新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

リストラなう!その31 愛(かな)しい出版流通

■有給休暇が五十二日残っているのに、会社員でいられるのもあと十一営業日となったたぬきちです。しかし、正直言って有休消化しようって気にあまりなりません。なぜって「リストラされたけどまだ辞めてない会社員」という滅多にない立場が楽しいから。会社来るのが楽しくって、休んでる暇なんかないよ。
 そんなわけで昨日も出社して、打合せする合間にデータベース回してコピペコピペで帳票作ったりしてました。コピペ作業こそ自動化したい最たるものだが、これがなかなかイレギュラーな要素が多くて手作業でなくちゃできない部分があるんだな。二時間もやるとコピペハイになったりして、意外に楽しい。


■そして打合せなんだが、この期に及んでまだ外部の人と打合せやったりしてる。いーのか?
 退職するってこと先月のうちに伝えた相手もいるのだけど、まだほとんどの方には言ってなかった。なので突然「実は今月末で退職するとになりまして」と切り出すと、たいていの方が「えっ」と言ってくれるのがこれまた楽しい。会社員生命を賭けたドッキリつーか。こんなネタ今回きり、もう使えないからねー。
 ……あんまり人様を驚かせて喜んじゃいけませんね。すみません。


■昨日の打合せ先で、在庫が薄い書目に対して「ある程度まとまった数を仕入れたいんだけど、重版は可能か? 重版の最低ロットはどのくらいか」という話が出た。前回のエントリでも紹介したが、最近は四六判単行本だとほんとうに極小ロットでの重版が可能になってきた。
 だが極小ロットで利益を出すためにはきわめて厳密なコスト管理をしないといけない。少しでも手間や出費がかさむとわずかな利益が吹っ飛んでしまい、挙げ句に重版して市場に出した商品が返本され(完売することはまあ、ありえないしね)たりすると大きな損失が発生する。何のために重版したんだか、ってことになるよね。


■出版はビジネスであり、しかも新聞・テレビと違って多品種少量生産だから、華やかに見える裏ではこういう地味ーな問題について頭が煮えるほど考える。最近はろくに考えずに「刷っちゃえば?」なんて偉い人もいるようだが、そういう人は「重版した」って功績は自分のものにするのに、返本で過剰在庫・断裁処理なんてことになったら知らん顔してる。直接担当者だけが「俺が重版したせいか?」なんて悩んだりして。変だよね。
 ビジネスの基本は、自分と相手の利益が、どちらも最大になるような解を探すことだと思う。重版して読者の手元に商品を送ることができれば、片方の利益にはなる。だがそれが出版社の損になるようではいけない。「それでもこの本は良い本だから少々の損には目をつぶって刷ってくださいよ」という人もいたりするが、残念ながらそーゆーお願いにはお応えできません、というのが正しいビジネスマンの態度だと思う。そうじゃなくて、損しない方法を一所懸命考えて、本を生き延びさせていきましょう、と。
(そういう訳で書店員秘密結社のみなさん、『○○○○』の仕掛けについてはしばらくご注文にお応えできませんが辛抱してください。みなさんの熱意が読者に伝わり、行けそうだって兆しが見えたら必ずこちらも動きます。って僕には決定権なんかないしもうすぐ辞めちゃうけど。けど残る仲間も気持ちはみなさんと一緒ですよ)


