新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

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映画「悪人」から「さらば愛しき大地」へ(前編)

■観る者を平穏にさせない、名画「悪人」
 映画「悪人」(2010、李相日監督)をツタヤで借りて観た。もう話題としては古いかな? 今更とは思うけど、この映画はこれからも多くの人に見られる作品と思うので感想をメモしておきます。
 この映画は僕が気になって気になって仕方がないモノを描いた、最近では珍しい邦画です。
(基本的に【ネタバレ】しているので未見の方はご注意を

 吉田修一の原作は読んでいない。原作と映画には若干の異同があるらしいが、原作者が脚本に参加しているので致命的な異同ではないと思う。断片的に主要登場人物を列挙すると…

・久留米出身、博多で働く保険勧誘員(満島ひかり)、自分が可愛いと自覚している
・長崎の海辺の町で解体業に従事する主人公の青年(妻夫木聡)、イケメンだが対人スキル皆無
・湯布院の高級旅館の跡取り息子(岡田将生)は大学生でモテる
・保険勧誘員の父親柄本明)は昔風の床屋さんを営む
・紳士服量販店の店員(深津絵里)も出会い系で青年とメールを交わした。後に彼と逃避行する
・青年の祖母(樹木希林)は父母出奔後の彼を育てた

 これら人々の配置を描く導入部からして画面はずっしりと重い。舞台は九州だというのに冬枯れた街の景色が痛い。
 夜のガソリンスタンドから白いスカイライン(R33型GTR)が現れ、闇を切り裂いて去る。スタンドでは給油後、金銭の授受がなくレシートを受け取るだけだ。つまり「ハイオク2000円分」とかで注いでいるのだ。3連メータや低い排気音と相まって「地元の走り屋」感を醸し出している。
 駅から少し離れただけだというのにもう道は暗い(実際の地理は知らないけど、映画だとそんな風に描かれる)。飲み会からの帰り、満島は妻夫木のGTRを認め、そっちに向かおうとしたら岡田が運転するアウディが現れ、あっさりとこちらに乗り換える。目の前で走り去った男女。GTRは乱暴に(だが上手ではある)アクセルターンしてその後を追う。路面はやや白く凍結している。そう、福岡は日本海側、12月末だとすでに気候は厳しいのだ。
 ぜんたいに描写が丁寧で構図も安定している。俳優たちの演技も良い。そしてみなぎる不安感。今時の日本映画とはちょっと違う厚みが伝わってくる。

 去年、TBS「文化系トークラジオLife」でチャーリー鈴木謙介が「九州の田舎の嫌ーな感じがよく出てる」と絶賛していた。絶賛と言っても評論家風に他人事として褒めてたんじゃなくて、福岡出身者による近親憎悪みたいな感情が伝わってきた。僕が自分の田舎のことを思い出すときの気持ちに似てた。
 観た人の気持ちを平穏でなくさせる映画。こういうのは良い映画だと思うのだ。

■圧巻シーン、餃子喰い女vs旅館ボンボン、in真冬の峠道
 物語はおおむね時間軸に沿って展開するのだが、肝心の犯罪場面だけ時間軸が前後している。犯罪場面は本当に素晴らしい。本作の圧巻だ。初見の時はなかなかこの核心の場面に到達しないのでイライラしたが、二回目に観た時はどのシーンも愛おしくてもったいなくて、“そこ”が来るのが惜しいような気がするのだ。
“そこ”は開巻55分からである。

 街から車を走らせるとすぐ峠道だ。荒れ地の中に街が点在するアメリカ郊外のようだ。「テルマ&ルイーズ」や「モンスター」を連想する(これは同一の実事譚に基づく映画で、自動車が大切なモチーフになっている)。
 我らが物語の被害者・満島ひかりは旅館ボンボン岡田のアウディで闇を疾駆する。僕はアウディに興味がなかったので「これはA3より大きいね?」くらいしかわからなかったが、どうやら高級SUVのQ7かQ5らしい。Q7新車だと800万円近いぞ。そりゃないか。ともあれ、この車を所有し運転していることがボンボンのアイデンティティに大きく寄与していることは疑いがない。
 女性はついさっき女友達と鉄鍋餃子を食べてきた。「なんかニンニク臭くね?」と不快そうに言うボンボン、彼の苛立ちが伝わる。清潔で快適な車内に餃子のニオイをまとって侵入してきた女性。そりゃ満島ひかりだから美形だし可愛いけど、それ以上にイライラさせるものがある。それって何なんだ?と僕はここでボンボンに強く感情移入した。
 口臭を指摘されてこっそりとキャンディだかガムを口に入れる女性。おっと、可愛いとこあるじゃないか。

