新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

今月読んだ本『十二単衣を着た悪魔』『賭ける仏教』など

 今月はわりにアタリの本に巡り会えた、良い月だった。とくに、小説は苦手にしてるのだけど、こんなにのめり込めたのは自分でも珍しい。よっぽど高品質な作品なのだろう、と思った。


内館牧子十二単衣を着た悪魔 源氏物語異聞』
 今月のMVPは文句なしにこれ。5月刊なのだけど、まだAmazonにも3つしかレビューがない。Amazonは全体に小説よりノンフィクション系(とくにビジネス・自己啓発)に偏った書店だけど、本作にレビューが3つしかついていないのはなんだか可哀相だ。なぜなら、ものすごくポップで、しかも泣けて、せつなくて、わくわくする、大冒険・ビッグスケールの小説だから!
 手に取った時は全然期待してなかったし、むしろ「現代のフリーター青年が『源氏物語』の世界にトリップし、陰陽師として弘徽殿の女御に仕える」という設定からして「なんかつまんねー」と思っていた。タイムトリップとか安直なSFもどきはやめてもらいたいなー、と正直思ってた。
 しかし、主人公の青年が『源氏物語』の世界にトリップ(架空作品の世界へのトリップだから、正確にはタイムトリップではない)して弘徽殿の女御と出会ったところから、僕はこの作品の重厚かつポップな世界に圧倒された。とにかく凄い。
 作者は、高校生の頃から『源氏物語』が好きで、なかんずく弘徽殿の女御ファンだったという。その弘徽殿の女御を中心に、『源氏』の世界を再構築し、現代人である主人公の目を通して見せてくれる。たったこれだけのことで、ものすごい迫力で『源氏』の世界がリアルに目前に迫ってくるのだ。
 高校生の時、大和和紀あさきゆめみし』はもちろん読みましたよ。おかげで古文は源氏だけ満点が取れました。でも、正直、どこが面白いのかさっぱりわからなかった。古代人と現代人とじゃ、感じ方とか書き方が違うから、僕らには彼らの気持ちは到底わからないのかなー、と思っていた。
 でもそんなことなかったんだね。内館牧子の書きっぷりは、『源氏』の世界の人びとを、給湯室のOLトークに変えてしまった。そして、それが正解なのだ。『源氏』のストーリーは、スキャンダラスでひどくて呆れる話ばかりで、そこに高尚な美とか幽玄とか読み取ろうとしていては、エゴイスティックで残酷な愛や恋の本質が見えなくなってしまうのだ。
『源氏』は、モテ男の乱行と、女たちの権力闘争を描いた話である。それは、基本的には、美とかもののあはれとかを軸に読むべきではなく、人びとのエゴと欲望を読み取っていくべきなのだ。美やもののあはれは、結果的にそこから浮上してくるのだろう。
 弘徽殿女御は皇太子である第一皇子の母だが、側室桐壺更衣が産んだ二宮(後の光源氏)があんまり利発で美しい子なので、第一皇子がかすんでしまうことにやきもきする。帝の愛ももう喪われている。『源氏』のストーリー上では弘徽殿女御はオワコンなのだが、彼女の視点を通すことで、人びとのエゴと欲望がぎらぎらと浮き上がって見えてくる。
 主人公のフリーター青年は、手に『源氏物語』のダイジェスト本を携えてタイムスリップしてきた。つまり、彼には人びとの運命がわかるのだ。だから彼は運命を予言する陰陽師を名乗り、弘徽殿女御の本音を聞いたりする。人びとの運命が予めわかる、といっても、それを使って物語の筋を曲げたりしてはならないわけで、主人公は傍観者的にしか『源氏』の世界にコミットできない。
 ところが、青年が妻をめとり、平安朝のミドルクラス(?。六位だから貴族ではない)の生活を始めると、俄然面白くなってくる。彼がめとった中納言の娘は出っ歯で目の細いブスだったというが、だんだんと愛着が湧いてきて、しまいには分かれがたく愛してしまう。

