新々リストラなう日記 たぬきち最後の日々

初めてお読みの方は、<a href="http://tanu-ki.hatenablog.com/entry/20100329/1269871659">リストラなう・その1</a>からご覧になるとよいかも。

年を取るということは

 こないだから僕のとこだけブームが到来している野口武彦なのだが、悲しいことに天誅と新選組―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)はもう読み終わってしまった。しかたがないので以前の著作大江戸曲者列伝―太平の巻 (新潮新書)を読んでいる。

『大江戸曲者列伝』のまえがきで著者は、自分の史観は「ゴシップ史観」だと書いている。歴史上の人物だろうと、意地悪に、等身大に見つめる史観だ、と。その通り、野口の書く歴史は幕末の志士たちが青臭く、幕府の高官たちが生臭く、それぞれに陳腐化・類型化されずに、生き生きと個性的に描かれる。個性的といっても当世の歴史小説家たちのように勝手に脚色してるわけではなく、あくまでも文献を根拠にほどよく肉付けを施されている。ときどき「著者はこの人が嫌いなんだなあ」と思わせる記述もあるが(徳川慶喜についてはいいところが一つもない、さんざんな書かれようなのである)。

 僕は、中国史(モンゴル史)の岡田英弘と、この野口武彦の本を読むのが好きだ。とくに遠くの日帰り温泉とかに行って湯に浸かりながら読むのはこたえられない。小説とかより、生々しいノンフィクションより、歴史の本はずっといい。これはたぶん、加齢に伴う現象なのだと思う。

 若い頃、ヒトは「歴史とは俺が拓くものだ」と思い、そのように自信に満ちて生きている。歴史を動かす、といったある種誇大妄想的なことも、なんの照れやためらいもなく受け容れられる。万能感を持っていられる。
 しかし年とともにヒトは、自分という存在の小ささ、卑小さを否応なく知り、万能感を失っていく。現実に対して自分が無力であることを認めなくてはいけない局面が訪れる。「歴史は俺のことを書き残してくれるのだろうか」から「俺たちは歴史にどうプロットされるのか」と、段々と謙虚になっていく。それは、若さという力が敗北する瞬間である。
 その頃から、ヒトは歴史が俄然面白くなってくるのである。僕はそう思う。というか、今がそういう時だ。

 坂本龍馬は偶像になってしまっているので、幕末史における龍馬の事績は実際以上に大きく記されている。しかし野口の本にはなかなか龍馬は登場しない。『天誅新選組』ではもう1864年まで来てしまったのに、龍馬は不在のままだ。彼が死ぬまであと3年しかないよ。
 実のところ、歴史における彼の大きさはそんなものだったのだろう。司馬遼太郎の小説は歴史じゃないのだ。それでいいのだ。龍馬ほどの人物でも、彼一人で歴史を拓いたわけではない。そんなことは誰にもできない。

 むしろ、リアルで小さなヒトどもの卑小な行為が積み重なって、そのとき歴史が動くのであろうと。野口の書きようは、偉大な歴史上の人物たちがいかにセコかったか、ちまちましてたか、スカタンだったかといったことに焦点を当てている。孝明天皇の癇癪であるとか、松平容保のストレスとか、近藤勇たちの農民的な鈍感さとか、正史はあまり重視しないけど、こういうつまらない個性が時代時代の政局を形成していくわけで、野口のゴシップ史観はじつに良い。

 年を取ると、龍馬や高杉や西郷、あるいは吉田松陰までも、「俺より若造だな」と思える。ごめん、ただ肉体年齢が歴史上の人物の没年より上になっただけ、だけど。正しくは、彼らは青春のまま死に、僕はただ馬齢を重ねているだけ、だけど。彼らが迎えられなかった中年期、それを迎えて老眼で目がしょぼしょぼしたりしながら、小さな自分が、彼らが残した足跡の延長上に生きていることをちらりと感じる、歴史を読んでて楽しいのは、そんな感覚になったりするときだ。

歴史とはなにか (文春新書)