増尾くんの実家、湯布院の旅館? …お母さんが女将さんか。女将さん大変そう、私には絶対無理〜」この痛い台詞、名台詞だと思います。助手席からボンボンを見つめる媚びた目つき(背景が闇なので白目がいっそう光る)とともに名シーン。
「…あんたはどっちかと言うたら仲居タイプやな。うちの旅館で働くことがあったとしたら」。「へっ?」意外そうな女の表情がボンボンにフィードバックされると、ボンボンは緊めのブレーキでアウディを停車させる。
「降りてくれんや。なんかあんたのこと乗せとったらイライラする。あんた、なんか安っぽか。なんでよう知らん男の車にヒョコヒョコ乗ってくるわけ? 女だったら普通断るだろう。あんたみたいな女、正直、俺タイプじゃないったいね。降りてくれ」
「へ?」
「降りんなら俺が蹴り出したろうか」
「私なんかした? なんでこんなとこで、いきなり降ろされたって」

 以下略。女性はボンボンに文字通り蹴り出され、頭部をガードレールにぶつけてゴン!と音を立てる。この引用した台詞のやりとりが僕はすごく好きだ。
 webでみなさんの感想を読むと、このシーンなどを以てボンボンがひどく観客に嫌われていることがわかる。なかには「タイトルの“悪人”とはこのボンボンのことだ」とまで言う人も。
 僕は何度観ても、どうもそうは思えないのだった。むしろ、自分を恥ずかしげもなく晒したこの二人のギリギリのやりとりが、リアルな切迫感を以て胸に迫った。

 保険勧誘員の彼女は、直前の飲み会の席で「1泊5万、3泊すれば私たちの給料飛ぶ」との台詞がある通り、薄給だ。たぶんこれは手取額だと思うがもしかすると額面か。寮住まいだからここから寮費も出しているのかもしれない。飲み会は割り勘で「一人2680円」。アルコール入れてこれだから質素な飲み会だ。安くて美味しい料理となると、食材にニンニクが使われることが増える。なかでも餃子は安くてボリュームのある挽肉料理で、野菜など増量剤を入れれば原価率を抑えられるから人気メニューだ。
 彼女が餃子臭いのはある種必然で、分相応だ。僕くらいのオッサンにはむしろチャーミングに見える。だがそう思わない人もいる。
 旅館跡取りの彼は、実家を離れて福岡の大学に行き、高級車を買い与えられている。たぶん卒業したらちょっとの間、筋の良い企業で働いて、三十前には次の女将さんになれる女性と結婚して湯布院に戻るのだろう。何不自由なさそうに見える彼が始終苛ついているのは、こんなふうに“出口が決まってること”“自分で選べないこと”に原因があるのではないか。
 どうやら彼は、嫁を選ぶなら女将さん候補生でないといけない、と思い込んでるようだ。「遊んでる」と噂されてるが、変な女性に引っかかるのを警戒してるから、意外と身持ちも堅いかもしれない。彼は、今目の前で媚びを全開にしてる女性に対し、これまで刷り込まれたプログラムに従って全力で警戒している。こんな女性は、湯布院の母の前に連れて帰れないからな。
 いっぽう彼女は彼女で全力の勝負に出ている。そもそも今夜のドライブはもう一人の従順な男を振ってまで選んだ千載一遇のチャンスだ。なんとしても、もう一歩、このボンボンの懐に食い込まなければならない。その気迫が伝わってくる。言葉も慎重に選んでいる。実家→母親→女将→私、と包囲網を作り、じわっと網をしぼる作戦。もっともこの戦術は、自分のスペックを高く見積もりすぎていたため、あっさりと撃破されたのだが。
「あんたは仲居タイプ」とは、ボンボンの社会階層観・職業観が伺える興味深い発言だ。職業差別も辞さない冷徹さ。ずっと前から将来の経営者としてこんな風に考える訓練を受けてきたのだろう。じっさいビジネスや経営というのは厳しいもので、「みんな等しい能力がある」「がんばればなんとかなる」「人間は成長する」なんて甘いこと考えてたら失敗してしまう。あんたは女将さんの器なんかじゃない、と冷酷に言い切る強さが必要なのだろう。嫌な強さだが。
 彼女を本当に蹴り出してしまったことは、彼が自分の苛立ちを制御できなかった苦しみの発露のように見える。というか、蹴り出したというか峠に置き去りにした行為は本当にいけないこと、マズいこと、危険なことだが、そこに至るまでの二人の言動は、各々自分の利益を最大化しようと真剣に振る舞った結果であって、そこには何一つ“悪”はなかったのではないか。僕はそう思う。二人とも“悪人”なんかじゃなかった。
 ボンボンは彼なりに真剣にやっていた。恵まれていることの意味や、高級旅館を引き継ぐことの辛さも十分自覚していたのでは(彼は自覚していたからこそ、彼女の言動に苛ついてしまったのではないか?)。
 この映画で一番「らしくないなぁ」と思うのは、ボンボンが彼女を峠道に置き去りにしたことだ。だが、最も緊迫して面白いやりとりでもあるため“ここをこうしたらいい”なんて安易には言えない。

