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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「冷たい熱帯魚」、愛犬家連続殺人、暴露小説、その知られざる迫真部分

 園子温の映画「冷たい熱帯魚」を今更見た。昨年新春公開で、DVDリリースは先の夏だから、ずいぶん遅い鑑賞になった。すっかり旬の話題から乗り遅れているたぬきちであった。
 しかしツタヤでは準新作になって高回転してるみたいだし、何より、簡単には古くならない作品だから、乗り遅れたけどちょっと感想を書いておきたいな、と思う次第。

冷たい熱帯魚」に今更ハマるのは、たぶん僕だけじゃない。近所のツタヤでは週末は全部借りられてるし、原作を読もうとする人がすごく多いのだ。
 原作というか、正しくは“元になった事件を書いた本”だが、三冊ある。
共犯者 (新潮クライムファイル)山崎永幸『共犯者』(新潮社・四六判・1999年)

愛犬家連続殺人 (角川文庫)志麻永幸『愛犬家連続殺人』(角川文庫・2000年)

悪魔を憐れむ歌蓮見圭一『悪魔を憐れむ歌』(幻冬舎・2003年)

 実は、どれも新刊では入手不可能、業界的に言うと「ただいま品切れでございます」、つまり「重版未定、事実上絶版」らしい。
 これらは、タイトルが違う、出版社が違う、著者名まで違う。パッと見、まったく違う三冊の本である。
 しかし、中身はほぼ同一らしい。なんということか。
 なんでこんな不可思議なことになっているのか。

 その前に。僕が住んでいる区の図書館には、『共犯者』が一冊ある。図書館のwebを見ると、今日は貸し出し中。そしてウェイティングリストに28人が並んでいる! ちなみに区の人口は80万人、ここに一冊きりだから、映画をDVDで見た一握りが「読みたいな」と思ったら、こんな塩梅になってしまうわけだ。
 ちなみに『愛犬家連続殺人』は区の図書館は所蔵していない。
 ところが、『悪魔を憐れむ歌』は区全体で四冊あり、貸し出し中は一冊のみだ。ちなみに借りてるのは僕だ。
 だから、「冷たい熱帯魚」を見て“原作”を読みたくなった人は『共犯者』じゃなくて『悪魔を憐れむ〜』を探すと良いと思います。

 この三バージョン、何が違うのか。『共犯者』の著者は、本文に「俺」として登場する。事件の共犯として捕まり、主犯●●の連続殺人を事細かに供述し、証拠となる屍体がほとんどないこの事件の決定的な証言をした立役者。その、実名がクレジットされている。
『愛犬家連続殺人事件』の著者は、『共犯者』の著者と同一人だが、苗字が違う。
 そして『悪魔を憐れむ歌』の著者は、どうやら、『共犯者』の元になった「週刊新潮」連載記事の頃からゴーストライターを務めていた人らしい。ちょっとにわかには信じられないことだが、ゴーストが自分の名前で本を出したということか。異常な事態だが、そうせざるを得なかったねじれ、もつれを感じる。
 実際に読み比べてはいないのだが、ネットに断片的に転載されているのを見る限り、『共犯者』と『悪魔を〜』は、地の文はほとんど違わないみたいだ。一番の違いは、『悪魔を〜』では登場人物の一部が仮名になっているらしいこと。犯人側は最初の『共犯者』のままらしいが、被害者が匿名になっているのだ。
 Amazonのレビューを見ると、被害者を仮名にしたことに憤っている人がいる。そういうものなのか。自分が手にする情報がいくらか毀損しているのが気に入らないのだろうか。そもそも情報は情報になった瞬間に事実から欠け落ちる部分が膨大にあり、初めから毀損しているようなものだと思うが。

 とりあえず、中身が違わないんならどれを読んでも同じじゃん、ということで『悪魔を憐れむ歌』を読んだ。……いやはや、物凄い迫力の本だった。
 文章も素晴らしい。事件の詳細をたどりながら、スピード感、ユーモア、恐怖・怒りといった心理の揺れが緻密に伝わってくる。蓮見圭一という人の仕事は素晴らしい。また、ゴーストにこれだけのことを伝え得た原著者の才能も窺わせる。
 いや、才能ではなく、体験の凄さなのか。
 事件の概要については愛犬家連続殺人事件を参照してほしい。このwikiは削除されるかもしれないので魚拓を取りたい方はお早めに。
 映画「冷たい熱帯魚」は、いくつかの設定を変えてあるが、大筋は実事譚(a true story)を忠実になぞっている。いや、実事というより書籍『共犯者』その他の記述を忠実になぞっている。とくに殺人者・村田(演じるのはでんでん)のここぞと云うところの台詞が、書籍から多く取られている。たとえば、

