新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

重要な映画「ゴモラ」(イタリア、2008)

 先週、渋谷のシアターイメージフォーラムで映画「ゴモラ」を見た。イメージフォーラム宮益坂を上がってR246を渡った路地のミニシアターだ。ロビーなんて猫の額しかない狭い劇場だが、なかなか盛況だった。
 この作品、何年か前に飛行機の機内で見ていたのだが、そのときはイタリア語音声に英語字幕で細かい部分がよくわからなかった。河出書房新社から出ている原作(映画以上に複雑で長い)を読んだりしてずっと待ってたのが、ついに日本語字幕で公開された。嬉しいことだ。

 この映画は全然爽快じゃないし、見ていて楽しいものでもないけれど、僕は圧倒された。エッ、と思う展開ばかりなのも上手いが、描かれていることが南イタリアナポリ)の現実であること、そしてそれはもしかすると僕たちが住む日本の未来ではないかという予感がしてて、怖いのだ。画面から目が離せなくなるのだ。

■映画「ゴモラ」が描くナポリの日常とは
 ストーリーをちょっと紹介する。ここから先の記述は【ネタバレ】もあり得るので、まっさらな状態でご覧になりたい向きは閲覧しないでください。
 まずは、公式サイトのストーリー紹介にちょっと付け加える。
ゴモラ」は5本の物語ラインが次々交錯する作りになっている。ハリウッドのインテリ脚本家が好きな作風やね。でも「ゴモラ」は謎解きとかじゃないしバラバラの人物たちが最後に出会って大団円、なんてロマンチックな話でもない。淡々と、カモッラ組織とその周辺の人たちの日常が描写され、淡々と終わっていく。

■少年トト(ENGLAND 7のシャツを着た痩せた子)は中学生くらいなんだが、劣悪な公営団地で暮らしている。学校には行ってない。仕事は雑貨屋の配達。ナポリを牛耳るギャング団“カモッラ”の一つに入りたい。ギャングの仲間になればもっと良い仕事を得られるから。
■ドン・チーロ(鼻の大きい、ジャンパー姿の初老の男)は公式サイトでは「帳簿係。組織のメンバーの家族や遺族に給料を届けるのが仕事」と説明されているが、彼が届けるのは給料というより「不在手当」「死亡手当」だ。刑務所に収監された構成員の家族や、抗争で死んだ構成員の遺族を毎月訪ね歩く。そういった家族たちも公営団地に住んでいる。団地は荒(すさ)んでいて、イタリアというよりアジアか中東のようなガサガサした雰囲気だ。チーロが手当を手渡しするのは、そういう慣行なのもあろうが、不安定で裏切りやすい家族たちを組織から見張るよう命じられている節もある。手当は高騰する物価と比べると雀の涙だ。
■ロベルト(優しそうな青年。ちょっと背が低い)はドン・チーロから手当を受け取る老人の家族。なかなか仕事に就けなかったがこの度、産廃処理会社で働き始めた。この会社の社長(白髪で黒いグラサン)が非常にうさんくさいのだが、実はこの人カモッラの構成員。石切場の跡地にEU各国から引き受けてきた毒性の強い廃棄物を何の処理もせずに埋める。必要な処理を一切しないから非常に儲かる。産廃は日本でもそうだけど、黒社会の人たちの大きなシノギになっている。
■パスクワーレ(痩せた中年男。ちょっとピーター・バラカンに似た柔らかい物腰)は腕利きの縫製職人。縫製工場でマエストロと呼ばれており、彼が仕立てたプレタポルテアンジェリーナ・ジョリーなどハリウッドスターが赤絨毯を歩くときに着るほどだ(※ここ、原作ではこうなってます)。だが社長はダンピングしまくってやっと受注してくるので残業ばかりで金にならない。そこに中国人の工場主が「うちのお針子を指導してくれないか」とこっそり誘いをかけてくる。
■マルコとチーロ(二十歳くらい。ガッチリと痩せっぽちのコンビ)も学校にも行かず仕事もしてない。「スカーフェイス」が大好きでアル・パチーノ演じるトニー・モンタナの台詞をしょっちゅう真似ている。彼らはカモッラの大人たちが牛小屋に違法な火器を隠したのを目撃し、それを盗んでしまう。拳銃(銃種がよくわからないが、ベレッタM93Rとデザートイーグルか?)、UZI短機関銃、M203グレネード発射器付きM16、AK47などを水辺で撃ちまくる。ここで彼らがパンツ一丁なのは、硝煙が衣服につくと、警察に掴まったとき検査でバレるからだと思う。

 この5通りの人物たちが入れ替わり立ち替わり登場する。わかりにくいでしょ。
 彼らには共通点がある。彼らには仕事がないか、仕事してる場合は“組織”と関係がある。誰もが貧しく、公営団地で暮らしており、団地の住人は老若男女問わず“組織”と関わっている。麻薬が売買され、子供たちが見張りに立つ。組織と関われば仕事がもらえる。だが安心して暮らせるような報酬でもないし、明日の仕事も保証されていない。
 僕たちは“ギャング映画”というと、僕たち一般人から隔たった所にいるギャングたちが繰り広げるサスペンスとかドラマと思ってしまう。しかし「ゴモラ」は、そんなことない、本物のギャングというのは一般人のすぐ隣にいるのだ、と教えてくれる。この映画の登場人物たちは一人残らず、カモッラという組織のエコシステムに組み込まれて逃れられない人生を送っているのだ。だから悲劇もすぐ身近で起こる。

