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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

消える読者、消えるジャンル

 先日、知り合いから『デフレの正体 ——経済は「人口の波」で動く』という本が面白いから読め、とすすめられた。角川oneテーマ新書、著者は藻谷浩介。1964年生まれだから同世代の書き手だ。
 本書の主旨はシンプルだ。「デフレとか景気循環といった専門用語?をいくら駆使してもこの不況は説明できない。説明できるとすれば、“人口の波”の変化によってだ」というもの。前年同期比などの短期の指標ではなく、また有効求人倍率などの適用範囲の狭い指標ではなく、人口・小売販売額・個人所得といった絶対値や総量の変化を見て考えよう、という本だ。
 これが……シンプルきわまりないうえ、身も蓋もない絶望的な状況をきれいに浮かび上がらせる無類の本だった。正直、読んだらとことん鬱になりました。


■個人的印象で語ってしまう人口動態と経済の変化
 同書での中心的な概念となるのは「生産年齢人口」だ。15歳〜65歳をこう呼び、生産にかかわり社会の中核をなす年代であり、この部分の絶対数が雇用なり就業者数なり消費動向を決定する、という。「現役世代」とも呼ぶ。とくに「そもそも現代地球経済の問題点は生産能力不足・労働力不足ではなく、需要不足・消費者不足なので、本当は『消費年齢人口』と呼ぶ方がいい」(同書93頁)という指摘は大きくうなづける。
 これなんかも身近にリアルに感じた記述だ。

「昔ほど車を買わない、そもそも以前ほどモノを買わない、最近余り本や雑誌を読まない、モノを送らなくなったし車にも乗っていない、近頃余り肉や脂を食べないし酒量も減った、水も昔ほど使っていない」(同書135-136頁)

