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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

いまさらだけど、坐禅なんて習ってみた

 素人が参加する坐禅教室に行ってみた。割と行きやすいとこを見つけたのだ。
 なんで坐禅? と自分でも思うのだが、二つ、興味を持つきっかけがあった。
 一つは料理。ダイエット食を研究している、というか最近は肉にあまり興味がないので野菜を美味しく食べるレシピを探していたらなんでか精進料理が検索でヒットするのだ。典座ネットとか楽しく読むうちに、精進料理から先にある禅の作法が気になってきた。
 ちなみに僕が得意とする精進料理は、「小松菜とあぶらげの炊いたん」です。大したもんじゃない。自慢できひん。


 もう一つは、講談社選書メチエに『『正法眼蔵』を読む』(南直哉)というのがあって、読む機会があった。これがなんだか心にヒットしたのだ。
 本書は曹洞宗開祖・道元禅師の『正法眼蔵』の一部を著者が読み下してくれる、という入門書・注釈書なのだが、大半は公案、いわゆる禅問答の解説で、あまり意味がわからない。僕も最初読んだときは全然ピンと来なかった。だが後半におそろしくグッとくる箇所があったのだ。
正法眼蔵」はほとんどが難しい思想というか禅問答だけど、一部に「洗面」「洗浄」という項目があり、これは実はとても具体的なマニュアルなのだ。何のマニュアルかというと、「洗面」は洗顔や歯磨きについての衛生マニュアル。「洗浄」はお尻を洗うことらしく、排泄の衛生マニュアルらしい。らしい、というのは本書では「洗浄」の箇所の解説は割愛されてるからだ。岩波か学術文庫の現代語訳を読むべきか。
「洗面」には、「顔を洗うには長い布巾を首からかけてたすきにして袖をまとめれば濡れません」から始まって、「楊枝を噛んでほぐし、きちんと歯を磨こう。こういうふうに磨こう」というちょっとパラノイアックな歯磨き指導までが記されている。そして、道元が歯磨き指導に熱心だった理由というのがふるっている。
 道元は中国(当時は宋)に留学したエリート僧侶だった。僧侶は当時の知識人であり外交官や政府の政治顧問になる人だから、今でいうMBAなんかよりずーっとエリートだ。また当時は空港でエコノミー座席に座ったら外国に着くなんてことはなくて、ときに荒れる東シナ海玄界灘を越えて船便でいくわけだ。コストもかかればリスクも高い。そんだけ苦労をして当時の世界最先進国・宋に着いてみたらば、偉い僧侶にお会いしてみたらば、なんとこれが口臭がひどかった、のだそうだ。「楊枝で歯を磨くっていうのは日本にも伝わってきた習慣だけど、本家の中国ではもう廃れてたんだよね、残念だ。僕の弟子になる人はきちんと歯を磨いてね。口が臭いのはナニだから」というのが『正法眼蔵』に「洗面」の項目がある理由らしい。
 非常に即物的でおかしかったのだが、口臭は現代人の悩みだけじゃなくて鎌倉時代の偉い僧侶も嫌いだった、てのが僕は大いに気に入った。僕は道元禅師に強烈な親近感を抱いた。
 僕も口臭は嫌いだ。営業マンだった頃はとくに気を遣った。自分自身、歯にイレギュラーな隙間があって雑菌がはびこりやすく、口臭の元がある。歯間ブラシで取り除いてるのだが、たまに忘れることがあって、慌てて使った歯間ブラシを嗅ぐと恐ろしい臭いがするわけだ。こんな臭いをまき散らして人と話してるなんて!と死にたくなるほどだ。
 道元もこれが嫌いだったのだろう。そして懇切丁寧なマニュアルを残した。彼が残した最大のマニュアルは僧侶のためのものだが、こういう人がデザインした生活ってどんなもんだろう? 彼が確立した禅ってどんなのだろう? と興味を持ったわけです。長くなってごめん。


