新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」と第10回クイチャーフェスティバルのこと(完結)

 今回の「スケッチ・オブ・ミャーク」上映会は「第1回 生(ん)まり島(ずま)ミャーク大会」の関連イベントとして行われた。ミャーク大会とは、沖縄本島で行われる「世界のウチナーンチュ大会」のような、出身者が同じ時期に故郷に戻って絆を深めるイベントらしい。イベント期間中の宮古島には島外から出身者が帰ってきて、平良のホテルもなんだか賑やかだった。
 ミャーク大会のメインイベントは平良市街地の高台にあるカママ嶺公園で行われる「第10回クイチャーフェスティバル2011」である。

 上映会の翌日、伊良部島の宿をチェックアウトして宮古島に戻った。宮古島の中心部・平良市街の盛り場に宿を取った。ここは平良で一番賑やかな西里大通りにも近く、飲み歩くのに都合が良い。
 何軒かハシゴをしたが、地元のお客さんたちが昨日の映画のことを話していたのをしばしば聞いた。あんなクイチャーは初めて見た、とか、あの出演者は遠縁だ、とか。“池間民族”に触れたときも書いたけど、宮古島は集落ごとの独自性がことのほか強い。伝承される踊りや歌も集落でずいぶん違ったりするそうだ。
 中には批判的な人もいた。寝たきりのお年寄りが映るシーンがあるのだが、あんな姿まで映すのはやりすぎじゃないかとか、あのオジイは映画に出たいって言ったのかとか、プロデューサは本来黒子(くろこ)のはずだろう、それなのに画面に出すぎじゃないか、とか。
 僕はそれを、さもありなん、と思って聞いていた。現場に近ければ近いほど、何か言わずにはおれなくなる。その気持ちはすごくわかる。
 ドキュメンタリーとかノンフィクションは、取材する側・書く側と、取材される側・書かれる側との間に決定的な断絶がある。ある時までは協同作業をしていたつもりなのだが、ある時点を境に、取材された側は“素材”となり、書く側は“神の視点”を持ってしまうのだ。絶対の権限というか。
 いや、書く側・作る側だって神じゃない。むしろ、時間やコストなどの難問に直面し、四苦八苦しているのが実態だ。だけどこのシーンは切るのに忍びない、なんとか残したい、と執念でやっと十秒のカットを残したとする。取材された側は、なんだあれだけ取材しておいてたった十秒なのか、これはあんまりだろ、と落胆し、あの時はあんなに協力したのに、この仕打ちかよ、と恨みに思ったりする。こんな感じの断絶がもっといろいろあるだろう。
 こんなすれ違いは、残念ながらよくあることだ。というより記録というものの宿命のように思う。記録される側は自分の意思が顧みられない無力さを噛みしめ、記録する側は表現したいものを表現しきれない無力さを無念に思う。

 それでもまだ記録された側からは、記録した側が眩しい脚光を浴びているように見える。今回の映画はスイスの映画祭で準グランプリに当たる高評価を獲得した。それだけに、それなりの風当たりがあるのは当然だ。
 自分のことが記録され、それを発表されることには、ある種の痛みが伴う。最近の人はツイッターフェイスブックで頼まれもしないのに自分のことを発表しまくっているのでこういう痛みは忘れてしまったかもしれないが、自分の情報が自分のコントロールを離れてふらふらと彷徨い歩くことは人間にとって本能的に不安な事態なのだ。まして、その編集権が自分ではなく他人の手にあるドキュメンタリーは、不安なものだ。
 また、人は“発見される”側になりたくない。“発見する”側でいたい。“発見する”側の特権を享受したい。“発見される”ばかりでは、人間というより標本になったような気分だ。
 以前のエントリでも触れたけど、沖縄の強烈なジャーナリスト知念ウシは「寸鉄人を殺す」と形容するほかない文を書いている。

沖縄には日本(本土)から年間五百万を超える人が来るそうだ。
(中略)
発音の違う沖縄語。台風が来ると怒る。曇ると怒る。交通マナーを守らない「わ」ナンバー。勝手に子どもの写真を撮る。葬式の写真も撮る。