 これ、最近の自分に全部当てはまる。仕事を辞め自炊中心の生活になったら「痩せたね」と言われる。自炊だとどうしても野菜中心の食事になるからだ。晩酌することもないし。そして食材の価格はおおむねカロリーに比例しているので肉や脂を摂らないと食費も非常に安上がりだ。本も、部屋は狭いし収入はないのでどうしても買い控える。うーん、やってることが65歳くらいの消費パターンだな。
 三浦半島の宿・観潮荘に行ったときの印象を思い出した。大広間で夕食・朝食を摂っていると、4人以上の家族とおぼしき席では「子ども+パパ・ママ」という組み合わせより圧倒的に目立って多かったのが「子ども+パパ・ママ+ジージ・バーバ」という3世代の客だった。僕は未婚で子どももいないし老親と旅行に行くこともないのでよくわからないが、これはたぶん、夏休みの小旅行の資金がパパ・ママからではなくジージ・バーバの財布から出ているってことだよね、たぶん。つまり、比較的裕福な老親からちょっとだけ現役のパパママ世代へ夏休み資金が移ってる、所得の世代間移転が行われていると。そりゃそうだろう、観潮荘は高級旅館じゃないけど一家で泊まるとそれなりに値が張る。ただでさえ物いりな現役のパパママにはちょっと苦しい負担だ。ここに余裕のある老親、孫が大好きなジージ・バーバが財布を提供するのはきわめて自然だ。
「クルマが売れない」「若者のクルマ離れ」という議論も、なんとなく仮説を口走ることができる。
 若者のクルマ離れを象徴するのが、かつて若者のシンボルだったスポーティカーが売れない、車種が廃止されていってる、という事実だ。トヨタがレビン/トレノをやめたのは2000年、スープラは2002年、セリカは2006年に生産終了。日産がシルビアをやめたのは2002年、ホンダもシビックがスポーティカーからじじむさいセダンになり、インテグラも、そして昨年はS2000も姿を消した。排ガス規制で姿を消したRX-7スカイラインGT-Rなどもあるが、ほんとは規制なんかが原因じゃなくて売れないからだろう(売れるなら絶対に同価格帯で後継車種が出てるはず)。
 もともとこういうライトでプレミア感のないスポーティカーは若者しか乗らない。そして若者は基本的にカネがないので、がんばってローンで買うか、または親に買ってもらうかしていた。田舎に行くと農家の車庫にこういうスポーティカーが1台、カローラや軽トラにまじって停まっていたりするが、そういうのは「長男のお前が家を出ずに継いでくれるなら、買ってあげるよ」とバーター的に買い与えられたものだ。スポーティカーの需要の多くはそのようにして生まれた、そうに違いない、と僕は勝手に思っている。ちょっとだけ文献的な裏付けもあるよ、『シャコタン☆ブギ』とかもろにそういう経済事情が描かれている。
 代わりに台頭してきたのが3列ミニバンだ。子どもができたパパママ世代が最初に購入を検討するのがノア/ボクシーとかセレナ、ステップワゴンらしい。もちろん購入資金を出すジージ・バーバの席があるから3列が必須なのだ。
 もちろん今でも「家を出ないかわりにクルマ買ってくれ」という長男坊はいるだろう。だが若者の絶対数が少ないためスポーティカーが売れない・車種自体がない現状では、長男坊もFDやR34を買うことはできない。マジェスタとかセルシオ/レクサスLSなどの贅沢セダン、あるいはムラーノとかハリアー(今はレクサスRXだっけ?)といった贅沢SUV、あるいは輸入車に流れてるのかな。田舎に帰省したときVWルポGTIが停まってる家を見たけど、なかなか小気味よい選択だと思いました。でも結局、実用性を考えたり、この先簡単にクルマを買い換えることはできないって思うと最初にミニバンを選んでしまうのは自然だと思うんだよね。
 では最近復活したGT-Rとか、その前に復活したフェアレディZはどうなのか。
 これはもう断言できるのだが、GT-Rの購入者のなかに若者はまずいない。都内の幹線道路や休日の高速でGT-Rをけっこう目にするが、運転しているのはてきめん僕より年代が上の男性だ。同世代以下がGT-Rを運転しているのを見たのはかれこれ1回くらいだ。あとは全員、好き者と思しきオジサンorおじーさん。そりゃそうだ、若者が800万円もする国産買うわけない。Zも同様。GT-Rほど値は張らないが、それでも割高であることは否定できない。最低でも400万円近くする2シーター、しかも威張れるほど速くないのだから、そんなカネがあったら若者はホントに速いランエボとかインプレッサSTIを買うだろう。以前住んでたアパートのそばに新車のZがいたけど、オーナーはお爺さんでしたよ。たぶんS30の頃から好きだったんだろうね。
 そう、今の国産スポーティカーで若者好みのルックスと速さ、価格を備えているのはランエボとインプだけなんだよなあ。デートには向かないと思うが(実際、乗ってるのは男性2人組ばかりだ)。
 国産スポーティカーが衰亡したのには、主たる購買層だった“地方に居着く若者”の消失があると思う。“消費年齢人口”が消失したと言ってもいいだろう。もう一つ輪を掛けているのが雇用不安による“そうそうクルマばかりにカネは使えない”という意識の変化だ。ていうか地方に行くと3列ミニバンは実はあんまりいなくて、家族の個人個人が全員軽自動車持ってるっていうのが主流なのだが。3列ミニバンは大都市圏の一戸建てに暮らす現役世代が、「お墓参りやイベントにジージ・バーバも連れて行けるよ、だからお金出して」という建前で買ってるのがホントじゃなかろうか(多くの3列ミニバンはマンションの立体駐車場に入らないので一戸建て、という前提です)。
 クルマには他にも不思議なトレンドがあって、セダンが衰亡してしまったのはなぜか?とか考えるべきテーマは多い。でもまあ、今日はやめときます。