■「共同体が私たちを生かす拠り所になる」社会って?
 もしかすると、十年後二十年後の日本はこんな風になってしまうんじゃないか、と思う。
 政府はあまり機能せず、税は集まらず、警察はじめお役所は機能不全。金を持ってるのは非合法も厭わないハードな企業家(つまりギャング)だけで、仕事を得よう、金を稼ごうとすると、彼らと関わりを持つしかない、他の選択肢はない社会になるんじゃ、と。

 今年の正月、田舎に帰ったとき深夜のNHKでマイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」を見た。学生たちに政治哲学を講義するサンデル教授。どうも彼の議論は現実的ではないんじゃないか、と思うのだが、彼の語りを聞いていると一生懸命彼に追従せねばならぬような気にさせられるから不思議だ。
 マイケル・サンデルの思想は「コミュニタリアン」(共同体主義)というらしい。そして彼の敵は「リバータリアン」(過激自由主義者)のようだ。リバータリアンである副島隆彦は、サンデルの政治哲学を“衒学的なタルムード思想の一種”として論難している。
 僕は思想家同士の闘いに容喙するようなことはできないが、「共同体主義って何?」と考えると、毎度毎度、どうも同じイメージへと辿り着いてしまう。
 それは、映画「ゴッドファーザー」やこの「ゴモラ」のように、マフィアやカモッラが牛耳る社会のイメージだ。政府は何もしてくれない、けれど“我々”の仲間になればお前も生きていけるよ、という社会。

 所謂狭義のマフィアは、長く異民族支配の続いたシチリア島で、虐げられる側の人たちが自衛のために構築した非合法組織が発祥だという。ナポリのカモッラもおそらく同様の縁起を持つと思う。
 いや世界中の犯罪組織・ギャング組織は大同小異、いずれも弱い側・虐げられる側が集まり、強者・権力者の裏を掻いて生きていこうとして生まれている。日本のやくざ組織だって社会からはみ出した人たちの互助組織だ。中国の秘密結社バンもそうだ。「ゴモラ」に出てきた中国人縫製業者は蛇頭ではないかと思う。もっと言えば、共産ゲリラやイスラム過激派など政治的な武装集団もそうだ。アフリカや南アジア・中南米の国々の反政府勢力・武装勢力も。犯罪行為をせねば生きていけない人たちはギャングになり、政治闘争をせねば生きていけない人たちがゲリラになる。どっちも為政者から嫌われる。

 ナポリの問題は、とにかく仕事がないことだ。やるべき仕事があればトトは学校へ通って少しでも良い仕事に就けるよう勉強しただろう。仕事で給料を稼げればマルコとチーロは盗んだ銃で強盗やるよりそっちの方が分が良いってわかっただろう。パスクワーレ氏はその腕に見合った給与で、堂々とセレブ御用達の服を縫い続けられただろう。ロベルトはいんちきな産廃処理業者にこき使われ、毒物を埋めたりせずに済んだはずだ。諸悪の根源は、仕事がないこと、あってもそれは犯罪がらみなことだ。

 マイケル・サンデルのような立派な人が率いる共同体なら、「ゴモラ」みたいな無残なことにはならないよ、と思いますか。どうでしょうか。哲学が高潔なことと、仕事を創れることは全然関係ないよね。