 そんなわけで坐禅教室に行った。曹洞宗の坐禅を教えてくれるところだからもろに道元のだ。嬉しい。
 裸足になって叉手し、坐禅堂に入る。単と呼ばれる半畳のスペースに行き着き、へしゃげたボールのような座蒲団がある。向かって一礼、回れ右して一礼、後ろから単に登るのだが、このとき太い木の縁(浄縁)に手や足をついたり尻をつけてはいかん、というのが大変だ。この縁側に腰を下ろして茶でも飲めばリラックスできそうなんだが、道元禅師が残した作法ではそれは絶対いかんと。残念だ。
 ここから先、坐禅の作法についてはもう書きませんので各自ググるなりしてください。マンガで禅のやり方を解説してるのに山岸凉子」(潮漫画文庫)があります。僕は十年以上前に読んだこれを強く憶えてて、しかも今回実際に坐ってみた感じも的確に描かれてました。オススメです。


 初めてなのでどんだけ坐れるか、とても不安だった。一ちゅう(火+主)坐ります、一ちゅうはだいたい四十分から四十五分です、と説明を受けていたが、そんなに長時間同じ姿勢でいる自信はまったくないぞ。結跏趺坐はできる(僕はこの年にしてはわりと身体が柔らかい)ので、自宅でちょっと坐ってみたことがあるのだが、はっきりいって3分も持たない。身体がもっても気持ちが飽きるのだ。
 ところが、坐禅堂で大勢が静かに坐っているなかで緊張しながら坐ってみると、意外とすぐに終わりの時間が来てしまった。これはすごく驚いた。単を降りたら脚がよれよれになっててうまく立てず、思わず浄縁に手をついてしまった(失礼!)けど、正座して痺れが切れたのとは全然違う。まったく不快じゃなかった。
 ふーん、坐禅堂って、坐りやすいのね。なるほど、口臭にうるさい道元禅師がデザインしたもんだな、さすがにうまくできてる。禅宗では坐禅だけでなく日常の所作、厳格な戒律のある食事、作法がどれも大事にされる重要視されるというけど、とってもフィジカルなんだなーと思った。このフィジカルさと、難解な公案で成り立つ思想のくっつき具合も面白い。思想面はさっぱりわからないけどね。
 ともかく気持ちがよかったのだ。このところ嫌な感触のあった腰痛も、こころなしか感じないぞ。
 古い話になるが90年代、大勢の若い学歴エリートがオウム真理教に惹かれ、殺人やテロにまで関わってしまった、ということがある。世間はびっくりした。僕が大学に行ってた80年代、オウムは地方の大学にも勧誘ビラを撒いていた。空中浮揚する(実は結跏趺坐でジャンプする)麻原の写真が載っていた。まだ痩せていた頃の写真。
 なんでこんな怪しいものに、と問うマスコミに対して、オウム信者になった若いエリートは「腰痛でヨガ教室に通ったら、きれいに治っちゃって、それから入信したんです」とか応えてた。そのエリートさんの気持ち、とてもよくわかる。また当時の識者は「こうした迷える、悩める若い人たちを吸引できなかった既存仏教、伝統宗教にも問題があった」なんて言ってた。ふうむ、僕の感想では、坐禅も腰痛に良いし、気持ちはすっきりするし、オウムに負けないくらい魅力的だけどね。坐禅教室また来ようと思うし。
 あの時、エリートがオウムに惹かれたことに驚いた世間というかマスコミは、もともと仏教が持っていた魅力に対してすら無知だったんじゃないか。坐禅堂で一坐りしてみれば、それがどんなに気持ちいいか、たいがいの人にはわかるはずだ。


 坐禅は面白い。一回坐っただけでもいろいろ発見があった。坐禅はパンクだ。権威や常識を一度崩潰させ、そこから浮かび上がるものを丁寧に掬いとるような作業だ。坐禅はロックだ。リズムがありビートがあり泣きのギターが聞こえる(幻聴幻聴)。ともかく、面白いのでまた行ってみようと思うのだった。くささくした気も晴れたよ。