 「沖縄が好き。癒やされる」。どこにでも入れる魔法の無料チケットみたいに言う。(後略)

asahi.com 2004年05月18日の記事
ブログ「記憶の彼方へ」 経由で引用

 どうです? 沖縄好きのナイチャーのみなさん、耳が痛いでしょ。観光される側の痛みというものがくっきりと刻み込まれた文章だ。僕は好きだ。痛いけど。
 観光する側という“特権”は、観光される側を傷つける。そして、観光以上に傷つけるのが記録とか文学で“発見”することだろう。
 人類館事件(1903年)という歴史的な出来事があった。大阪博覧会の人類館というパビリオンで、北海道のアイヌ、台湾の「生蕃」(現在の言い方だと「原住民」)などを“展示”したという事件だ。「台湾生蕃」を見た清国人来訪者などから強い不快感が示されたという。
 それだけではない。那覇の辻遊郭で働く遊女を「琉球婦人」として同じく展示したところ、沖縄県知事から「アイヌや生蕃といっしょにするな。しかも彼女らは遊女であって貴婦人なんかじゃない」と強い抗議があったという。
 これは複雑な事件だ。展示された側は自分が見世物にされたことが不愉快だろうし、中には展示された同胞に対して「なんで唯々諾々と見世物にされたんだ」と怒りをぶつけた人もいるかもしれない。沖縄県知事に至っては、辻の遊女と一般民衆との間の差別、自分たち沖縄県人がアイヌや「台湾生蕃」と一緒にされることへの憤りなど、様々なレベルの感情が複雑にからみあっている。人がどんな感情を持つかは予断を許さない。

 まだ元気に生きている人を撮った映画は、行き違いや断絶を生みやすい。また、そもそもこの映画が取り上げた「神歌」は神前で歌われる歌で、不特定多数に公開するのはタブーだった。それをフィルムに焼き付けて遠い外国まで持って行き、またこれから日本のあちこちで上映されるのだ。異議を唱えたい人がいるのは仕方のないことだ。
 だが僕は、何があっても、どんなことを言われても、この作品は名作だし、公開され続けるべきだし、大事なものだと思う。理由は二つある。一つは、この作品は人間の尊厳に対して深いところでの配慮を欠いていないこと。もう一つは、この作品はある崇高な目的のための数少ない手段であること。その目的のためなら手段を選んではいられない状況だということ、だ。

 平良の居酒屋やバーをハシゴして二日酔いで目覚めた日曜、もう帰る日だ。宿をチェックアウトし、農協の市場でお土産を買い、荷物をゆうパックで送り、パイナガマでアイスを食べたらすぐに午後二時になった。クイチャーフェスティバルの開会だ。パイナガマからちょっと上がったところに会場のカママ嶺公園(カママンミ、と言うと言いやすい)がある。軽食を持った人たちが三々五々、公園を目指している。
 会場は、巨大な赤いシーサーが鎮座するカママ嶺からとんとんとんと下った芝生の広場。中央にステージが組まれ、出店も出ている。開会式が終わり、ちょうど一組目が踊り始めるところだった。


(クイチャーフェスティバル@カママ嶺公園)

 クイチャーフェスは、いろんなグループが自分たちのクイチャーを踊るお祭りだ。コンテスト形式でいろいろ賞もあるけれど、入賞より何より踊ること自体が重要なのだと思う。少なくとも、勝負しているという雰囲気はまったくない。大事なのは踊ることと、それを見て貰うこと。
 チームは地域別、あるいは職場の、あるいは学校や保育園で結成されるようだ。地域のチームは、その地域で伝承されてきた伝統クイチャーを踊ることが多い。職場や学校は創作クイチャーが多く、なんとなく内地のよさこいソーランと雰囲気が似ている。
 十組くらいが踊った頃、近くで見ていた観光客がこう言っていた。「伝統クイチャーって、創作よりずっと面白いね。歌もいいし」。僕も同じように感じていた。そうなのだ。宮古の民謡になじみがないミーハーな観光客にも、何回か聞くと「漲水ぬクイチャー」など伝統的な名曲の良さは十分伝わるのである。
 きっと、幼稚園チームで出場した子供たちや職場のチームには、初めてクイチャーを踊った人がいるに違いない。彼らはきっといつか、クイチャーを踊る楽しさと、音楽としての伝統クイチャーの素晴らしさに気づく。そういう人が一人でも増えることが、このクイチャーフェスの願いなんじゃないか、と思う。

