新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

忙しくて心を亡くすんだよ

 先月、職場で組織改編があって、僕は優秀な社員がやっていたデータ管理・資料作成を引き継ぐことになった。これが、データベースからデータを定型で取り出して、加工して、エクセルのマクロとか含む書類に間違いなく貼って、大量の資料を作るのである。とにかく間違いなく遂行することが求められており、緊張するわりに辛いのである。
 職場は組織改編のせいか、誰もが慣れない仕事をやらねばならず、全体にストレスが溜まっている。環境の変化を楽しんでいる社員はあまりいない。派遣社員が少しずつ姿を消している。僕は売り上げの数値とかを、ときどき電卓で検算しながら資料にしていく。例外なく前年比が下がっている。この会社の売り上げが、業界の活気が、日本の経済が、どんどん小さくシュリンクしてゆくのを感じる。
 なんだかとても疲れた一日だった。磨り減るような仕事だった。今夜はテキトーに書き散らすことにする(まるで普段はちゃんと書いてるような口ぶりで失笑しちゃいますが)。


■「琉神マブヤー」の主題歌を歌うアルベルト城間、その本職であるディアマンテスをちゃんと聴いてないのはいかんな、と思い、銀座のわしたショップに寄ってベスト盤を買ってきた。

 なかなか良い歌がある。アルベルトの声は古風なアニソン歌手のようによく響き、フォルクローレとかだと哀調を帯びて美しい。しかし、である。ラテンにはついていけない、と思ってしまう曲もある。「VIVA! 夏の色」という曲とかなんだけど、日本語で能天気な歌詞が朗々と歌い上げられる。これはかなわない。運転しながら聴いてて脳が溶けそうになった。頼むからこういうのはスペイン語で歌ってくれ、と思いました。すぐ後の「Gloria」という曲なんてすごいかっこいいんだし。
 でもまあ、なんとなくシリアスな主張を込めなければならない沖縄の音楽、という思い込み(演者にも聴衆にも根深い)をきれいに払拭してくれる曲ではありますね。


■最近、年を取って頭の回転が悪くなった気がする。文章を書こうとしても指先が空回りして、言葉をうまく紡げない。感情が行き場を失って身体から出て行かない気がする。病院の待合室やバス停、何かの窓口などで、年寄りがうまく気持ちを伝えられず、理不尽な怒りを身体の内側にかかえ、誰にも理解されない悔しさに苛立っているのを時折目にする。僕もそうした瞬間を自分に感じるようになってきた。言いたいことはいっぱいあるのに、頭が回らずにそれが伝えられない。これは辛い。若いってことは、こうした苦しみと無縁な状態でもある。
 自分に苛立つのは、職場で年下の社員にものを尋ねるときとか、自分が今何に行き詰まっているのか、すぐに言葉にできないときがあるのだ。専門用語(この職場の符牒?)が多いのにも戸惑うが、それらを柔軟に吸収し使いこなせない自分に何より苛立つ。もっと若いときなら…。


