新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

素敵な書店員、K・Aさんの思い出

 まだ会社にいた頃、初めて書店営業に行った先の一つが、有楽町駅前のビルに入ったSS堂書店だった。有名なお店だけど、ここは本店ほど歴史は古くない。僕は以前そこが三菱銀行の支店だった頃を憶えている。
 そこで会った、とっても印象的な書店員さんのことを書いておきたい。
 僕は、2年前、会社を辞める直前のエントリで、こう書いている(http://d.hatena.ne.jp/tanu_ki/20100528/1274987957)。

 有楽町で地下鉄を降り、地下通路で直結したビルの階段を上がる。ここにある書店は最高の立地を活かして強力なディスプレイ、本のピラミッドみたいな仕掛け台で有名だ。また人通りがあるので雑誌創刊のときは必ずデモ販売をお願いしていた。残念ながら僕が担当していた二年半の間はデモ販は一回やったきりで、しかも出張とかちあって僕は参加できなかったのだが。
 このお店のもう一つの特徴は文芸書に強いことだ。文芸書コーナーの面積自体は大きくないのだが、有楽町の膨大な乗降客のうちかなりの数の文芸書好きがここで買っていると思う。だから作家が新刊のプロモーションで臨店したい、というときはこのお店ははずせない。そしてこの店の文芸担当の方がまたいーんだ、これが。どんな修羅場でも笑顔を絶やさないお姉さんで、僕たち出版社の営業マンはたぶん全員彼女のファンだと思う。
 彼女が出勤してるかどうか訊いて、バックヤードへの階段を降りる。以前このテナントは銀行の支店だったらしく、バックヤードはその昔の金庫室だったという噂。いかにもそんな感じの重厚な壁に囲まれた階段だ。
 ロッカーの前に、彼女はいた。
「すいません、突然おじゃまして。今月末で退職するのでご挨拶に…」
「あ、来たね。ブログ読んでるよ」
「うへっ」
 にやりと微笑んで彼女は続けた。
「…逃げ出すんだね?」
 うっわー、それを言わないで! こういう、本質を衝いたことをさらりと言える人なのだ。マイるなー。

 この“文芸担当のお姉さん”が、K・Aさんだ(注1)。
 Kさんは聡明で、なおかつ優しい人だった。「逃げ出すんだね?」という一言で彼女のキャラが伝わると思うけど、あのとき僕は彼女にこう言ってもらって救われたような気がした。会社をリストラで辞めることについて、何かいろいろ理屈や恰好をつけてブログを書いていたけど、ぼんやり思っていたけど怖くて口に出せなかった一言を、彼女は僕に代わって言葉にしてくれたのだ。それが、彼女の優しさだった。

 初めて会ったとき、Kさんはまだ二十代だったけど、落ち着いた物腰、無駄のない動き、誰とでもきちんと目を見て話す姿勢とか、すごく老練な書店員に見えた。そして、年齢だけ嵩んで右も左もわからない、ヒヨッコ営業マンの僕は、彼女をはじめとする書店員のみなさんにいろんなことを教わったのだった。
 大きなお店だったので「週に一回は訪問しろ」と言われたのをいいことに、ちょこちょこ訪ねた。有楽町は普通に歩いても楽しい、東京でも屈指の繁華街だ。そして、訪問相手である書店員さんたちと段々知り合っていくと、営業で訪ねるのが本当に楽しくなるのだ。彼女がシフトで入っている時の有楽町店はとくにそうだった。
 書店員の仕事は多忙を極める。新刊はいつも大量に入荷するが、展示する店頭の広さには限りがあり、毎日が引越作業のようなもので、大量の本を台車からおろし、入れ替わりに大量の本を箱詰めして返品する、という物理作業がある。書店員の多くは腰痛持ちだ。店頭を作り込むことも重要だ。とくに文芸書は映画でいうと封切りロードショウだから、ベストセラー作家の期待の新刊とかはハリウッド超大作のような派手なプロモーションになる。この店では、B全判のポスターを特別に作って天井から懸垂し、数百冊の書籍を円錐形に積んだりしていた。デザインセンスが問われる。その展示がまた瞬く間に売れて減っていく、有楽町駅真正面とはそういう土地柄だった。
 そんななかでもKさんは、ベストセラーだけじゃない、意表を突いてマニアックな書目が刺さっている、刺激的な文芸棚を作り続けていた。ハリウッド超大作も手がけるけど、東欧やアジアのインディペンデント映画にも目配りを欠かさない映画館、みたいな仕事だと思った。