■社会と暴力、暴動を起こすか否か
 311で地震被害の収拾がつかず、原発事故もとてもシリアスだった頃、「なんで日本の僕たちはこんなに辛抱強いのだろう、どうして暴動が起きたりしないんだろう」と不思議に思った。いやこれは暴動が起きてほしいという希望のつもりじゃないんだけれど、無意識にカタストロフや暴動に惹かれていた自分がいたことは否定できない。
 あれからずーっと考えていたけれど、日本の僕たちは、何があっても暴動など起こさない、という選択をしたのだと気づいた。暴動で世界を変えられるなんて嘘だ、とみんなが知っていたのだ。
 ジャスミン革命とか、フェイスブックツイッターで繋がった大衆が独裁者を引きずり下ろしたとか言うけれど、革命の後あの国々の人たちは幸せになれたんだろうか。暴力で権力者を引きずり下ろしたらスカッとしたかも知れないけれど、その後の国の経営は前より良くなっただろうか。
 今日、サハラ以南アフリカの多くの国が「崩壊国家」と呼ばれている。恐るべきことにネルソン・マンデラに導かれて民主化を遂げたはずの南アフリカ共和国も、どうもアパルトヘイト時代より悪くなってるらしい。ナイジェリアは産油国なのに精製施設が稼働しないので石油を輸出できない。ボブ・マーリーがその誕生を祝福したジンバブエの惨状たるや。
 これらの国々は、誕生した時、独立した時、世界中の人々に希望を与えた。遠くの北の国から来た白人の侵略者たちに不当に支配され、豊かな実りを収奪される暮らしから、自分たちの収穫を自分たちが享受する、自分たちの生き方を自分で決められる社会へと踏み出したはずだった。しかし、そうした素晴らしいスタートを切った国の多くが迷走し、内戦に疲弊し、崩壊していっている。
 サハラ以南アフリカ諸国の戦争は、ほとんどすべて「内戦」であるのが特徴だという。外征戦争はしない、身内で争ってばかりなのだ。多くは、どの部族集団が国の権力を握るかの闘争。
 日本は、「自分たちで勝ち取った民主制じゃないから」「マッカーサーに与えられたものだから自分たちで権力を倒すといった意志が弱い」、と言われたりする。それが本当かどうかわからないけれど、どんなに不満を言う人が多くても、暴動を起こしたりしないのは偉いと思う。
 暴力で勝ち取ったものは、なかなか身につかない。悪銭身につかずじゃないけど、世界には自ら革命を成し遂げた国、独立を遂げた国がいっぱいあるけれど、その後暴力を封じ、弱い者が暴力にいたぶられることのない社会を築き上げた国は少ないと思う。フランスは暴力革命をした国だけど、それについて物凄く考え続け議論を深めた努力があり、今の状態を作り得たと思う。アメリカが暴力革命で生まれた結果、今に至るまで銃を制御できないのと対照的だ。(TPPが発効すると日本などの銃規制は非関税障壁だってことになるんでしょうか?)
 僕は、諸外国のように暴動や実力行使で政治的主張をしない日本の市民は尊敬できると思う。

 ところが、グローバリズムの世の中では、この辺も世界標準に合わせなければならなくなる。仕事は海外に流出していき、安い産品や猛々しくがさつな価値観が流入してくる、それがグローバリゼーションだ。暴力には訴えない、という素晴らしい価値意識も、国際競争に晒されて変容する。他の諸国並に政府の行政サービスが低下し、警察という暴力装置(暴力の抑止装置)がうまく機能しなくなる。民間の暴力装置が自然発生し、警察力の空白を埋めようとする。つまり、暴力を内包した自治が始まる。
 これこそ、映画「ゴモラ」が描いた世界にほかならない。

■「ゴモラ」の暴力描写を直視せよ!とくに銃撃シーン
 映画「ゴモラ」に特徴的なのは、あられもない、剥き出しの、色気もロマンもない暴力描写だ。開巻早々、日焼けサロンで寛いでいた若者たちが、侵入してきた何者かに射殺される。カモッラ同士の抗争は、このように唐突に、あっさりと、日常生活圏の中で突発的に起きているらしい。
 カモッラの抗争が恐ろしいのは、「女子供は殺さない」という古き良きマフィアの伝統などまったくないことだ。「ゴッドファーザー」が描いたマフィアのルールでは、銃後の家族は抗争の対象から注意深く外されていた。だがカモッラの抗争に例外はなく、女性も母親も殺されるらしい。たぶん妊婦だって見逃されないだろう。状況にもよろうが幼児も赦されないと思う。アル・パチーノ演じるトニー・モンタナは子供と一緒にターゲットを爆殺しようとする暗殺者に怒って殺してしまったが、カモッラの構成員なら顔色も変えずに爆弾のスイッチをひねっていたろう。マフィアを起訴しようとして何人もの特任検察官が殺されているが、家族もろとも爆殺されたケースもあった。
 とくに「ゴモラ」では銃を撃つ描写が秀逸だ。銃器・火器は偏愛の対象などではなく、金属片を人体に撃ち込む道具に過ぎないことがよくわかる。ロマンのない単調な銃声、美しさのない銃火、半ズボンなどだらけた服装の暗殺者たち。これは良い描写だと思う。銃による暴力の真実が描かれているから。

ゴモラ」は不愉快な映画だ。だが無視できないものがある。直視しなければいけないものを提示した映画だ。
 何か大きくて旧いものが音を立てて崩れようとしている。世界中で。その動きを機敏に捉えた映画だ。
 こういう映画が立て続けに現れているようだ。ユーロスペースでやってる「サウダーヂ」もそんな匂いが濃厚にするし、園子温監督の最新作「ヒミズ」はまさにそうだ。前にエントリで書いた「悪人」も、同じ文脈で成立した映画かも知れない。日本のメジャー映画の文脈で撮られているけれど、世界中で起きているある動きとシンクロしてると思う。
 その動きの正体が何なのか、僕たちをどこへ誘おうとしているのか、まだわからないのだけれど、注意深くありたいと思う。

 とりあえず、銃器描写だけでも見る価値はあるので、好きな人は要チェックだと思います。この映画の殺伐とした射殺シーンを見ずして二十一世紀の暴力映画を語ってはいけないと思います。


原作です。読みにくいけど凄い本。
参考書。新書なのに重たい読み味です。
これはただ単に好きな本。
この教授、胡散臭い。
おお、これだこれ。
これだけでも売ってるんですね。
これもチラッと出てきました。