■だが会社という組織になると意思の統一が難しくて、いろんな利害がぶつかり合い、「自分と相手双方の利益を最大化する」という命題が忘れられることもしばしばだ。
 営業、とくに促進部隊は「注文を取ってくることが俺らの仕事だろ」と、在庫がなくて出庫できないという事態を許せない。出庫は出庫で「売りやすいもんだけ売ってきやがって」「無根拠に出しても返ってくるだけなんだよ」なんて不満とストレスを抱える。いや、僕は出庫はほとんど経験ないんで同僚の心中をちょっと推測しての発言です。君らはこんな下品なこと言わないよね?
 さらに営業と編集の相互理解の不足。前にも書きましたね。
 編集が陥りがちなミスに、著者の方だけ向いて仕事してしまう、というのがある。僕も編集にいた頃はこの陥穽によくはまった。だから今営業にいるからといって一方的に編集を責めることはしたくないが、それでも書いておきたいことがある。
 トラブルは、誰かに何かを隠しているとき、しばしば起きる。
 あるとき、僕は某書店チェーンとの打合せで某小説の初版部数を伝えた。そのチェーンに縁のある作家だったのでぜひ仕掛けに協力してもらいたい。ただし少部数なので主要店だけでも厚めに置くといった方法はとれないか、と。ところが後日、編集から「なんで部数を漏らしたんだ!」と猛抗議を受けた。初版部数が著者サイドに伝わり、それが編集が伝えた部数よりずっと少なかったというのだ。
 なんだとー! 聞いてないぞ。
 部数に下駄を履かせて、多めの印税を支払うという特例がある。今回もそれだったのだ。
 著者、とくに小説家に、少ない初版部数を提案し納得してもらうことはストレスが大きい。それはわかる。初版は年々減っているし、それが市場が判断するその人の価値だとすると、それを素直に受け容れられる人は少ない。僕が著者だったらやっぱりそういう話は聞きたくない、と思うだろう。だが、それを伝えようとせず、小手先の手法で問題をかわそうとするのはどうか。結局、著者にウソついたことになるじゃん。ウソは、いつかバレるよ(って、漏らした本人が言うのはどーなんだって突っ込みが来そうですね。はい、全然反省してません。そんな反省するもんか)。


■部数というと、編集は外部に対して隠したり、サバ読んで多めに言ったりすることが多い。見栄なんですかね。それとも何か良いことがあるのか。入社早々の頃、ある企画について新聞の取材が入ったとき編集長が「実験的な企画ですが初版は三万部とがんばりました」なんて答えているのを聞いて驚いた。一万五千部じゃなかったっけ?
 こういう感覚が編集の現場にはまだ残っているのかもしれない。でも、それはもう通用しないよ。
 営業の現場でもなるべく部数を外に出すまいという風潮はあった。でも、そんなの意味がないよ。正確な初版部数・配本数・在庫を公開せずして適切な商談はできない。数字をぼかしたままだと「なんとなく」の発注・受注になってしまい、結局うまくいかない。
 とくに少部数をピンポイントでオペレーションする際には、ウソの数字を使うなんてありえない。そして最近はほとんどすべての書目が少部数なんだぞ。ウソをベースに取り繕ったり、ウソがバレないようにさらにウソをつくなんて、単なるムダだ。
 でも編集の現場にはまだこのムダがはびこってるようなのだ。本当のことを伝えられないからとドキドキし、ウソをつくたびストレスを溜め、ウソが破綻するたびに卒倒する。全部ムダだよね?
 本当に著者の才能を評価していたらウソなんてつけないだろうに、と思う。繰り返すが、初版部数はその時点で著者についた市場の評価・市場価値だ。それを粉飾して伝えることで著者は何かトクするだろうか? ただの心ないお追従じゃないか? 著者も自己評価が狂ってしまうだけだろう。
 ビジネスの基本は、お互いの利益を最大化することだ。これはどっちも利益を損なってる例だ。


■もう一つ、利益を損なってしまう例。重版の最小ロットはいくつだ?という話で、重版に要するコストが少なければ、という話をした。前にも書いたけど、カバーに箔押しがあったりするとコストと手間が増える。箔押しはデザイン表現の一つとしてアリだと思う。だが、それがビジネス的見地とバランスしているかどうかが大事だ。
 以前見た例。現代史の裏面を描いた非常にしっかりした本で、その方面が好きな読者なら絶対評価するはず、というのがあった。ただし内容がハードな分、部数は多くを見込めない。分厚い四六判ハードカバーとしてリリースしたが、そのカバーが箔押しだった。刊行から一か月経って、いくつもの有力紙に好意的な書評が載った。当然にわかに注文が来る。だが一か月後というのは在庫を出し切ったあたりでしかも返本はまだ少ない。重版するかどうか、という話になる。
 ここでネックになったのがカバーの箔押しなのである。さばききれない注文数だが、ものすごく多いというわけではない。また、重版した分全部が売れるというわけでもない。注文に応えられる最低ロットでいきたい。だが、箔押しがあるから極小ロットだと利益が出ないのだ。
 結局この時は重版を決定した。幸いなことにその後も高評価は続き、さらに重版することもできた。
 その編集長と立ち話する機会があったのでこう言った。
「本当に良かったです。内容にふさわしい評価を得て、売れて。だけど箔押しはもうやめましょうよ。できれば次の重版から箔をやめるなんてできないんスかね。そうすれば重版だってもっと…」
「デザイナーと話し合って、本に信頼感を出すために箔を押したんだよ。だから今回は許して」
 え? 本の信頼感って箔押しで担保されるものなの?
 信頼って言やぁ内容についてくるもんだろ。外見じゃない。内容には自信あるんだろ。
 それにこの本に箔押し採用したせいで、重版決めるのがすごく難しかったんだぞ。箔がなければもっと早く重版決められたんだ。もし重版できなかったら、面白い本なのに命脈が絶たれるとこだったんだぞ。それって、本のためになってないんちゃうか——?
 文字通り「箔をつける」って慣用句があるけど、それって「虚仮威し」とかと紙一重の意味だよね。本当に実力があればそんなもの要らないんちゃうんか。
 まあ、すべての箔押しが悪いとは言いません。あくまでデザイン表現ですから。箔押し・エンボス・特殊な用紙・特色、全部使ってもいいと思うよ。デザインに禁じ手はない。でも、優秀なデザインは必ずビジネス的な側面とバランスしてますよね。そこらへん、デザイナーさんとちゃんと話し合いましたか?ってことが言いたかったのだ。あの場ではうまく言えんかった。すまん。


