ダイエットなんて、やめちまうか
お寒うございます。相変わらず寒波襲来ですね。
週アタマに風邪ひいて、今年の風邪は消化器に来るのか、下痢して痩せました。風邪が抜けてもしばらく胃腸のダメージが抜けず、すぐに胃がもたれるので今日まで減食してました。昼はパイナップル切って半分食べるだけ、とか。
しかしなんですな、いろいろダイエットもしたことありますが、減食って味気ないですな。
何が味気ないって、「誰かと一緒に食事を楽しむ」ってことができない。
珍しいお客さんが訪ねてこられたのに、「すいません、腹壊しててお食事ご一緒できません」なんて言い訳するの格好悪いですよね。
というか、ダイエットって、「個人」のものにすぎないじゃないですか。てめえの体重は、てめえが食べたものの結果であるから、全部自己責任。体重減らそうとするならてめえの食う量を厳密に制御する。それがダイエット。それ以上でもそれ以下でもない。
でも食事って「個人」のものじゃなくて、誰かと一緒に摂る、「社会」のものじゃないですか。もっと大切なものじゃないですか。
個食、って言葉もありましたな。孤食とも書くそうな。でもそれって食事なんですかね。
私がダイエットを憎むのは、食事という社会的連携をともなう行為が限りなく分断されるから、です。いや体重をコントロールすることは大事だって知ってますよ。ところがダイエットってやつは今やそれ自体が運動みたいになってる。
バナナとか寒天とかコンニャクとか納豆(これはウソか)を食って痩せよう、というのは結局、偏食の激しいやつですよね。ろくでもない。
レコーディングダイエット、これたしかに効きます。やりました。でも、一人で「今日の可食カロリーはあと800Kc、何時にあれ食って、あと何Kc…」とちまちま計算してお膳立てする毎日は、悲しすぎます。そこには「自分」しかいない。誰か他者の存在がない。アクシデントが許容されない。社会的な生物であるはずのヒトが、分断されてケージの中のラットにまで戻った感じがする。
西原理恵子さんが書いてましたけど、貧乏な国の貧乏な家に行くと、食事時だと必ず客人におすそわけがある、んだそうですね。どんなに乏しい食卓でも、同じ場所にいる人とは食事を分かち合う。これがヒトですね。
中国文化圏ではタバコも分かち合いますね。その場に何人もいるのに一人で喫うのは常識知らずな行為です。ちゃんとタバコの包装を回す。
突然の来客をもてなしたり、亡くなった人に陰膳供えたり、願をかけて何かを絶ったり……食事は栄養補給のための行為だけではなかった。昔は。
名著『孤独のグルメ』には、一人で食を楽しむことの重要さがめんめんと説かれていますが、それでも孤独のグルメの基本的スタンスは昔風なんじゃないかと思います。わざわざ「孤独の」と銘打ってるだけに。
ファストフードとか、ダイエットとか、その反対の過食とか、どうも私が嫌いなそれらには、「近代」の影がちらついてるような気がします。私の理想の「もてなし」「陰膳」とかっていかにも前近代。
でも、マクドで食べるし、ダイエットもするし、過食もしてしまうんですけどね。弱いから。
ただ、ここに来て、敵が見えてきたような気がするのです。
敵は「近代」なんじゃないかと。
やや古いですが、派遣村で炊き出しを受けながらタバコ喫ってる人に対して「タバコ買う金で食事しろ」という批判があったそうですね。こういう思考は近代的だと思うのです。私の敵、です。