 ここまでが犯罪場面の前半。次に回想されるときは、ここに主人公の青年がGTRで現れて、どんなふうに犯罪は起きたか、というシーケンスになる。まあここは僕的にはどうでもよい。
 紳士服店員の深津絵里も名演だが、僕的にはどうでもよい。ただ、世評で「美男美女すぎて非現実的」と言われていたが、深津は不器用で奥手な女性をうまく演じていたと思う。顔かたちは美形なのだけどあまりに薄幸そうで男が寄ってこない、というのもアリかもしれない。

■主人公のGTRに関する疑問
 ほとんどすべてのシーンが圧倒的な説得力と実在感で描かれている映画「悪人」。だけど前述のように僕はボンボンの行動は「らしくない」と思った。
 もう一つだけ、「らしくないなぁ」と思う点がある。それは主人公の愛車・白のGTRだ。
 劇中では「長崎から福岡まで一時間半、すごく飛ばすから」といった台詞や、直6エンジンを吹かして走り去るシーンがある。減速して駅の進入路に入るシーンではごつごつした硬いサスペンションが感じられいい感じだ。
 ただ、このフルチューン(らしい)のGTRが、寡黙で友達もいない主人公とあんまりそぐわないんじゃないか、と僕は思うのだ。

 僕にはチューンドカーを乗り回すような知り合いはいないので想像で言ってしまうのだが、これほどのチューンドカーって一人で買って一人で乗ったりするものなのだろうか?
 R33型GTRは1993年から1998年に製造され、この物語は2009年が舞台だから少なくとも十年落ちの中古ということになる。だが価格は今でも400万円以上のようだ。主人公は中古を7年ローンで買ったらしいが、それでも月々の支払いとガス代は大変なものだろう。とくに長崎〜佐賀、長崎〜福岡なんて乗り方を頻繁にしていては。
 ま、設定的には、主人公は解体業の収入すべてを車に注ぎ込んでいるということなんだろうけど。でもですね、主人公の人物造形とこの車はなんか合わない気がする。

