新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

リストラなう!その7 去りゆく男たちの流儀

■募集開始!されど五里霧
 今朝から「早期退職優遇」の正式な受付が始まった。僕も、今日の朝イチで応募したこととして処理されたらしい。ごくごく親しい何人かの同僚と、「おう、もう出したか?」といった会話をこっそり交わす。今回の対象ではない若い社員や、同世代だけど残留をにおわせている同僚には聞こえないように。それでも、この話をしてるということは雰囲気でバレている。職場の雰囲気を悪くしてごめんなさい。
 退職を決めた僕たち対象者の興味は「さあ、俺もエントリーしたけど、これで何人だ?」なんだけど、ほんとのとこどのくらい応募したのかさっぱりわからない。会社は「残り枠が少なくなったらアナウンスします」と言ってるが、こうしたアナウンスがないところをみると五十人にはまだまだ及ばないのだろうか。
 だが、「あいつは応募したよ」と意外な人の名前が挙がることがある。おお、こんなところに同志が!
 って、別にあんたと同志じゃねーし。なんて言われそうだ。すいません。勝手に感情移入してしまうのは僕の悪い癖です。
 だが、この局面で「あいつも辞めるって」と伝え聞いて、何の感情移入もせずにいられるだろうか? 今回辞める社員は、言ってみれば、折からの厳しい再就職戦線にともに飛び込もうとする戦友だよ。あるいは会社の苦境に臨んで重たい選択を迫られ、“どちらかというと厳しい方”の選択肢を取った仲間だよ。すいませんが、感情移入させてください。よくぞ決めたな!と言わせてください。
 しかしながら、うまくいけば五十人の仲間になる予定なのだが、まだわからない。
 うまく五十人揃ったら全員で集合写真を撮って、「五十中年漂流記」なんてロゴを入れたポスターを作ろうかと思ったのだが、ひんしゅくを買うだろうからやめときます。
 会社はひそやかだが重たい奇妙な緊張感の中にあり、廊下の隅、階段の踊り場、勝手口を出た暗がりなどで声を潜めた会話が繰り返されている。


■文壇でも話題?
 今朝発売の「週刊現代」に載ってる伊集院静氏のエッセイが、出版業界のリストラをテーマにしたものだった。なんとタイムリーな。連載タイトルは「それがどうした 男たちの流儀」。今週の題は「男が仕事を続ける理由」。
 二十年ぶりに恋愛小説を書いた伊集院氏が、その本の担当編集者と会話している。担当氏の会社でも早期退職者を募集中なのだという。
(以下、「週刊現代」4月17日号(4月5日発売)より引用)

「伊集院さん、どうなんでしょうか?」
「やめなさい」
「えっ、退職した方がいいですか」
「そうじゃない。どんな状況でも会社を復活させる方に身を置きなさい。人生を金で計算したら終わりだ。仕事を続ける。これが社会人の鉄則です。悠々自適というが、あの言葉は幻想です、人間、何もしなかったら、仕事をやめたら生きる軸が失せてしまいます。金など少々減っても仕事を失う悲劇に比べたら何ということはない」

(以上。引用終わり)
 おお! 僕が働いてる会社とすごく似てる! 悩みも似てる。みんな悩むんだよね。
 そして伊集院氏のアドバイスも心に染みる。そう、僕も悩んだ末、会社が選んだ再建案に同意して辞める決意を固めた。僕の退職金はたしかに大金だが悠々自適なんてできるような額じゃない。企業年金もないし働き続けないと生きていけない。そして何より、僕も働くのをやめたらおかしくなってしまうだろう。金など少々減っても、仕事を探して、僕が必要とされている仕事をやっていきたい。そうして生きていきたい……。
 あれ? でも伊集院さんの言葉は「会社を辞めるのはやめなさい」と言ってるようにもとれる。あれあれ? どっちなんだろう。
 

■しがみつかない生き方……は可能か?
 伊集院氏のエッセイのページには、表題以外に「今週の流儀」として「人生を金で計算したら終わりである」と書かれていた。むう…これから失業する身としては、金の計算は慎重に慎重にしておきたいところだが、まあ最終的には金の多寡では決められない。それはつい先日身の振り方を決めたときによくわかった。
 本当にやりたいことがあれば、金よりもそっちを選ぶ。それが人間だ。
 やりたいことがなくても、面白そうなことがあればそっちを選ぶ。それがちょっとおっちょこちょいな人間だ。
 どっちもやりたくないけれど、金が多いのでそっちを選ぶ。これも人間だけれど、ちょっと不幸な人間だ。(僕はどうも、おっちょこちょいなまま生きていくことになりそうだ)
 もしも伊集院氏が「会社を辞めるのはやめなさい」と言ってるとしたら、どうも氏は「会社」と「仕事」を混同している可能性があるのではないか。僕は、会社を離れても仕事は続く、仕事はあるはずだ、と思っているのだが、伊集院氏は会社を離れることイコール仕事をせず悠々自適に暮らすこと、と言ってるように受け取れるし。
 wikipediaによると、伊集院静氏は広告代理店を経てCMディレクターになり、作家・作詞家へと転身されたという。会社勤めもフリーも両方知っていて、両方を極めた方だから軽々に判断しないほうがいいだろう。もしかすると、ご自身のように才能があれば別だが、凡百の編集者だと会社を辞めると仕事なんかないよ、と遠回しに諭しているのかもしれない。
 ここでちょっと中断。
 最近久しぶりに会った人に「会社を辞めることにしました」と明かした。僕と彼とは沖縄が好きで、一緒に旅行したことこそないけれど、どこが面白いだのこうすれば楽しいだの沖縄情報を交換する仲間だ。その彼が、僕の話を聞き終えると、「はぁ〜。なんくるないさぁ」と言った。
 なんくるないさ。沖縄の方言(ウチナーグチ)で、「なんとかなるよ」の意。
 沖縄は全国一、失業率が高い。いまこうしている時も、沖縄の家庭ではお父さんが職を失い、帰ってお母さんにそれを伝えると、お母さんが「なんくるないさぁ〜」と答えてる可能性がある。彼はそれと同じ言葉を僕にかけてくれたのだ。そして、「ま、身体を大事にすること。なんとかなるって考えること。これだな」と。
 金の計算はおろか、ほとんど何も計算しない。これがウチナー流か。アバウトでいいなあ。僕は緊張していた気持ちが少しほぐれた。
 元に戻って伊集院氏の言葉。
 一番気になるのが、「仕事を続ける。これが社会人の鉄則です」だ。仕事と会社がまったく同じ意味だとすると、会社を辞めるという選択肢はあり得ない。だが、仕事は必ずしも会社にのみあるものではない、とすると、会社なんか辞めたって社会人の鉄則は守れるんじゃないか。
 もっと言うと、仕事と会社を混同してしまうと、仕事で何をすべきか見失ったのに会社にしがみついて離れられない、という悲劇が起きる可能性がある。……これだけは避けたいと僕は思っている。
 去年の暮れから今年の正月にかけて、勝間和代香山リカの間で論争があったという。だが僕には、二人の主張はまった矛盾してないように見える。たとえばこの2冊、前に読んだときは気がつかなかったけど、今読んだらまったく同じことが書いてあるとしか思えないと思うんだよね。
  
 ほら、タイトル読むとそう思うでしょ?
 僕はとりあえず、同じように会社を去る者たちに「なんくるないさぁ」と声をかけたい。僕がもらった言葉を伝えたい。それが去りゆく男の流儀なのだ。
 なんちゃって。(つづく)