新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

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平成のフランク・シナトラ? 島田紳助引退について思う(追加)

 映画「ゴッドファーザー」を思い出していただきたい。そのパート1、娘の結婚式だから多くの者たちの頼み事を聴く、というドン・コルレオーネのところにイタリア移民のスターであるジョニー・フォンテーンが現れる。ジョニーは幼い頃から見知っているコニーの結婚を祝福しに来たのではなく、ドンに再び厄介な頼み事をするため頭を下げに来たのだ。マイケルの解説によると、ジョニーはかつてもドンの世話になり、バンドリーダーから不利な契約書を取り返すことに成功していた。
 この度のドンへの懇願は、大物プロデューサー、ウォルツの次の超大作戦争映画に自分をキャストしてもらうこと。原作には主役でこそないがジョニーが打って付けのはまり役があるという。この役を演じ果(おお)せたら最近低迷していた人気も上向くし、ただの歌手から実力のある俳優へと脱皮できるはずだ……と。
 この仕事をドンから拝命したのは、コルレオーネ・ファミリーの顧問役(コンシリオーリ)であり長男ソニーの義兄弟であるトム・ヘイゲンだった。トムはファミリーの面々と違って金髪碧眼の北欧系、自分ではドイツ系アイリッシュと言っている。弁護士資格を有し(ロースクールを出ている、ということ)、下層階級離れした物腰で誰とでも堂々と渡り合える。
 映画スタジオを訪ねたトムはウォルツから門前払いを食らったが、次はまんまとウォルツの邸宅に招かれ、会食に漕ぎ着けた。率直にトムをもてなしたウォルツは、これまた率直に、ジョニーを憎む理由を語る。自分が手塩にかけた若い女優をたらし込み、ハリウッドを背負う名優になるはずだった彼女を潰したのがジョニー・フォンテーンだ、自分はやつに役をやることは二度とない、と。自分は(ファミリーに脅されて屈服した)パンドリーダーとは違う、と。
 映画はここから、歴史に残る名シーンへと繋がっていく。豪華で広い寝台でウォルツが目覚めると、サテンの中から彼の愛馬(種牡馬)の生首が出てくる。ハリウッドの支配者として王者として振る舞っていたウォルツの悲鳴が朝の豪邸に響き渡るのだ。

ゴッドファーザー」が名画たり得ているのは、作劇や撮影やといった映画的な作りが抜群なせいではない(もちろん映画的にも凄い作品なのだけれど)。人類が避けて通れない存在、マフィアとか暴力団というものの本質を、存在の意味を克明に具体的に描ききったからだ。映画はこれほどまでの表現を達成した、というトロフィーとして、これまでも今後も多くの人に見続けられる、と僕は思っている。
 暴力を背景にした機能集団は人類に普遍的なものだ。世界中のどんな集団も暴力装置を有している。ある集団では軍や警察だったり、ある集団では教師や親だったり、ある集団では反抗的な若者だったり暴徒だったり。イタリアやアメリカのマフィアも、日本の任侠団体も、そうした人類の暴力装置の一つだ。

 引退会見から一夜明けた今日、テレビのニュース番組も島田紳助の異常な引退について突っ込んだ解説を始めた。紳助が会見で言及したAさん(暴力団と紳助との間に介在した人)が渡辺二郎であり、Bさん(暴力団の人)が山口組の高次の構成団体の会長である、とまで特定して報道する局も出てきた。テレ朝はそのくらいしないと、記者会見をやってる時間に報道番組が流れてて、しかもその番組では記者会見を黙殺した、という汚名を晴らせないものな。あ、会見が終わるまで報道できないという協定があったとかいうけど、それって視聴者とは関係ないよね。視聴者に背を向けて業界の協定を守ったというのは立派な汚名だよね。いや関係ないけど。