■暴論をもっと言ってしまうけど、四六判ハードカバーって必要なのか? ハードカバーってやつ。『1Q84』を二冊旅行に持ってったけど、ソフトカバーだったらどんなに楽だったか。余談ですがAmazon Kindleってアメリカ人がバカンス先に持ってくハードカバーの地位をまんまと奪ったんだそうですね。その気持ち、よくわかります。
 ハードカバーのビジネス的価値がよくわからなくなってきた。ハードになると制作費がちょっと上がるため、定価もちょっと高くなる。するとハードカバーってのは、ちょっと価格を嵩高くするためのお化粧手段なのか。
 それって「厚化粧」ってやつじゃないのか?
 価格を決める要素は制作費以外にもある。初版部数の規模だ。最近はどれも少部数の範囲でしかスタートできないのでいきおい価格は高めになる。そこでさらにハードカバーを採用してしまうと、より高くなる。その本が読者の手からどんどん遠ざかるのだ。
 前に、ある書店の文芸担当者から聞いた話を思い出す。情熱的な人でリーダーシップもある。同僚からも僕たち営業マンからも人望があつい人だ。
「文芸書って、本体千八百円が多くなりましたよね。ランチ三回分だわ」
 それでも彼女・彼らは身銭を切って本を読み、それを仕事に反映させ続けている。彼らが続ける努力の負担を少しでも減らすことはできないのか。
 宣伝にいた時、広告代理店の営業マンによく新刊の見本をもらえないか、と頼まれた。読んで話題にしてくれることもあるけど、ほとんどが自分の楽しみのために読みたいのだ。でもまあ良いだろう、本は読んでもらってナンボだから。でも中にはひどい人もいて、見本をストックした棚を勝手に開けて持ってくのを何度も見た。古株の営業マンらしかった。
 営業に来ると、書店員に見本を渡す習慣がほとんどないことに驚いた。え? 書店員に読んでもらうほうが絶対に効果あるだろうに。この違いは何? 変だよなあ。
 書店に対する場合、本は商品だから、見本を渡してそれを売られてしまったら困る、という考え方もあるかもしれない。さらにスリップをつけたままだと返本も可能なので、金額は少ないとはいえ損害が発生してしまう、かもしれない。という訳で書店員に見本を渡す習慣がないのかもしれない。
 けどねえ、そんなこといくらでも防げると思うし。「見本」ってスタンプを小口に捺すとかすれば。
 って話もそうだけど、問題は、読みたい人が手を出しにくい価格になってしまったことだ。その理由の一端が造本で解決できるとしたらどうだろう。
 ハードカバーという美しいパッケージが、時代の限界に来ているような気がする。送り手も受け手もメリットがあるような新しいパッケージを開発できないのだろうか。
 僕は「紙の手触り」なんてものに価値を感じない。全然。こんなこと書くと本好きの中にはムカッと来る向きもあるだろう。でもこの点だけは譲れない。問題は中身だろ。造本はもっと機能優先にしなきゃダメだろ。と思うのだ。まして、それがコスト増・価格上昇につながっているとしたら。
 クロス装の本はほとんど見かけなくなった。それで良いと思う。カバー(ジャケット)が返品を再出庫するのに必要な機能なのだということもだんだん浸透してきた。それで良いと思う。次は何が変わるべきなのか。


