新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

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小室先生の思い出――「小室直樹博士記念シンポジウム」参観記念

 ご無沙汰です! うっかり2カ月近くブログを放置してしまいました。たいへんすみません。
 今日から心を入れ替えて、なるべくまめに更新します……というわけではないのですが、先日特別なことがあったのでそれを記しておきます。
 
 3月6日に大岡山の東京工業大学で行われた「小室直樹博士記念シンポジウム」を参観してきたのです。東工大のキャンパスは日当たりの良い芝生があったりして素敵でした。


小室直樹先生と僕の、かすかだけど忘れられない思い出
 小室直樹先生は、僕が会社に入った直後から5年くらいお付き合いさせてさせていただいた、天才学者だ。そして政治評論、経済学指南、社会学、歴史……当時僕がいた新書判ビジネス書編集部の堂々たる主力兵器、いや決戦兵器だった。何か社会的に大きなトピックがあると「小室さんに書いてもらわなきゃ」「読者は先生の本を待ってる!」と先生に頼り切っていた。「最近売れんなー」「ここらでベストセラーが欲しい…」「編集部の収支が赤だ」というときもまず小室先生だのみ。とりあえず湯島(先生のお住まい)に向けてタクシーを走らせたのだ(あるいは先生においでいただいて会社の向かいの寿司屋で昼酒)。


 僕は1989年から1995年まで、先生のサブ担当をさせてもらった。途中編集部編成の関係でご縁がなかった時期もあったが、とりわけ93・94年くらいは濃密な時間を過ごさせてもらった。
 なかでも最良の思い出は、わかりやすい経済学の本を書く準備として、赤坂プリンスホテルのビジネススイートで先生にカンヅメになってもらったことだ。カンヅメと言っても先生は執筆したんじゃない、僕ら編集者が先生からぶっ通しで何日も「経済原論」の講義を受けたのだ。結局このときの講義録はまったく本の原稿にはならなかったけど、原稿を書くための助走としてなにがし先生のお役に立ったと思う。
 先生は「経済原論」講義の最中、終始「自分の頭で考える」と繰り返し繰り返し言っていた。ホワイトボードに向かってY=C+Iと記し、「こうやって……モデルを作って……自分で考える!」、今でも先生のやや甲高い声を思い出す。
 そして先生は、「私がこうして教えるから、経済学の本は、あなたが書きなさい」とおっしゃっていた。そんな無茶な…ウソだろ、と思ったが、先生はけっこう本気で言っていたようだ。というか、小室先生は下らないレトリックや思ってもいないことなど絶対おっしゃらない人なのだった。
 結局、やはり先生ご自身が書かれた原稿で『国民のための経済原論』I・IIが刊行された。編集部も先生も、III以降続刊するつもりで二分冊にしたのだ。
 この本はビジネス書としてはちょっと変わっていた。企画段階、というかご執筆中の先生は、純然たる教科書を書くつもりだったようだ。教科書だから、読者にストーリーや結論を提示しようとしない。事例すら「読者諸兄がご自分で考えられよ」と突き放した態度だった。当時の書籍市場でそういった純然たる教科書、しかも(博覧強記で有名とはいえ)在野の学者が書いた教科書がどれほど受け入れられるか、まったく未知数だった。というか編集部は懐疑的で、教科書として執筆された先生の原稿を必死で普通のビジネス書の体裁にしようとしていた。いっぽう小室先生は最良の教科書を読者に届けるべく必死のご努力をなさっておられた。このすれ違いは喜劇的とも悲劇的とも思う。
 結局、刊行されたのは教科書ではなく普通のビジネス書であった。爆発的に売れたが、残念ながら続刊はかなわなかった。それでも、あれは特別な本だった、と今でも思う。小室先生の「自分の頭で考える」というメッセージが日本国民にしっかり浸透していれば、現今の状況にももっと違った展開があったかもしれない、と思う。