 車は非常に社会的なブツだ。個人の買い物ではたいてい、住宅の次に高価なものだ。購入に当たっては使い方や機能・性能、価格や維持費…だけでなく、他人からどう見られるか、他人とどう関わっていくか、が重視される。
 車の選好には他人が影響する。逆に言えば、他人との関係を経て車は持ち主に選ばれる。旅館のボンボンが高級SUVに乗ってたことは、彼自身の人となり以上に、彼に車を買い与えた母親などの存在があるのだ。
 では、主人公とGTRの関係は? 彼がGTRを選んだ背景は?
 それがまったく描かれていないのだ。
 3連メーターやマフラー交換はどこでやったのか。もともとこれだけの改造をされた中古だったのかもしれないけど、そうじゃなきゃ地元に行きつけのショップがあり、店員や客に知り合いがいるんじゃないか。
 もう一ついえば、主人公は運転も上手い。乱暴だがしれないが速いことは折り紙付き。では、どこでこんな運転を身につけたのか。地元の峠か。
 九州も走り屋は盛んだったらしいね。昔読んだ走り屋マンガ「Over Rev!」も作者は九州出身だ。このマンガは非常に正統な青春マンガ、ビルドゥングスロマンで面白かった。たくさんの車を描くうちに、その車に乗るドライバー一人一人を描かざるを得ないので、必然的に群像劇になるのだ。話が逸れました。
 運転は、一人でがんばっていれば上手く速くなるものじゃないと思う。誰かに刺激されないと。また、誰かの刺激なしにこんな車を選んで買うこともあまりないんじゃないか。少なくとも、誰か見せびらかす相手がいないと。
 この主人公は、一人GTRで九州北部を走り回り、出会い系サイトで見つけた女性と刹那的な交際を繰り返している、ということらしいが、そういうことってあるのかな? その前に、地元の車好きの同性の友達ができるんじゃないか。彼らとつるんでるのが最高に楽しい時間なんじゃないか。
 …あ、もしかしたらちょっと年齢がいっちゃって、男の友達はもう誰も一緒に遊んでくれないから出会い系で女性を漁ってるのか? うーん、そうなのか?

 それにしても、GTR乗り回して出会い系で女を喰いまくり、とだけ書いたらめちゃくちゃ「リア充」に見えるんですけど。
 いやすみません、重箱の隅でしたかね。けど、こんな隅っこを指摘したくなるのは、他の部分がすごくきちんと作ってあるからだとお思いください。何も指摘したくないような映画がものすごく多いので。この映画は見終わってからもしばらく澱が残る、なかなかの傑作です。

■この閉塞感はどこから来るのか
「目の前に海のあったら、その先どこにも行かれんような気になるよ」という台詞がある。主人公の置かれた閉塞感を表す良い台詞だ、とされている。そんな感想をどっかで読んだ。
 けど主人公は実際はGTRを自在に操って九州のどこにでも行っていた。翌朝必ず仕事に間に合うよう早起きしなけりゃいけない、仕事が終わったら祖父の世話をしなきゃいけないけど、その制約内なら彼は自由だった。どこにも行かれん…と思い込んだのは、彼に何かの魔法(呪い)が掛けられていたからではないか。普段は見えないその魔法(呪い)を可視化したのが、この映画のすぐれた点だったのか。
 なんて思うわけです。

 地方に生きることの閉塞感、は多くの人が感じるところだろう。これ実は東京に暮らしていたって閉塞感はあるわけで、東京だろうと地方だろうと鬱屈した青年がときおり通り魔事件を起こしてしまうことでよくわかると思う。
 だが地方だと閉塞感は容赦なく人に襲いかかる。所得水準の違い、求人の多寡、消費の選択肢の多寡、交通手段が実質的には自動車しかないこと…などが逃げ場のない人にのしかかるのだ。そして何より、こんなことを考えても誰とも共有できないと思える、絶対的な孤立感。

 主人公の祖母を演じる樹木希林が、鬱血したような日常を見事に演じている。
 夫は要介護、娘は孫を置いて出奔、収入は漁港での低賃金労働。唯一の気晴らしは“健康セミナー”。この講師(松尾スズキ)だけが彼女を“妻”とか“祖母”とか“働き手”ではない“一人の人間”として扱ってくれる。だが彼女の期待も裏切られる。事務所に“遊びにきた”彼女に対して、セミナー講師は不当に高価な漢方薬を売りつける。
 ここの描写もちょっと乱暴かな−。インチキ健康食品とかって、もっと上手に金を巻き上げるんじゃなかろうか。あなたもネットワークビジネスの親になれますよ、とか。でも「漢方薬一式として ¥263,500」の領収証はリアルでよかった。彼女の大事な財産はこんだけだった、のか。
 でもこれって怖いよね。金融資産がほとんどないんだから、もし孫がGTRで事故って賠償責任を負ったら、家を売るしかない。こんなつつましい暮らしに見えるのに、とても危ういバランスの上に成り立っている。