■人口動態から考える、消えるジャンル、消える読者
 出版関連の話もしよ。というかこれが主題なのだが。僕が会社を辞めたとき、文庫の稼ぎ頭は書き下ろし時代小説だった。これは今も変わらないと思う。というか宣伝にいた頃だから2002年くらいから「時代小説をきちんきちんと刊行しなきゃだめだろう」「佐伯泰英先生は化けるんじゃないか」という議論はあった。実際佐伯先生はそれから数年でもう大スターになり、各社の文庫を併せるとほぼ毎月刊行、その全部が売れている。このジャンルには新しい才能がどんどん登場していて、僕が知ってるなかでは上田秀人先生とか“ポスト佐伯”に近いと思う。
 なぜ時代小説ばかりが安定して売れるのか? これも単純に「消費年齢人口が増えた」と言っていいと思う。時代小説はおっさんおばさんの読み物だ。なかでも、長いシリーズだけど主要人物たちが年を取ったり成長したりしない「レギュラードラマ」ものは保守的な読者に支持されやすい。人物たちが成長したりする「ストーリードラマ」ものはどうかというと、大河ドラマ龍馬伝」がいまいち視聴率的にバカ当たりしてるわけじゃないのを見るとやはり難しいのかもね、と思う。
 出版社編集者のなかには、この時代小説の隆盛に不安を抱く向きもある。90年代に一世を風靡した「シミュレーション小説」というジャンルがあるが、これがものすごい隆盛から一転してまったく売れなくなったトラウマを記憶しているからだ。
 シミュレーション小説の嚆矢はたぶん高木彬光連合艦隊ついに勝つ』だと思う。僕が読んだのは70年代なので40年近く前の作品だ。それからコーエーシミュレーションゲームの隆盛とかを受けて90年代に大ブームが起き、書店のノベルス判型の棚では連合艦隊がレイテで勝ったり沖縄で勝ったりインド洋まで行ったりいろいろ大変だったが、ある日突然ジャンルが消失した。そこに参入した多くの書き手も仕事を失った。(参照『ホームレス作家 (幻冬舎アウトロー文庫)』)これは小説系の出版関係者全員がもう一度検討すべき事例だと思う。
 時代小説とシミュレーション小説には共通点が多い。どちらも史実をベースに物語を構築する技術が必要なこと。ジャンル小説であり、リピータ読者に支えられたこと。書き手の新規参入も多かったこと。もしも同じ悲劇が時代小説にも起きるとしたら、出版界は大変なことになる。
 でも『デフレの正体』を敷衍すると、そうはならないだろう。ゲームの愛好者とほぼ等しい年代の読者に支えられたシミュレーション小説と違い、時代小説には新規の読者人口が次々流入するはずだから。それはつまり、保守的な高齢者層ってこと。
 かわりに、現在ブレイク中の他のジャンルに変調が起きるかもしれない、とは容易に予想できる。たとえばライトノベル。ファンタジー。文芸。文芸は実はもう相当やばくて、文庫で再展開するビジネスモデルがなければ、つまり四六判のみでの展開はもうほんとのところどの会社でも無理なのではないか。
 すでに死に絶えたジャンルもある。SFだ。僕自身子どもの頃は筒井康隆の熱心な読み手だったのでSFというか発想を大きくジャンプさせ形式にこだわらないアナーキーな小説群がたまたま「SF」という棚に並んでいる状況が大好きだった。しかし、SF専門誌がなくなり(※)、国産SF小説がメジャー市場を賑わすこともなくなり、市場的にはほぼ絶滅したと思う。(※大間違いでした。多くの方からご指摘いただきました)
 SFは若者固有の文化だ。ハードなSFは読みこなすのにそれなりの脳みその容量が必要だし、ソフトなものでも例えば筒井作品などは既存の権威に刃向かい覆すものばかりだから保守的な読者層には受け容れがたい。このジャンルが日本の書籍市場からほぼ消滅したのは、日本市場がかなり保守化してしまったことを意味すると思う。
 いや、超能力や異星人が活躍する小説はまだまだ元気だよ、という向きもあるだろう。主人公が発火能力を持ってたり、山村にゾンビが大発生する小説がベストセラーになったじゃない、という反証もあるかも。だけどこれらは、口幅ったい言い方を許してもらえば、正調SFじゃなくてSFのエッセンスをうまいこと一般向けに組み込んだ、ハイブリッド型の娯楽小説だ。