「子どもがすくすく育つのを誰よりも願っているのは親だよな。お前もそうだろう。俺も娘が嫁に行くまでは、どうしても捕まるわけにはいかねえんだよ」
「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。それはこの●●●が決めるんだ。俺が今日死ねと言えば、そいつは今日死ぬ。明日だと言えば、明日死ぬ。間違いなくそうなる…」(同書p058。※原文●●●には人名がはいりますが、不要と思うので伏せました)

 映画では台詞が出てくる状況がちょっと変えられているが、非常に効果的に、印象強く使われている。脚本を書いた人たちの素晴らしい仕事ぶり。この映画が、元になった書籍に敬意を払っており、書籍から伝わってくる実事件の本質を作品に掬い取ろうと懸命の仕事がなされたことがわかるはずだ。

 だが、映画がフィルムに焼き付けることができたのは、事件のごくわずかな一面にすぎなかったらしい。あの事件は、あの凄惨な映画が描ききれなかったくらい、闇が濃く、深く遠く、血の量も遥かに多い。
 たとえば同書には、映画が取りあげなかった四人目の殺人が書かれている。中年女性で、店の従業員の親御さんらしい。犯人は彼女を殺し、他の被害者と同じように屍体を解体するのだが、その過程で性的に屍体を辱めたという。また別の箇所では、犯人が人肉食をしていた、あるいは、被害者の知り合いに人肉食をさせたと思しき会話がでてくる。まったく、レクター博士そこのけだ。
 繰り返し云うが、あの凄い映画は、事件のごく一部を切り取ったものにすぎないようなのだ。

 さらに、『共犯者』Amazonレビューには、もっと凄いことが書かれていた。引用する。

悪魔, 2011/2/19
By sumire1996 (東京都)
当時の●●と▲▲は、有名人だった。ペット業者やドックショー関係の者ならば必ず噂は知っていた。アフリカケンネルの犬は人間の肉を食っていると・・・●●は愛想良くいつも若い兄ちゃんやギャルに声をかけていた。真相を確かめに友人が誘われるままアフリカケンネルに遊びに行った。ライオンがいたと言っていた。それと異常にデカイ機械が事務所の中にあって牛一頭全部ミンチにできる機械だと言った。●●は頻繁に新宿へ遊びに行き家出娘を連れ帰り住み込みでペットショップで働かせ身体を弄び逃げ出す前に殺していた。死体は機械で処理し犬が食って終わり、犬の糞から未消化の骨がでるけど埋めたり燃やしたり汚物として廃棄する。アラスカンマラミュートはアザラシの肉(脂肪の塊)を消化する数少ない犬種。だから●●のショードックは毛艶良く見栄えがした。そして威風堂々たる雰囲気を発していた。▲▲は犬の奴隷のように膝まづき熱心にグルーミングをしていた。犬への愛情というべきか執着というべきか異常なまでの溺愛ぶりを人目を憚らず見せつけていた。その容姿はピエロの様で障害者かと思わせた。事件の発端はミンチの機械が故障して死体の処理が不完全になった事からはじまった・・やはり悪魔の●●でも人を完全に消し去ることは不可能だったのだ。この事実が本に記載されていないのを悔やまれる。