 誰からも承認を得られない人々が、ぎりぎりのところで生きている。

 前に評判になった米映画「フローズン・リバー」(2008)、これも北米の寒い町の閉塞状況を描いた素敵な犯罪映画だった。allcinemaにすごく良い作品評が寄せられていたので引用したい。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=335127#2

 これだよこれ。こういう映画がわしは好きなんだ。

 貧困だよね、本質は貧困なのだ。性差も、犯罪も、国境も、差別も、根底は貧困なのだ。人間を描きたかったら、貧困を描くべきだ。金持ちの映画なんかつまらん。(以下略)
(投稿者:ビリジョ 投稿日:2010-03-08)

 僕もまったく同意見だ。
 僕は映画や本から“世界の現実の断片”を拾うのが好きだ。世界は広すぎて、自分の目だけでは“断片”ですら“現実”はなかなか見えてこない。だから誰かの目を通して世界を知ろうとする。こういう映画の見方は邪道かもしれない。作品への尊敬が足りないかもしれない。けど、僕はいつの頃からか、そういう映画を好んで観るようになった。そして、僕が好きな映画は、どうも貧困を描いたものが多いような、と気づいたのだ。

■柳町光男「さらば愛しき大地」から三十年経っても
 邦画もかつては貧困や閉塞感、苦しみを躊躇なく描いていた時期があった。今村昌平復讐するは我にあり」(1979)「楢山節考」(1983)とかは、この苦いテーマをうまく大動員に結びつけた傑作だ。僕も好きだ。山本薩夫「戦争と人間」(1970-1973)も好きだけど、あんまり大袈裟すぎるうえ、あるイデオロギーに則って作品が作られているので“現実”感からちょっと遠ざかった恨みがある。
 ATG映画や古いポルノ映画はけっこう良いんだけど、どうも才気が弾ける若い作り手の自我が強烈に反映してる作品が多くて苦手だ。長谷川和彦青春の殺人者」(1976)とかね。
 そんななかで、「悪人」の李相日ととてもよく似たトーンで作られた映画を思い出す。柳町光男「さらば愛しき大地」(1982)だ。
 主演は根津甚八秋吉久美子山口美也子蟹江敬三など。舞台は80年代初頭の鹿島臨海工業地帯。あらすじは……面倒なので、豊田勇造が同作からインスパイアされて作った曲の歌詞を引用しよう。

さらば愛しき大地
詞・曲 豊田勇造 http://www.toyodayuzo.net/
(アルバム「センシミーナ」1984より)

子どもが寝てるすぐ横で 男が乳房を掴む
声を抑えて女が 膝立てる
それから男はダンプに乗り 稲穂の間に停めて
腕をまくってもう一つ シャブを打つ

※恨んでも恨んでも シャブには歯が立たぬ
 愛しても愛しても シャブには歯が立たぬ

女は夜を働くと言い 男は止めると誓う
そうは問屋が卸すもんか 新興工業地帯
タンス消えダンプ錆びて 深夜のオートスナックで
子どもにうどんを食べさせて またシャブを打つ