 クイチャーフェスティバルの実行委員長は、宮古島で活動する音楽家の下地暁(さとる)氏だ。東京で音楽をやっていた彼が宮古へ帰郷したのが1992年だという。以来二十年、“アイランダー・アーティスト”を名乗り、宮古発の音楽を追求し、後進を育て続けてきた。クイチャーフェスも最初からずっと彼が実行委員長をやっているので解るとおり、彼が種を撒き育て上げたものだ。
 音楽でも演劇でも、地方都市を拠点に活動することは大変だ。こうした活動はたった一人でじっと継続することがなかなか困難なのだ。地方では志を同じくする仲間がなかなか見つからない。話のわかるやつと巡り会えても、日々の仕事や暮らしに追われて活動を共にするのは難しかったりする。宮古島で踏ん張り続け、ここ十年クイチャーフェスティバルの推進力となってきた、そこには一言では語れない物語があることだろう。僕はそういう部分も含めてアーティスト下地暁のファンだ。もちろん彼の歌は大好きだ。ベストアルバム「真太陽〜マティダ〜」の一曲目「愛(かな)しゃ」の生ギターのイントロでもうノックアウトされた。このCDはマックスバリュ宮古南の近くにあるワイドー市場で買ったと記憶している。Amazonでは売っていない。(ここで買えます。ラグーン・ミュージック・エンターテイメント

 クイチャーフェスは、青空の下、芝生の上で、拡声器で増幅された音楽に乗って踊られる。いや、あれは本物のクイチャーとは違うよ、本物はもっと凄いよ、と地元の人に言われたことがある。そうかもしれない。元は神事の一環なのだから、運動会のような場所で踊るのはちょっと違うかもしれない。お手軽な、廉価版普及版のクイチャーなのかもしれない。でも僕には十分だった。十分に貴重だったし、十分に感動的だった。帰りの飛行機があるので途中で会場を後にしなければならなかったのが残念だ。きっとこういうイベントは遅い時間ほど盛り上がるんだろうな、と思いながら空港に向かった。

 いろんな人がいる。人知れず努力を続ける人、それを批評する人、口舌だけは一人前だけど何もしない人、黙々と何かをやり遂げる人。誰が偉い、という話ではなく、いろんな人がいる、ということだ。
 最近ネットを見ると、細かさや正確さにはうるさいけれど、人の心に届かない、ワサワサした言葉が増えたような気がする。いや、僕自身がそういう鴻毛のような言論の一つだと思っているので恥ずかしい限りなのだが。
 自分一人では何もできない無力さを自覚しているからこそ、下地暁の活動に心がときめくし、大西監督の映画とそれを見る島人たちの姿になぜだか涙が流れる。
 人は、誰しもひっそりと小さな姿で生まれてきて、無力な子供時代を経由して、やっとのことで大人になる。大人になってからは誰からも注目を浴びず、老いてひっそりと死んでいく。高齢者の大半が「自分の人生は報われなかった」と感じながら生きている、という話がある。まったくだ。報われることのないのが人生だ。
 だから、人生のどこかの過程で、何かと出会えたら、それは幸せだ。
 ロカルノ映画祭の観客がこの映画のエンドロールで拍手をやめなかった、という話は、映画関係者のみならず、宮古の島人たちの心を大いに慰めたのではあるまいか。自分たちが続けてきたことが、世界の遠くにいる人たちの心を揺さぶったという事実は素敵だ。ちなみに、クイチャーフェスティバルがずっと掲げてきたコンセプトは「大切な物は身近なところにある」だ。

 オバアたちからバトンを受け取って神歌を歌い継ぐ人が現れるといいな、と思う。クイチャーを踊る人が増えるといいな、と。遺伝子と同じで、受け継ぐこと、続けることが無条件に大事なものがある。映画「スケッチ・オブ・ミャーク」は、そういうものがなぜ大事なのか、なぜ素晴らしいのか、を身体で感じさせてくれた。それは宮古島だけのことじゃなくて、人類に普遍的なことだということも。

(おしまい)