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新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

書気あたりしてしまった——押井守『勝つために戦え!』内田樹『街場のメディア論』

 今日は体調がどうもすぐれない。連日の猛暑にすっかりやられているから、仕事も就職活動もせず引きこもってるから、生活が自堕落でそれ自体がストレスだから、といったいろんな理由があるが、一つには昨日読んだ本が悪かった。すごく面白かったのだが副作用も大きかったというわけで。


押井守『勝つために戦え!〈監督篇〉』 『勝つために戦え!〈監督ゼッキョー篇〉』
 今年の春(たぶん3月)に出た『監督篇』に続き、つい先頃『監督ゼッキョー篇』がリリースされていた。前者はTBSラジオタマフル」でもライムスター宇多丸さんが推薦図書に挙げて激賞していた(Podcastでの言及は5分30秒過ぎから)。
『勝つために戦え』1作目はサッカーの話なので読んでない。『監督篇』は、映画監督としての勝敗論、それもヒットさせたかどうか、資金を回収できたかどうか、賞を獲ったかといったことよりも最大のプライオリティは「次も作品を撮る権利を留保する」ことに置かれる。大ヒットさせても次が撮れなかったらもうダメなんだよ、撮り続けることが監督の勝利なんだよ、という送り手創り手本意の映画監督論。キャメロン、三池崇史、手塚、ヴェンダース、リンチ、深作、タルコフスキー樋口真嗣、たけし、ヒッチコック実相寺、ウォシャウスキーとデル・トロ、ゴダールを〈彼は勝ってるか、彼はどんな勝負をしてるのか〉という観点から語る。
 宇多丸さんが紹介する通り、無類に面白い。語り下ろしで、“ここは前々ページで言ったことと完全にかぶってるだろ”みたいな荒っぽい作りだけど気にならない。それよりもスピード感優先で「今これ読まないと損!」と思わせる。なにしろキャメロンの回なんか2008年に語ったもの(当然「アバター」は未公開時点)にわざわざ2010年になって「アバター」を見てから〈補講〉を収録している。しかも補講では「キャメロンには負けた!」と潔く白旗を揚げ、さりとて前言撤回するではなく彼の監督勝敗論にしたがうとなるほど2008年時点でのキャメロンの評価は“負け”でも「アバター」で“勝ち”に転じたんだな、やっぱり押井勝敗論は筋が通ってる、と思わせる。とにかくオープンで気持ちいい。
 続編の『監督ゼッキョー篇』では、語るべき監督か、語らずともよい監督かを仕分けることから始め、リドリー・スコット、カーペンター、キューブリック、コッポラ・ルーカス・スピルバーグ、コーマン、エメリッヒとバーホーベン、ティム・バートンジョン・ウータランティーノ滝田洋二郎阪本順治、石井聡互、塚本晋也周防正行森田芳光相米慎二若松孝二岡本喜八円谷英二本多猪四郎について述べている。はっきり言って僕は作品見たことない監督も多い。だけどそれは押井監督も同様で「5分しか見てないな」なんて平気で言う。作品を見たのは5分でも、その仕事(キャリア)と勝敗は批評できちゃうのだ。というか『ゼッキョー篇』では前作よりもさらに作品論ではなく映画に関わることのキャリア論、仕事論へと集中する。それはつまり、映画とは関係ない仕事にも敷衍して読んでしまうことは可能で、僕なんかはつい元いた会社のこととか思い浮かべながら読むわけ。これは面白いけどあまり健康に良いことではなかった。
 編集者で言えば「次も企画をやる(本を作る)権利を留保する」ことを以て勝利というわけにはいかないだろう。正社員編集者は異動しないかぎり企画をやる(本を作る)ことは義務であり、企画は通して当たり前だからだ。編集者の勝利条件は何か? と考えると、僕なんかは古くさいかもしれないが、押井監督がしばしば言ってる「3拍子、(2つは流しても1つは必ず評価される)3割バッター」にシンパシーを覚える。映画監督も編集者も“向こうから来た企画で断れないものもある”なんてそっくりな仕事だったりする。それを引き受け、そこそこのものを作り、次も信頼されて声がかかるほどのそこそこの結果を出す……。
 実はこれ、映画監督や編集者以外でも、ふつうに仕事してる人なら多かれ少なかれこんな不安定要因のなかで働いているものだ。ただし職種によって信頼の担保のされ方が違う。本書でも付録として〈スタッフ篇〉があり、そこではプロデューサー、脚本家、カメラマン、俳優などの勝敗論も論じられる。俳優は「自分で勝負に出るためのカードが少なすぎる」などと職種による差異がきちんと述べられているので、自分の仕事に引き寄せて考えるときの補助線も多数ある、親切な本なのだ。
 しかし僕はこれ、夢中で読んだけど最終的に知恵熱が出たようになって体調崩してしまった。あんまりリアルすぎる。映画に対してもっとカジュアルに気楽に接したい人には到底オススメできない本だ。何より、ここで押井監督に斬りまくられる古今の監督たちを笑ってスカッとしたとしても、その直後に押井監督の言葉は自分へも向けられるからだ。「お前はどんな勝負をしてるかわかってる? それに勝てる?」と。このプレッシャーはきつい。猛毒だと思う。