 主犯とされた二人の名前は僕の判断で伏せて引用した。▲▲とは、主犯●●の妻である。
 しかし、この短い文章のなんと恐ろしいことか。たったこれだけの文章に、本に載っていないさらに恐ろしい事が書かれているではないか。
 このレビューを信じるなら、四人が殺されたとされる愛犬家連続殺人事件は、コーダ(結び)に過ぎなくて、まったく違う作風の前奏曲やら本編やらサビの部分が膨大にあるんじゃないか、と疑ってしまう。
 この事件は、「ボディを透明にする」という●●の言葉が有名になった。それは、書籍や映画では「包丁で屍体を解体し、肉と骨を分離、骨は焼いて粉にし、肉は細切れにして川に投棄」というメソッドを取っている。だが、本来は「牛一頭全部ミンチにできる機械」で「機械で処理し犬が食って終わり」という、別のメソッドがあったというのか。
 映画でも書籍でも、●●が屍体を解体し焼却する手際がものすごく良いことに驚く。五十キロの肉をサイコロ状に刻むなんて、台所仕事をする人ならそれがどんだけの労力を要するか見当が付くだろう。ものすごい能率だよ。この●●は、間違いなく仕事ができる人だ。犬のブリーダーとして成功したというのもある意味うなずける。
 それが機械を使うなら、もっともっと能率は上がる。というか、映画や書籍が描いたのとはまたまったく違う事件が、いくつもいくつもあったことが窺える。なんということか。

 とまあ、映画からちょっと先に行くだけでこんなに凄いことがボロボロ出てくるこの事件、まったく凄いモノだ、恐ろしいモノだと思いました。

 実は、書籍の読み所はまだ別のところにある。
 多くの読者は「こんなの余計な部分だ」と思うだろうが、僕は面白く読んだ。語り手が●●の共犯者として捕まって以降の、取調の部分だ。とくに検事との調書をめぐる攻防。
 書籍では、「俺」こと主人公が逮捕されてしまうと、主犯●●との接点がなくなってしまい、●●は舞台から去る。代わって登場するのが、浦和地方検察庁熊谷支部の長身のI検事、同書の掉尾を飾る悪玉だ。
 この検事は、殺人の共犯容疑で逮捕された「俺」にこう云うのである。

死体遺棄での逮捕はある。勾留もあるかもしれないが、それくらいは我慢してくれ。最終的には僕が起訴猶予か不起訴処分にするから、君が刑務所に行くことはない。最悪でも執行猶予はつける」

 主な容疑は死体遺棄とはいえ、四件の殺人に関わった人間が起訴猶予か不起訴になるなんて、ありえるだろうか?
 だが、拘禁され、追い詰められた「俺」に、検事の言葉を疑う余裕はない。代わって彼に真実を告げたのは「俺」の調書を取った刑事だった。

「はっきり言おう。お前は捜査当局への協力者だが、それでも実刑を食らうことになる。四件の死体遺棄で執行猶予なんてつきっこねえんだよ。ましてや不起訴だの起訴猶予だの、あるはずがねえ。あの検事が何を吹いたか知らないが、遺族感情ってものがあるんだよ…」

 この落差。検察官がつく、あられもないすぐバレる嘘。
 当今のニュースで、検察のスキャンダルを耳にしているからこそ「なるほど、ここでもか」と思えるが、そうでなかったら「こんなすぐバレる嘘を、検察官がつくわけないだろ」と思い込むかもしれない。普通の人間には、疲れてくたびれたスーツを着た刑事よりも、ピッとした立派な服を着た検事のほうが、偉く、信頼感もあるように見える。
 だが、違うのだ。「俺」の弁護士は、諄々と「俺」を諭す。

「検事といっても所詮は歯車の一つだということです。弁護士も一緒です。検事や弁護士が死んでも事件は起きるし、裁判は続きます。総理大臣が死んだからといって誰かが困ったという話も聞いたことがない。この国では総理大臣ですら歯車に過ぎないのに、どうして東京地検の検事あたりを偉いと思う人がいるのか、私にはさっぱり分からない。でも、どうやらI君はそう思っているようだ。それが勘違いだということを教えてあげるのは悪いことじゃない……」

 法廷劇というジャンルがあるが、その前の取調の段階のドラマは何て言うんだろうか。僕は、恐ろしい連続殺人について読もうと思ってこの本を手に取ったのだが、思いも掛けず良質な別のサスペンス劇がついてきたようで、とっても得な気持ちがした。読み終わるのが惜しい本だった。

 事件の当事者が世間に公表した本に、当事者バイアスが働かないはずはない。そもそも、どんなことだって、膨大な事実があるなかで、掬い上げ形にできることはわずかにすぎない。
 だが、この本から僕は、事件に対する謙虚な気持ち、被害者への鎮魂の気持ち、遺族への誠意のようなものをうっすらと感じた。誠意。そう、自分が巻きこまれた事件を、誠意を以て世に伝えようとしてると思う。


冷たい熱帯魚 [DVD]