 Kさんはいわゆる“カリスマ書店員”の一人と言ってよい。彼女の言葉を推薦文に使った文芸書や文庫がいくつもあったし、ベストセラーに関してしばしばメディアの取材を受けていた。また、会社の枠を超えて書店員同士で繋がり、書店の売り場から面白い本を発掘し、自発的に情報を発信するグループの一員だった。作家・著者が最新刊をプロモーションしに都内有力書店を廻るとき、彼女はシフトを調整して必ず在店してくれた。バックヤードで作家がサイン本を作る段取りをし、歩き疲れた作家を労ってくれた。各社の営業マンにも人気だったが、編集にも、作家さんにも好かれる存在だったのだ。
 へっぽこ営業の僕なんか、何か話す度に教えてもらうことが多くて、ホント彼女のこと「お姉さん」に思えた。一回り以上も年下なのに。忙しい時に申し訳ない、と思いつつ、つい頼ってしまっていた。いつも微笑を絶やさない彼女のスタンスが声をかけやすかったんだね。
 営業マンが声をかけやすいということは、お客さんもよく声をかけてくるわけで、有楽町を訪れる膨大なお客さんが、彼女にいろいろ訊ねたりしてたはずだ。近年、接客業はますます労働の強度を増している。業務内容は毎日毎日、より複雑に、よりスピーディになっていく。クレームもほんとに多かったろう。そんな中でも彼女はどんなに忙しくてもテンパッたとこを見せなかった。一緒に働いていた人は僕が見たのとは違う彼女の顔をご存じかもしれないが、少なくとも僕は、テンパッた彼女を見たことはない。

 でも彼女をよく知る別の営業マンは、こういうことを言っていた。
 彼女に「最近面白い文芸書は?」と話しかけたところ、「最近は文芸書じゃなくてビジネス書とか自己啓発とか読んでてね……」と少し淋しそうに答えたというのだ。彼はその時の彼女の様子を、「何か悩みでもあるのかもね」と付け加えた。そんなに深刻そうではなかった、とは言っていたが。


 二年前の「逃げ出すんだね?」という会話の二カ月後、本が出たとき挨拶に行った。普通に、温かく迎えてくれた。地下のバックヤードで、偉い作家さんがやるのと同様に、サイン本を作ったと思う。あれが最後だったんだ。


 先週、元同僚から電子メールが届いた。「昨日Kさんが亡くなりました」という訃報だった。
 えー!! と思ったが、なんとなく腑に落ちる気もした。なぜだろう。彼女、まだすごく若いよね…。
 もしかすると鬱病か何かの結果だろうか、と思った。接客業のストレスはおそろしく高い。僕が知ってる書店員さんで鬱病で休職した人は一人や二人じゃない。
 反射的に「明日は忙しいのでお通夜は遠慮させてもらいます」と返事してしまった。
 もしも、自ら命を絶ったとしたら、辛すぎると思った。大学時代、すごく身近にいた先輩がそんな形で亡くなった、その記憶が蘇る。ただでさえ若い人が亡くなると、残された者はものすごく傷つく。僕は彼女の死を直視する勇気が出てこなかった。

 その夜、思い出さないように思い出さないようにとしていたが、寝床で横になって暗い部屋を見上げていると、彼女の笑顔が何度も浮かんできた。そして、自分が、彼女の死を受け容れていないことに気がついた。どうにも納得できないのだ。だってそうだろう?
 夜が明けて、僕は枕元の携帯電話を手にとって、メールをくれた元同僚に返信していた。「やっぱりお通夜行きます」と。なぜこんなことになったのか、知りたい。知って納得したい。辛いことを聞くことになるかもしれないが、それでもいい、と腹をくくった。

 お通夜は、茨城県笠間市というところで行われた。茨城なんて僕は行くの初めてだ。
 お盆の真っ最中で暑い日だった。北へ向かう湘南新宿ラインの行く手には不穏な黒い雲が広がっていた。宇都宮の手前で日光線という単線に乗り換えたとき、地面が白く煙るほどの土砂降りに見舞われた。短い編成の電車は濡れた田圃の中を延々と走って、無人駅に着いた。
 アキアカネ? ナツアカネか? 赤とんぼが青い稲の上を飛んでいる。昼間の熱気が残っているけれど、涼しい風が田圃を渡ってくる田園地帯だった。ここから一キロほど歩いたところに葬祭場がある。