※繰り返し

陽が照らすこともある 心通うことも
遊園地で手を繋ぎ砂浜に出て 蟹を頬張れば普通の家族
そうは問屋が卸すもんか 臨界工業地帯

※繰り返し

男はすっかり壊れてしまい 耳鳴りにおびえ
ジャガイモ剥いてる女の腰 刺しに行く

※繰り返し2回

 物語はこれでほとんど全部。わかりやすいでしょ? レゲエだけどハードで重たい、不思議に耳に残る曲です。

 ここにちょっと足すべきは、この映画の人物たちはけっして「悪人」のように他者との繋がりが希薄じゃなくて、むしろ濃厚な、茨城の農村部で生きていることだ。
 伝統的な農村コミュニティは工業化で大きく揺さぶられている。若者は現金収入が見込める仕事に集まる。だけど「長男として家を継げ」というプレッシャーも大きく、主人公も農家の跡取りを嫌がって自分のダンプを買い、土砂運搬をする。
 田んぼは埋め立てられ、太い道路や、運送会社の敷地や、資材の集積場になる。(これが三十年経って「悪人」の時代になると国道沿いに全国チェーンの紳士服・外食・巨大SCが立ち並ぶ“ファスト風土”になるわけだ。つまり「さらば愛しき大地」と「悪人」は繋がってる)
 主人公(根津甚八)が農家の跡取りを嫌がる理由は描かれない。むしろ、この映画を観る者全員の無言の了解事項ででもあるかのように、当然のように“家”に反抗している。子どもと嫁を置き去りにして実家を出、地元の美人を愛人にして借家に住む。砂利トラのドライバーとしては腕はたしかなのだが、対人関係に難があるので経営手腕はない。
 いつからか覚醒剤を使うようになり、同僚(蟹江敬三)に教えたらオーバードーズして精神病院に担ぎ込まれたことも。のどかな農村の中に精神病院があり、そこにはアルコール依存や薬物依存の人たちがいることがサラリと描かれる。そうだ、そうだった。僕は精神病院というと都会のクリニックしか行ったことないけど、田舎にもあったぞ。見ないようにしてたけど確かにあった。脳の病は別に都会人だけのものじゃないわけで。

 周囲はのどかで豊穣な田園風景、食べるのは美味しい自家栽培の野菜や米、嫁は健康で子どもを何人も産んでくれるし、両親は健在だ。近隣の人も何くれとなく世話を焼き、気にしてくれる。農地を開発されたら巨額の補償があるし、現金収入が必要なら開発や工場に従事すればいい。
 今時の都会人は「田舎暮らし」に憧れるようだけど、こうしてスペックだけ書くと最上の田舎暮らしに見えませんか?
 でも主人公はこの暮らしがたまらなく嫌だった。いつも何かに苛立ち、家族に暴力を振るってきた。何の解決にもならないのに。そしてタバコやアルコール、セックスでも満たされず、覚醒剤に手を出した。

 覚醒剤の本質とは何か。「退屈しのぎ」「気分転換」なのだ。お茶、タバコ、お酒と本質的には変わらない。ホッとしたい時、人は茶を喫する。イライラしたとき、人はタバコを求める。憂さを忘れたいとき、泣きたいとき、感情の軛を解きたいとき、人は酒を呑む。覚醒剤はとりわけ強力なので、集中しなきゃいけないのに集中できないとき、起きてなきゃいけないとき、自分の限界を超えて変身したいときに用いられる。その強力さゆえになかなか手放せなくなる。という。
 主人公は最初はダンプの仕事が集中してできるとかって理由で手を出したに違いない(最初の描写はない)。やがて“家”や“血族”の軛から逃れ、弱い自分から逃れるために覚醒剤を使うようになった。覚醒剤は高価なので個人の財政を圧迫する。暮らしはみるみる貧乏になる。愛人(秋吉久美子)はそれでも愛してくれる、愛するがゆえに泣いて抗議される。彼女の愛すら重荷になり逃げ出したくなったので、主人公は覚醒剤に逃避した。
 終局、主人公は荒れ果てた借家の台所でジャガイモを剥く愛人の後ろ姿を見るうち、自分を責める幻聴に衝き動かされ、出刃包丁で愛人を刺す。

■それでも日常は続く
「さらば愛しき大地」はけっこう退屈な映画だ。大学生のときビデオで初めて観たけど、豊田勇造の歌のようにタイトにまとまった話ではなく、いろいろな夾雑物を交えながら物語が進むのに辟易した。人物を遠くから捉えた長回しも多いし。
 今改めて観ると、夾雑物に見えたこまごました出来事が、実はみんな事件の本質に関わっており、退屈な田舎の日常が主人公を追い詰めていくプロセスがすごくスリリングで楽しい。かなりのサスペンス映画だと思う。
 主人公はなんでシャブを知ったのか、なぜ“家”を嫌ったのか、いっさい説明はされないが、淡々と進む画面のそこかしこから理由が立ち上がってくるように思えてくる。ここは僕の知ってる土地ではないが、僕がよく知ってる土地でも同じことはきっと起きるだろうな、起きても不思議じゃない、という気がする。