■いい本を読んだ。

 1050円のペーパーバック、200ページ足らずだが、この中には重たい重たい「リアル」がみっちり詰まっていた。
 著者は地方の大学で映像コースを終えた若者で、派遣社員としてキヤノンの工場で一年間働いた。その間の生活をビデオカメラで撮り、ドキュメンタリー映画「遭難フリーター」として発表した。この本は映画のスピンアウトというか、同じソースを違う角度・違う媒体で掘り下げたやはりドキュメンタリーだ。徹底的に自分の周辺に限った描写、埼玉県本庄市と、週末の出稼ぎに行く東京。プリンタ工場のクリーンルームと、寮と、東京の日雇い派遣の現場(ほとんど路上)、そしてあてもなく彷徨う東京の雑踏、キセルで乗る本庄−新宿間のJR。息苦しくなるような狭さが、執着的なリアリティを呼んでいる。
 埼玉県本庄市って、もう少しで群馬県。都内からJRで1450円。著者は消費者金融で作ってしまった借金返済などもあって、月ー金のプリンタ工場だけでなく週末にもスポット派遣バイトを入れる。1万円に満たない仕事をするために、正規なら往復3000円くらい運賃がかかる東京へ向かう。週日でないとバイト料を受け取れないので、週末は小銭にも不自由しながら東京の雑踏を歩く。心細く、寒く、ひもじい様子が伝わってくる。
 そんな彼が、スポットの引っ越し仕事でミッドタウンの最上級ホテルのスイートに荷物を運び入れたりする。落差の描写が鮮やかだ。彼の頭は柔軟だ。若いってことは、苛立つことも多かろうが、貪欲にそれを前進のための熱源に変えたりできる。
 一時期、僕も「ニューリッチ」とか「富裕層」に関する本をよく読んだ。自分もそうなりたい、とも思ったし、空港や旅先のリゾートですれ違う富裕層がどんな暮らしをしているのかに興味があった。しかし、ニューリッチというのは奥行きのない人たちだ。いや、彼らにはそれぞれ波瀾万丈の人生があるのだろうけれど、彼らの文化にはやはり人の心をぐっと惹きつける熱がない。洗練されている、といっても、数百年前から続くオールドリッチたちの重層的な文化には到底及ばない。ぺたっと、のっぺりとした快適さで、嘘くさい。消費文化なんて、どんなに高価でも、しょせんはカネで買えるものなのだ。計数可能なものでしかない。外資金融機関の顧客ミーティングブース、航空会社のラウンジ、高級リゾートのロビー、どこもきれいだけど、どこか虚仮威しっぽい感じ、さもしい化粧をした臭いがうっすらと立ちあがる。しょせんはカネで買えるものだ。
 貧乏、貧困には、その反対の臭いがある。汗や排泄物の臭い、食べ物の悪くなった臭い、口臭。これらはイヤな臭いだけど、どんな金持ちだってほんとは持ってる臭いだ。48時間も風呂や洗面所から遠ざかると、誰だってこういう臭いがし始める。一皮剥けば誰もが生物であり、これら生命に由来する臭いから自由ではない。
 貧乏・貧困を書くことは、人間から虚飾をはぎ取り、隠しても隠しきれない真実を白日の下にさらす作業だ。金持ちどもに、心地よくない真実を突きつける。反逆。反乱。暴力。これらには、力があり、熱がある。
遭難フリーター』の著者が新宿の雑踏を、北関東のさびれた街を彷徨う姿は、スタインベック怒りの葡萄』のジョード一家の姿にそっくりだ。70年前のルート66と、いまの高崎線を、同じように誇りを傷つけられ、喘ぎながら働く者たちが右往左往する。スプリングスティーンは「トム・ジョードの幽霊を待ちながらたき火のそばに座り込む」と歌った。いま、トム・ジョードの幽霊は日本のあちこちに出没しているはずだ。
 一見、『遭難フリーター』は救いのない話に見える。しかし、読み終えたとき、僕は何か心から圧迫感が取れた。下には下がいる、といった感情ではない、もっと素朴な、楽ーな、懐かしい、人間くさい暖かさが伝わってきたのだ。なぜだろう? 頭から終いまで、カサッカサに乾いた、肌荒れたような感触の本なのに。表紙イラストは「闇金ウシジマくん」の作者が描いてる。そんなイヤなリアルさのある本なのに。
 どんなに苦い真実でも、真実には、薬効があるのかもしれない。


■それにしても、僕がもし彼と同じ職場で働くことになったら、「また使えないオッサンが来た」なんて言われるのかもしれない。物覚えは悪いし、不器用だし。彼がオッサンたちに向ける視線が、僕だけを避けてくれるなんてことはないはずだ。


■もう一冊、今度はマンガ。久しぶりにマンガ読む気になって、買った。いい作品だった。

 戦前(といっても日中戦争はすでに始まっていた頃)の沖縄を描く、「コミックモーニング」所載の作品。「モーニング」はこういう商売にならなさそうな作品をきちんと単行本にまでする器量があって素晴らしい。コマーシャリズムには全然向いてないけど、これはまぎれもない“作品”です。読谷(とゆーか北中城とゆーか)で買ったやちむんのように、ざらりとした手触りのなかに、心をとらえて離さない美しさがあります。この作風は誰にも真似することはできないでしょう。唯一無二です。


■それにしても、結局ここで書いてることは「買ったもの」の感想文なんだな。俺って、消費文化を毛嫌いしてるくせに、首までどっぷり消費文化なやつ。トム・ジョードの幽霊は俺のことどう見てるだろうか。