小室直樹の学統
 小室先生は昨年9月に急逝された。僕はそれを元同僚の先輩から教えてもらった。東工大で行われた記念シンポジウムは、事実上の追悼集会なのだった。
 午前中の第1部は「小室博士の学問世界」と題したパネルと討論。(すいません公人につき以下敬称略でいきます)司会は社会学者・宮台真司東工大教授で小室先生の弟子では出世頭の橋爪大三郎はじめ立派な学者先生がステージにずらりと並ぶ。へえ、と思ったのは『希望格差社会』『「婚活」時代』の山田昌弘。そうか、彼も小室先生の弟子なのか。知らなかったなー。
 学者先生たちは小室先生の仕事を「1979年までの前期」と「1980年以降の後期」とに分け、主に前期について語っておられた。東大で伝説となっていたという「小室ゼミ」についてだ。
 小室ゼミは無職で正体不明の学者だった小室先生が、主に東大の学生を相手に開いていた自主ゼミだ。はじめは空き教室でやっていたらしい。僕が先生を知った1989年頃は湯島の先生のマンションでかつて開かれていた、という感じで、すでにピークアウトしてたようだ。
 小室先生は奇矯な行動が有名だった。wikipediaで先生の項目にもいろいろ載っている。ゼミの最中にマンションの窓から放尿した、という話も有名だ。それを見た橋爪大三郎は「こんな小室先生は嫌いだ」と言ってその場を立ち去ったという(宮台証言)が、出世して小室先生を東工大特任教授に招聘するなど一番面倒見の良かった弟子も橋爪なのだから面白い。
 だが、ステージで小室先生を慕う錚々たる学者たちが小室ゼミについて語り、小室先生の学問について意見を戦わすのを聞くと、なんだか寂しく感じたのも事実だ。「後期」に分類される先生の業績、つまり1980年の『ソビエト帝国の崩壊』出版以後、先生は商業ジャーナリズムで大活躍されたわけだが、学者先生たちはそれにはあえて触れないようにしているように感じたのだ。
 wikipediaを見ればわかるけど、小室先生はいろんな大学者の薫陶を受けている。アカデミックな世界では、将来これら大学者たちの衣鉢を継ぐのは確実、と言われてたらしい。だが、残念ながらそれは果たされなかった。小室先生の終生の目標は社会科学全体を統合する一般理論の確立だったという。また先生が大学でしかるべき地位に就きやがて出世しておられたら、社会科学の成果を現実に応用しての教育改革、制度改革も期待できた。残念ながらそれらもすべて実現しなかった。小室先生のことをこのように惜しむ人は多い。だが僕には、学者先生たちは言外に「小室先生は商業ジャーナリズムの世界に行ってしまい、アカデミズムの世界に戻ってこなかった」と暗に非難している、また商業ジャーナリズムでの小室先生の活動を評価していないように聞こえるのだ。


