうえにてんで照準ミスなのだ。そしてライムスター宇多丸氏などは、畏るべし、イーストウッド作品に向かって同じような弾を撃ってしまったように僕には思える。

イーストウッドは霊現象を信じていないかもしれない
 ここから先はわざと、意地悪な見方をしてみる。
 この映画は奇妙な作品なのだ。こういう解釈もできる、と。
 作品中、ジョージの霊視シーンでは、手を取り合った瞬間だけ「ビュワ」といった効果音とともに死者の姿、死者の世界のようなイメージが画面にフラッシュする。だが、それ以外は何も映画は映さない。本格的な霊視に入るとジョージは依頼者の手を離し、霊視シーンは言葉の応酬だけになる。
 この時、おおむねジョージは半眼が床などに視線を落とし、何も見ていない。とくにマーカスへの霊視の際、前段ではマーカスを見ようとしなかった。だが後段はジョージはマーカスを見つめて話す。ここでのジョージへのクロースアップは劇的なので、観客が「ここでのジョージの霊視は普段と違うようだ」と感じても仕方がないところなのかもしれない(彼は普段依頼者をまったく見ないわけではない。メラニーの際はちょっと目を見て亡父の言葉を伝えたりしていた)。
 それはともかく、映画は、ジョージが死者を見ている、ということをはっきりと描写しない。一瞬のフラッシュだけが画面に映るが、僕たち観客には、それがずっとジョージに見えているイメージか、一瞬だけなのか、それともマンガの中の“吹き出し”のように何か実在しない約束事のイメージなのか、まったく見当が付かない。
 例外は、作品冒頭の津波の後にマリーが見るイメージである。溺れて仮死状態のマリーは、ぼやっとした空間に大勢の頼りない人影を幻視する。かなり長時間で、人影は次々と入れ替わるので、一瞬のフラッシュではなく、時間的に連続しているイメージだとわかる。だがイーストウッドは、ここまで見せたのにこれが何かはまったく示してくれない。もしかすると、ただの脳震盪の幻覚、かもしれない。
 ジョージの霊視は言葉によってなされる。ジョージ本人にはあたかも死者が見えているかのように聞こえるが、それだってまったく明示されない。
 ここで僕は嫌な想像をしてしまった。
 ジョージには、死者が見えたり、死者の声が聞こえたりしているわけではないのではないか。
 たとえばジョージは、コールド・リーディングで巧妙に依頼者の情報を読み取っているだけかもしれない。
 ジョージは自分の能力を誤解しているのではないか。彼には死者の声が聞こえるのではなく、依頼者の欲している情報が見えるだけなのではないか。自分がコールド・リーディングをしている自覚もないため、それが霊視に見えてしまうとか。
 あるいは本当に透視ができるんだが、死者を見ているのではなく、眼の前の依頼者の心の中を読んでいるだけかもしれない……。

 イーストウッド監督は、ジョージを描くに当たって、何一つ確からしいものを与えていない。はっきりしているのは、彼が本質的に優しい男であること、自分の力を呪っていること、うまくいかない人生に苛立っていること、などである。
 彼の霊能力については、自分で「感覚も鈍った」と言わせ、引退したいと繰り返し言わせる一方、兄の取引相手の依頼者やメラニーを的確に霊視し、依頼者に賛嘆させたり涙を流させたりすることで、その能力が優れていることを語らせている。
 意地悪な見方をすれば、ジョージが霊と交信している証拠はどこにも描かれていない。
 僕らはイーストウッド監督にかつがれているのかもしれない。

