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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』は面白すぎる! そして怖い!

 ここんとこ思うことがあってブログを書いていなかったけど、あんまり面白い本を読んでしまったのでメモ代わりにエントリを書くことにした。
 講談社の四六判『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿著、2011年9月初版。
 

 去年の秋口の本だけど、今更読んだのだ。いやー、面白かった!
 著者の古市氏(もう古市くんと呼ばせてもらう)は最近日曜の朝のNHKとかで顔を見る、ばりばり注目株の若い社会学者。TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」にも時々登場して大人気だった。デビュー作は『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書)、これもすごく面白かった。

 彼は文体が若々しく、生意気で、ユーモラスで、今時の若者らしく醒めてると思いきやなんだか温かい。
 本書でも、とくに本文下段の注釈で、自分の恩師や学界の大先輩をおちょくったりくすぐったりしまくっている。本田由紀小熊英二、小谷敏、上野千鶴子といった、彼よりもずーっと偉い(と思われる)人たちにタメ口目線でツッコミをいれたりしてる。言ってみれば内輪ウケかもしれないけど、非常に楽しい。
 また、歯に衣着せぬ毒舌でもある。例えば原田曜平『近ごろの若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』(光文社新書)に対して“漠然と「若者」を語ろうとすると、著者の妄想「若者」語りになってしまう。”と手厳しい。いや、これ僕も同じ本読んで同じように思ったので、激しく頷いた。他にもTRFのことを「かつて一世を風靡しながら、今ではまったく売れなくなってしまった五人組のダンスグループ」とか、毒が効きすぎている。
 まあ、つまり本書は、「漠然と思ってる違和感を、的確に言葉にしてくれた本」だった。素晴らしい!

 本書は、タイトルに「若者」とある通り、若者論の一つである。というか過去の若者論を紹介し、分析し、批判し、それを超克しようとする、非常に意欲的な若者論だ。老人が時々思いつきで放言する若者論(都知事の発言とか参照)などとは段違いの、学問的に訓練された強さのある、それでいてしなやかな若者論になっている。

 第一章では明治の若者論(当時は「青年」と呼ばれていたが)から説き起こして、「若者語り」がどんなふうに変遷してきたか、なぜ若者は語られるのか(頼みもしないのに一方的に語られてしまう若者の不幸、とか)が考察される。読んでくと、大人にとって若者は、異質な他者であると同時に、社会を継承してくれるはずの協力者候補であることがわかる。大人は若者に「お前ら頼んだよ」と懇願しながら、同時に「お前ら理解できん」と文句を言い続けているのだ。
 第二章では、社会学らしくデータを使いながら「若者論の常識」を覆していく。いわく、今時の若者は「内向き」「ボランティアに積極的」「政治に興味ない」「海外旅行離れ」「車離れ」「地元に引っ込んでる」「年金崩壊で大損をするから不幸」……といった言説あるでしょ、これがパタパタとオセロのようにひっくり返っていく。爽快ですよ。
 第三章、第四章では2010年のW杯から語り始めて、若者たちとナショナリズム、大震災や原発事故に接してデモなどに“立ち上がる”若者たちの姿を掘り下げていく。データを使いつつも、デモの現場に立ち会って生の声を拾い、メジャーな言説が取りあげない“些細な感じ”“違和感”を摘み上げていく。ネトウヨのデモ、高円寺のデモ、ピースボートから果ては前進社に集まる若者の声とか、非常に興味深い。「公共的であることは良いことなのか?」「そもそも社会を変えるって何か」という疑問が出てきたあたりで第五章、話題が東日本大震災になり、“待望の「非日常」”という見出しが現れる。いいのか、こんなことヌケヌケと言ってしまって(ほんと感心する)。
 最後の第六章では、体力あふれる若い社会学徒らしい、跳躍力のある論を展開してくれる。日本の財政は破綻しそうだし、少子高齢化で若者への負担は年々増えるばかり、正社員にはなれないし、受け取れる社会保障も今の高齢者と比べると一億円くらい少ない……そんななかでも自分のことを「幸福だ」と言える若者たちとは何なのか?