「悪人」は、出会い系を使った刹那的な関係が事件につながった、みたいな乱暴なまとめ方もできる。僕はこういう風に言いたくないけど。
 僕は出会い系だろうが売春だろうが、そこで人と人とが出会う事実は他の状況となんら違わない、と思う。「悪人」では被害者の父親が、通夜の席で親戚の「出会い系で売春婦みたいな…」との言葉に怒りを爆発させていたが、そんな風に言えるもんじゃないだろう。なにせ、公民館を使って地域のおばあちゃんたちから大人気の健康セミナーですら、詐欺まがいビジネスなんだから。何が正しいかなんて保証は誰もしてくれない。
 ただ、「悪人」での人々の付き合い方には、倫理がなかったなーと思う。被害者も、被害者を蹴り出したボンボンも、自分としては全力でやるべきことをやったにすぎない。だけど、そこに倫理があれば、被害者は先約があったGTRの彼を振らなかっただろうし、ボンボンも夜の峠で置き去りになどしなかったはずだ。
 深津絵里演じる紳士服店員が光って見えるとしたら、彼女だけは他の人物たちと違って、自分なりの倫理を持ち、倫理に従って行動していることだ。それは欲望とはちょっと違う。も少し高い次元にあるもので、世間の法を踏みにじることもあるかもしれないが。あくまで彼女は自分が選んだ倫理に従って動いていた。

「さらば愛しき大地」では、地域の因習的な倫理観が強く描かれる。その第一が主人公の母で、ことあるごとに「世間様に顔向けができん」「後ろ指さされる」と息子や息子の愛人を責める。田舎の人の心ない一言、のように見えるが、本当は大事なことだ。世間様に顔向けができるように表面を取り繕っていれば、もしかすると不幸な凶行は避けられたかもしれない。覚醒剤依存症の彼を病院に収容し、子どもを認知させ、実家からきちんと援助を受けていれば、とかね。
 三十年経って「悪人」の時代になると、もう誰も口うるさく言ってくれない代わりに、誰もが拠って立つところを見失ってしまったようだ。
 コミュニタリアンとかって人たちは、こういう状況にどう立ち向かおうとしてるんだろうか。コミュニティって、古き良き日本のそれは「さらば愛しき大地」で描かれたようなやつだぞ。みんな、それが嫌だから高度成長に賭けたんじゃないか。経済的成功で何もかも買おうとしたんじゃないか。「人は豊かになると集まって住むのを嫌がるようになる」、これは副島隆彦が『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』で、日系人街リトル・トーキョーが寂れた話にふれた言葉だ。さりげないけど、すごい真実だと思う。僕たちも、豊かになり、個室で暮らすようになり、いまや寂しくて寂しくて生きるのが辛いほどになった。

 一つだけ、「さらば愛しき大地」のエンディングについて触れたい。これがとても素敵なのだ。
 愛人を刺した主人公は八年の刑(?)に服することになったらしい。面会から戻った親兄弟がそう言っていた。どうも刺された愛人は死なずに済んだようだ。そして、長男不在の家では、長男の嫁が豚を飼い、次男も嫁を迎え、退屈な日常が続いていくことが明示される。長男がもっとも嫌ったところの農家の日常風景で映画は終わる。素晴らしい。
『切りとれ、あの祈る手を』は「終末論なんてまやかしだ。それでも人生は続く」と力強く断言した。映画「悪人」は、二人の逃避行の果てである岬の灯台から朝日(僕は朝日だと思うのだけど、webでは夕陽って意見がほとんどですね)を望む二人の顔のアップで終わる。その瞬間が二人の永遠であるかのように。残念ながら僕らの人生は、輝かしい瞬間を永遠にとどめておくことはできない。そんな都合よく美しいものじゃない。醜さも汚らしさもむき出しにして走ってく((c)the Blue Hearts)、停まることはできない。でもだからこそ、生きてる甲斐があるってもんじゃないか、と思うのだ。

(この項、もしかして続くかも。映画『十九歳の地図』にも触れたくなったので)

  

  

  
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