 ファンタジーは盛んじゃない?ファンタジーの中にSF魂は生きてるよ、との指摘もあろう。それは認めなきゃいけないと思う。ファンタジーの書き手にはSF好きだったと思しき方が多いし、彼らが構築する世界観には非常にしっかりしたものも多いという。すみません、僕自身この分野はあまり知らないので断言できません。だけど、ファンタジーだから売れてるっていうのとは状況がちょっと違うような気がするんだなー。むしろRPGなどのゲームの影響が強いような。この流れはライトノベルになるともっと顕著になりますよね。
 で、再び『デフレの正体』からの推定だが、正調SFすでに死す、ファンタジー/ラノベまさに立つべし、という今の状況は将来も続くのか? 僕はこれ、非常にやばいと思う。
 ラノベの買われ方に「大人買い」に似た感じがする。いやラノベだけじゃなくて、例えば萌え系の商品とか、あるいはAKB48関連の商品も。とくにAKBが顕著なのだが、1人のお客さんからとことんムシろうとする商品設計がある。ランダムに異なる生写真が封入されています、コンプリートするには同じ商品を10回買いましょう、みたいな。ライダースナックかよ。いやスナックはまだ食べられるけど、同じ写真集はどうしようもないよ(ライダースナックをリアルに食べたことがある世代としては、でもあのスナックは不味かった、と注釈せねばならないでしょうね)。
 まあさすがにAKB以外の商品はそこまで悪どくないと思うが、お客さん1人当たりの消費額がこのジャンルは非常に高いのではないか。ということは1人のお客さんの動向がジャンルに与えるインパクトがかなり大きいということでは。
 時代小説はそもそも消費意欲の薄れた高齢者がちょぼちょぼと薄く広く買って今の隆盛を形成している。ラノベは消費意欲の盛んな若者が1人でもがっつり買っているから、大多数の客に見向きされなくても売れている……んじゃないのか。
 ラノベの主たる消費年齢がどのくらいで、その人口がどのくらいなのか、僕は全然データを持ってないけど5年後とかにごっそり人口が変動したとき、このジャンルがどうなるか、心配な気がする。今現在ものすごく効率的な市場だからこそ、少しの動向が大きな衝撃になりそうで。それはファッション誌の広告収入が激減して大手出版社が受けたインパクトと似た構造なのではないかと。
 じゃあ、高齢保守層の読者に向けた企画を主力にすれば安泰じゃん、という議論が出てくるだろう。それはアリだと思う。
 だが僕は残念だ。そもそも出版という事業というか行為それ自体が若者的な反逆心とか表現衝動、跳ね上がり志向に基づいたものなのだから、その衝動を押し殺して年寄り向けのタイトルを我慢して作り続けるというのは、なんだかとても悲しい。そして、SFに代表される既成の枠にとらわれない発想、権威を笑い徒手空拳の力を天下に示すモチベーション、現状を変えてやろうぜという革命児的な暴挙に討って出るには、若者の心性が本当に大事だ。
 時代小説、僕も好きなんですよ。佐伯泰英先生の作品には今はもう廃れた浪曲のエッセンスが脈々と息づいてるし、上田秀人先生の作品には幕府官僚の窮屈な日常が実は生き生きと描かれてたりして、ジャンル小説といえどもそれぞれ素晴らしい創造性に触れることができるわけで。若い書き手はこうした素養を必要とされるジャンルになかなか参入できないのも事実。歴史についての基礎知識がないとトンデモ小説になっちゃうだろうしね。刀の所作とか、考証はいくら勉強しても終わりがないし。
 実は、こうした杞憂の裏側で、ノンフィクション書籍とか翻訳書籍が人知れず大きなピンチを迎えているかもしれない、という思いもある。このテーマ、継続審議としておきたい。
 


※本文中、「SF専門誌がなくなり」という大間違いを記してしまいました。
SFマガジン」「宇宙船」が健在であること、ご関係のみなさまに大変失礼しました。お詫び申し上げます。また「SFはジャンルとして死に絶えた」という表現はファンの方を傷つけたと思います。SFは復興しつつありピュアSFの佳作も次々生まれている、という見方もできると思います。……これを「死に絶えた」と一方的に言うのは暴言と思いますがここは失礼を承知で敢えて言い換えずにおきます。(2010.09.14追記)