 午後は第2部「小室博士と現実政治」、この日の白眉はこの第2部だった。今度は司会が橋爪大三郎、パネリストが宮台真司、そして副島隆彦。サプライズゲストとして代議士の渡部恒三。さらに若い弁護士の方とサイト「小室直樹文献目録」を主宰されている方が壇上に上がった。
 宮台は第1部の司会ぶりもそうだったが、難解になりがちな学者たちの言葉を僕たち一般大衆にも届くよう言い直し、なんとか伝えようとする姿勢が真摯だ。「エートス」を「心の習慣」と言い直すとか、彼の真摯さ、温かさが伝わってくる。
 だが第2部の主題は第1部とは打って変わって、象牙の塔を出た小室先生が現実社会・世間・一般大衆に対して働きかけた事績についてだ。この主題に沿って舞台を完全に支配したのは、この日初の登場となった副島隆彦だった。
 僕は副島が好きだ。本も好きだがそれにもまして本人が好きだ。彼の熱量、狂的なまでの意志の強さ、読む者の脳を強烈に揺さぶる力が好きだ。彼の最大の業績『属国・日本論』も好きだし、問題作『人類の月面着陸は無かったろう論』も好きだ。
 このシンポジウムはマル激トーク・オンデマンドのスタッフが入っており、Ustreamで無料中継されていた(録画があります。第2部前半第2部後半)。Ustでは同時にTwitterのタイムラインが形成される(タグは #videonews だった)。会場でそれを読んでいたのだが、第1部は非常に静かだった。第2部、副島登壇直後は「この人ってトンデモでしょ?」といったツイートがあったのだが、彼の激しい、まさに檄を飛ばすがごときパネル報告が進むにつれ、徐々に驚き、感嘆、そして賛同のツイートが増えていった。
 3人目の登壇者は小室先生の会津中学・高校の同級生、現役代議士の渡部恒三。「政界の黄門様」を自称する厚かましさが鼻につく。小室先生の若い頃を語るパネリスト、ということなのだが、実際は半分くらいが自分の話。政治家を長く務めているからか何を語っても自己アピールばかりになるのか。副島の直後だったせいもあり、タイムラインは「この偽黄門をなんとかしろ」「この人小室さんの本絶対読んでないよ」「見るのやめます」といったツイートで埋め尽くされた。
 見せ場は最後にやってきた。第2部のパネリスト全員が登壇しての討論。左から司会・若い人たち・宮台・渡部・副島の順で椅子が並んだのだが、副島と渡部が隣り合わせだ。副島はパネル報告で小沢一郎から離れて菅に寄り添った渡部に対して、口調は柔らかいが断固とした批判をしていた。この二人を並べたらリアルな喧嘩になるんじゃないか…? との危惧が場内に満ちた。会場の数百人が息を呑んで見つめている。
 司会が宮台、渡部と無難な順に発言を振るが、マイクが副島に渡ったとたん、場を完全に支配したのはやはり副島だった。マイケル・サンデルを例に挙げた宮台に対し「ハーバードはユダヤの牙城。サンデルの政治哲学もタルムードのようないたずらに難解なだけで、『溺れている他人と、自分の親、どちらを助ける?』なんて話は『助けられる方を助ける』でいいんだ!」と一刀両断し、返す刀で「宮台くんは昔から小難しいことばかり言って…3行で言えって」と斬りつける。
 司会の橋爪が助け船とばかりに「いやいや副島さんが小室ゼミに来られたときも驚きましたよ。ですが副島さんはインスピレーションのある人だから(あえて入門を許した)」とはさむ。インスピレーション? それはつまり、学問の裏付けがないって当てこすってるのでは? と思うが副島はそんな当てこすりなど目もくれない。
「私は、小室学、小室百学の学統を継ぎ、先生がゼミを開いて若者を育てたように、学問道場で若者を育てている」。Twitterのタイムラインは副島への賞賛、同意、感嘆で埋まった。「今自分は日本語圏で一番面白いものを見ている」とまで言ったツイートもあった。僕も同感だった。
 面白い……とは、脳を揺さぶられ、心を突き動かされることだ。副島の言葉、副島の唸り、副島の眼光には、狂的な迫力だけじゃない、聞く者の心に届く真実がある。恐ろしい人、厳しい人だけど、ごまかしのない平易な言葉で、切実なことを言っている優しさが伝わる。高踏さや遊び、戯れ言の類いはない。ここが小室先生の言論と深く通じている点だ。
 世間では、講演や発言で吠えまくる副島隆彦を見て、メディアでの小室先生の奇矯な言動を連想するのか「まさしく弟子だ」と言う人がある。あるいはかっちりした人柄の橋爪大三郎や、多才でお洒落で現代的な宮台真司を評して「小室の弟子だなんて信じられない」とも言う。どっちも大間違いだ。全員がそれぞれ小室先生から受け継いだものがあり、それは学問の骨組みであったり理論であったり姿勢であったり様々だが、表面に見えるところや、文字で書かれた結論などではないのだ。まして奇矯さなんてね。師匠と弟子とで学問的な意見が対立することは当たり前のようにある。そんなものはやすやすと超えたところで、学統は受け継がれていく。
 副島が学問道場で若者を育てているように、宮台も多くの若者を育てている。僕はTBSラジオ「文化系トークラジオLife」のチャーリーこと鈴木謙介が好きだ。鈴木が宮台の弟子だというだけではない、鈴木に代表される若い世代の社会学者たちがいま社会学シーンを形成して発信し続けていることこそ宮台の功績と言っていいと思う。
 小室先生の学統は八犬伝の玉のように日本各地に散って、それぞれがまた花開いている。