 古市くんの提示する結論はものすごい。乱暴にまとめると、“いまの日本の「若者」は、中国の「農民工」だ。生活満足度は高いかもしれないが、格差は固定され他の層に移行することほとんどできない、新しい下層階級”……という感じ。
 社会学の言葉は大胆で容赦がない。「あらゆる近代社会は「二級市民」を必要としてきた。……日本を含めた近代国家は、「女性」……ヨーロッパでは…「移民」……しかし移民労働力の受け入れを拒否し続けてきた日本では、「女性」に加えて「若者」を二級市民として扱うようになった」(p260)。うーん、すごい。ここは唸ってしまった。
 そしてもう一つ起きているのが「一億総若者化」なのだという。「今後ますます多くの若者が「正社員」や「専業主婦」という既存の社会が前提とした「大人」になれないのだとしたら、彼らは年齢に関係なく「若者」で居続けるしかない。」(p261)。
 怖いですね。いつまでも若者、といえば僕の世代では田中星児を連想しますが。今の世代だと誰かな? 野々村真くんとか?

 なんか頭痛がしてきた。「若者」はいつか若者じゃなくなって「大人」になるからこそ、価値があるんじゃないのか。それがずーっと「若者」のままとは、鰯がいつまでもシラスのままでメザシにすらなれないってことか。
 シラスは鮮度が命だ。薹が立ってしまっては美味くない。アイゴの稚魚もスクガラスにできるのは海草を食べて味が悪くなる前までなのだ。関係ないか。

 しかし、冷静に考えると、この「いつまでも若者を卒業できないやつら」の中には、この僕も含まれる。いつまでも若者気取りで、反体制だとかプロテストだとかフォーエバーロック!だとか、勘違いしてる莫迦者。その実、本当の若者世代からは「勝ち逃げ」と言われ、「良いとこ取り」「バブル世代」と言われる。これらには羨視と蔑視両方の感情があるかもしれない。

 大人になれないとは不幸なことだ。いつまでも現役で反抗し続けられるような人は、なかなかいない。普通の人は「昔はやんちゃしたよ…」と後輩に語るのがせいぜいで、反抗期を続けるのにも才能は必要なのだ(外山恒一はその才能があると思うが)。

 もう一つ。本書は鋭い指摘をしてて、“若者が消費を引っ張る”といまだに言われてるけど、それは仕掛ける側の都合の良い物言いにすぎなくて、現代のボリュームゾーン団塊とかの高齢者なので、若者が車離れしようと旅行離れしようと大勢には関係ないようだ。
 そう、これからは若者論じゃなくて、年寄り論を語るべきなのだ。年寄りは消費を引っ張る最先端であり、可処分所得…じゃなくて資産と年金があって、数的にもマスだから選挙を左右するし、しかも医療の進歩で元気だし、気も若い。石原慎太郎都知事とか、いまだに子供っぽい反抗心を棄ててないじゃないか。

 僕は在宅で内職をしているので、毎日の行動パターンは年寄りと同じだ。午頃にスーパーに買い物に行くとレジ前は年寄り客だらけ、よぼよぼの人もいるけど、みな案外元気。そしてマナーも案外悪かったりする。歩道も年寄りだらけ、図書館も年寄りだらけ。というか、僕が若い人の出歩く場所・時間帯に行ってないだけなのだが、時間をずらすだけでこんなに風景が違って見えるというのは驚きだった。

 しかし年寄り論というのは成立するのか。なんだか、自分で言ってて、あんまり楽しそうじゃない。
 若者論は気楽だ。若者論を語る人は、もう二度と自分は当事者つまり若者にはならないわけだし(古市くんは当事者の立場に立って書いているのが清々しい)、年下相手だと居丈高な物言いも許される。
 これが年寄り論だと、論者はこれから年寄りになっていくことが確定しているわけで、そのとき後ろ指を指される可能性はものすごくある。油断して放言したりなんてできない。また、若者は将来成長して「大人」になったりする伸びしろ・改良余地・可能性があるが、年寄りにはそれらがなさそうだ。ほんとは若者も年寄りも、誰かに言われて変わったりはしないだろうけど、若者にはなんだか「希望」がある。恋をして結婚して家庭を作り家族を増やし社会を再生産していく、というか。いや、「希望」というアイコンを若者に結びつける工作がずーっと行われてきた、のが正しいか。

 そろそろ晩ご飯の仕度をしなきゃ。中途半端だけど、こんなとこでメモを終わります。
  新刊!
 ついでに。なんだかんだ言って僕はこのシリーズが好きだ。