 昨夜は倫子(りんし)と二人、朝まで攻守に頑張ってしまい、眠い。寝床の話ではない。碁だ。倫子は碁が好きで、やり始めると止まらない。俺は麻雀以外は碁も将棋もやったことがない。
 倫子が教えたがるので、必至に覚えたところ、時間さえあれば相手をさせられる。そのたびに思うのだが、夢中で碁盤をにらんでいる彼女は、どんどんきれいになっていく気がする。目が大きくなったわけでもなく、出っ歯が直ったわけでもないのだが、何だか印象がまるで違ってきた。たぶん、これが「男によって開花する」ということか。俺に開花させられたのか。(p131)

 ここ、すごく好きな描写だ。こういうことってホントあるのだ。内館牧子、凄いと思う。
 こうして平安朝の人びとと深くコミットした主人公は、弘徽殿女御や源氏たちの感情をも、僕たち現代人にわかりやすく伝える触媒となる。ちなみに、主人公と光源氏が直に会ったり話をするシーンは、前半ではすごく少ない。光の行動はほとんど伝聞だ。リアリティを追求すればそうなるのだ。
 そう、この作品は実はかなりリアルな考証をしている。現代のフリーター青年をトリップさせといて、「ヤベー!バレバレかよ」とか喋らせといて、考証もくそもなかろう、と思いきや、この作品中では、平安朝の人たちは口調はさておき、平安朝のものを食べ、平安朝のリズムで暮らし、平安朝らしい苦難を受ける。たとえば病気、マラリア(瘧)は『源氏』にも描写があるが、それだけじゃなくて、たとえば出産シーンとか凄い。出産って、つい百年くらい前まではものすごくリスクの高いことだったのだ。ヨーロッパでは消毒の習慣がなかったので、病院で出産すると医師の手から妊婦が感染し、かなりの割合で産褥で死んだ。平安時代も似たようなもの。不倫の恋でも避妊なんてできないし、妊娠したら妊娠したで難産は母子ともに命の危険がある。こういうエピソードをはさみながら、内舘源氏は物語が本来持つ迫力を余すところなく僕ら現代の甘ったれた読者に伝えてくれる。
 平安朝にうまく溶け込んだ主人公を、ある悲劇が襲う。ここは僕も泣いた。主人公の悲運に感情移入して、ではなく、主人公の哀しみが伝わってきて、ついもらい泣きしてしまった感じだ。泣かせよう泣かせようとする下衆な小説は多いが、思わずもらい泣きしてしまう小説は少ない。ここも内舘凄いと思います。
 癒やしがたい喪失感を抱え込んでしまった主人公、彼のうつろな目を通して『源氏』の世界を再び見ると、ここではじめて「もののあはれ」が立ち上がってくる。死への不安、離別や惜別の哀しみ、逃れられない喪失感が、主人公の視点を大きく成長させる。
 本作は、『源氏』の面白さを丹念に拾い上げ、洗って磨き、ターボブーストで加速させたような、てんこ盛りの小説だ。弘徽殿女御や朱雀帝、そして源氏など、もっと彼らと一緒にいたい、読み終わりたくない(別れたくない)、と真剣に思った。なにより主人公・伊東雷鳴くんのその後がすごく良かった(彼は結局『源氏』世界から元の現代に戻ってくる。ここからがまた一つのストーリーで、素晴らしいのだ)。
 小説って凄いな、こんなにもパワーがあるんだな、と感じ入った一冊。『更級日記』に『源氏』が好きで好きでたまらない、という話が出てくるけど、『十二単衣を着た悪魔』を読むと、その気持ちがダイレクトにわかるというか、共感できると思う。400頁あるけど、1頁たりとも退屈しませんでした。