■大天才・小室直樹と、凡庸な大衆の僕
 シンポジウムでは舞台にただ一人、他の人と毛色の違うパネラーがいた。代議士渡部恒三だ。彼は小室先生と同郷で、苦学生だった頃から小室先生を支援してきたと語った。欠食児童の小室少年に毎日弁当を与えた話、京都大学受験を援助したら小室青年は合格して嬉しくて金を蕩尽してしまい会津まで徒歩で帰ってきた話、不摂生で病院に担ぎ込まれた際、身元引受として唐突に渡部議員を指名した話、などなど。
 他の学者パネラーと違って渡部の話は通俗的なものばかりだ。聞いてて辟易するしTwitterの反応も良くない。
 だけど、僕は渡部の俗な話・俗な人柄に奇妙な感情移入を感じていた。
 僕は編集者のはしくれとして小室先生に接した。だが編集者なんて、学識はないし、小室先生が学んできたものの背景をきちんと知っていたわけではない(このシンポジウムを聴いて初めてわかったことも多かった)。むしろ読者大衆の代表として著者に接し、著者から出てくる難しい言葉を「大衆にわかる言葉に」と著者に注文をつけるのが編集者だ。編集者は大衆・通俗の代表に過ぎない。
 アカデミズムから商業ジャーナリズムへと活躍の場を移した小室先生。ゼミ生を除くと、当時先生の一番そばに寄り添っていたのは出版社の編集たちだったろう。でも編集たちは無学で、ゼミ生や学者先生よりもずっと渡部議員のほうに近い、世俗的・通俗的な存在だったんじゃないか。その証拠に、僕ら元編集がする小室先生の思い出話は、先生の学問ではなく先生の奇矯なエピソードばかりに偏る。編集の興味なんて、通俗的なものなのだ。
 そして先生は、編集者というのは小室直樹から売れる原稿を引き出すのが最優先で、けっして学者・小室直樹を理解した存在じゃない、という孤独をずっと感じておられたのではないか……と思うのだ。
 先生の謦咳に触れられる時にもっともっと勉強して良い生徒になればよかった。せっかくおそばにいさせてもらったのに、申し訳ない。と思う。怠惰な自分が残念なのだ。
 小室先生と会社とはその後、ある残念な事情で疎遠になってしまった。先生のご本が会社から刊行されることもなかった。そして15年が過ぎた。昨年の秋、先生の訃報を聞いたときも実感が湧かなかったのだが、こうしていろんな方が小室先生について語っているのを聴くと、「先生はもういないんだな」という事実がしんしんと胸に沁みてくる。