内田樹『街場のメディア論』(光文社新書)
 口直しに内田樹先生の新刊を読んだ。内田先生の本は気持ちが乱れたときに読むと鎮静化させてくれる効能があるので長年愛読していた。が、本書は違った。よりかき乱された。
 そりゃそうだよね、“メディアが崩壊しつつあるんだけどその理由は何だかわかりますか?”という本なんだから、自分がこれまで書いたりしてきたことがどんだけ的外れだったか内田先生自らが教えてくれるという……読むのが辛かったよ。面白かったけど。
 本書ではあちこちで立ち上がれないほどの感銘を受けたけど、それが集約された箇所を紹介すると、

情報を評価するときに最優先の基準は「その情報を得ることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」ということ(四〇頁)

メディアは「金儲け」のために作られたものではありません。ある人類学的機能を託されてこの世に登場したものです。(一〇六頁)

 の2箇所になる。つまり、メディアに関わる人がこの本を読了すると、それ以後否応なく「自分の仕事は世界の成り立ちを理解する一助になっているか」「自分の仕事の人類学的意味を自覚しているか」の2点を自問せずに働くことはできない、という仕組みになっているのだ。ある意味、呪いをかけてくれる本なわけだ。怖いよー。
 僕はといえば、前者に関しては前から割と自覚していたつもりだった。もらったモノを右から左へパスするようなことはしなかったつもりだし、そのため毎度毎度自分の中に取り込んで出てきたものを書くという、僕に興味のない人にとってはうざったいことしか書いてこなかった。でもそれは僕が世界の成り立ちを僕なりに手探りした結果だから仕方ないし、とちょっとは自負してる。
 だけど2点目はまったくダメだった。僕の理解は最悪だった。
 僕は「なぜブログが人気出たと思いますか」と問われたとき、必ず「出版という産業は他業種に比べるとまだまだ人々から愛され、注目されているからだと思います」なんて答えていたが、これがどんなに傲岸不遜で失礼なもの言いだったか、本書に指摘されるまで気づかなかったのだ。お笑いだ。
 出版は産業ではない。商業出版を営む会社は産業だが、やってることは正しくは産業とは言い難く、むしろ人類に本源的に関わる行為、贈与・返礼、コミュニケーションであり、マネタイズできるのはその一部でしかない、出版に関わるすべてをビジネスと割り切って理解した瞬間に大事なものを見失ってしまう、そして現今の出版業界では全員がこの大事なものを見失ったまま議論している、ということだ。
 とにかく卓見に溢れた本だった。いま出版業界で問題化しているトピックほとんどについて敷衍可能な議論がいっぱいだ。たとえば、書店を訪れる客がなぜモンスター化したのか。逆に出版社が読者を置き去りにしたことと表裏一体ではないか。広告収益を獲るための雑誌がなぜもうダメなのか。電子書籍著作権論議に何が足りないのか。図書館は本当に有料読者を食ってるのか。これらについて決定的なヒントや完全な答えがすでに書かれている。これ以後、本書を経ない出版論議は無効とする、と言ってもおかしくない本だ。体調悪いときに読んだら(僕のように)より落ち込むので要注意、と。


 というわけで、身内に溜まった毒を抜くつもりでエントリを書いてみました。瀉血療法みたいですみません。解毒、できたかなぁ。いやまだ頭がくらくらするわ。