◆南直哉『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』
 これは去年の7月に出た、禅僧・南直哉師の本。「IT系企業を経営する三十代の彼」と「和尚」との問答形式で書かれている。本書は南直哉師の単著ということになっているが、企画の初期にはもう一人著者がいたという。それはどうやら宮崎哲弥らしい。
仏教」について、鋭い問答が続く。振り出しの章は、「オウム真理教仏教か」。オウムなんて古いよ、と言ってはいけないのだ。既存仏教はまだ一言もオウムに対してきちんとした返答をしていないから。既存仏教が「出家を許容しない」、オウムが反対に出家を受け容れた、このジレンマは今以て解決されていないし、既存仏教は解決しようなんて思ってもいない。既存側からはただ個人個人が蟷螂の斧みたいなアクションを起こしているのみだ。南直哉師もその一人だ。
 続く章「出家のいきさつ」「仏教は何を問題にしているのか」あたりは、ナーガールジュナやウィトゲンシュタインが出てきてちょっと難解で退屈。だけど、話していることがおそろしくラジカルなのはわかる。最近のものわかりの良いお坊さんは、「今日一日を大事にすごしてください」とかなんとかそれっぽい、キャッチーな説法をテレビとかでして人気だったりするけど、南師の話にはそういうユーザーフレンドリーさはない。つねに、自分が大事だと思うことに忠実で、読者サービスとかは考えていない。今の仏教で一番大切なのは、大衆に迎合せずに仏教の凄みを見せつけることだ。それができていないから既存仏教はダメなのだけど、南師は敢然とそうしているのが凄い。
 そして「自殺をしようとしている人にどういう言葉をかけるか」といった、ぎりぎりの話になってくる。あるいは、どこの寺でもやってる「水子供養」。既存仏教水子を作ること(妊娠中絶)と殺生戒をどう整合させるのか。話は「修行と性欲について」「霊魂と因果について」などで、既存仏教が決して語らない(タブー?)部分にまで及ぶ。

何年も永平寺にいると、永平寺で一生を送ることはできないことがわかってくる。別に制度上だめなわけではない。いたければ何年でもいられるように見える。しかし事実上できない。貫首にでもならないかぎり、どこかの時点で出ていかざるをえなくなる。……日本の仏教教団というものは、それが何宗であろうと、住職教団であって僧侶教団ではない。住職にならないかぎり、教団人としての意味がない。(p195とp197)

 僕は前に、「どこか山奥の禅寺で、典座になって年老いていきたい」と書いたけど、ここには「それは無理なんですよ」とはっきり書いてあるのだ。うーむ、凄い。
 仏教も今の日本では衰退産業だ。だから若手僧侶のなかには問題意識に目覚めて、大衆へアピールするよう運動している人たちも多い。テレビに出たり、敷居の低い坐禅教室を開催したり。僕もそういう坐禅教室の一つに通っている。若手の僧侶たちが甲斐甲斐しく世話をしてくれる。また、宗門の大学がやっている日曜講座でも坐禅ができる。ここは年輩の熱心な学習者が多く、坐禅の雰囲気もピリッとしてて良い。しかし、残念なことに、それ以上に深まることはできない。坐禅教室に通って発心し、一生涯坐禅して生きよう、と思っても、日本ではそれはできないのだ。なぜできないのかは本書に詳しく述べられているので、手にとってみてください。既存仏教を指弾しているばかりではダメなのだということもわかる。南師のは現実的な解がないのだったら作ろうよ、という建設的な意見だ。
 本書は仏教の本ではないかもしれない。仏教業界の本、なのかもしれない。しかし、それは生々しく、リアルだ。読む者に迫ってくる。中村元の本は名著だし、不朽だけれど、ミイラか鰹節のように不朽だ。本書はナマのもので、切り口から血が滴っている、生臭い、不気味な感触がある。だが、そんじょそこらの「ちょっと良い説法」などとは違う、ぎりぎりの言葉が素晴らしい。
 前のエントリで触れた安泰寺のネルケ無方師と、この南直哉師は、日本仏教の現在を語るとき避けて通れないキーパースンになりつつある。二人とも曹洞宗だ。また、発言が注目される僧侶として玄侑宗久師がいるが、彼は臨済宗だ。禅宗は、実は死後の世界を否定している。他の宗派とは大きく違う、パンクな宗派だ。他の宗派からは仏教を再興させるムーブメントは起きないだろう。


 今月は他に小谷野敦『素晴らしき愚民社会』『江戸幻想批判』とか、感銘を受けた本が多々あった。小谷野の本を読むと、精進してきた研究者の迫力に打たれる。ずっと読書して思索し、それを形にして発表し、批判し批判されてきた、その結果紡ぎ出される言葉の重さが凄い。

 あと、楽天koboだけど、これって8000円の値打ちあるのだろうか? Amazonは出す出すと言ってなかなか日本語Kindleを出さないが、Amazonが本気を出したらEインクのKindleなんて2000円とか、へたしたら「プライム会員にはタダでさしあげます」くらいはやりかねないと思うのだが、どう思いますか? そして、「正法眼蔵」「正法眼蔵随聞記」「源氏物語(できれば原文と内舘訳)」が入ったKindleだったらほしいなー、と思うのだった。