 僕ら日本の観客が、この作品をスッと受け容れ、とくに抵抗を覚えないのは、普段から教育されているせいだ。例の太ったスピリチュアル・カウンセラーとか、美輪明宏とかがテレビに出て、繰り返し霊魂やあの世の実在を語るのを見ているから、それが常識になってしまっている。イーストウッド監督が、茫洋とした空間を漂う灰色の人影のイメージを提示したら、僕らはそれを見ただけで「これがこの映画におけるあの世なんだ」と進んで受け容れてしまう。ジョージが依頼者と語り出すと「霊の言葉を伝えている」と自然に思ってしまえる。
 これは、稀有なことだと思う。
 本作でも描かれたように、フランスではどうやら、ちゃんとした人が霊や来世を語るのはタブーのようだ。そういうのはイギリス人かアメリカ人に任せとけ、と。
 アメリカでは、いろんな立場があるのだろうが、ジョージに熱心な客がついているように、霊魂や来世を信じている人、信じたい人は大勢いるようだ。だがそれが私たち日本人の霊魂観・来世観と同じかどうかは判断材料に乏しい。もしかするとキリスト教原理主義のあの世のイメージとか、WASP独特の観念とかがあるのかもしれない。
 むしろ日本人に近いのはマーカスの国イギリスかもしれない。霊魂の存在を前提にした霊媒ビジネスがいろいろあるあたり、そこに一定の需要があるあたり。日本は主に出版物と、新興宗教という形で展開されるが、もしかするとこの映画に出て来た公開交霊会なんぞも流行るかもしれない。
 だが、この映画が描いている霊魂や来世は、私たちが馴染んでいる霊魂や来世とは違うかもしれない、ということはしっかり認識して見たほうが良いと思う。丹波哲郎の提示した死後の世界は「ヒアアフター」とは何ら関係ないのだ。

「死後の世界に国境はない」などと考えるから、自分の価値観を不用意に他人の作品の解釈に投入してしまえるのだ。「努力すればかなう」「自分の力で未来を変えることは価値がある」なんて考え方、ごくごくローカルな信仰かもしれないのだ。
 どんなにそっくりに見えても、基本的には違う国の、違う人たちの見方だ、自分とは違うかもしれない、と思わなきゃ。自分の価値を何にでも当てはめて考えるのは、相手を尊重してないことと思うよ。

 この映画のエンディング、マリーとジョージが出会い、結ばれるかもしれない幻視は、僕にもよくわからない。わからないけど、マリーを見つめるジョージの表情がとても嬉しそうだから、僕的には満足のいくエンディングだった。このあとやっぱり二人はうまくいきませんでした、となっても別にかまわないと思う。
 マーカスだって、ジョージに霊視してもらってがらりと生き方を改めたかというと、決してそんなことはないはずだ。厳しい毎日に立ち向かうには、一瞬の高揚なんて効かない、日々の地道な積み重ねしかないのだ。マーカスはこれから幾度も辛い目に遭うだろう。だが、野球帽に“僕は頼らないぞ”と言えるだけで良かったではないか、と思うのだ。
 僕はそういう風に地味なエンディングが好きなので、なおさら「もっとドラマティックな解釈」が蛇足的な、無粋なものに見えたんです。


三角絞め」氏のブログに、「クリント・イーストウッド監督は2人の役を適当に入れ替わらせつつ演じさせたそうな」とあったのが大納得だった。この二人の役名とキャストは固定されてなくて、「/」で繋がっているのだ。
 まだ子どもなので、現場で片方にずーっと役があり、片方がずーっとヒマだったら、二人とも辛いだろうな、と思っていたのだ。そこはやはりイーストウッド、一人のマーカスに二人の少年をキャストするなんて、素敵ではないか。たぶん二人の少年も緊張感を持って現場に臨めただろうね。

◆追記
 あと、僕は山岸凉子の『白眼子』という、これも霊能力者を描いた作品なのだが、これが大好きだ。これはなかなか、霊能者って厳しいものなんだよ、という思想で貫かれた立派な作品だ。なので、僕が「ヒアアフター」を見る際、『白眼子』から大きく影響を受けていることは否定できない。それは白状しておく。
 とても良い作品なので、ぜひご一読をおすすめしますよ。
白眼子 (潮漫画文庫) 帰ってきたもてない男 女性嫌悪を超えて (ちくま新書 (546))

◆追記の追記
 あと、「ヒアアフター」にはディケンズの諸作品がいろいろ引用されている、という話がある。僕はディケンズは読んだことがないので、その点については完全に無視している。もしもディケンズに「悩み苦しむ男が小器用なウソをついて物事をうまくいかせ、自らも解放される話」なんてのがあったら、ごめんなさいね。