 こんもりした森を背負った葬祭場に、黒服をの男たちが大勢いた。SS堂の店長やマネジャーたちだ。以前お世話になった、懐かしい顔が何人もいる。SS堂は全国チェーンなのだが、遠くから新幹線と特急を乗り継いで駆けつけた人もいた。
 式は神式で、仏式と違って白だけじゃない、赤や青の花が祭壇を飾っている。僕も祖父の葬儀が神式だったのだが、神式は「死ぬと神様になるのでめでたい」というタテマエだから、仏式のように湿っぽくしない、食事には赤飯を出す、というのを思い出した。僕は五歳だったが、祖父の葬儀に赤飯と鯛が出たのを憶えている。
 式場入り口から祭壇を覗くと、遺影がこっちに向かって微笑んでいた。赤いショール?を羽織り、両手でVサインをしたKさん。色白で、きれいな歯並び、唇もつやつやとしてハイライトがかかっている。ずっと前から、Kさんは剥きたての白い桃に似ている、と思っていたのだが、そんな感じをしっかり焼き付けた写真だった。

 彼女の上司だった店長さんや、僕に報せてくれた元同僚と話をした。享年三十三歳、白血病、だそうだ。
 僕はとりあえず、鬱病などではないことに胸を撫で下ろした。彼女はもういない、という事実の重さに変わりはないが、自ら死を選んだ人を見送る辛さを思うと、身勝手にもホッとしてしまうのだ、僕は。
 祭壇の横には、書店の同僚から、また書店メーリングリストの仲間から、そして誰でも名前を知ってる有名な小説家たちからの献花を意味する名札が立っていた。版元も何社も花を出していた。参列している中にも版元の営業系役員がいた。現役営業マンも大勢いたのだろうが、僕にはもう他社の営業を識別できなかった。

 お焼香、ではなく、音を立てない柏手で神前に参拝した。ご両親と妹さんが祭壇の横でくり返し頭を下げておられた。
 闘病はどう……と思ったが、ご家族の顔を見たとき、そういう疑問は霧消した。彼女は若く、生きようとする力は強かったはずだ。それを阻もうとした病魔も手強かったに違いない。そのせめぎ合い、闘いをずっと支え、見守ってこられたご家族である。その表情は落ち着いていた。

 およそ三十分ほどのお通夜を終え、僕たちは三々五々散っていった。葬祭場の背後の森は青っぽく日暮れていた。
 僕は元同僚と一緒に特急電車で上野に戻り、ガード下の店でちょっと飲み過ぎて翌日はずっと頭が痛かった。


 僕はKさんと個人的な付き合いはなかった。僕が担当だったときに彼女から推薦文やPOPを書いてもらう機会もなかった。彼女からもらったのは名刺だけ。写真もない(なので不謹慎だけど電話で遺影を撮って帰った)。

 僕は「逃げ出した」はずだけど、どこに逃げてよいのかわからないので、いまだにそこらをウロウロしている。もし彼女がこんな僕を見たら、「しょうがないねえ」と呆れて苦笑するかもしれない――僕は彼女の笑顔を忘れないし、彼女からかけてもらった言葉は忘れたくない。素敵な書店員だった彼女と、彼女の志を継いで今日も売り場で奮闘している多くの書店員たちがいることを、僕は書いておこうと思った。
 有楽町店で本を買ったことがある人は、もしかすると、Kさんと会ってるかもしれませんよ。


※注1
 これまで僕はこのブログを匿名主義で書いてきた。なので今回もイニシャルでぼかしながら書いたけど、最後にルールを曲げて彼女の本名を書いておこうと思う。K・Aさんとは、三省堂書店有楽町店の文芸担当だった小松崎敦子さんである。
三省堂 小松崎敦子」でググれば、今でもネットのあちこちに彼女の仕事の一端が残っているのを見ることができる。彼女が書いた推薦オビを見て「これ誰?」と言ってる人もいる。そういう疑問に応えておきたいと思って、このエントリを書いた。僕が書いた中には個人情報に類することもありますが、どうかお許しください。誰でもググれば彼女のことを知ることができるように、彼女のことを忘れないように、と思って書きました。
 文責は僕たぬきちこと瀬尾健にある。元・光文社販売部の営業マンとして彼女にお世話になった一人です。小松崎さん、ありがとう。やすらかに。