 引退の原因となった事象は至ってシンプルだった。紳助がトラブルを抱えた。悩みをA氏に相談した。A氏は解決をB氏に依頼し、B氏は解決した、ということだ。
 ジョニーがトラブルを抱え、ドンに相談し、ドンはトムに命じ、トムの手に余ったことをファミリーの誰かが遂行し解決した……。似てるでしょ。そう、いつもいつも、こうした物事は遠くから見れば同じことなのだ。
 ちなみにウォルツの馬の首を切って寝室に持ち込んだのは、もちろんトムではなく、ルカ・ブラジだとされる。僕も長年「クレメンザじゃないよな…」などと思っていたが、先日読んだオマージュ小説『ゴッドファーザー・リターンズ』の著者は「ルカだ」と断言していた。

 紳助が抱えたトラブルが、馬の首のような手段で解決されたのかどうか、僕は知らない。しかしBさんという人は、僕はその人のことも知らないが、その気になれば馬の首のような解決法を取ることができる数少ない調停者なのだ、ということだ。
 紳助は「Bさんにはお礼もしていないし、その後ほとんど会ったこともない」と言っているが、二人が会ったとかお礼の授受があったとかではなく、関係ができたということ自体が恐ろしいことなのだ。それは“馬の首”のような尋常ならざる関係が生じたということだから。

 ドンはその後ジョニー・フォンテーンに何か要求をしたわけじゃないし、ジョニーもおそらくロングアイランドのドンを訪ねることはしなかったろう。映画では描かれないが、ジョニーはその映画で見事カムバックを果たし、大歌手にして映画スター、全米のセックスシンボルとして芸能界に長く君臨した。(原作と違って映画にはジョニーの出番は少なく、次に登場するのはここだ)後年、ドンの三男マイケルがファミリーを継いだ折、ファミリーの新しい拠点となるラスベガスのカジノホテルでジョニーは長期のショウを興行することでかつての借りを返した。ここも映画での描写はないが、ファミリーのための仕事はジョニーにとっても骨折り甲斐があり、クラブ歌手としての超一流のホームを得、キャリアの頂点でもあり、大金を稼ぐことにも繋がった……となる。
 このジョニー・フォンテーンとは、フランク・シナトラのことであるという。彼が出演を熱望した映画は、フレッド・ジンネマン監督「地上より永遠に」。ちなみに「地上より永遠に」は僕の好きな「シン・レッド・ライン」(テレンス・マリック監督)と同じジェイムズ・ジョーンズ原作で、どちらも太平洋戦線を描いた兄弟作である。
 シナトラが演じた“はまり役”は意外なことに陽気で格好良い役ではなく、主人公をかばって殺されるイタリア系兵卒という複雑な役だ。それを見事に演じたシナトラはアカデミー助演男優賞を獲得している。アカデミー賞はハリウッドの同業者が投票して決まる。もしシナトラが本当に馬の首のような手段でこの役を得たとしたら、同業者たちは「それでもいいじゃないか、彼は立派な仕事をした」とシナトラと、彼の背後のファミリーを暗に認めたことになる……のではないか。

 シナトラがマフィアと繋がっていることはアメリカでも衆知の事実で、彼はインタビューでそうした質問が出ると激怒したという。また『ゴッドファーザー』原作者マリオ・プーヅォとばったり出くわした時もものすごく不機嫌になり禁句を叫んだとも。だけどもプーヅォは危害を加えられることもなく天寿を全うし、シナトラも自身のファミリーを芸能界に築き上げ栄耀栄華の生涯を送った。ドン・コルレオーネに当たるのが誰か、ルチアーノであるとか、ジアンカーノ、あるいはボナーノといった名前が挙がっているようだが、アメリカの本当の裏社会事情については何も知らないので僕も興味がない。それよりも作品「ゴッドファーザー」が描き出したことが、どれだけ真実とシンクロしているか、真実の構造を暴いているかの方が大事だ。