■副島先生にお詫びしたかった
 閉会後、舞台近くにパネリストたちがまだいて、聴衆や関係者と歓談している。僕はおずおずと副島さんに声をかけた(ここからは敬称モードになります)。
 実は、僕は会社員時代に副島先生と面識があった。他の編集者と一緒に副島先生と何度も会い、企画を頼んでいた。僕が編集部を離れてから副島先生の本は刊行されたが、その後とても申し訳ないことが起きた。そのお詫びを、今したかったのだ。
 2003年、副島さんは祥伝社から『預金封鎖―「統制経済」へ向かう日本』を刊行した。翌年、僕の同僚だった編集者は自分の編集部から『新円切替』を刊行した。著者はもちろん副島さんではない。
 内容はどちらも、日本の国家破産とそれに伴う国民財産の凍結・合法的な強奪、という近未来の政治経済見通しだ。議論の前提、展開、考察いずれも非常によく似た本だ。
 副島先生は『新円切替』を自著『預金封鎖』の盗作である、と激しく抗議なさった。そして担当編集に抗議の面談をしに来られたのだ。
 担当編集は、僕に同席してくれるよう頼んできた。そして「『新円切替』は『預金封鎖』の盗作ではない。著者も自分も『預金封鎖』は読んでいないし、独自の考えから生まれた企画であって、けっして盗作ではない」と言い、加勢してくれと言った。
 僕はどちらも読んでいた。僕には、たしかにあからさまな盗用箇所はないように思えた。論理展開は非常に似ているが、それは財政破綻や過去の歴史などの前提が同じだから似ててもしかたがないように思えた。
 副島先生と担当編集の面談の日、僕は同席して、「盗作とは思えない、と思います」と言った。面談は物別れに終わった。僕はそれからずっと、心につかえが残っていた。
 今考え直すと、『新円切替』はやはり罪ある本だったと思う。もし仮に『預金封鎖』とまったく関係なく生まれた本であったとしても、先行企画である『預金封鎖』について触れていないこと自体が問題なのだ。本来なら、ものすごく似た論旨の先行研究なのだから、きちんと読んで敬意を払い、こういう文献があると載せなければならないのだ。その仁義を欠くだけですでに大問題なのだ。許されないことなのだ。もしも本当に盗作でないなら仁義を欠くのはなぜか? 本当はやましいところがあるからではないか、と問われても申し開きはできないのだ。
 出版人はそんな仕事をしてはいけないのだ。限りなく盗作っぽく見える本を出すなんて、盗作対象の著者を傷つけるだけじゃなくて、その本の著者をも傷つけることになるからだ。もちろんそれらを読んだ読者をも傷つけるわけで。
 僕は今、当時の自分の浅はかな行動を後悔している。表面上盗作に見えない(盗作の証拠がない)から許される、というものではけっしてない。そのことに思い至らなかった。もう一つの後悔は、同僚に頼まれて同席したのは、心から「盗作ではない」と判断したからじゃなくて、「同じ会社で働く同僚の頼み」だったから、という点だ。信念に従ったのではなく、義理や情緒で自分を曲げたことが大きな後悔として残ったのだ。
 東工大の講堂で、僕は副島さんに「あの時は……本当に申し訳ありませんでした。お詫びさせてください」とだけ言って頭を下げた。その場では胸がつまってそれ以上言えなかった。そして「会社を辞めました。その顛末をブログに書いたら本になったのでよかったら読んでみてください」と『リストラなう!』を渡した。こういう時、本とかあると助かるね。
 副島さんは僕と名刺を交換してくださり、握手してくださった。僕は、少し心のつかえが取れた気がした。自分が犯した失敗は消えていないけれど。


■トーチ(篝火)は手渡され、燃え続ける
 もう一人、宮台真司さんに挨拶することができた。
 討論会のなかで宮台さんは小室先生が出してきた公案を紹介している。
「近代裁判における判事は誰を裁くのか?」
 答えは、検事。「裁かれるのは被告じゃない、それが近代裁判なんだ」と。そして、この構造を理解している人は本当に少ない、とも。
 小室先生は、物事の骨組み・構造を見極め、その構造を貫く論理を抽出して、原理主義的にそれのみに従って物事を語ってこられた。ロッキード裁判で「田中角栄を起訴した検事を吊せ!」と言ったのも、検事の行為が法治国家の構造を毀損する重大事だったからであって、田中角栄が良い政治家だからとかって理由じゃなかった。もっと言えば、「政治家は賄賂ばんばん取ったっていい、国民を幸福にできる政治家ならそんなことは問題じゃない」と言っていたのも、政治家という存在の構造・本質について語っているからだ。小室先生に言わせると、外務大臣が25万円の外国人献金で辞職するなんてちゃんちゃらおかしい、となるだろう。(…もっともM大臣はまったく有能な政治家じゃない、という問題点があるわけだが、それは別の問題か)
 検察が自分で法治国家を毀損するがごとき暴走を見せている昨今、小室先生の弟子である宮台さんは、ご自身の言論でこの問題を訴え論じ続けておられる。それだけじゃなくて同様の市井の運動に共鳴し、身を挺して支援もされている。けっして言葉だけじゃない、機敏な行動がともなった方なのだった。ほんの短い一瞬だったけど、挨拶してそれがよくわかった。
 副島さんは「(小室先生から受け取った)トーチを若い人たちへ渡していく」とおっしゃった。小室先生のお弟子さんたちは、それぞれに学統を伝えるべく奮闘しておられる。これから出版社も小室先生の著作を絶やさず、誰もが読めるよう維持してくれるとよいと思う。出版社を辞めた僕は、もう直接こういうことに携われない。今はもう一介の庶民にすぎないわけだが、小室先生の謦咳に触れ得たことを誰かに伝えたくてしょうがなかった。だから、こういうエントリを書いてしまいました。やけに長くてごめんなさい。読んでくださってありがとうございます。

  自分が関わった本がないのが残念。
副島先生の著書は文庫で入手可。