新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

貧乏、貧困とは何か。直視すべき時が来つつあるよーな

 相変わらず思い出すのは「年越し派遣村」のことなのだが、実はその頃僕は遊びほうけていたので実際のニュースとか見てなくて、年が明けて一段落してからwebやブログで読んで知ったことが多いのだが、それにしても与党の政治家さんは当事者意識がまったくなくて凄い。
 温泉に浸かりながら読んだ『大江戸曲者列伝―幕末の巻』(野口武彦)のあとがきに、「末期の幕府では、同じ頃の薩長両藩と違って、なぜ人事刷新ができなかったか。…当事者感覚はゼロ」とあった。これはまったく、政局をもてあそぶ当今の政治家のみなさんにも当てはまるし、ひるがえって未曾有の不況にてをこまぬいて日々をルーチンワークにいそしむ自分にも降りかかってくる言葉だ。
 それでも、人気商売である政治家のみなさんが「年越し派遣村に集まった人というのは本当に働く気があるのか」といった無防備な本音を開陳したりして、快哉を叫ぶ人もいれば、「おいおいそれ言っちゃお前おしまいでは」と突っ込む人もあり、突っ込まれても馬耳東風の本人あり、でいたって世間は多様だ。
 一つの理由として考えるられるのは、政治家の家系で二代も三代も経っているご本人にも、テレビ画面の枠内でしか貧乏人の姿を見慣れない僕たちにも、「貧乏の姿」を肉感的に直感的に見る能力が欠如していることじゃないかと。
 入浴せず垢にまみれ、髭や爪が伸びたままで、着替えもなく何週間も経ったヒトの姿というのは、おおむね、僕らが目にするホームレスの姿に似てくる。それが、僕たちも数週間同じように暮らせばまったく同じような格好になる、という単純な事実を想像できないヒトが増えているんじゃないか、と思うのだ。僕自身も含めて。


 河出文庫から出ている『異形にされた人たち』(塩見鮮一郎)は、明治以降の貧民窟・サンカ・乞食・エミシといったヒトたちについて触れたエッセイだ。目新しいことは載ってないけど、視点が新鮮だった。まえがきにある「近代の成立は、『異形の人』の発見をともなった。……かれらを『異形』として見てしまうのが、維新以降に誕生した『知識人』だ。」貧民窟は幕末も明治以降も、変わらず同じように江戸・東京のそこにあった。だが、明治以降、そこに住む人たちは課税され、徴兵の対象となり、同化を強いられた。江戸期も彼らを統制しようとする向きはあったのだけれど、彼らと我らとの間にはなにほどの差はなかった。近代以降、もっとも変わったのは、彼らを「発見」した人たちがいたことだ。それが近代的自我というものだった…という話の運びは面白い。


 実は、被差別民を「発見」して驚いたり興奮したりするのは徳富蘆花とかの専売ではなくて、僕もそうだった。『サンカの民と被差別の世界―日本人のこころ中国・関東』(五木寛之こころの新書)を読んだとき、すごく驚いたのは、僕の故郷にサンカの末裔にあたる人がいて、研究者にカミングアウトしていたことだった。その人が川漁をして見せる川は、僕もガキの頃遊んだ芦田川だった。
 僕たちは、容易に「発見する」側になろうとする。その方が楽だからだ。
 塩見は、それは傲慢なんじゃない?とでも言いたげに、控えめなスタンスで異形にされたヒトたちについて語る。


 異形にされたヒトたちと、僕たちの間には、どんな断絶が生ずるか。
 ひらたく言うと、異形の人たちが食べているものは、僕たちにとって不浄なものになる。
 彼らが寝起きする場所は、不浄であり、忌むべき場所、閉鎖すべき空間になる。
 彼らが寒い思い、暑い思いをしているとき、僕らは冷暖房の効いた場所からそれを眺める。
 彼らが腰痛や痒みに苦しんでいるとき、僕らは平然と医者に行き、風呂に入る。
 安アパートに暮らしているから今日も職がある、安アパートにも入れないから職がない。その違いがわからなくなる。


 衣食住、健康、誇り、尊厳、ちょっとしたことから生じた違いが、想像力の欠如を許し、理解しがたい断絶をもたらす。たとえば年越し派遣村についてわかったような批判的なコメントをした人たちには、派遣村の住人たちが直面している寒さや痒さ、空腹、鬱状態に共感できていた人はいなかったように思う。痒いとか寒いとか腹が減ったとかいう状態の人をほっておくのは、ヒトとしてどうかと思う。
 だけども、同情できたとしても、彼らと同じ側に立てるかどうかはまた別で、彼らを「発見」してしまうおそれはつねにつきまとう。

 うちの近所に首都高5号線の高架がある。その下も道路になっているのだが、かなり大きな中央分離帯があって、一昨年まで大勢のホームレスが棲み着いていた。そのうち東京都が彼らを立ち退かせ、高架下の中央分離帯部分に背の高いフェンスを張り巡らせた。もうホームレスが高架下にテントを張ることはできない。ホームレスたちがいなくなった高架下は清潔・清浄になった。
 これが、異人たちを「発見」して排除した東京都のやったことだ。僕はそれになんら異を唱えることができなかった。こんなことに僕の税金を使うな、と言うべきだった。ここから居なくなったホームレスたちは、今どこで何をしているのだろうか。彼らの痛む腰や、凍える指先は、どうなったのだろうか。


 自動車メーカーの悲鳴が毎日、新聞に報じられている。基幹産業だから、ここの不調は日本経済の多臓器不全につながる。もうじき、誰もが、どっかの気の利いた誰かに「発見」されるような境涯になるような気がする。僕も含めて。