 前世紀末にシナトラが亡くなって十数年、現在の日本では暴力団と関係があると立証されただけで芸能界から去らねばならなくなる、ということになったらしい。ほんとか。

 人類はなぜ暴力と同居せねば生きられないのか。たとえば、抱えてしまったトラブルを、暴力に頼ることなく解決することはできないのか。
 できないのである。少なくとも、暴力を使わないととても面倒なのだ。面倒なのは嫌なのだ。とくに、一定以上の権力を持った人の直面するトラブルとは、多くが巨額のお金に関するものだ。正当な方法では手当てできないお金のトラブルを解決するのは、お金と同じかそれ以上の力に頼るしかない。
 なぜ暴力は単なる暴力の枠を超えて力となるのか。暴力を背景にした仕事は競争力が高い。たとえば暴力を盾に税金を払わない業者は、ライバル業者よりも利益率が高く競争力を持つ。暴力で市場に参入したり、暴力で顧客に営業したり、暴力で支払いを制御するといったことは、どれも正当な手段しか使えないライバル業者を大きくリードする力になる。
 マフィアあるいは暴力団の最大の収益源は、違法なものの売買ではない。麻薬や薬剤の密売を連想する人が多かろうが、それはたぶんシノギとしてはマイナーな部類だ。やくざやマフィアなど民間暴力装置の最大の収益源は、公共事業である。ナポリのギャング“カモッラ”の最大の収益は産業廃棄物の不法投棄だという。クライアントは政府や自治体や立派な民間企業で、きちんと棄てますよ、と言っておいて金をかけずに不法投棄するのだ。そりゃ儲かるわけだよ。また土木工事は世界中のマフィア・ギャング・暴力団の資金源というか稼業だ。彼らは正当な事業者と違って暴力で中間の手続きをすっ飛ばす(中抜きする)ので非常に競争力がある。難しい地上げに暴力団がからむのも、日雇い労働者の送り込みに暴力団がからむのも、必然なのだ。

 イタリア、とくにシシリーでは政府や官憲の力が弱く、就職の世話も、道路の補修も、役所に掛け合うより裏町のマフィアに頼むほうがよほど早く解決する、という。しかし、マフィアに頼み事をしたら、いつの日かマフィアから何かを頼まれる、それを拒めない、というリスクがある。マフィアが比較的まっとうで(ドン・ヴィト・コルレオーネのように)、頼み事をした人が弱々しい一般人(コロンボ夫人のように)であれば、大したお返しはしなくてよい。できる範囲が限られているから。だけど、もし頼み事をした人が大きな力を持っていたら。財を生み出す力を持っていたら。多くの人に影響を与えられる人だったら。マフィアは、その力を利用せずにはいませんよね。必ず、相応のお返しをせねばならなくなるはずです。
 だから、芸能人は暴力団と関係を持ってはいけないのだ。芸能人は力を持っているから。そこらの商店主がみかじめ料を払うかどうか悩んでるのとは次元が違うのだ。

 シナトラは終生マフィアとの繋がりを陰で揶揄され、あるいは畏怖されて生きた。だが彼は一方で数々の映画にその姿を焼き付け、何曲もの素晴らしい歌声を録音して残した。僕は彼の「フライミートゥザムーン」が好きだ。イーストウッドの脳天気なアクション映画「スペースカウボーイズ」の最後に鳴り響く曲。
 島田紳助は日本の芸能界に何を残したか、彼の何が残るのか。攻撃的で癇に障るトーク芸が残るのか、異様な“けじめ”の付け方が残っていくのか。あるいは、自分の土地がある島を自分の番組で宣伝して地価を上げるといった手法が残るのか。
 僕は正直、島田紳助の仕事をあまり知らない。テレビを見ないから。覚えているのは、NHK人形劇「三国志」の狂言回しを相方の竜介と務めていたことくらいだ。あれは、清新で良かった。
 石垣島のロードサイドに立つ、等身大の彼の人形はどうなるんだろうか?