■そういう問題をすべて解決するのが電子書籍だ、という議論がある。電子書籍って今ブームだし?
 僕も電子書籍にはずーっと興味がある。iPhoneでいろいろ読めるといいよね。ここ一か月はiPhoneに入れた本も読む時間がないけどね。
 それと、僕は会社を辞めたら今のアパートから引っ越そうと思っている。その時、今本棚に入れてる本を全部持ってくことはできない。ぬまじりよしみのコミックとかを除いて大半を捨てるつもり。心が痛む。だけどBOOK OFFに売っていいの?と悩む。出版社の社員がBOOK OFFに本を売ることは利敵行為だ、という言説がある。僕はそうは思わないのだが、じゃあどうすれば良いんだ。もう紙の本を買って読み続けるのは限界だ、という差し迫った感覚がある。
 話が逸れた。
 だけど、電子書籍がすべてを解決してくれるというのも間違ってると思う。
 一方で、電子書籍に抵抗するのも間違っている。電子書籍出版社協会の幹部が言ったとされる「出版社がコンテンツを提供しなければ電子書籍端末は出せない」という言葉、これはもちろん間違ってるし、この言葉だけを盛大にリツイートして叩くのも間違っている。
 じゃあ何が間違ってないのか。市場に問うてみるしかないんじゃないか。それもなる早で。


■どうにもまとまりのないエントリになってしまった。それというのも、全部この本が悪い。
 再掲する。田中達治・著『どすこい出版流通 筑摩書房「蔵前新刊どすこい」営業部通信1999-2007』だ。ISBNは 9784780801170 (ポット出版)。
 残業して帰る途中でビール二本飲んだら酔ってしまって、寝て起きたら変な時間で、枕元の『どすこい』の適当なページを読んだら涙が止まらなくなったせいだ。

 出版業界はいろいろな「嘘」を共有している。言い換えれば「嘘」を符牒として出版業界の権威付けにしているようなフシがある。私は「良書」という言葉が、いや、ことあるごとに「良書」を口にする出版人が嫌いだ。「良書を売らないダメな本屋」「良書を売り続けることこそ出版の使命」「良書を絶版にする志を失った出版社」「採算を度外視してでも良書を出し続ける」「良書が売れない堕落した時代、国民」……まったく偉そうなひとたちだ。(同書p.164-165)

 僕が働いている会社では「良書」なんて口にする人はいない。さすがだ。でも、それ以上にダメなウソやゴマカシがまかり通っている。
 また、殿様やその近くの人が業界団体の集まりに出かけると、そこでは「出版文化」「出版文化を守らなければ」なんて言葉が使われたりする。ウソつけ。出版は文化じゃねーよ。ビジネスだよ。その方が大事だろ。え?と思う。
『どすこい出版流通』の著者、筑摩書房の田中さんは、亡くなる一年と少し前に上記の引用部分のある回を書いて、自社の書店向け新刊案内に載せた。勇気のある原稿だ。見識と矜恃、知性、優しさもある。
 いま手元にあるのは会社の先輩から借りた本だが、僕も一冊買おうと思う。他のほとんどの本は引っ越しの時捨てるけど、この本はずっと持っておくつもりだ。こんな、会社員生活のどん詰まりの最後になってやっと出会ったのが悔やまれる。だから一生持っておく。きっと開く度に泣くだろう。そして、僕はダメ営業マンだったけどこの人と同じ業界にいたんだ、ということを誇りに生きていく。
 この本は出版流通をめぐる、非常に専門的なエッセイだ。本当にレベルが高いのですぐには理解ができない部分も多い。僕も半年前ならわからないことがいっぱいあった。
 出版業界で働くすべての人にこの本を読んでもらいたいと思う。わからないことがあれば、編集なら自社の営業に、営業なら自社の物流に尋ねて、この本について語りながら理解を深めてほしい。書店の方にも読んでほしいし、プロの著者ならなおさら読んでほしい。そして自分が付き合っている出版社がこの本の例とどう違うのか、直接尋ねてみてほしい。電子書籍をやろうという人もぜひ。
 最近あちこちで「この業界の人、みんなブログ読んでますよ」と言われる。ほんとか。だとしたら、もうこんなブログはいいから、『どすこい出版流通』を読んでください。一人でも多くの人に田中さんが遺したメッセージが届けば業界は変われるかもしれない、と思う。出版文化、なんて恥知らずな言葉を口にするのはやめて、真剣なビジネスとしてもう一度取り組み始めるために。(つづく)